ヨイトマケの唄  耳より情報

大晦日の紅白歌合戦
帰国直後だったこともあり、
全部を観てはいませんが、
美輪昭宏の歌った「ヨイトマケの唄」が聴かせましたね。

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貧乏な家で育った子供が、
「ヨイトマケの子供」と
母親の仕事のことでいじめられ、
泣いて帰る途中で、
ヨイトマケをする母親の姿を見てしまい、
男に混じって綱を引く姿に胸打たれ、
「勉強するよ」と学校に戻っていく話。
その後、機械化が進んで
エンジニアになった息子が、
苦労苦労で死んでいった母のことを思い出しながら
母が歌っていたヨイトマケの唄を思い出す、
という内容で、
身振り手振りを加えての歌唱は、
一つのドラマを観るよう
昔の貧困家庭やいじめ、
日本の高度成長のことなどにも思いを馳せる内容でした。

ところで、
何の説明もなく歌われましたが、
国民の半分、いや3分の1くらいは、
「ヨイトマケ」と言われても何のことか分からなかったのではないでしょうか。

「ヨイトマケ」とは
かつて建設機械が普及していなかった時代、
地固めをする際に、
重量のある槌を数人掛かりで滑車で上下する時の掛け声であり、
その道具及びそのことで、
語源は「よいっと(縄を)巻け」から来ているなど諸説あり。

ネットで探したら、

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写真は数点ありましたが、

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さすがに動画は見つかりませんでした。

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私の子供時代には、
町で日常的に見られる光景でした。

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この仕事は主に日雇い労働者を動員していたため、
更に転じて日雇い労働者そのものを指す言葉となりました。

美輪明宏(当時・丸山明宏)が自ら作詞作曲した曲。

きっかけは、次のとおり。
興行主の手違いで
炭鉱町の劇場でコンサートをすることになり、
当時きらびやかな衣装でシャンソンを歌っていた美輪は、
炭鉱町でのコンサートに乗り気ではなかったのですが、
炭鉱労働者たちが安い賃金をつぎ込んでチケットを求め、
客席を埋め尽くしているのを見て衝撃を受け、
「これだけ私の歌が聴きたいと集まってくれているのに、
私にはこの人たちに歌える歌がない」
と感じて、労働者を歌う楽曲を作ることを決意したといいます。

初めて発表したのは1964年(昭和39年)、リサイタルにて歌唱。
レコード発売は翌1965年7月で、40万枚を売り上げました。

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歌詞の中に差別用語として扱われる
「土方」(どかた)「ヨイトマケ」が含まれている点などから、
日本民間放送連盟により要注意歌謡曲(放送禁止歌)に指定され、
それ以降民放では放送されなくなりました。
この制度自体は1983年に廃止されましたが、
実際はしばらくの間この制度の影響を受け続けることになります。
これは民放のことで、
NHKは発表当時から一貫して放送自粛の措置はとられていませんでした。
事実、ヒットした50年前にも
紅白歌合戦出演のオファーがありましたが、
当時の紅白では歌手1人につき3分以内という時間制限が設けられており、
6分近くあるこの歌も
大幅に歌詞を省略して歌うことをNHKから求められましたが、
美輪は“歌詞の省略はできない”と頑なに主張し、
当時のオファーを辞退せざるを得なかったといいます。

今回は省略なしの完全ヴァージョン
軽薄な内容の中で、
視聴者の胸を打つ時間となりました。

なお、海援隊の「母に捧げるバラード」の中の
「今日も聞こえるあのおふくろの声」は、
「今日も聞こえるヨイトマケの唄」
のパクりであり、
武田鉄矢自身が後に謝罪に来たといいます。

美輪昭宏といえば、
今は大御所ですが、

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昔は「シスターボーイ」と呼ばれ、
ゲイ芸能人の第1号。

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ゲテモノと思われながら、
芸能界を生き抜いたのだからたいしたものです。

なお、「ヨイトマケ」は、↓のようなお酒や

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北海道のロールケーキの名前にもなっています。

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それにしても、
大晦日の晩は、
「土方」(どかた)や「ヨイトマケ」という言葉を
40〜50年ぶりに聞いたという人も多かったはずです。





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