捨てた名刺  

世の中、休日明けですが、
連休中出ていた事務局長には、
そんな感覚がなく始まりました。

いよいよ明後日に迫った総代会のため、
事務局内で打ち合わせをし、
理事長、事業組合担当専務と打ち合わせをし、
会場にも連絡。
この時点で、
「予約を承っておりません」
などということがあるのではないかと
ヒヤヒヤしつつ、
大丈夫と確認。

準備を確認し、
時間の狭間が出来たので、
たまたま目に付いた名刺の整理を始めました。
定年退職と共に業界を去るので、
名刺のほとんどは無用のものです。
そのまま捨てて迷惑がかかってはいけないので、
切ってから捨てることにしましたが、
さすがに29年分の名刺となると、すさまじい数で、
ああ、これだけの人は交わりがあったかと感無量。

懐かしい名前やおぞましい名前やいろいろでしたが、
名刺を見ながら分かることがあります。

事務局長、
お役人とは全く肌が合わなかった。
当然天下りの方々とも全く駄目。
全国の各県の会長・理事長たちとも
あまりうまくいっていない。
反対に各県組合の事務局さんには大変近いものを感じる。
つまり、「上」より「下」の方が好きな下部構造の人間です。

業種的には、報道関係、証券会社、旅行会社の人には
すこぶる受けがいい。                              
そんなこと、あんなこと思いながら、
名刺を捨てていくと、
この29年の過去を清算していくような爽快感がわいて来ます。
いいですね、この感覚。


〔書籍紹介〕

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姜尚中は、カン・サンジュンと読む。
東大教授である。
対する首都大学東京教授の鄭大均は
正しくはチョン・テギュンだが、
日本読みのテイ・タイキンという呼び方でいい、
と本人は言っている。
事実、この本の一番後の「プロフィール」には、
「ていたいきん」と(ひらがなで)記している。
同じ在日コリアン二世で、これだけ違う。

一人の人間を非難するために
一冊の本が書かれる、
というのもすごい話だが、
読んでみると納得するのは、
この本を通じて、
在日コリアンの中にある
被害者性に焦点を当て、
それが
朴慶植(パク・キョンシク)の「朝鮮人強制連行の記録」(1965)によって
構造的に作られたものであることを証明する、
日韓問題に横たわる
メンタリティ的障害を明確にする
なかなか腹の座った、奥深い本であることが分かる。

実際、姜尚中が強調する
母国から無理矢理連行され、
祖国を失った苦悩の中で
祖国再建を希望として生きる姿など、
政治的意図に基づく虚構であると暴く。

国民徴用令により
朝鮮人徴用労務者が日本に連れて来られたのは
7カ月という短期間であり、
終戦後、ほとんどが帰国、
戦時中に徴用労働者として来日し、
帰国せずに残っているのは
わずか245人(1959年当時)であることが
1959年7月13日の朝日新聞に報じられている。

事実、
姜尚中の母親も
日本にいる許婚者に会うために来日したのであり、
強制されたわけではない
姜尚中が自著の中で書いているような
無理矢理「故郷をもぎとられた」わけでもない。                  
そういう事実に目をつぶって、
在日の被害者性をいいつのるのは、
それが日本人の「原罪意識」を刺激して、
日本批判に都合がいいからである。


このブログの読者である方はご存じと思うが、
事務局長は韓国びいきである。
亡くなった母が、歳を取るにつれて
韓国の「オモニ」風になってきたのを見て、
韓国人の血が混ざっているのかな、
と思ったこともあるが、
事務局長は韓国に行くと
決して韓国人とは間違えられない「日本人顔」の持ち主である。

その事務局長、
様々な点で日本が韓国に負けている、
ということは何度も書いている。
なにしろ、韓国まで飛行機代とホテル代とチケット代をかけて
韓国語のミュージカルを観に行くほどである。
昔、韓国の女性と結婚するのを夢見たこともあるし、
皆様ご存じのように
娘は今ソウルに留学中で、
毎日韓国料理を食べている。
その娘が韓国人と結婚する気がないのは、
韓国男性が意外と恋愛モラルがなかったり、
おしゃべりだったりする実情を見てしまったからで、
それは好き嫌いであって、差別とは違う
娘の世代は、
人種差別とは縁遠い世界に住んでいる。

事務局長が韓国好きと言っても、
「アイゴー」とあけすけに悲しみを表現するのは
日本人である事務局長の感性には合わないし、
竹島問題など、
理不尽な主張には断固反論すべきと思っている。
しかし、それは差別とは別問題だ。

日本人に対して好きな人もいて嫌いな人もいるように、
韓国人に対して、あるいはアメリカ人に対しても
好き嫌いはある。
人間だから当然だ。
しかし、嫌いな相手に対して意見の対立をした時、
「そういうのは、私が在日コリアンだと知っているからだろう」
と言われたら、驚く。
その上、
「私の母は韓国から来て、苦労の限りをした。
そのことを君は知っているのか」
と話を拡大されたら、もっと驚く。

姜尚中が書いていることは、そんな感じだ。

たとえば、
「私は写真が嫌いだ。
瞬間の表情を凝固させたような
自分の顔をみるのが辛い」
などという文章があり、
自分が「韓国・朝鮮系」の顔をしているのではないかという
思い込みがあったとか、
写真をみることで、
自分がまぎれもなく
「韓国・朝鮮人」であることを再認識するのが
いやだったのかもしれないとか、
在日であることにつきまとう後ろめたさが
「自分の顔を避けたい気持ちにつながり、
いつしか写真に撮られることを忌み嫌うようになっていた」のだとかいうが、
それは単に自分の顔が好みに合わないだけで、
在日であることとは無関係ではないか。

知っている人は知っているように
事務局長も写真に撮られることが嫌いで、
旅行などに行った時は、
集合写真以外は写らないようにしているが、
それは自分の出自には全く関係ない。
まして、
見るからに「韓国・朝鮮人」の顔であることに
誇りを抱いている人もいるのだから、
自分の顔が嫌いなのは、
在日のせいではあるまい。

姜尚中は、自分の分裂質的な性格が
母親にもあったことを書き、
「私の母がそうなったのは、
先天的な要因というよりも、
やはり「在日」という境遇の影響が大きいと思わざるをえない」
と記している。
気質が先天的なものと環境的なもので決まるのは確かだが、
それを「在日」と直結するのは、
意図があるとしか思えない。

姜尚中は中学生の時、
友人の吃音を真似ているうちに、
自分も吃音になってしまったというが、
「吃音は、
自分のいる社会からつねに
「在日」という理由で
受け入れてもらえないのではないかとはいう不安と、
どこかで共振していたように思えるのだ」
と書く。
「どこかで」と書くところに自分でもこの説が信用性のないことが現れているが、
前から吃音なら分かるが、
友人の真似をしてそうなったのなら、
それは自業自得、
別に「在日」とは無関係だろう。

このように、
ことごとく自分に起こることが
「在日」という存在位置のせいにする。
中学生や高校生がそんな自己レンピンの文を書くなら分かるが、
60歳を過ぎた男が
そんな甘ったれた自己分析をしたら、笑うしかないだろう。

母親のことに触れると冷静さをなくすようで、
自分の母親のことを
「疑うことを知らない無垢の少女」
などと平気で書く。

「父を頼りに
住み慣れた故郷から海を越えて日本にわたり、
そこで想像を絶するような艱難辛苦の日々を
生き抜いていかざるをえなかった母」
などという文章を読むと、
この人の世界認識は狭いのではないかと疑ってしまう。

昔、新宿の教会で、
一人の女性から「信仰のあかし」というのを聞かされて、
「私ほど苦労した人間はいない」
と言われた時、
びっくりして、
この人は命を奪われるほど悲惨な人々が世界にいることを知らないに違いない、
この人の言うことは差し引いてきかなければならないな、
と思ったことがあるが、
それと同じだ。

姜尚中自身の文章にあるが、
母親は自分の意志で海を渡ったのであり、
強制されたわけではない。

昔、アメリカに渡った若者たちは、
差別も受け、経済的にも困窮したが、
それは自分の意志でそうなったのであり、
それを人のせいにすることはなかった

妙な被害者意識が在日の特色であるとすれば、
ロナルド・ドーア(英国の社会学者)と
佐藤信行(在日韓国人問題研究所所長)との対談も面白い。

「韓国人が日本に帰化できないのは、
帰化制度そのものが、
朝鮮人であること、
韓国人であることを
やめなさいということなのです」
という佐藤に対して、
ドーアは、
「それはどごだってそうでしょう。
帰化するということは、
前の国籍をやめて
新しい国籍をとることだ」
と反論する。
筆者は、佐藤らの言う常套的な言い方に
「ドーアがまるめ込まれないところが
この対談の妙味である」
と書いている。
佐藤が帰化について、
「日本の場合は、
民族的なアイデンティティを
全部捨てなさいということです。
日本では、
朝鮮系日本人とか、
韓国系日本人として生きる道が閉ざされているわけです」
と言うと、
ここでもドーアはまるめ込まれず、
「閉ざしているんですか? どうして?」と問い、
「それは゛日本は単一民族国家である゛という虚構を
維持しようとしてきたからですよ」
と佐藤が決まりきったことを言うと、ドーアは、
「それが分からない」と断言し、
アメリカでもイタリア系アメリカ人とか、
日系アメリカ人として自負し、そういう団体に入る。
それは帰化しても自由で
「日本でだって、
韓国人が日本国籍に帰化しても、
民団なり、
在日韓国人キリスト教集団なりに入っていいでしょう。
別に日本の政府が
法律でそれを妨げているわけでもない
でしょう」
と言う。
政治的意図のある曖昧な見解が
高い知性の前に、
粉砕される瞬間である。


姜尚中を初めてテレビで観た時、
「なんだか、うさんくさいな〜」と直感した。
いかにもインテリ知識人をかくそうとしない姿も
あの陰々滅々した話し方
その発言の大半が
被害者意識に凝り固まっているのも
好感を持てない理由だった。

その直感が正しかったことが、
この本を読んで体系的に理解できた。

なにより忘れてならないのは、
姜尚中が北朝鮮に対して心情的に近く、
それはかまわないにしても
北朝鮮擁護の発言をしていることだ。

「カン様」とか呼ぶ熱狂的なファンがいるらしいし、
日本の言論界(芸能界)で一定のステータスを持っているようだが、
同じ在日コリアンである筆者からの批判をどう受け止めているのだろうか。
なにしろ筆者は、この本を書いた動機を
「この聖人気取りの
在日の俗物を
これ以上、野放しにするわけにはいかない
という気持ちが強くなった」

と言っているのだ。





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