【重要】『戦前に朝日新聞が社論を180度転換したとき。』南木です。朝日新聞が戦前、戦中、軍国主義を鼓舞するような報道ばかり流すようになる以前は、その逆で、朝日新聞は大正デモクラシーをリードする社論を張っていました。それがなぜ180度社論を転換したのか。戦前における朝日の大転換について、ご存じない方は必読です。(益子酵三氏よりお送りいただいた以下の重要研究『朝日新聞報道・論説の姿勢について』を是非ご一読ください。私は大変参考になりました。益子先生、有難うございます。)以下、 益子酵三氏の論考掲載。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−『朝日新聞報道・論説の姿勢について』益子 酵三
現在、議論沸騰している「朝日新聞の誤報道問題」にたいし、参考の一つになるかも知れないと考え、私の研究の一端を紹介します。
私は、公立中学校社会科教員、小中学校長ののち、大学院社会人コ−スに入学し、5年目になります。昨年(平成25年)1月、『新聞と世論−満州事変期における新聞論調の大転換と幣原外交−』というテ−マの修士論文をまとめました。
研究の焦点は、「満州事変勃発後、なぜ、新聞の社論・社説が大転換したのか」、その外交への影響です。ポイントは、ズバリ、朝日新聞の社論の大転換と『大阪朝日新聞』杜説の論調大転換であります。(以下、外交面は省きます。)
朝日新聞は、明治12年1月25日、大阪で創刊。明治21年、『東京朝日新聞』発行にともない、『大阪朝日新聞』と改題した。しばらく、両紙の間に一体感は薄く、社説もながく別建てであった。東西朝日の社説の共通化が実現したのは、昭和11年6月2日の紙面からであった。昭和初期、軍部とくに陸軍と右翼の圧力が高まるなか、朝曰新聞は東西とも軍縮論を展開し、軍部批判の記事・社説を連日のように掲載した。
『大阪朝日』は、大正デモクラシーの影響下、軍縮推進と普通選挙の代表的論者でジャ−ナリズム界をリ−ドしていた、高原操が編集局長であった。論説陣には、強烈な反官僚意識がみなぎり、自由主義的な論陣を張っていた。ところが、満州事変を機に、戦域を拡大する関東軍の行動を社説で追認するに至った。それは、挫折ともいえる転換だった。
新聞は、昭和6年9月18日の柳条湖事件直後から、現地報告により戦況を大々的に報道していた。大方の新聞が中国側が先制攻撃をしたと批難したが、『大阪朝日』だけは批難を抑制した報道記事であった。社説においても、関東軍の初期軍事行動は自衛権にもとづく緊急対応と認め、局地解決を目指す政府の不拡大方針を支持した。のちに若槻内閣が不拡大方針を捨て去っても、『大阪朝日』は戦線の不拡大と関東軍の行動を警戒する論調を貫いていた。
ところが、10月1日に、『大阪朝日』社説の論調が、突然、180度の大転換をしてしまった。これまでの中国認識や満蒙問題にたいする基本理念を覆してしまった。「満州事変を容認し、政府(軍部)の政策支持」を表明し、軍部の目ざす強硬路線反対の旗をおろしてしまったのである。その前後に、全朝日の経営陣と論説陣が協議し、「満州事変容認、政府(軍部)支持」を社論統ーの大方針と決定し、『大阪朝日』を説き伏せていったのである。『東京朝日新聞』は前もって軍部よりにかわっていたので、『大阪朝日新聞』が崩れたことの意味はとても大きく、新聞界全体が軍部支持に傾くことになってしまった。
なぜ、社説の論調を、突然、180度、軍部支持の社論に大転換したのだろうか。
歴史やメディア関係の研究では、様々な説が発表されてきた。戦後、外部要因説説が多かったが、近年は内部要因説を強調する説が有力となってきている。過去のテロ事件や軍部・右翼の言動から外部要因の影響は否定はできないが、販売部数や販路の確保・拡大という営業的な要因の方が大きかった。事件勃発後の一年で、販売発行部数が大幅に減少した(約26万部減)。危機感をもった経営陣が『大阪朝日』の論説陣を説得し、社説の論調を転換させ、全朝日が組織をあげて軍部支持へ社論の統ーをはかったのである。その結果、約39万部増となった。
戦後、『東京朝日』の主筆であった緒方竹虎をはじめ朝日新聞関係者の発言や社史では、ほとんど、軍部・右翼など外部からの圧力のために自由な言論を守れなかったといった責任逃れの弁明が多い。満州事変期、なぜ、自ら時局迎合の論調に転換したかについては、新聞社や関係者は徹底的な自己検証には及び腰で、掘りさげて語ることはほとんどない。
朝日新聞取材班による、「過去の負の歴史に真つ正面から向き合い、きちんと検証」するとした『新聞と戦争』(2008年)においても、社論・社説の大転換について様々な要因の羅列でしかなく、何が最も重かったかという結論をせず、踏み込みは不十分で、責任の所在も曖昧である。また、関係者への責任の追及は避けているので、編集者の責任感も感じられない。
また、内部資料公開が問題である。膨大な外部資料の活用を自負しているが、肝心要となる、資料が出せてない。
高原編集局長の日誌が一部、登場したが、社説、社論の大転換にかかわる会議や当事者の日記などは、ほとんど公開されない。
新聞社における、内部資料公開にたいする閉鎖性は重大な問題である。全ての資料を公開し、外部の専門家による検証によって、はじめて、客観性のある分析が可能となる。内部者のみで、限定された資料による検証では、いつまでたっても主観的、一方的な反省しかうまれない。公開を要求する研究者にたいし、かたくなに拒否し続けているのが現状である。
私が、満州事変期における朝日新聞の姿勢を検証して、つくづく感じたのは、「朝日新聞という組織は、独善的な判断にもとづき、一方的な論理による弁明、責任転嫁、口だけの責任で実質は責任回避のうえ、最後は潔くない進退と偽善に尽きている」ことであります。昭和20年11月7日「宣言 国民と共に立たん 本社、新陣容で『建設』へ」であらわれた、戦後直後の姿勢も現在の姿勢もほとんどかわらないと思います。 (平成26年9月7日)
<主な参考図書・資料>
朝日新聞「新聞と戦争」取材班『新聞と戦争』、朝日新聞出版、2008年。
今西光男『新聞資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩』、朝日新聞社、2007年。
後藤孝夫『辛亥革命から満州事変へ 大阪朝日新聞と近代中国』、みすず書房、1987年。
駄場裕司『大新聞社 その人脈・金脈の研究 日本のパワ−エリ−トの系譜』、はまの出版、1996年。前坂俊之『太平洋戦争と新聞』、講談社、2007年。
朝日新聞百年史編修委員会編『朝日新聞社史 昭和戦後編』、朝日新開社、1995年。
拙稿『新聞と世論−満州事変期における新聞論調の大転換と幣原外交−』、2013年。
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