理事長ブログ開設と東京ディズニーランド  

昨日、
近藤理事長がブログを開設。
題名は「わがまま親父の天の声」
アドレスを人に教えてもいいと言われていますが、
ここに掲載するのも何なので、
知りたい方は、
電話して来て下さい。

同時にメールも開通。
第1号メールは組合本部の事務局長のパソコンに送られてきました。

今日は朝から夕方まで、
ひたすら新聞の原稿執筆
11本仕上げて、
後は大作「Q&A」を残すのみとなりました。

ところで、↓今日の朝日新聞の2面ぶち抜き広告。

クリックすると元のサイズで表示します

そうか、25年たつか。

事務局長が浦安に引っ越したのは、1977年(昭和52年)。
その頃には、
「ディズニーランドが来るらしいよ」
と噂の段階。
当時は富士山の近所と浦安が候補地で、
本家の幹部を呼んで現地視察した時の天候が良くて決まったらしい。

正式な契約を結んで、
工事が進み、
オープンしたのが1983年、4月15日。
その前に12・13日と地元の浦安市民を全員招待
事務局長は娘(当時4歳)と二人で夕方から出かけました。
一つのカルチャーショック
「大きな遊園地」くらいの認識が粉砕。
想像をはるかに越えていました。

その日に乗ったのが
「カリブの海賊」
「イッツ・ア・スモールワールド」
「ホーンテッド・マンション」の3つ。
驚愕。
「これでもか、これでもか」のサービス。
「まだある、まだある」の展開。
特に、「カリブの海賊」の
洞窟から広い海に出た時の驚き。
夜空のもとで繰り広げる海賊船の戦闘。
数日間、そのイメージが頭の中をぐるぐる回りました。

「ホーンテッド・マンション」の
眼下のホールで繰り広げられる
透明な幽霊たちのダンスパーティー。
どういう仕掛けか目をこらしました。

そして翌日は親子三人で朝から。
今よりもアトラクションの数はずっと少なく、
「スペースマウンテン」が一番人気
プラネタリウムとジェットコーースターを組み合わせるという
誰も考えなかったアトラクション。
「ジャングル・クールズ」は
少年の冒険心を刺激し、
「トムソーヤー島」の洞窟ではワクワクしました。
「ピーターパン空の旅」は
ウェンディの寝室の窓から出た舟が
ロンドンの上空をゆらゆらと飛んで行く時、
本当に夢のような心地がしました。
バレードも「まだ来る、まだ来る」で、
観客の要求するもの以上に与えて
満足度を獲得するというディズニー精神。

当時は入園者も今よりずっと少なく、
週刊誌には「すぐつぶれる」と意地悪く書かれました。
その後の隆盛は御存知のとおり。
「ビッグサンダーマウンテン」
「スターツァーズ」
「スプラッシュマウンテン」
「トゥーンタウン」などは、その後の追加です。
「ロープウェイ」や「キャプテンEO」は、
もうありません。

丁度ディズニーランド適齢期の娘がいたせいで、
家族三人でしょっちゅう出かけました。
まだ舞浜駅はなく、
東西線浦安駅近所のバスターミナルから行くのが主流の時代。
パークから帰るバスの中で
「ああ、終わっちゃったね」
と寂しい気持ちにとらわれました。

その後、周囲にホテル群が出来たり、
もう一つのパーク(ディズニーシー)が出来たり
というのは全く想像できませんでした。

本家を見たくなってロスまで出かけ、
フロリダのディズニーワールドに足を延ばし、
パリができればパリに、
香港ができれば香港に、と
事務局長の「病気」が進行します。
家族で沢山の想い出を作りました。
5つのパークを見ましたが、
東京が一番うまくいっている
というのが
事務局長の評価。

一時は年間パスポートも持っていましたが、
今は3年に1回行く程度。
行けば、
ここの隆盛は当然、と思います。
毎日通勤電車の窓からパークに向かう人たちの姿を見て、
他人の幸福な一日を想像します。
夜、運が良ければ、
帰宅途中の自転車を止めて、花火に見入ります。

それにしても、
一度も行ったことのない方がまだ周囲にいるのは驚き。
なにしろ事務局長の悔いは、
母が生きている間に
ハワイとディズニーランドに連れて行ってあげられなかったことですから。
エレクトリカル・パレード、見せてあげたかったな。





AutoPage最新お知らせ