南米の旅・7 クスコ 旅行関係
南米の旅8日目は、
リマからクスコへ。
クスコとは、ケチュア語で「へそ」の意味です。

リマ空港のカウンター。

気づけば、液晶画面は、

LGばかり。

発展途上国の空港のシステムを
LGがしっかり売り込んだようです。

そして、サムソン。

日本の企業の入る余地はありません。
機内で配られた箱の中には、

スナックが入っています。

クスコに着きました。


インカ帝国の黄金が迎えます。

言うまでもなく、
クスコはインカ帝国の首都でした。
インカ帝国は、スペイン語のImperio Incaで、
正式名称はタワンティン・スウユ(Tawantin Suyu, Tahuantinsuyo)といいます。
ケチュア語で、「タワンティン」とは、「4」を意味し、
「スウユ」とは、州、地方、場合によっては国を表し、
訳すと「四つの邦」という意味。
当時のインカ帝国を形成した4つの地域を示しています。
インカとはケチュア語で王(ないし皇帝)を意味する言葉で、
スペイン人はこの言葉を初めはケチュア族をさす言葉として使い、
次第に国をさす言葉として使うようになったといいます。
インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家。
メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する
南米の原アメリカの文明として、
インカ文明と呼ばれることもあります。
インカ帝国の版図に含まれる地域には
インカ以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれています。
スペインに滅ぼされた印象が強いことから、
南米ではずっとインカ帝国が続いていたように見えますが、
実は、それ以前に様々な国家があり、
前身となるクスコ王国は13世紀に成立、
1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、
1533年にスペイン人のコンキスタドール(征服者)に滅ぼされるまでの
およそ100年の歴史しかありません。
しかし、最盛期には、
80の民族と1600万人の人口をかかえ、
現在のチリ北部から中部、
アルゼンチン北西部、
コロンビア南部にまで広がっていた大帝国でした。
クスコに着いた途端に渡された酸素ボンベ。

なにしろ、ここは標高3360mです。
富士山(3776m)より少し低い。
チベットのラサ(3700m)で高山病にかかった私としては
大いに心配するところです。
ガイドからは、
ゆっくり歩け、
深呼吸をしろ、
大声を出すな、
とうるさいほど言われました。
インカの祖先は、
ペルーの高原地方を根拠に遊牧民族として暮らしていたと思われ、
高地に適応するため、
他地域の人々に比べ肺活量が30%ほど大きくなり、
心拍数も少なく、
血液の量も他地域の人々より多い2リットルとなり、
ヘモグロビン量も2倍以上になったと言います。
インカを征服したフランシスコ・ピサロたちも、
クスコに来て高山病に苦しんだのでしょうか。
高山病という概念もない時代ですから、
何かの祟りと思ったかもしれません。
まず昼食。その場で演奏されたフォルクローレ。

ここで不意打ちを食らいました。
この音楽を聞いていると
胸にこみあげて来るものがあり、
つい落涙してしまったのです。
原因は、といえば、
祖先を同じくするDNAが働いたとしか思えません。
ペルーの人の先祖がアジアにあることは
数々の証拠で証明されています。
昔、ベーリング海が凍っていた頃、
その海を渡ってアメリカ大陸に渡った人々の末裔だと。
その証拠に、このあたりの人々には明白な蒙古斑が見いだされるといいます。
そのDNAが音楽で共鳴して現れたのだと。

そういえば、
リマの町とは違い、
クスコに来た途端、
「本当のペルーに来た」
という感じがしたことは確かです。


↓は、町の中心、アルマス広場。

カテドラル。

インカ時代のビラコチャ神殿の跡に建てられたもの。
1550年から建設が始まって、
完成したのは100年後。

ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会。


アルマス広場からの町の情景。



石畳。

町の至るところに
インカ時代の石組みがあります。

かみそりの刃一枚入らない、
と言われる精密な加工。
↓は、有名な「12角の石」。

王の一族(12人家族)を象徴しているのだといいます。
1年の各月を表しているという説もあります。
これだけの精密な細工が
石材だけの使用で加工されたことは驚異です。

お土産物屋の一角。





町を探索してみました。









↓は、サント・ドミンゴ教会。

コリカンチャと呼ばれる太陽の神殿でした。

スペインから来た征服者は、
黄金で一杯だった神殿から
欲しいものを全て取り除いてしまうと、
上部を壊し、教会を建てました。
しかしその後、クスコに大地震があった際、
教会は無残に崩れ落ちましたが、
土台の石組みだけはひずみ一つ起こさなかったと言われています。
中は今は博物館になっています。

石組みの説明。


噴水のある中庭。




花が咲き乱れています。

これはペルーの国花、カントゥータ。

サボテンの一種。


スペインの征服者たちは、
フランシスコ・ピサロ兄弟に率いられパナマから南下し、
1526年にインカ帝国の領土に達しました。
大いなる財宝の可能性に満ちた富裕な土地に達したのは明確であったので、
ピサロは1529年の遠征の後に一旦スペインに帰国し、
その領域の征服と副王就任にかかわる国王の認可を得ます。
1532年に彼らがペルーに戻ってきたとき、
内戦と天然痘などにより、
インカ帝国はかなり弱体化しており、
ピサロは当時、
わずか168名の兵士と1門の大砲、
27頭の馬という兵力で
征服をなし遂げました。
ピサロとビセンテ・デ・バルベルデ神父らの随行者は、
少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパとの会見に臨みます。
バルベルデ神父は通訳を通し、
皇帝と帝国のカルロス1世への服従と
キリスト教への改宗とを要求した投降勧告状を読み上げます。
しかし、言語障壁と拙い通訳のため、
アタワルパは神父によるキリスト教の説明に幾分困惑し、
使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われています。
スペイン人たちは苛立ち、
皇帝の随行者を攻撃、
皇帝アタワルパを人質として捕らえます。
アタワルパはスペイン人たちに、
彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供しましたが、
1533年8月29日、
アタワルパは処刑されました。
これをもってインカ帝国は事実上滅亡しました。
その後、1572年、
最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられ、クスコで処刑され、
インカ帝国の政治的権威下でのスペインによる征服への抵抗は終結しました。
こうした歴史をクスコの町は見守り続けたのです。



サクサイワマン城塞跡。

第9代インカ王パチャクテの時代に建てられた要塞だと言われています。

毎年6月には、
南米三大祭の一つである

インカ時代の儀式を再現した
「インティ・ライミ=太陽の祭」が開かれ、

住民はありし日のインカの民となり、
神聖な儀式に参加します。

クスコを後に、
バスはこんな景色を見ながら高度を下げていきます。

民家がポツポツと存在します。





虹が出ました。

途中の町にあった壁画。


この川はウルバンバ川といい、
最後はアマゾン川になります。

この日のホテルは
ウルバンバ川に近いコテッジ風ホテル。
ここは標高2800m。




どうやら日本人の観光客が多く泊まるようです。

レストランは薪の暖炉が。

さあ、いよいよ明日はマチュピチュです。
リマからクスコへ。
クスコとは、ケチュア語で「へそ」の意味です。

リマ空港のカウンター。

気づけば、液晶画面は、

LGばかり。

発展途上国の空港のシステムを
LGがしっかり売り込んだようです。

そして、サムソン。

日本の企業の入る余地はありません。
機内で配られた箱の中には、

スナックが入っています。

クスコに着きました。


インカ帝国の黄金が迎えます。

言うまでもなく、
クスコはインカ帝国の首都でした。
インカ帝国は、スペイン語のImperio Incaで、
正式名称はタワンティン・スウユ(Tawantin Suyu, Tahuantinsuyo)といいます。
ケチュア語で、「タワンティン」とは、「4」を意味し、
「スウユ」とは、州、地方、場合によっては国を表し、
訳すと「四つの邦」という意味。
当時のインカ帝国を形成した4つの地域を示しています。
インカとはケチュア語で王(ないし皇帝)を意味する言葉で、
スペイン人はこの言葉を初めはケチュア族をさす言葉として使い、
次第に国をさす言葉として使うようになったといいます。
インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家。
メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する
南米の原アメリカの文明として、
インカ文明と呼ばれることもあります。
インカ帝国の版図に含まれる地域には
インカ以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれています。
スペインに滅ぼされた印象が強いことから、
南米ではずっとインカ帝国が続いていたように見えますが、
実は、それ以前に様々な国家があり、
前身となるクスコ王国は13世紀に成立、
1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、
1533年にスペイン人のコンキスタドール(征服者)に滅ぼされるまでの
およそ100年の歴史しかありません。
しかし、最盛期には、
80の民族と1600万人の人口をかかえ、
現在のチリ北部から中部、
アルゼンチン北西部、
コロンビア南部にまで広がっていた大帝国でした。
クスコに着いた途端に渡された酸素ボンベ。

なにしろ、ここは標高3360mです。
富士山(3776m)より少し低い。
チベットのラサ(3700m)で高山病にかかった私としては
大いに心配するところです。
ガイドからは、
ゆっくり歩け、
深呼吸をしろ、
大声を出すな、
とうるさいほど言われました。
インカの祖先は、
ペルーの高原地方を根拠に遊牧民族として暮らしていたと思われ、
高地に適応するため、
他地域の人々に比べ肺活量が30%ほど大きくなり、
心拍数も少なく、
血液の量も他地域の人々より多い2リットルとなり、
ヘモグロビン量も2倍以上になったと言います。
インカを征服したフランシスコ・ピサロたちも、
クスコに来て高山病に苦しんだのでしょうか。
高山病という概念もない時代ですから、
何かの祟りと思ったかもしれません。
まず昼食。その場で演奏されたフォルクローレ。

ここで不意打ちを食らいました。
この音楽を聞いていると
胸にこみあげて来るものがあり、
つい落涙してしまったのです。
原因は、といえば、
祖先を同じくするDNAが働いたとしか思えません。
ペルーの人の先祖がアジアにあることは
数々の証拠で証明されています。
昔、ベーリング海が凍っていた頃、
その海を渡ってアメリカ大陸に渡った人々の末裔だと。
その証拠に、このあたりの人々には明白な蒙古斑が見いだされるといいます。
そのDNAが音楽で共鳴して現れたのだと。

そういえば、
リマの町とは違い、
クスコに来た途端、
「本当のペルーに来た」
という感じがしたことは確かです。


↓は、町の中心、アルマス広場。

カテドラル。

インカ時代のビラコチャ神殿の跡に建てられたもの。
1550年から建設が始まって、
完成したのは100年後。

ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会。


アルマス広場からの町の情景。



石畳。

町の至るところに
インカ時代の石組みがあります。

かみそりの刃一枚入らない、
と言われる精密な加工。
↓は、有名な「12角の石」。

王の一族(12人家族)を象徴しているのだといいます。
1年の各月を表しているという説もあります。
これだけの精密な細工が
石材だけの使用で加工されたことは驚異です。

お土産物屋の一角。





町を探索してみました。









↓は、サント・ドミンゴ教会。

コリカンチャと呼ばれる太陽の神殿でした。

スペインから来た征服者は、
黄金で一杯だった神殿から
欲しいものを全て取り除いてしまうと、
上部を壊し、教会を建てました。
しかしその後、クスコに大地震があった際、
教会は無残に崩れ落ちましたが、
土台の石組みだけはひずみ一つ起こさなかったと言われています。
中は今は博物館になっています。

石組みの説明。


噴水のある中庭。




花が咲き乱れています。

これはペルーの国花、カントゥータ。

サボテンの一種。


スペインの征服者たちは、
フランシスコ・ピサロ兄弟に率いられパナマから南下し、
1526年にインカ帝国の領土に達しました。
大いなる財宝の可能性に満ちた富裕な土地に達したのは明確であったので、
ピサロは1529年の遠征の後に一旦スペインに帰国し、
その領域の征服と副王就任にかかわる国王の認可を得ます。
1532年に彼らがペルーに戻ってきたとき、
内戦と天然痘などにより、
インカ帝国はかなり弱体化しており、
ピサロは当時、
わずか168名の兵士と1門の大砲、
27頭の馬という兵力で
征服をなし遂げました。
ピサロとビセンテ・デ・バルベルデ神父らの随行者は、
少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパとの会見に臨みます。
バルベルデ神父は通訳を通し、
皇帝と帝国のカルロス1世への服従と
キリスト教への改宗とを要求した投降勧告状を読み上げます。
しかし、言語障壁と拙い通訳のため、
アタワルパは神父によるキリスト教の説明に幾分困惑し、
使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われています。
スペイン人たちは苛立ち、
皇帝の随行者を攻撃、
皇帝アタワルパを人質として捕らえます。
アタワルパはスペイン人たちに、
彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供しましたが、
1533年8月29日、
アタワルパは処刑されました。
これをもってインカ帝国は事実上滅亡しました。
その後、1572年、
最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられ、クスコで処刑され、
インカ帝国の政治的権威下でのスペインによる征服への抵抗は終結しました。
こうした歴史をクスコの町は見守り続けたのです。



サクサイワマン城塞跡。

第9代インカ王パチャクテの時代に建てられた要塞だと言われています。

毎年6月には、
南米三大祭の一つである

インカ時代の儀式を再現した
「インティ・ライミ=太陽の祭」が開かれ、

住民はありし日のインカの民となり、
神聖な儀式に参加します。

クスコを後に、
バスはこんな景色を見ながら高度を下げていきます。

民家がポツポツと存在します。





虹が出ました。

途中の町にあった壁画。


この川はウルバンバ川といい、
最後はアマゾン川になります。

この日のホテルは
ウルバンバ川に近いコテッジ風ホテル。
ここは標高2800m。




どうやら日本人の観光客が多く泊まるようです。

レストランは薪の暖炉が。

さあ、いよいよ明日はマチュピチュです。
『ふくわらい』 書籍関係
〔書籍紹介〕

先の直木賞候補作。
鳴木戸定(なるきどさだ)という編集者が主人公。
マルキ・ド・サドにちなんで父親が付けた名前だ。
父親は有名な紀行作家。
小学校の時から娘の定を旅行に同行させ、
世界の奇行や風習に染まらせた。
ある時は、死者の焼けた人肉を食べさせられたこともある。
父親はアマゾンで鰐に食いつかれて死に、
その火葬でも、定は父親の肉を食っている。
ふくわらいというのは、
定が子供時代に病的にとりつかれた遊びで、
定は人の顔を見ると、
そのパーツを移動したり、入れ替えたり、加工したりする癖を持っている。
定が担当する作家の描写が素晴らしい。
天候次第で作品に影響し、
定に雨乞いを頼む作家。
既に死んだ作家の妻で、
後述筆記をしていたが、
夫の死後、代筆をし続けた人。
特殊な文章世界を持つプロレスラー。
試合の影響で、
目が下を向き、
鼻がひっまがっているレスラーの顔を定は愛する。
そして、作家ではないが、
町で知り合ったイタリア人とのハーフの盲目の青年。
こうした登場人物が実に魅力的に描かれている。
父親と母親も定の乳母の女性とのかかわりも引きつけられる。
背景にそこはかとないユーモアが流れており、それも魅力の一つ。
確実な小説世界を構築する力があり、
遠からず直木賞を受賞するだろう。

先の直木賞候補作。
鳴木戸定(なるきどさだ)という編集者が主人公。
マルキ・ド・サドにちなんで父親が付けた名前だ。
父親は有名な紀行作家。
小学校の時から娘の定を旅行に同行させ、
世界の奇行や風習に染まらせた。
ある時は、死者の焼けた人肉を食べさせられたこともある。
父親はアマゾンで鰐に食いつかれて死に、
その火葬でも、定は父親の肉を食っている。
ふくわらいというのは、
定が子供時代に病的にとりつかれた遊びで、
定は人の顔を見ると、
そのパーツを移動したり、入れ替えたり、加工したりする癖を持っている。
定が担当する作家の描写が素晴らしい。
天候次第で作品に影響し、
定に雨乞いを頼む作家。
既に死んだ作家の妻で、
後述筆記をしていたが、
夫の死後、代筆をし続けた人。
特殊な文章世界を持つプロレスラー。
試合の影響で、
目が下を向き、
鼻がひっまがっているレスラーの顔を定は愛する。
そして、作家ではないが、
町で知り合ったイタリア人とのハーフの盲目の青年。
こうした登場人物が実に魅力的に描かれている。
父親と母親も定の乳母の女性とのかかわりも引きつけられる。
背景にそこはかとないユーモアが流れており、それも魅力の一つ。
確実な小説世界を構築する力があり、
遠からず直木賞を受賞するだろう。
南米の旅・6 ナスカの地上絵 旅行関係
今回のツァーも
いつもの阪急交通社のトラピックスです。

最少催行人数10名のところ、
15名参加ですから、
旅行会社としては充分ペイしています。
15名の内訳は、
一人参加が男性5、女性4、
男性の二人連れが1組、
女性の二人連れが1組、
ご夫婦が1組でした。
一人参加の男性は、
定年退職者が私を含めて2名、
自営業者でリタイアした方が1名、
転職の狭間に長期旅行、という若者が2名。
一人参加の女性は、
主婦が2名、
就職前の長期旅行が1名、
仕事を2年間中断して、その間旅行三昧という方が1名。
ツァーには珍しい男性の二人連れは、同郷の幼なじみ。
女性の二人連れは、
以前別のツァーで知り合いになって、
じゃ、今度ご一緒しましょう、という方。
女性ではこういう方が結構います。
年齢は23歳から75歳まで。
お住まいは秋田、山口という方が最も遠方。
あとは神奈川県、千葉県、東京都といったところ。
通常、こういうツァーでは、
お互い名乗りませんが、
2週間という長さであり、
私は全員のお名前を把握しました。
昔のツァーは、参加者名簿などを配りましたが、
そのうち、お名前と出身地○○市まで記載されたものとなり、
やがて参加者名簿はなし。
それでも車内で自己紹介をするなど、
知り合いになるきっかけを作りましたが、
今は「個人情報」やらなにやらで、
全くしなくなりました。
「旅は道連れ、世は情け」
というのではなく、
全くの「同乗者」。
人一倍気を使う私のような人間は、
食事の時の場を持たせたり、
なにかと大変。
さて、今日はナスカの地上絵へ。

リマの町を出ると、
ご覧のような住宅事情。

ほとんどが不法滞在者だといいます。

バスはアメリカンハイウェイを一路南へ。

このアメリカンハイウェイ、
アルゼンチンからアラスカまで続く道路です。
道の脇には、こうした宣伝ボードが並びます。

テーブルマウンテン?

こうした景色が

延々と続きます。

民家の最上階が鉄骨むき出しなのは、

「まだ未完成」ということで、

税金逃れをするからだとか。

こういう生活臭むんむんの

光景が好きです。

このあたりに来ると

こういう三輪車が走っていますが、

リマでは見かけなかったのは、
何らかの交通規制が行われているからでしょう。

車内で回って来た紫トウモロコシ。

ペルーにはトウモロコシが1200種、
ジャガイモが3000〜5000種類あるそうです。
「すこしずつむいて食べて下さい」という伝言で、
5粒ほど食べましたが、
あとでガイドさんの
「生だから食べないで下さい」
との説明に、
一同「ゲ〜〜ッ」。
途中立ち寄った土産物屋。

こういう土産物を見ると、

ペルーに来た、

と感じます。

色合いが独特。




ここはピスコ空港。

実はナスカまではリマから車で450q、約8時間。
しかし、最近は、
200qほど手前のピスコから
飛行機で30分ほどかけて
地上絵の上空に行くルートが主流になりつつあります。
これだとリマから250q、約4時間。
小型のセスナ機に乗りますので、
体重を計って座席が決まります。

これが座席表。

2、5、8、11番の人は窓際でなく、
この座席配置は疑問。
私の席はさいわい4番でした。
これが搭乗券。

セキュリティチェックがありますが、
セスナをハイジャックする人などいないでしょう。

バスで飛行機まで。

操縦席は丸見え。

いよいよ離陸。


良い眺め。

カーナビならぬフライトナビ?

眼下には、アメリカンハイウェイが見えます。


紀元前後から800年頃にかけて、
海岸から80qほどの乾燥地帯に栄えたのがナスカ文化。

そのナスカの人々が
広大な大平原に描いたのが、地上絵。

描いた方法は、
地面の黒い土や石をどけて
白い地肌をあらわしたのだと分かっています。
ほとんど雨が降らない場所のため、
現在まで残りました。
上空からしか認識できない巨大な絵を
何のために残したのか。
今だに謎です。

宇宙人説、星座を表すカレンダー説、
宗教儀礼説など様々。
ただ、当時の人々は、
後にこれがペルーの観光資源になるなどとは夢にも思わなかったでしょう。

いよいよ地上絵の上にさしかかります。

副操縦士が
怪しげな日本語で、
「行キマショウ。
翼ノ下、翼ノ下。
分カッタ? 分カッタ?」
と言いますが、
そのあんたの説明が分からない。
探している間に過ぎてしまいます。
↓の上の方に見えているのは、クジラ。

↓山肌にあるのは、宇宙人。

↓は、サル。

↓は、コンドル。

↓は、オウム。

↓は、ハチドリ。

同じくハチドリ。

このあたりは、
パルパの地上絵と言われるあたりで、
↓は、スター。

図では、こんな配置です。

帰りは、ご覧のとおり。

ナスカの地上絵は、期待したほどではなく、
あれなら気球で回る方がいい。
時間がどれだけかかるか分からないし、
気球が飛んでいたら、
セスナが飛べないでしょうが、
見せ方は一工夫した方がいいと思いました。
「世界三大がっかり」というのがあって、
シンガポールのマーライオン
コペンハーゲンの人魚姫
ベルギーの小便小僧
他にシドニーのオペラハウス、ライン河のローレライ
を上げる人もいますが、
ナスカの地上絵もそれに迫る勢い。
少なくとも往復8時間もかけて
(ナスカまでだと往復16時間)
見る価値があるとは思いませんでした。
ただ、デザイン的には面白く、
↓は、レストランのランチョン・マット。

↓は、飛行機会社の
ナスカ地上絵搭乗証明書。

ピスコの海岸。
このあたりまで、
3・11の津波は押し寄せました。

太平洋。
このはるか向こうに日本があると思うと、不思議です。

リマでの夕食はバイキング。


ここではショーのおまけが付きます。






さあ、明日はクスコに発ち、
3000m級の高地での生活が始まります。
高山病が心配。
いつもの阪急交通社のトラピックスです。

最少催行人数10名のところ、
15名参加ですから、
旅行会社としては充分ペイしています。
15名の内訳は、
一人参加が男性5、女性4、
男性の二人連れが1組、
女性の二人連れが1組、
ご夫婦が1組でした。
一人参加の男性は、
定年退職者が私を含めて2名、
自営業者でリタイアした方が1名、
転職の狭間に長期旅行、という若者が2名。
一人参加の女性は、
主婦が2名、
就職前の長期旅行が1名、
仕事を2年間中断して、その間旅行三昧という方が1名。
ツァーには珍しい男性の二人連れは、同郷の幼なじみ。
女性の二人連れは、
以前別のツァーで知り合いになって、
じゃ、今度ご一緒しましょう、という方。
女性ではこういう方が結構います。
年齢は23歳から75歳まで。
お住まいは秋田、山口という方が最も遠方。
あとは神奈川県、千葉県、東京都といったところ。
通常、こういうツァーでは、
お互い名乗りませんが、
2週間という長さであり、
私は全員のお名前を把握しました。
昔のツァーは、参加者名簿などを配りましたが、
そのうち、お名前と出身地○○市まで記載されたものとなり、
やがて参加者名簿はなし。
それでも車内で自己紹介をするなど、
知り合いになるきっかけを作りましたが、
今は「個人情報」やらなにやらで、
全くしなくなりました。
「旅は道連れ、世は情け」
というのではなく、
全くの「同乗者」。
人一倍気を使う私のような人間は、
食事の時の場を持たせたり、
なにかと大変。
さて、今日はナスカの地上絵へ。

リマの町を出ると、
ご覧のような住宅事情。

ほとんどが不法滞在者だといいます。

バスはアメリカンハイウェイを一路南へ。

このアメリカンハイウェイ、
アルゼンチンからアラスカまで続く道路です。
道の脇には、こうした宣伝ボードが並びます。

テーブルマウンテン?

こうした景色が

延々と続きます。

民家の最上階が鉄骨むき出しなのは、

「まだ未完成」ということで、

税金逃れをするからだとか。

こういう生活臭むんむんの

光景が好きです。

このあたりに来ると

こういう三輪車が走っていますが、

リマでは見かけなかったのは、
何らかの交通規制が行われているからでしょう。

車内で回って来た紫トウモロコシ。

ペルーにはトウモロコシが1200種、
ジャガイモが3000〜5000種類あるそうです。
「すこしずつむいて食べて下さい」という伝言で、
5粒ほど食べましたが、
あとでガイドさんの
「生だから食べないで下さい」
との説明に、
一同「ゲ〜〜ッ」。
途中立ち寄った土産物屋。

こういう土産物を見ると、

ペルーに来た、

と感じます。

色合いが独特。




ここはピスコ空港。

実はナスカまではリマから車で450q、約8時間。
しかし、最近は、
200qほど手前のピスコから
飛行機で30分ほどかけて
地上絵の上空に行くルートが主流になりつつあります。
これだとリマから250q、約4時間。
小型のセスナ機に乗りますので、
体重を計って座席が決まります。

これが座席表。

2、5、8、11番の人は窓際でなく、
この座席配置は疑問。
私の席はさいわい4番でした。
これが搭乗券。

セキュリティチェックがありますが、
セスナをハイジャックする人などいないでしょう。

バスで飛行機まで。

操縦席は丸見え。

いよいよ離陸。


良い眺め。

カーナビならぬフライトナビ?

眼下には、アメリカンハイウェイが見えます。


紀元前後から800年頃にかけて、
海岸から80qほどの乾燥地帯に栄えたのがナスカ文化。

そのナスカの人々が
広大な大平原に描いたのが、地上絵。

描いた方法は、
地面の黒い土や石をどけて
白い地肌をあらわしたのだと分かっています。
ほとんど雨が降らない場所のため、
現在まで残りました。
上空からしか認識できない巨大な絵を
何のために残したのか。
今だに謎です。

宇宙人説、星座を表すカレンダー説、
宗教儀礼説など様々。
ただ、当時の人々は、
後にこれがペルーの観光資源になるなどとは夢にも思わなかったでしょう。

いよいよ地上絵の上にさしかかります。

副操縦士が
怪しげな日本語で、
「行キマショウ。
翼ノ下、翼ノ下。
分カッタ? 分カッタ?」
と言いますが、
そのあんたの説明が分からない。
探している間に過ぎてしまいます。
↓の上の方に見えているのは、クジラ。

↓山肌にあるのは、宇宙人。

↓は、サル。

↓は、コンドル。

↓は、オウム。

↓は、ハチドリ。

同じくハチドリ。

このあたりは、
パルパの地上絵と言われるあたりで、
↓は、スター。

図では、こんな配置です。

帰りは、ご覧のとおり。

ナスカの地上絵は、期待したほどではなく、
あれなら気球で回る方がいい。
時間がどれだけかかるか分からないし、
気球が飛んでいたら、
セスナが飛べないでしょうが、
見せ方は一工夫した方がいいと思いました。
「世界三大がっかり」というのがあって、
シンガポールのマーライオン
コペンハーゲンの人魚姫
ベルギーの小便小僧
他にシドニーのオペラハウス、ライン河のローレライ
を上げる人もいますが、
ナスカの地上絵もそれに迫る勢い。
少なくとも往復8時間もかけて
(ナスカまでだと往復16時間)
見る価値があるとは思いませんでした。
ただ、デザイン的には面白く、
↓は、レストランのランチョン・マット。

↓は、飛行機会社の
ナスカ地上絵搭乗証明書。

ピスコの海岸。
このあたりまで、
3・11の津波は押し寄せました。

太平洋。
このはるか向こうに日本があると思うと、不思議です。

リマでの夕食はバイキング。


ここではショーのおまけが付きます。






さあ、明日はクスコに発ち、
3000m級の高地での生活が始まります。
高山病が心配。
浦安の桜 耳より情報
今日は寒かったですね。
桜も終わりかな。
東京の満開と少し遅れて、
浦安の桜も満開になりました。
撮影は昨日。
私の住んでいるマンションの中庭。



地上から。

隣の団地。

中央公園。

ここには、「浦安富士」という、
標高10mの山(丘?)があります。
見明川の脇の道。


見明川。

その対岸の道路。

ふれあいの森公園。

しおかぜ緑道。




郵便局前の道。




境川の脇の道。


桜はパッと咲いてパッと散るからこそ
日本人の気質に合う。
今度の週末には
散っており、
来年を待つことになります。
桜も終わりかな。
東京の満開と少し遅れて、
浦安の桜も満開になりました。
撮影は昨日。
私の住んでいるマンションの中庭。



地上から。

隣の団地。

中央公園。

ここには、「浦安富士」という、
標高10mの山(丘?)があります。
見明川の脇の道。


見明川。

その対岸の道路。

ふれあいの森公園。

しおかぜ緑道。




郵便局前の道。




境川の脇の道。


桜はパッと咲いてパッと散るからこそ
日本人の気質に合う。
今度の週末には
散っており、
来年を待つことになります。
南米の旅・5 リマ 旅行関係
南米旅行6日目は、
ブエノスアイレスを発ち、
飛行機でペルーのリマに向かいました。

いよいよこの旅行、後半に入ります。
眼下には、アンデスの山並みが。

リマ空港。

ここに着くと、
ああ、「この旅の目的地はペルーだったんだ」という感慨がわきます。
ワクワクします。
私の世界旅行も、
ペルーで50カ国目を達成です。
渦巻き状のペルーのマーク。可愛い。

まず、レストランへ。
「タベルナ」とは、「飲み屋」のこと。
「食べるな、飲め、ということですか」
と言うと、
ガイドが喜んで、
「次から使う」と言っていました。

ペルーには、「インカ・コーラ」という飲み物があります。
「COLA」ではなく、「KOLA」と書くのがミソ。

黄色い色をしていて、
味はオロナミンCを薄めた感じ。
リマ市の建設400年を記念して
1935年に発売され、
コカ・コーラをおさえて
ペルー国内シェアNo.1のコーラです。
アメリカ合衆国では
ゴールデンコーラの名称で、
カナダドライが製造しています。
日本にも若干、輸入されています。
食べ物もブラジル、アルゼンチンとは変わり、

魚料理が中心になりました。

デザートはペルー風ドーナツ。
黒砂糖とイチジクの蜜に付けて食べます。

リマは、ペルー共和国の首都。
人口約800万人でペルー最大。
南緯12度36分というから、ほとんど赤道直下。

リマは1535年にインカ帝国を征服した
フランシスコ・ピサロによって築かれた町。
リマの名前の由来は市内を流れるリマック川に由来すると言われています。

16世紀から17世紀を通して、
リマはスペインによる南米植民地支配の拠点として、
銀がヨーロッパに輸出されるための中継地点となったことで栄えました。

リマ市の民族構成は、
混血(メスティーソ):40%
インディオ(先住民):29%
ヨーロッパ系:25%(スペイン系:65%、イタリア系・ドイツ系・その他:35%)
アジア系(主に日系と中国系):3%
アフリカ系黒人:3%
となっています。

ブラジル、アルゼンチンが白人の国であったのに対し、
ペルーに入った途端、顔つきが変わります。

セントロと言われる旧市街には、

ヨーロッパ風の建物が並び、

世界遺産に指定されています。

町の中心であるアルマス広場。
1535年、
首都をクスコからリマに移すことを決めたピサロは、
スペインのイベリア様式にのっとり、
アルマス広場を中心に町を築きました。

ここは市庁舎やペルー政庁や

大統領府や

カテドラルに囲まれています。

ピサロが自らの手で礎石を置いたとされ、

ピサロの遺体と言われるミイラが安置されています。

当時の教会は大礼拝堂と中礼拝堂と小礼拝堂があり、
出席する階層が違っていたそうです。

小礼拝堂が開いていたので、見学。


昔の駅舎を利用した博物館。


立派な駅だったようです。

天井も素敵。


一番奥には、線路が保存されています。

隣は遺跡博物館。

市長がここに住宅を建てたため、
ユネスコから「世界遺産を取り消すぞ」と脅かされたそうです。




ガイドが熱心で、
予定にないサン・フランシスコ教会も案内してくれました。


建物の壁にとりついた鳩。
昔、崖に住んでいた時の名残だそうです。

内部は静謐な空間。


天井が独特です。




ここでは、シェラトンに二連泊。

良いホテルです。

ホテルの部屋からの眺め。

近所を探検してみました。

面白い展示法。

売れるのでしょうか。

新聞スタンドの掲示もユニークです。

信号は「あと○秒」と親切に表示。

サン・マルチン広場はセントロのもう一つの中心。
ペルーの独立100周年を記念して1921年に完成。

ペルーの独立運動に大きな功績を残した
サン・マルチン将軍の騎馬像が立っています。

人だかりが出来ています。

何か売っているのかと思えば、
議論をしているようです。

これは、

バス専用の停留場。

まるで電車の発着を待つかのようです。


この建物の中は、

秋葉原?

ホテルの裏には、スーパーがあります。

ホテルの外は、

美しい夕焼けとなりました。
ブエノスアイレスを発ち、
飛行機でペルーのリマに向かいました。

いよいよこの旅行、後半に入ります。
眼下には、アンデスの山並みが。

リマ空港。

ここに着くと、
ああ、「この旅の目的地はペルーだったんだ」という感慨がわきます。
ワクワクします。
私の世界旅行も、
ペルーで50カ国目を達成です。
渦巻き状のペルーのマーク。可愛い。

まず、レストランへ。
「タベルナ」とは、「飲み屋」のこと。
「食べるな、飲め、ということですか」
と言うと、
ガイドが喜んで、
「次から使う」と言っていました。

ペルーには、「インカ・コーラ」という飲み物があります。
「COLA」ではなく、「KOLA」と書くのがミソ。

黄色い色をしていて、
味はオロナミンCを薄めた感じ。
リマ市の建設400年を記念して
1935年に発売され、
コカ・コーラをおさえて
ペルー国内シェアNo.1のコーラです。
アメリカ合衆国では
ゴールデンコーラの名称で、
カナダドライが製造しています。
日本にも若干、輸入されています。
食べ物もブラジル、アルゼンチンとは変わり、

魚料理が中心になりました。

デザートはペルー風ドーナツ。
黒砂糖とイチジクの蜜に付けて食べます。

リマは、ペルー共和国の首都。
人口約800万人でペルー最大。
南緯12度36分というから、ほとんど赤道直下。

リマは1535年にインカ帝国を征服した
フランシスコ・ピサロによって築かれた町。
リマの名前の由来は市内を流れるリマック川に由来すると言われています。

16世紀から17世紀を通して、
リマはスペインによる南米植民地支配の拠点として、
銀がヨーロッパに輸出されるための中継地点となったことで栄えました。

リマ市の民族構成は、
混血(メスティーソ):40%
インディオ(先住民):29%
ヨーロッパ系:25%(スペイン系:65%、イタリア系・ドイツ系・その他:35%)
アジア系(主に日系と中国系):3%
アフリカ系黒人:3%
となっています。

ブラジル、アルゼンチンが白人の国であったのに対し、
ペルーに入った途端、顔つきが変わります。

セントロと言われる旧市街には、

ヨーロッパ風の建物が並び、

世界遺産に指定されています。

町の中心であるアルマス広場。
1535年、
首都をクスコからリマに移すことを決めたピサロは、
スペインのイベリア様式にのっとり、
アルマス広場を中心に町を築きました。

ここは市庁舎やペルー政庁や

大統領府や

カテドラルに囲まれています。

ピサロが自らの手で礎石を置いたとされ、

ピサロの遺体と言われるミイラが安置されています。

当時の教会は大礼拝堂と中礼拝堂と小礼拝堂があり、
出席する階層が違っていたそうです。

小礼拝堂が開いていたので、見学。


昔の駅舎を利用した博物館。


立派な駅だったようです。

天井も素敵。


一番奥には、線路が保存されています。

隣は遺跡博物館。

市長がここに住宅を建てたため、
ユネスコから「世界遺産を取り消すぞ」と脅かされたそうです。




ガイドが熱心で、
予定にないサン・フランシスコ教会も案内してくれました。


建物の壁にとりついた鳩。
昔、崖に住んでいた時の名残だそうです。

内部は静謐な空間。


天井が独特です。




ここでは、シェラトンに二連泊。

良いホテルです。

ホテルの部屋からの眺め。

近所を探検してみました。

面白い展示法。

売れるのでしょうか。

新聞スタンドの掲示もユニークです。

信号は「あと○秒」と親切に表示。

サン・マルチン広場はセントロのもう一つの中心。
ペルーの独立100周年を記念して1921年に完成。

ペルーの独立運動に大きな功績を残した
サン・マルチン将軍の騎馬像が立っています。

人だかりが出来ています。

何か売っているのかと思えば、
議論をしているようです。

これは、

バス専用の停留場。

まるで電車の発着を待つかのようです。


この建物の中は、

秋葉原?

ホテルの裏には、スーパーがあります。

ホテルの外は、

美しい夕焼けとなりました。