『清須会議』  書籍関係

私が住んでいる団地で
十数年ぶりに大々的な外壁塗装工事が行われることになり、
今、足場の取り付けが行われています。

で、ベランダに設置したスチール製の物置を
撤去しなければならなくなりました。
中に入っているものをどうするか。
1階に借りているトランクルームに移さざるを得ない。
しかし、トランクルームも満杯状態。

とういわけで、
カミさんに尻を叩かれて、
トランクルームの整理をすることになりました。

まず、旅行のスーツケースなどを通路に出し、
次に段ボールを開けて、中を確かめる。
今回、泣く泣く「キネマ旬報」を捨てることにしました。
20〜40年前、
月2回取っていた
20年分の約500冊。
表紙を見るだけで、
あの映画、この映画の思い出が沸き起こります。
しかし、心を鬼にして
紐をかけ、ゴミ集積場に。

それと、ビデオ
VHSも8ミリも
もはや見ることはありませんので、
ゴミ袋に入れて集積場に。

更に、昔々ある組織に所属していた時の資料。
これも思い切って捨てました。

何だか悲しいような、
さっぱりしたような気持ち。
良き「断捨離」(だんしゃり)となりました。

断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる



〔書籍紹介〕

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織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変から25日後の
天正10(1582)年6月27日、
尾張の清須城(愛知県清須市)で、
信長の後継と領地の分配を決める会議が行われた。
世に言う清須会議(清洲会議とも)である。
政権の行方を会議で決めた、というのがユニーク。

なぜ、清須が会議の場に選ばれたのかというと、
尾張の中心であったこと、
織田家にとって特別な場所であったことが理由として上げられている。
清須城は信長が桶狭間で今川義元を討った時に出撃した城だったからだ。

会議は、重臣の柴田勝家丹羽長秀
明智を討った羽柴秀吉
乳兄弟の池田恒興(母親が信長の乳母)の4宿老で行われた。
滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席した。

織田家の家督は、
信長の次男信雄と三男信孝が互いに譲らず、
信長の孫で3歳の三法師(明智に攻められ自刃した長男信忠の子)が継ぐことになった。

信孝を支持する勝家に対し、
信雄を推すかに見えた秀吉が
自分の発言権を強めるために三法師を擁立し、
争ったが、
結局、三法師が家督を継ぐことになり、
4宿老がこれを支えるという誓詞を交わす。

清洲会議では、
それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、
代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、
織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられた。
この時の対立が翌年の賤ヶ岳の戦いにつながり、
織田家の瓦解と秀吉の天下取りへ影響する。

秀吉が三法師を推したのは
腹心の黒田官兵衛の策で、
他の宿老たちにも根回しが行き渡っていたと言われる。

清須会議の合意はわずか4カ月で空中分解。
その後は、織田家を乗っ取った秀吉の天下となる。

という歴史的事実を三谷幸喜らしく料理したのが、この小説。

本能寺で焼死する信長の述懐をプロローグとし、
一同が清洲城に集められた天正10年6月24日を「一日目」とし、
6月27日を「四日目」、
6月28日の「五日目」まで、
集まった人々のモノローグや記録を「現代語訳」で紹介する。

たとえば、
「22日 昼過ぎ
長浜城奥座敷における、
羽柴秀吉のモノローグ(現代語訳)」として、
「お館様(信長のこと)の死は、
オレにしてみれば、
千載一遇の好機だった。
まさに天が与えてくれたチャンス。
ラッキーとしか言いようがない」

といった調子。

秀吉から勝家に
勝家から長秀に
黒田勘兵衛、お市の方、
信雄、信孝へと
視点はくるくる変わって、
それぞれの立場が吐露される。
これが本音の連続で面白い。
果ては、イノシシ狩りで仕留められたイノシシのモノローグまで現れる。

「最期も、きちんと急所の眉間に打ち込んでくれて、
苦しまずにあっという間に成仏出来ました。
信孝公には感謝しております。
人に誇れるような人生ではありませんでしたが、
それなりに幸福でした。
ありがとうございました」

と笑わせる。

歴史的題材を使って
虚々実々織りまぜて、
現代風にアレンジした
すこぶる面白い小説。
映画化が進んでおり、
秋には公開される。






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