明日4月27日。門脇朝秀翁 来阪。第1回「南木倶楽部全国」勉強会 『特務将校としての門脇朝秀2』門脇さん99歳をお呼びします。
南木です。
明日27日の予定です。
門脇朝秀翁99歳。 4月27日来阪され、
南木司会で、お話しを伺います。
多数の方のご参加を期待します
この機会を逃せば、もう大阪で門脇さんのお話を伺える機会はないかも知れません。
是非多数の方にご参加をと呼びかけたところ、「あけぼの会」(門脇さんの会)関係の方々を含め、多数ご来場される予定です。
当日の会場は36名、40名を超える参加者となると、立ち見という可能性も出て来るので、席を確保したい方は、早い目にご来場下さい。と言っても、公的施設ですので、6時の何分前に開場できるか明言できませんが。
門脇さんはこの3月1日に満99歳になられました。門脇さんには講話に先立って花束贈呈のお祝いをいたします。
なお、
勉強会は6時から8時30分まで。
その後近くの、いつも当勉強会で使う居酒屋で2次会をいたします。
会費は3000円から3500円程度。
門脇さんはこの日ホテル「法華クラブ」に宿泊されます。
南木は、2次会が終わってから、ホテルまで門脇さんをお送りいたします。
このメールに、過去2回私の勉強会で門脇さんにお話しいただいたときのまとめを下の方に添付しています。
皆様の、ご参考になさってください。
なお、この門脇さん招聘に歴史的、精神的な意義を認めて、協賛いただける方は、当日参加がご都合で難しい方も、このメールの一番下に示している各口座にご支援いただけると幸いです。この協賛をいただいた方は、ご希望の方は
「南木倶楽部全国の活動を協賛してくださる方」
の名刺広告のページに、お名刺を掲載させていただきたく思っています。
掲載はこのページです。
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page031.html
記
第1回「南木倶楽部全国」勉強会
(第86回大阪読書研究会)(H25.4.27)南木隆治
特務将校としての門脇朝秀2
日時:平成25年4月27日(土)午後6時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 大阪駅前第二ビル
TEL:06-6345-5000 FAX:06-6345-5019
講師:もと帝国陸軍奉天特務機関員 門脇朝秀
内容:特務将校としての門脇朝秀2
資料代:金1,000円
門脇さんはこの3月1日99歳のお誕生日をお迎えになりました。
門脇さんと私とのつきあいは、平成13年8月13日小泉首相の靖国参拝に抗議して始まった左翼たちの運動に対して、
「靖國応援団」を立ち上げた頃に遡ります。
門脇さんには既に2度当会で講演いただいています。
以下に、過去の記録を掲載します。
平成15年10月25日(土)、『大東亜戦争と台湾高砂族』第三十四回大阪読書研究会、及び
平成16年2月28日(土)、『特務将校としての門脇朝秀』第三十六回大阪読書研究会です。
以下ご参考。以前の門脇さんの講演のまとめです。
http://ameblo.jp/minakitakaharu/entry-10094515746.html
第三十六回大阪読書研究会の予告 南木隆治(みなきたかはる)
平成16年2月28日(土)、『特務将校としての門脇朝秀』
新年二月の例会講師は、昨年十月に引き続き門脇さんです。前回お話いただかなかった事を今回は私が口説いてお話しいただくことになりました。
私が個人的にお聞きしたことを皆様にも披露していただきたいと言うこともあり、私自身がまだまだ続きを聞きたいことばかりだからです。。
門脇さんは情報将校であると先の会報でも少し書きましたが、当時の一般的なの呼び方で言えば特務将校です。「かわぐちかいじ氏」の劇画『ジパング』等には第二次大戦中の日本軍特務将校が良く描かれていますが、門脇さんは実物の特務将校です。
個人的にお話を伺っていて、終戦時、どうしてこの人は国民党軍、中共軍の中を平気で通り抜けて、その間に何人ものさまよえる日本兵を救い、米軍司令官と直談判できたんだろうか、と疑問が頭をぐるぐる駆けめぐったのですが、そうか、と閃いて、「もしかして門脇さん、特務?」とお聞きし、「そうだー。」と答えていただいて分かったのでした。門脇さんの十冊以上ある分厚い著書『祖国はるか』シリーズのどこにもご自身が特務将校であったことは書かれていません。あの饒舌な語り部のような文体の裏に、実はそういう秘密があったわけです。
前回十月例会は一般的なお話になりましたが、今回は特務将校としてどのような仕事をしたかにテーマを絞ってお話頂くことになりました。おそらく門脇さんが一般の方に話される機会としては九十年の人生で初めてだと思います。前回門脇さんのお話を聞きたいのに出席できず悔しがっていた方、今回は絶対に前回のおもしろさを遙かに越えるでしょう(以下略)
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第三十六回大阪読書研究会の報告 南木隆治(みなきたかはる)
『特務将校としての門脇朝秀』
平成十六年二月二十八日(土)の門脇朝秀氏の大阪読書研究会での講演は、長く人々の記憶に残るであろう。この日は会場の都合で、いつもの半分の大きさの部屋しか取れていなかったが、逆にいつもの2倍の40名近い人々が参加された為、会場は一杯になり廊下で入室のチャンスを待つ方もおられるほどであった。
門脇氏はゾルゲの話をもっとするつもりで、詳しい資料を持ってこられていたのだが、結局その資料を使う事無く、恐ろしい暗記力で、一切資料を見ずに最後まで話をされた。お話の要旨を以下に纏める。日時などは話されたままを記した。
「私の特務の話などたいしたことは無い。九牛の一毛というが、あさって日本会議で話をされるO氏の方がこのような話をするのにもっとも適している。(但し、O氏は特務の話はなさらない。)結局私(門脇)の仕事はコミンテルンの指令との戦いであったと思う。そしてゾルゲにしてやられたという訳だ。シナ派遣軍は百四万人いた。それであのシナ大陸でどうにもならなかった。あのころシナの人口は四億人くらいと言われていた。二億人くらい連れてきたら何とかなるかもしれないが、百万人くらいなら百年で消えて無くなる。(コミンテルンの歴史を相当語られたが割愛する。)
私(門脇)は『昭和維新の歌』は好きではない。あれはゾルゲの戦略そのものだ。革命というのは一番貧乏な者を搾取する。軍部の若い連中に理論を与えて政党を攻撃させる。軍部が天下を取ると必ず行き過ぎる。資本主義国が相互に戦うようにし向けられた。今思いかえせば、数々の場面で諜報戦、謀略戦に我々は敗れた。私はノモンハンにいた。五月に始まって日本の方が先に手を出した。軍隊は千メートルや、五千メートルを進んだり、退いたりして勝った、負けたと言っているが、そこにすんでいる人間には国境など関係がない。初め関東軍は勝つつもりでいたがシナや、馬賊相手とはちょっと様子が違った。九月十三日に停戦でやれやれと言うことになった。我々はそこしか見ていなかった。その二日後にソ連はポーランドに攻め込んだ。平沼がヨーロッパ情勢は複雑怪奇と言って辞めた。停戦によって、ソ連は大急ぎで満州に張り付いていた師団をヨーロッパ戦線に振り向けた。もし日本が停戦に応じていなかったら、ソ連はポーランドに攻め込むことができず、情勢はすべて変わったはずだ。日本は捕虜交換の時も、こちらの手中にある捕虜の数を正直に敵に言っており、交渉において話にならないことが多かった。
ところで、一九四一年六月二十二日、ヒットラーはソ連占領下のポーランドへ攻め込み、その冬、モスコーまで攻め込んだ。ナポレオンは五月に六十万人で攻め込んでマイナス四十度の冬将軍に負けた。しかし、ヒトラーは電撃作戦でナポレオンより早くモスコーまで迫ったので、十一月と言えば、モスコーあたりは普通マイナス十四度くらいで、負けるような状態ではなかった。ところがなんと十二月初めに一気にマイナス四十度になってしまい、形成が逆転した。マイナス四十度になると機械の油が凍ってしまって、すべての物資の輸送が止まってしまう。それでも、もし、満州正面にいた五個師団のソ連軍がそのまま日本と対峙して張り付いていたら、形成は違っていただろう。ところがその十二月八日、日本は真珠湾を攻撃した。ヒトラーは天を仰いで、嘆いただろうと思う。そこでゾルゲが出てくるわけだ。ゾルゲがフランクフルトのアルゲマイネツヴァイツゥングの記者として来たとき、私は満州で彼に会ったことがある。ゾルゲはご存じの通り国籍はドイツ人。ソ連のスパイである。ゾルゲは様々なルートを使って、日本がシベリアを攻めてもウラルを越えては行けないでしょう。ソ連はドイツによって負ける。日本が出てゆくのはそのあとでよい。日本にとって重要な鉄、ジュラルミン、石油などはシベリアには無い。日本は南進するべきだ、と言う風に情報を操作し、近衛さんたちを洗脳した。
コミンテルンのグランドデザインの通り大東亜戦争は進行し、そして負けた。
その当時特務機関はハルビンと、奉天にあり、ハルビンは対ソ工作、奉天はシナ、満州、蒙古、朝鮮を工作するところだった。私(門脇)はその奉天特務機関にいて、その当時人生で一番張り切っていたと思う。そのとき私は現役を終わって、二十二才だった。奉天特務機関は門脇を含めて三人しかいなくて、その下は庶務、電信、運転手くらいだった。奉天特務機関長が三浦少将、補佐官が少佐で、その下には門脇しかいなかった。お二人とも陸大の出身で、このお二人にうんと私は揉まれた。この補佐官の家族とは今もおつきあいがある。特務機関は表向きは何の権限も持たないが、実際はあらゆる軍の動き、物資の動きなども特務機関を通じての情報が参謀本部、大本営に上がり、そこで検討され、特務間で現地でも情報交換するので、絶大な権限を持っていた。
こんな事もあった。昭和十二年七月七日にシナ事変が起こったが、その四月にラクダ四十頭で航空燃料をアラシャンまで運ぼうとしたことがあった。ソ連をドイツと連携して挟み撃ちにするためのルートを開拓していて、当然のことだが中継基地を作るためだった。この作戦はシナ事変が起こってしまってうまくいかなかった。シナ事変の起こる直前の四月三日、この作戦に関係するW氏をサイドカーに乗せ、人力車に乗せ、中継基地に向かう飛行機に乗せた。彼の体調次第で、代わりに自分がその飛行機に乗った可能性もあった。シナ事変が始まり、我々の作戦を知ったシナ側によってW氏は拘束され、銃殺された。大陸の奥深く我々は作戦を展開し、来るべき対ソ戦のための準備を進めていたが、日本の南進によって全ては無駄になってしまった。
捕虜について思うことがある。ドイツの捕虜は皆団結して仲間を裏切る者が少なかったと思う。日本の捕虜は相手に通じてしまう者が少し多すぎるのではないかと思う。外交は戦争の裏返しだ。日露戦争が終わって四十年目に日本は負けた。よもや、これほどの負けになるとは初め誰も思っていなかったであろう。自分は今も日本が駄目になったら世界中泥棒だらけになると思う。アメリカには六百万人のユダヤ人と、六百万人のイスラム教徒がおり、この両者の対立だけでも国をまとめてゆくことは容易なことではない。アメリカはきっといずれ中東からも追い出される。日本が戦争に負けたとき、しょんぼりしている我々に、あなた達は帰る国があるからいいねー、と占領地の誰もが言った。日本がつぶれたら世界は終わりだ。日本の出番は必ずやってくる。
明日二月二十九日のの護国神社での台湾同胞に捧げる慰霊祭を成功させ、更に三月一日の日本会議主催の聞き語り会(門脇氏を含め四人)も成功させたい。本日は是で終わり。」
ざっと南木が纏めると以上のようなお話であった。
翌朝、門脇さんは大阪護国神社で私(南木)と会ったとき、実は昨日は「しまった、こんな話をしたら良かった」とか思って眠れなかったと話され、恐縮した。「国境を突破するときの話、生きるか死ぬかのギリギリの一瞬の判断のときどうしたか、そういう話をもっとしたら良かった。」と仰るので、近い内にまた千葉までお話を伺いに上がりますとお答えした。
門脇さんは三月一日に九十才の誕生日を迎えられた。門脇さんの世界観、その当時の国際情勢への見方等は、もし今も生きていれば今年九十五才になる私の父親から、生前聞いていたものと全く同じであった。門脇さんより少し下の年齢になると軍国少年のようになってしまう方が多いが、門脇さんには明治生まれであった私の父と同じような自由な闊達さがあり、私は父を見るような気持ちで門脇さんに接しているのだと思う。
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第三十四回大阪読書研究会の報告。
平成15年10月25日『大東亜戦争と台湾高砂族』
平成15年10月25日、『あけぼの会』会長門脇朝秀(かどわきともひで)氏(九十歳:大正三年のお生まれ)を千葉県松戸市よりお呼びして、『大東亜戦争と台湾高砂族』と題してお話を伺った。その前日門脇さんは大阪護国神社を訪問され、来年二月二十九日午後二時に台湾からの従軍者ですでに亡くなった方々への慰霊と、今尚日本への郷愁を持ち続けている方々への連帯の行事を開く打ち合わせをされた。
さて、先にも書いたが、戦後台湾の人々に対して冷たい仕打ちしかできなかったわが国政府に代わって、門脇さんが私財を投じて台湾の人々との友情を保つ努力をどれほど重ねてこられたか、私自身門脇さんと運命的に出会うまで、まったく知らなかった。門脇さんはもともと大阪外事専門学校(現在の大阪外国語大学)を卒業しておられて、数カ国語を自由に操られる大変なインテリである。戦時中は情報将校であり、満州で終戦を迎えられたので、今ではおそらく誰よりも終戦前後の満州、朝鮮方面の各国軍の動向などを、裏の裏までご存じである。
この日門脇さんは、台湾高砂族を自称する、父親が外省人である国会議員 高金素梅が、高砂族を含む多数の台湾人を原告として靖国神社を訴える裁判を大阪地裁で起こした今回の事件のいきさつを最初に話されたが、その後多くの考えるヒントを私たちに与えてくださった。お話は多岐に渡りとても紹介しきれないが、南木のもっとも印象に残った点を報告させていただく。
『みなさんはご存じないかもしれないが、軍隊というものはそれぞれの出身地の歌を創る。私は毎回台湾高砂族のみなさんを呼ぶが、この人たちがくると必ず台湾軍の歌を歌う。また、その子供たちもその歌を歌う。日本が統治したことに反対だったらそんなことになるはずがない。この人たちの部落へゆくと八割が日本語の地域が何カ所もある。日本の統治が終わってから育ったその娘が完全な日本語をしゃべっている。自分は外地で育ち、お国のために戦ったが、今の日本に帰るべき故郷はもうない。オレが死んだらここのどこかに骨を埋めてくれと言っている。みなさんは蒋介石の戒厳令三十八年がどれほど過酷なものであったか知らない。どれほど日本を否定し尽くそうとしたか。たとえば十六歳の少年が日本の学生のように手ぬぐいを腰に下げ、下駄を履いていただけで殺されたんだ。国がつぶれたら個人は関係がない。オレは人格者だとか思っていても、人が言ってくれても三文の値打ちもない。スターリンは百三十万の軍隊を動かして満州に入ってきた。奴らは何も持っていないから、片端から盗んだ。腕時計を腕にいくつも巻き付けて悦に入っていた。さて、皆さんに日本人は大したものだなーといつも思う点を伝えておこう。これは戦後すぐも今も変わらない。例えばロシア人とシナ人の反目についてだが、彼らはとにかく口を極めて罵倒しあう。朝鮮人とシナ人についても、シナ人がこれほど嫌いな少数民族はない。漢民族を取り巻く周辺の少数民族は皆漢族が嫌いで雲南でも同じだ。首狩りと言うと蛮族の風習のように聞こえるが、首狩りされていたのは漢族だ。そういうところへ行って自分が日本人であることを告げた上で「漢民族というのはどうも気にくわん」と言うと必ず受ける。自分はギリヤークや、オロチョンといった民族ともつきあったが、みな同じだ。日本人にはまだ我々が十分に気づいていない魅力があって、そういう反目しあっている中に日本人が入ると必ずうまくゆくようになっている。台湾でも同じで、平地人と山の民の反目は日本人というギアを入れるとうまくゆく。日本人はそういう風に世界中何処に行っても大切にされると言う事を、しっかりと若い人たちに教えておいてもらいたい。マスコミが反日的な報道をしても、現地にゆけばそういうことはない。日本人は必ず尊敬され、大切にされている。このままゆけば、ロシアとシナは必ず戦争することになるであろう。シベリアは、樺太を含めてどんどんロシア人人口が減っている。シナ人に門戸開放すれば、たちどころに二億人くらいがなだれ込むだろう。それが怖いから、ロシアは絶対に国境を開放することはない。日本が何らかの役割をする事になるだろう。ロシア人はシナ人のことを「男は皆泥棒、女は○○」と言い、シナ人はロシア人のことを「あれは犬と同じだ。人の見ている前で○尾する。」とか言っている。しかし日本人のことは反日政策でそんなことを言っていても、町中で人々が言っていることはない。人は人を見ているものだ。ここのところを知っていないといけない。』
要点は以上のようなことであったと思う。大阪在住の高砂族もと酋長の家系の吉住レモンさんが門脇さんのお話を補完した。レモンさんの父上がニューギニアの食料がなくなった部隊で食料を調達するため、毒見を部隊の中で進んでされたこと。帰ってこられたときは栄養失調で水ぶくれになり、声でしか本人と分からなかったことなど、当時の厳しい状況を話していただいた。レモンさんはこの日も民族衣装で参加くださり、初めての方には強い印象が残ったのではないかと思う。レモンさんは本業は歌手であり、この日もほとんど全員が参加した二次会で、アカペラで美声をプレゼントしてくださった。(以下略)
日時 平成十五年十月二十五日(土)午後6時より
場所、梅田東生涯学習ルーム
講師、『あけぼの会』会長 門脇朝秀先生
演題、台湾高砂義勇隊とあけぼの会の活動
参加費 、一〇〇〇円(当日いただきます。)
問い合わせ先、南木隆治
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皆様の協賛をいただけると幸甚です。
りそな銀行 金岡支店 普通 3249594 ミナキ タカハル
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http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/(南木の資料室)
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