『等伯』  書籍関係

〔書籍紹介〕

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先の直木賞受賞作

先日紹介した「満つる月の如し 仏師・定朝」は
彫刻家だが、
等伯は画家

時代は安土桃山時代

能登の七尾に住む長谷川又四郎信春(後の長谷川等伯)は、
畠山家再興の政争に巻き込まれて
義父母を死に至らしめ、
七尾にいられなくなる。
妻子を置いて京都に向かった等伯は
信長の比叡山焼き討ち事件に巻き込まれ、
追われる身になる。

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高僧の肖像画を描いて評判となった信春は、
妻子を京都に呼び寄せるが、
信長の京都焼き討ちに合い、
難を逃れて故郷に向かう途中、
妻を死なせてしまう。

この場面はなかなか泣かせる。
妻の静子の描写もいい。

「私の苦しみは、
絵師になるために自分で選んだものだ。
だがそのために、
お前に辛い思いをさせてしまった」
「辛いと思ったことは一度もありません。
あなたの絵が上達していくのを見るのが、
わたくしの喜びでしたから」


という夫婦の会話が泣かせる。

やがて本能寺の変が起こり、
時代は信長から秀吉に移り、
とりなしにより、
信春は追われる身から解放される。
西洋画とも触れ、
ミケランジェロやラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチの模写にも触れる。
「モナ・リザ」の模写もする。

この間、
狩野松栄と知り合うが、
狩野派の牙城がおびやかされるかもしれない、
という言葉への松栄の返事、
「絵とは悟りに向かう細道のようなものでございます。
誰かがそこを越えてくれたなら、
他の者の励みになりまする」

という言葉に打たれる。
また、前の関白近衛前久
狩野永徳に対する批判も聞く。

「絵師は己れの信念に忠実に生きるべきや。
そうせんと新しいもんは生み出せん」
「(狩野永徳がなっとらんのは)信長が滅びたとたん、
秀吉に乗り替えよったからや。
それも絵師の魂を売りわたすような汚い真似をしてな」
「ええか信春、
俺ら政(まつりごと)にたずさわる者は、
信念のために嘘をつく。
時には人をだまし、陥れ、
裏切ることもある。
だが、それでええと思とる訳やない。
そやさかい常しえの真・善・美を乞い求め、
心の底から打ち震わしてくれるのを待っとんのや。
絵師は求道者や。
この世の名利よ目がくらんだらあかん」


やがて信春は京都で扇屋を開き、繁盛する。
松栄のとりなしで、
狩野派と共に聚楽第のふすま絵の一部も描き、
狩野派に息子・久蔵を弟子入りさせもする。
新たに妻・清子を娶り、子も生まれた。
大徳寺三門の壁画の仕事も受け持ち、
苦悶の末、信春はある境地にたどり着く。

そうした考えを追いながら筆を走らせているうちに、
信春は若い頃に十二天像を描いた時の手応えを感じていた。
自分が描いているのではない。
身の内に棲む何者かが腕をあやつり、
絵という形をとって外に飛び出している感じだった。


しかし、狩野派はこれをつぶしにかかる。
廻状が廻り、職人が回されなくなったのだ。
その窮状を救うため、
狩野派から暇をもらった久蔵が帰って来、
期限までに完成させた絵を見て、
禅の恩師・宗園千利休
「等白」という号(後に「等伯」)を信春に授ける。
三門の落慶法要は秀吉以下諸大名が参列する盛大なもので、
壁画を描いた長谷川等伯の名は天下に轟く。

松栄に狩野派との和解を要請された信春は久蔵を伴い、
狩野永徳を訪ねる。
しかし、永徳は等伯を軽くあしらった。

仙洞御所の襖絵を描くことを望んだ等伯は
大枚をはたいて工作するが、
一旦決まったにもかかわらず、
結局は狩野派に横取りされる。
等伯は酔って狩野派の家に乗り込む。
「そうして嘘に嘘を重ねておられるゆえ、
あのようなこけおどしの絵しか描けなくなったのじゃ。
貴殿の天稟は誰もが知っておる。
もう一度初心にかえり、
魂のこもった絵を描いて下され」

と責める等伯に対して、
永徳の返した言葉は意外なものだった。
「な、ならば、久蔵を返せ」
「久蔵がいてくれたなら、
私も立ち直ることができた。
あれに絵を教えていると、
初心にかえることができたのだ」

永徳が亡くなったのは、
その出来事から1カ月後であった。

その後、秀吉は朝鮮出兵という泥沼に足を踏み入れ、
千利休を切腹に追い込み、評判を下げた。
覚悟を決めた利休と会った時、
千利休は義父母と妻の死に責任を感ずる等白をいさめて言う。
「泣いたかて悔んだかて、
どうにもならん。
生き残った者にできるのは、
死んだ者を背負って生きることだけや」


千利休が切腹させられ、
その生首が利休の木像の足に踏みつけられる形でさらされた時、
等伯はその痛みを感じ、昏倒する。
そして、宗園によって、
「宗匠が教えられたように、
亡き者たちを背負って
己れの画境に向かっていくことだな」

とさとされる。
「どうしたら、それができるでしょうか」
と問うと、宗園は更に言う。
「絵師であろう、お前は」
「はい」
「ならば宗匠の肖像を描け。
生首を想い、
切腹や打首の苦しみを想い、
これまでの教えを想って、
あの方と向き合うのじゃ」


画帳に向かい、利休の絵を描こうとする等伯は、
七尾を出て以来の自分の二十年間を思う。
そして、結論に到達する。

志が高い者ほど、
遠い苦難の道を歩きつづけることができる。
その先に何が待っているかは分からないが、
歩きつづけることこそ人にできる唯一のことなのだ。
等伯の心は次第にそちらに傾いていき、
ある日すとんと腑に落ちた。
絵のために苦しむことができる我が身を悦べばよい。
死んだ者も何もかも引き受けて、
捨身の筆をふるえばいいのである。
(それが死んだ者を背負って生きるということだ)
そう思えた瞬間、
体の底から歓喜が突き上げてきた。


等伯による千利休の肖像画↓

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秀吉の一子・鶴松が死に、
それは利休の祟りだという噂が流れる。
それを払拭する意図で、
鶴松の供養のための菩提寺である祥雲寺の障壁画が等伯に依頼される。
等伯と久蔵が描いた襖絵や屏風は大評判を取り、
狩野派を押さえて長谷川派の時代が来たことを天下に知らしめた。

等伯は久蔵と共に七尾を訪ね、
祭に参加する。
長谷川家本家との和解も成立し、
久蔵も良い嫁を娶る。
等伯は宗園を訪ね、座禅を組む。

ゆがみのない鏡が
物事を正しく写すように、
真に見たままを写し取るには
心が空でなければならない。
描きたいという欲を捨てて描く。
目ざしたのはその境地だった。


名護屋城の仕事に出かけた久蔵が亡くなった。
足場が崩れたのだ。
それが狩野派の陰謀であったことを突き止めた等伯は、
秀吉に直訴する。
その結果、伏見城の客間の絵を描くことになり、
その出来ばえ次第で打ち首になることになる。

等伯は翌日から命をかけた一枚に挑む。
苦悶し、幻影に悩まされながら
行き着いたのは、
十一歳の時、
実家から長谷川家に養子に行けと告げられた日の
七尾の松林の光景だった。
三日三晩不眠不休で絵を仕上げた等伯は倒れ、
起きた時目にしたのは、
自分が描いたとは思えない松林図だった。

等伯による松林図↓。国宝。

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伏見城で初めて松林図がお披露目されると、
秀吉初め、居並ぶ者たちは静まり返る。

「わしは今まで、何をしてきたのであろうな」
(秀吉は)ひと息に飲み干し、
深いため息とともにつぶやいた。
「拙者として同じでござる。
心ならずも多くの者を死なせてしまいました」
家康が涙を浮かべ、
人目もはばからずに懐紙でぬぐった。
それを合図にしたように、
方々からすすり泣きの声が上がった。
戦国の世を血まみれになって生き抜いてきた者たちが、
松林図に心を洗われ、
欲や虚栄をかなぐり捨てて
在りのままの自分にもどっている。
思い出すのは非業の死をとげた家族や仲間、
非情の腕をふるわざるを得なかった辛さだった。


この場面は、涙をもってしか読めない。

安土桃山時代を背景に、
実在の絵師に
信長や秀吉をからませて描いた
歴史絵巻。
堂々の直木賞受賞作である。






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