ある日、小学校の算数の授業で先生が、
「“1÷6、1を6等分する”ということを誰か説明できる人はいますか?」
という質問をした。
手を挙げたのは、わたしだけだった。
出たがりのくせに小心者のわたしは、心臓が弾けんばかりに緊張しつつも、教壇に上り、黒板に向かいチョークを走らせた。
ここで上手な説明ができれば、みんなに「すげー」って思ってもらえる。そのことを想像し、興奮で鼻息を荒げながらわたしは、
黒板に丸を描いた。
その丸は、コンパスで書いたかと思えるくらい、見事なまんまるだった。
わたしは、そのまんまるの真ん中に横線を引き、その横線を3等分するよう、縦線を2本書き入れた。
書き終わると先生は、
「うん、きれいな丸だね。だけど、6“等分”には、丸ではなくて、四角を使うべきだったね」
とわたしに言った。
はっと自分の間違いに気付き、恥ずかしさで、見る見るわたしの顔は真っ赤になった。
理屈はわかっていたのに。だけど、だけどわたしは、
丸を書いてしまった。
しかしわたしは、
完璧な丸が書けた。
正しい解答はできなかった。間違っていた。だけどわたしは、
完璧な丸が、フリーハンドで書けたのだ。
恥ずかしさのあまり、目に涙すら浮かべて席に戻った後も、黒板に書かれた見事な丸に、半ば慢心していた。感動すら覚えた。
わたしは、完璧な丸を、フリーハンドで書けたのだ。
「見事な丸すぎて、消すのが惜しいけど、正しい説明をするために、消させてもらうね」
先生は、図の円周だけを消すと、横線・縦線の周りに正方形を書き直した。
消されちゃった。
わたしの、丸。
だけど、先生が消すのをためらうくらい、見事な丸だったようだ。
丸。
ふと、このエピソードを思い出した。
思い出したらなんだか、気が軽くなった。
間違ってても、褒められた。間違ってても、慢心した。
見る角度によっちゃ、わたしだって「すげー」んだ。
お客さんから、とても素敵なメールをいただいた。
先日の渋谷でのライブで、初めてJONNYを見たという方からだった。
その日は、ライブが終わった後に、久々に会った常連のお客さんからも素敵なエールをいただいた日だった。
ものすごく嬉しかった。
自分に自信が持てない時期だったので、
お客さんに、救われた気分だった。
お客さんが、あの日の“丸”を褒めてくれた先生のように思えた。
忘れてた。
わたし、
フリーハンドで完璧な丸が書けるんだった。
そこが自分の自慢だったのに。
もう一度みんなに自慢しようと思って教壇に上がったのに、
四角を書かなかったからって、自分を恥じてた。
いいじゃん、丸。
これだけ生きてこれば、いい加減わかる。
どうやらわたしは、あまり正しい解答を出せないみたいだ。
だけど、これもわかる。
もう学生じゃないんだから、正しい解答ばかり出す必要はない。
人間も社会も、算数じゃない。
数字を競えば人より劣っていようが、
“0”を素敵に描けることの方を、大事にしたいときだってあるのだ。
「ありがとう」ってひとりごちて、
飲むビールのうまさったるや。
小学生のときのわたしよ、
あれから数十年を経たわたしの書く丸は、
かなりいびつでみすぼらしいが、
愛嬌があるとは思わないかい。

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