アンケート回収再びと「アマデウス」  

アンケート未提出の方は出して下さい、
という呼びかけに応じて、
続々とFAXや封書でアンケートが戻って来ています。

一方、
部分肉カッティングの実技講習会
該当者に文書を出し、
さて結果はどうなりますか。

また一方、
「食肉ギフト券」に関する検討会について
他県組合から問い合わせもいくつか。
ギフト券事業の着地点を模索していた県組合にとっては、
大変タイミングの良い呼びかけとなっているようです。

その電話の最後に、
「いつもブログを
毎朝一番で読んでいます」

などと言われると、
とても励まされます。


〔書籍紹介〕

先日「フォロー・ミー」を「午前10時の映画祭」で観て、
はて、元となる戯曲はどんな形だったか、
と思い出せず、
図書館で借りたのが、この本。

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1962年5月、
ロンドンのグローブ・シアターで上演された、
ピーター・シェーファによる2本の戯曲。
「自分の耳」の原題はThe Private Ear、
「他人の目」の原題はThe Public Eyeで、
どちらも頭文字を取るとTPEになる。
また、両作品ともに、
一つの装置で登場人物は男2、女1の計3人、という共通点がある。
初演の時、マギー・スミスが両方の作品に出演した。
観たかったなあ。

「フォロー・ミー」はThe Public Eyeを
キャロル・リード監督
ミア・ファーロー主演で映画化したもの。

妻の素行を怪しんだ会計士が
探偵事務所に調査を依頼、
その調査報告を持って訪れた探偵は、実に風変わりな男だった。
しかも、報告内容は、妻はただロンドンの街を歩き回っていただけだという。
そのさ中、
たまたま事務所を訪れた妻から話を聞くと、
驚くような事実が浮かび上がってきた・・・
という、
さわやかで愛らしい小作品。

その原作は、まさに映画のとおりの展開で
観客の想像力をいたく刺激する。
たった3人の登場人物で、
こんなに奥深い人生の機微が描けるものかと感心させられる作品。
一度読んだことのある作品なのに面白い。


そのピーター・シェーファーの本を図書館で検索している時に出て来たのが
「アマデウス」

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映画化作品はアカデミー賞作品小賞他 部門を受賞。
事務局長が「宇宙旅行に持っていく10本の映画」には必ず入る作品。

これも以前読んでいるが、やはり面白い。
モーツァルトの死にまつわる話で、
当時の宮廷作曲家のサリエリが
モーツァルトを追い詰め死に至らせたという話。
別に直接手を下したわけではなく、
奸計によってモーツァルトを貧困のどん底に追い込んでいく。

事務局長はこの作品の日本初演、
サリエリが市川染五郎(今の松本幸四郎)、
モーツァルトが江守徹、
コンスタンツェが(誰だっけ)というベストメンバーで観る、
という幸運にあっている。
事務局長の演劇体験の中でも5本の指に入る作品。

久しぶりに読んでみても、いまだに新鮮で感動的。
行間からモーツァルトの音楽が沸き上がって来るような体験。

映画はピーター・シェーファー自身の手によるものだが、
大きな改変は、
モーツァルトの曲が大々的に取り入れられていること。

「フィガロの結婚」の最後のシーンが流され、
その重唱の中に、サリエリは舞台全体に神の恩寵が
音楽の形を取って広がるのを感じる。

また、父親レオポルドの死の直後、
「ドン・ジョバンニ」の舞台に
彫像の騎士を借りて父親が登場し、
息子を非難していることを
誰も気づいていないのに、
サリエリただ一人が感ずる。
この場面など、震えが来るほどの場面。
モーツァルトの音楽をこのように
読み込んだ戯曲など、今だただの一つもありはしなかった。

また、ストーリー展開上の大きな変更は、
モーツァルトの死の直前、
サリエリが「レクイエム」の作曲に協力するシーン。
死の床にいるモーツァルトから頼まれて、
サリエリは、
モーツァルトの頭の中にある曲を
楽譜に写し取っていく。
モーツァルトを憎み、
その失敗を望み、
死にまで追いやった男が
あの素晴らしい鎮魂ミサ曲が
地上に生み出る場に遭遇する。
なんという皮肉

この場面は、
音楽と映像が融合した素晴らしい出来だったが、
舞台の方はこの部分は、
毎夜毎夜サリエリがモーツァルトの住まいの窓の下に経って、
立てた指を一日一日減らして、
「レクイエム」作曲の催促にかこつけて
モーツァルトの死を予告するという展開になっていた。

「告白します。
1791年11月、
私、国王陛下の第一宮廷楽長、
アントニオ・サリエリは、
人気の無い、凍りつく月下のウィーンの街を、
7日間、毎晩欠かさず、さまよい歩いたのです。
街の時計台が午前1時を打つ丁度その時、
私はモーツァルトの部屋の窓の下にたたずみました。
そして、私自身が、
モーツァルトにとって、何よりも恐ろしい時計になったのです」


最後にサリエリはモーツァルトの部屋に呼ばれ、
書きかけの「レクイエム」の楽譜を見せられる。

「長いこと、恐怖におののく一人の男は
もう一人の男を見つめていました。
それから、
信じられない話ですが、
丁度オペラと同じように、
私は承知したと、うなずき、
彼の部屋へと向かい始めたのです。
(「ドン・ジョヴァンニ」の序曲が、
高く低くうねるように、
不吉に響いてくる。
この暗く、うつろな局と共に、
サリエリ、ゆっくり舞台奥に歩いて行く)
ドアの掛け金を外し、
石のように重い足取りで、
私は彼の家の階段を登って行きました。
止めようはありませんでした。
私は彼の夢の中にいたのですから」


そして、サリエリはその楽譜をちぎって食べてしまう。
まさに、背後にある神との闘争、
キリスト教の秘儀である聖餐式を想起させる場面。
映画とは違う高揚感と迫力のあるシーンだった。

もう一つ違うのは、
「魔笛」の上演をモーツァルトとサリエリが一緒に観る場面で、
映画ではモーツァルトは指揮をしていて、サリエリと一緒にはいない。
舞台では、「魔笛」を観ながら、
サリエリが、モーツァルトの存在を横目で見て、
神が地上に神の音楽をもたらすために選んだ「魔法の笛」と感じる。

「そしてその太陽の中に、
なんと、私は彼の父親を見いだしたのです。
もはや息子を責めているのではない、
許している父親の姿を。
この世に愛の手を差し延べる、至高なる聖者。
ヴォルフガングはもうレオポルドを恐れてはいなかった。
そうです、彼にとって最後の伝説物語が創られたのです・・・。
ああ、その響き。
今までにない平和の響き、
それは決して衰えることのない
私のあの胸の痛みをあざけっているかのようでした。
文字通り『魔笛』がそこにあったのです。
私のすぐ傍に」


このように戯曲で自分が書いた重大な場面をあっさりと映画では切ってしまうところ、
さすがピーター・シェーファーだと思う。

戯曲を読んで涙が出たのは久しぶり。
今日は「アマデウス」でも観てみようか。






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