2007年11月16日(金)
今日もマイナス3度からマイナス13度の氷点下の1日の予想。朝タクシーで。長慶街から自由大路を曲がらずまっすぐ進み,長慶路へ曲がり,同志街へ突き当たると右へ行き,明水路を通って人民大街へと至るコース。人民大街は大学正門の南側に出るので,Uターンして大学正門まで送ってくれた。今までは降りてから10車線ある道路を横断しなければならなかったのだ。運転手の配慮。シェシェというとプカチと。以前書いたのだがシェシェと言ったあとプカチというのは以前も言っていたのだが,最近私の聞き取りができるようになったためだと思い至った。
1・2校時4年生の日語精読。終了後,学生に連絡役を頼んであるパソコンの修理状況を聞く。どうもキーボードの部品交換で上海のソニーまで問い合わせをしているらしい。というのでもう少し時間がかかるとのこと。
午後教材研究。明るいうちに帰宅。帰りは朝来たのと逆順で。少し遠回りだが,知らない道を歩くのはちょっとした冒険。明水路から同志街・長慶路・長慶街と行き,宿舎着。
宿舎に郵便物到着。「SEVEN」と自宅から。「タカハシ」と「新小判25銭」。
「新小判25銭切手」の方は国際展を意識したリーフスタイル。これぞ伝統郵趣という作品構成。初期印刷単片の使用済が4ページの1ページ分のみというのは意外。消印違いはマルコフィリーの領域と無視してあるのかと思えば,9ページでは和文印の非郵便印を詳しく分類。20ミリ印や年号4字印・二重丸明治印の単片の局名違などという不毛なリーフ作成をしていないのは新スタイルか。カバーが1通あれば十分という考え方。
12ページ「内地=在中国日本局相互間小包25銭切手の知られる唯一の使用例」は書き方に工夫が必要だろう。「25銭切手3枚貼付の知られる唯一の使用例」が正確だからである。私の手元のは菊50銭と新小判25銭が貼ってある。全日展2005「小判切手」はゼネラル作品だからとご覧いただいていないかもしれないが,「長崎の外国郵便」をJAPEXに出したとき審査員をされたのでご覧いただいているはずだ。期間も1900年10月に始まったかは手元に資料がなく即断はできないので,帰国後調べてみよう。「1898年12月1日から開始」と私のリーフには書き込んである。
それにしても25銭のカバーが,こんなにあるのには驚かされた。今から20年以上前,この額面の20ミリ印をオークションに出たら15万まで買い支えていた人の手元には単片が何枚あるのだろうか。
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