2013/5/15 | 投稿者: マルセタロー
夏目先生をお招きして「性に秘められたスピリチュアルパワー」というセミナーを開催致しますが、その関連知識として以前読んだ本を、再確認の意味でもまとめておこうかと思います。この「マグダラのマリアと聖杯」(マーガレット・スターバード著)は本の帯にも書かれていますが、「ダ・ヴィンチ・コード」のタネ本の一つといわれています。副題は「雪花石膏(アラバスタ)の壷を持つ女・タロットカードの暗号を解く」となっており、タロットの象徴についても多く言及されています。内容は多岐に渡りますが、非常に分かりやすい本でした。最近、記憶力が怪しくなっているので・・(^_^;)、後から自分が見ても思い出せるように、要点をまとめたいと思います。
著者のマーガレット・スターバード氏は、メリーランド大学大学院でヨーロッパ史と比較文学を修め、文学博士号を取得。その後もドイツやアメリカの大学で研究を続け、聖書研究や霊性に感する講義を担当していたということです。もともとはこういったアカデミックな立場だったんですが、「The Holy Blood and The Holy Grail」(邦訳「レンヌ・ル・シャトーの謎−イエスの血脈と聖杯伝説」)を読んで衝撃を受け、それに反駁するための研究を始めたのが、そもそも本書を執筆するきっかけとなったとのこと。
ローマ・カトリック教会に深く帰依していた著者が衝撃を受けたその内容は、新約聖書の福音書に登場するマグダラのマリアとイエス・キリストが結婚していたという主張です。マグダラのマリアが教会で語られるときは「元々は罪深い娼婦であったが、その罪をイエスによって許された女性」という位置付けで語られる事が多いですが、なぜそのような位置付けになったのでしょうか?。これは福音書の中で、イエスに「七つの悪霊を追い出された」(マルコ16:1他)と記されているためで、「体から悪魔を追い払う」=「売春で汚れた肉体をイエスの力で浄化される」という解釈が行き渡っているためです。
さて、現代までに作り上げられてきた娼婦のイメージとは全く別に、聖なる存在としての娼婦というものが古代では知られていました。それが聖娼や神殿娼婦と呼ばれる存在です。これは古代バビロニアやパレスチナなどの地中海沿岸で信仰されていた地母神を祭る神殿に仕えていた巫女をさし、儀式として男性の信者と性的に交わって、男性信者と大地の女神との神秘的な一体感をもたらす媒介者としての役割を担っていました。これは俗世間における一般的な娼婦とは明瞭に区別され、聖なる存在として崇められていた存在でした。およそ紀元前7000年頃〜3500年頃までは、この女神崇拝が非常に盛んでしたが、紀元前3500年頃からのインド・アーリア族の侵入によって、男性の最高神の概念が中近東地域に入ってくるようになり、そして数世紀の時を経て、この男性神を信奉する宗教が、寛大な女神崇拝に徐々に取って代わっていくことになります。
女神崇拝の時代、王がその地位を確定するための儀式として、女神に仕える女祭司が王の頭に香油を注ぐ、という儀式が行なわれていました(この儀式はギリシャ語では「ヒエロス・ガモス」(聖婚)と呼ばれ、性的な意味合いも秘められています)。この儀式がユダヤに取り込まれたときに、王に香油を注ぐ役割は男性の預言者に変わっていき、そして王はヘブライ語で「メシア」、すなわち「聖油を注がれた者」として知られるようになります。このような背景があったことをを考えると、マグダラのマリアがイエスに香油を塗布した行為には様々な意味合いが考えられてきます(つづく)。
著者のマーガレット・スターバード氏は、メリーランド大学大学院でヨーロッパ史と比較文学を修め、文学博士号を取得。その後もドイツやアメリカの大学で研究を続け、聖書研究や霊性に感する講義を担当していたということです。もともとはこういったアカデミックな立場だったんですが、「The Holy Blood and The Holy Grail」(邦訳「レンヌ・ル・シャトーの謎−イエスの血脈と聖杯伝説」)を読んで衝撃を受け、それに反駁するための研究を始めたのが、そもそも本書を執筆するきっかけとなったとのこと。
ローマ・カトリック教会に深く帰依していた著者が衝撃を受けたその内容は、新約聖書の福音書に登場するマグダラのマリアとイエス・キリストが結婚していたという主張です。マグダラのマリアが教会で語られるときは「元々は罪深い娼婦であったが、その罪をイエスによって許された女性」という位置付けで語られる事が多いですが、なぜそのような位置付けになったのでしょうか?。これは福音書の中で、イエスに「七つの悪霊を追い出された」(マルコ16:1他)と記されているためで、「体から悪魔を追い払う」=「売春で汚れた肉体をイエスの力で浄化される」という解釈が行き渡っているためです。
さて、現代までに作り上げられてきた娼婦のイメージとは全く別に、聖なる存在としての娼婦というものが古代では知られていました。それが聖娼や神殿娼婦と呼ばれる存在です。これは古代バビロニアやパレスチナなどの地中海沿岸で信仰されていた地母神を祭る神殿に仕えていた巫女をさし、儀式として男性の信者と性的に交わって、男性信者と大地の女神との神秘的な一体感をもたらす媒介者としての役割を担っていました。これは俗世間における一般的な娼婦とは明瞭に区別され、聖なる存在として崇められていた存在でした。およそ紀元前7000年頃〜3500年頃までは、この女神崇拝が非常に盛んでしたが、紀元前3500年頃からのインド・アーリア族の侵入によって、男性の最高神の概念が中近東地域に入ってくるようになり、そして数世紀の時を経て、この男性神を信奉する宗教が、寛大な女神崇拝に徐々に取って代わっていくことになります。
女神崇拝の時代、王がその地位を確定するための儀式として、女神に仕える女祭司が王の頭に香油を注ぐ、という儀式が行なわれていました(この儀式はギリシャ語では「ヒエロス・ガモス」(聖婚)と呼ばれ、性的な意味合いも秘められています)。この儀式がユダヤに取り込まれたときに、王に香油を注ぐ役割は男性の預言者に変わっていき、そして王はヘブライ語で「メシア」、すなわち「聖油を注がれた者」として知られるようになります。このような背景があったことをを考えると、マグダラのマリアがイエスに香油を塗布した行為には様々な意味合いが考えられてきます(つづく)。
2011/8/8 | 投稿者: マルセタロー
最近、やっとスマホにも馴染んで来まして、行き帰りの電車の中でもちょこちょこ触っていますが、青空文庫のアプリは重宝しています。青空文庫は著作権が切れた作品をアップしているサイトですがそれを携帯でも見れる訳です。著作権が切れているからといって、張って良いのか分かりませんが、張ってしまおっと(笑)。
「春と修羅」序 宮沢賢治
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
この詩ですが、アニメ映画の「銀河鉄道の夜」で、エンドロールで朗読されています。何だか心にずっと引っかかっていまして、DVDもレンタルしまして、毎日この詩を読みながら通勤したりしていますが、熱心な法華経信者だった宮沢賢治が、キリスト教的な世界観の「銀河鉄道の夜」を書いたのも不思議ですし、この「春と修羅」も独特な世界観です。
アニメの「銀河鉄道の夜」は元YMOの細野晴臣氏が音楽を担当していますが、これもまたすごく良い仕事ぶりで、作品の世界観にマッチしています。特にエンディングの曲はワタシの中では白眉の一曲です。蛇足ですが、この後に源氏物語のアニメも細野氏が音楽を担当していますが、これはまるっきり覚えていません(笑)。実はこの「春と修羅」とダンテの「神曲 煉獄篇」を交互に読んでいますが、なぜか私の中ではリンクすることが多いんです。不思議なんですが・・。
「春と修羅」序 宮沢賢治
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
この詩ですが、アニメ映画の「銀河鉄道の夜」で、エンドロールで朗読されています。何だか心にずっと引っかかっていまして、DVDもレンタルしまして、毎日この詩を読みながら通勤したりしていますが、熱心な法華経信者だった宮沢賢治が、キリスト教的な世界観の「銀河鉄道の夜」を書いたのも不思議ですし、この「春と修羅」も独特な世界観です。
アニメの「銀河鉄道の夜」は元YMOの細野晴臣氏が音楽を担当していますが、これもまたすごく良い仕事ぶりで、作品の世界観にマッチしています。特にエンディングの曲はワタシの中では白眉の一曲です。蛇足ですが、この後に源氏物語のアニメも細野氏が音楽を担当していますが、これはまるっきり覚えていません(笑)。実はこの「春と修羅」とダンテの「神曲 煉獄篇」を交互に読んでいますが、なぜか私の中ではリンクすることが多いんです。不思議なんですが・・。
2008/4/13 | 投稿者: マルセタロー
故・坂口尚氏の「あっかんべェ一休」を全巻読み直す。改めて坂口さんは天才だったなぁと感慨深い。この漫画との出逢いは月刊アフタヌーン(今もヒストリエとヴィンランド・サガ読んでます)に連載されていた時だが、その画力と内容に当時ワクワクしながら読んだ記憶がある。
私は基本的に和モノの話が好きだが、特に禅宗には心惹かれるものを感じる。この作品で描かれる一休禅師は世間の基準で言えば破戒僧の最たるものだが、しかしそれでいてその悟境には、無機質以外の何ともいえない妙味を感じさせる。
釈迦という
いたずら者が世にいでて
多くの人を迷わするかな
これなどはその気高く自由な精神性と、それでいて遊び心が包含された傑作の一文ではないか思う。特に修行などしなくても、生活の中であきらめに似た小悟は何度か経験することがある。しかしその境地を常に維持できるほど、現実の生活は甘くない。透徹した悟境とそれを維持できる現実生活を調えることの難しさを日々感じさせる。
この作品で初めて坂口氏のことを知ったが、他の作品を読みたいと思って調べてみると、既にお亡くなりになっていて大変驚いた。ネットで調べてみるとやはり天才と言われた方であったようで、もともとはアニメーターとしても活躍されていたそうである。
特に第3巻(アフタヌーンKCデラックス版)の遊女もみじとの一連のやりとりは、坂口氏の創作エピソードだと思うが、この儚さの表現の仕方はまさしく天才的で、その画力と相まって胸にせまるものがある。この作品が遺作になってしまい、氏の新しい作品が読めないかと思うと残念でならない。ご冥福をお祈りいたします。
私は基本的に和モノの話が好きだが、特に禅宗には心惹かれるものを感じる。この作品で描かれる一休禅師は世間の基準で言えば破戒僧の最たるものだが、しかしそれでいてその悟境には、無機質以外の何ともいえない妙味を感じさせる。
釈迦という
いたずら者が世にいでて
多くの人を迷わするかな
これなどはその気高く自由な精神性と、それでいて遊び心が包含された傑作の一文ではないか思う。特に修行などしなくても、生活の中であきらめに似た小悟は何度か経験することがある。しかしその境地を常に維持できるほど、現実の生活は甘くない。透徹した悟境とそれを維持できる現実生活を調えることの難しさを日々感じさせる。
この作品で初めて坂口氏のことを知ったが、他の作品を読みたいと思って調べてみると、既にお亡くなりになっていて大変驚いた。ネットで調べてみるとやはり天才と言われた方であったようで、もともとはアニメーターとしても活躍されていたそうである。
特に第3巻(アフタヌーンKCデラックス版)の遊女もみじとの一連のやりとりは、坂口氏の創作エピソードだと思うが、この儚さの表現の仕方はまさしく天才的で、その画力と相まって胸にせまるものがある。この作品が遺作になってしまい、氏の新しい作品が読めないかと思うと残念でならない。ご冥福をお祈りいたします。
2006/8/9 | 投稿者: マルセタロー
銃夢 Last Order 第2巻でノヴァ教授のセリフ。
宿命というものは確かにある。
人は場所、時代、環境を選んで生まれる事はできない。
ゆえに生まれた瞬間にそれぞれの人間の生きる条件は
異なっている。それが宿命なのです。
そして世界が残酷なのは「当たり前」のことです。
生の始まりは化学反応に過ぎず
人間存在は記憶情報の影に過ぎず
魂は存在せず、精神は神経細胞の火花に過ぎず
神のいない無慈悲な世界で
たった一人で生きねばならないとしても
なお、我は意志の名の元に命じる。
生きよと
君はまだ若い。世界のカルマの負荷に膝を屈するのも
やむを得ぬかも知れない。
悪を目指すも良し、善を目指すも良し
道を探るのもいいでしょう
しかし、生きていなければ
どんな才能でも実を結ぶことは決してないのですよ
宿命というものは確かにある。
人は場所、時代、環境を選んで生まれる事はできない。
ゆえに生まれた瞬間にそれぞれの人間の生きる条件は
異なっている。それが宿命なのです。
そして世界が残酷なのは「当たり前」のことです。
生の始まりは化学反応に過ぎず
人間存在は記憶情報の影に過ぎず
魂は存在せず、精神は神経細胞の火花に過ぎず
神のいない無慈悲な世界で
たった一人で生きねばならないとしても
なお、我は意志の名の元に命じる。
生きよと
君はまだ若い。世界のカルマの負荷に膝を屈するのも
やむを得ぬかも知れない。
悪を目指すも良し、善を目指すも良し
道を探るのもいいでしょう
しかし、生きていなければ
どんな才能でも実を結ぶことは決してないのですよ
2006/7/4 | 投稿者: マルセタロー
宗教関連の本についてなんですが、文章がまとまらずに雑文ですがご容赦を…。
リンクの画像は文庫版なのでついていませんが、買った本には帯がついていまして、赤字で「カミさまは、たくさんいたほうがよい」と書かれています(笑)。このオビと表紙の写真で大勢の人が平伏している姿に、抗し難いファシズム的な要素を感じて買ってしまいました。本の内容は、著者の山口文憲氏が新宗教の各教団の本部を取材した様子をルポしたもので、雑誌『芸術新潮』に1990年から1995年まで連載されたものをまとめたものだそうです。
さて、私は特に大本教の信者ではありませんが(実家はプロテスタントのクリスチャンですし)、合気道をやっていたときに古神道や大本教に興味がでまして、それらに関連した本や、あとは大本から派生した、手かざし教団として名高い世界救世教や真光などについて書かれた本を結構読んでいました。あと、合気道の開祖・植芝盛平翁は晩年、「世界人類が平和でありますように」のピースポールで有名な白光真宏会の五井昌久氏と昵懇な間柄でしたので、それについても斜め読みする感じでした。
といっても教義そのものについて書かれた本をそれほど読み込んだ訳ではなく、どちらかというと教祖の生い立ちや教団の歴史について書かれた本ばかりでしたので、教団内部でどのような教義で、どのような信仰がなされているかは、ほとんど知らないままでした。
この本ではそういった教団の本部を訪ねて、一体いま現在どのような教義を信じて、どのような信仰をされているか、また本部の門前町の様子はどうなのか等を、かなり踏み込んで書かれているので、参考になるところが多かったです。
取材されている教団を書いておくと、天理教、金光教、大本、世界救世教、真如苑、善隣会(教)、崇教真光、天照皇大神宮教、出雲大社、辯天宗、伊勢神宮、生駒山系の神々、松緑神道大和山、いじゅん、となっていまして、名前だけは知っているところから、全く初めて聞く名前まで多種多様でした。
率直な感想としては、本当に色々な教団があるもんだなぁと、ある意味感心してしまいました。同じ大本教系ですら、すでに超能力的な要素を排除しつつある元祖・大本(ちなみに大本の本体も、現在は大きく3派に分かれています)もあれば、今でも浄霊や手かざし等の超能力的な手法を、教勢の維持に活用する世界救世教や真光(ちなみに真光も大きく2つに分かれていて、崇教真光と世界真光文明教団があります)もあったりして、その拠って立つところは千差万別で、何でもアリの様相を呈しています。
まあ、宗教に奇蹟はつきものということで、現代のレイキなどの隆盛も考えると、やはり高尚な教え一本槍よりは、現世利益や奇蹟、超能力を売りにした方が、教団としての勢いはあるかな、という印象です。
あと、なにやら信仰というと、一生をかけて貫くべき道と固く考えがちですが、そのような価値観はとっくに崩壊していて、自分にあったものが見つかるまでは、宗教ジプシーを続けるのが、今の日本の宗教のトレンドだということなんでしょうね。
今では2ちゃんねるなどで、眩暈がするほどの大量の情報が溢れていますが(余談ですが、2ちゃんねるなどを読んでいると、悪意に共鳴するといいますか、エラク肩がこったり、重〜い気分になったりしますね。ほとほどにせねば…)、自分が信じようとする宗教ですから、ある程度の下調べをして入信するぐらいの常識は持ちたいものです。教えはともかく、金銭的な面と、社会常識的な面をある程度チェックすれば、その教団の性格は自ずと分かるでしょうから。
そうそう、本の中は結構面白い内容もあり、ツボにはまったものもあります。特に金光教の現教主(取材当時の)が出されている歌集について書かれた文章はふきだしました。年間2600首以上を多作されていて、歌集を多数出版されている教主ですが、昭和63年当時の短歌の内容は、8割までが相撲、野球、昭和天皇のご病状ということで、ネタ元がほとんどテレビらしいです(笑)。例えば「ガリクソン鹿取とつなぎ中日に一点差守り今日も巨人勝つ」という感じで、なんか宗教と全然関係ないやんと思いますが、ここまで潔い?と逆に感心してしまいます(笑)。
他にも各教団の教義などで、突っ込みどころ満載の本書ですが、長くなってきましたので、この辺で。あ、出雲大社について書かれているところは、国津神系にご興味がある方なら、一度目を通されると参考になるかと思います。
リンクの画像は文庫版なのでついていませんが、買った本には帯がついていまして、赤字で「カミさまは、たくさんいたほうがよい」と書かれています(笑)。このオビと表紙の写真で大勢の人が平伏している姿に、抗し難いファシズム的な要素を感じて買ってしまいました。本の内容は、著者の山口文憲氏が新宗教の各教団の本部を取材した様子をルポしたもので、雑誌『芸術新潮』に1990年から1995年まで連載されたものをまとめたものだそうです。
さて、私は特に大本教の信者ではありませんが(実家はプロテスタントのクリスチャンですし)、合気道をやっていたときに古神道や大本教に興味がでまして、それらに関連した本や、あとは大本から派生した、手かざし教団として名高い世界救世教や真光などについて書かれた本を結構読んでいました。あと、合気道の開祖・植芝盛平翁は晩年、「世界人類が平和でありますように」のピースポールで有名な白光真宏会の五井昌久氏と昵懇な間柄でしたので、それについても斜め読みする感じでした。
といっても教義そのものについて書かれた本をそれほど読み込んだ訳ではなく、どちらかというと教祖の生い立ちや教団の歴史について書かれた本ばかりでしたので、教団内部でどのような教義で、どのような信仰がなされているかは、ほとんど知らないままでした。
この本ではそういった教団の本部を訪ねて、一体いま現在どのような教義を信じて、どのような信仰をされているか、また本部の門前町の様子はどうなのか等を、かなり踏み込んで書かれているので、参考になるところが多かったです。
取材されている教団を書いておくと、天理教、金光教、大本、世界救世教、真如苑、善隣会(教)、崇教真光、天照皇大神宮教、出雲大社、辯天宗、伊勢神宮、生駒山系の神々、松緑神道大和山、いじゅん、となっていまして、名前だけは知っているところから、全く初めて聞く名前まで多種多様でした。
率直な感想としては、本当に色々な教団があるもんだなぁと、ある意味感心してしまいました。同じ大本教系ですら、すでに超能力的な要素を排除しつつある元祖・大本(ちなみに大本の本体も、現在は大きく3派に分かれています)もあれば、今でも浄霊や手かざし等の超能力的な手法を、教勢の維持に活用する世界救世教や真光(ちなみに真光も大きく2つに分かれていて、崇教真光と世界真光文明教団があります)もあったりして、その拠って立つところは千差万別で、何でもアリの様相を呈しています。
まあ、宗教に奇蹟はつきものということで、現代のレイキなどの隆盛も考えると、やはり高尚な教え一本槍よりは、現世利益や奇蹟、超能力を売りにした方が、教団としての勢いはあるかな、という印象です。
あと、なにやら信仰というと、一生をかけて貫くべき道と固く考えがちですが、そのような価値観はとっくに崩壊していて、自分にあったものが見つかるまでは、宗教ジプシーを続けるのが、今の日本の宗教のトレンドだということなんでしょうね。
今では2ちゃんねるなどで、眩暈がするほどの大量の情報が溢れていますが(余談ですが、2ちゃんねるなどを読んでいると、悪意に共鳴するといいますか、エラク肩がこったり、重〜い気分になったりしますね。ほとほどにせねば…)、自分が信じようとする宗教ですから、ある程度の下調べをして入信するぐらいの常識は持ちたいものです。教えはともかく、金銭的な面と、社会常識的な面をある程度チェックすれば、その教団の性格は自ずと分かるでしょうから。
そうそう、本の中は結構面白い内容もあり、ツボにはまったものもあります。特に金光教の現教主(取材当時の)が出されている歌集について書かれた文章はふきだしました。年間2600首以上を多作されていて、歌集を多数出版されている教主ですが、昭和63年当時の短歌の内容は、8割までが相撲、野球、昭和天皇のご病状ということで、ネタ元がほとんどテレビらしいです(笑)。例えば「ガリクソン鹿取とつなぎ中日に一点差守り今日も巨人勝つ」という感じで、なんか宗教と全然関係ないやんと思いますが、ここまで潔い?と逆に感心してしまいます(笑)。
他にも各教団の教義などで、突っ込みどころ満載の本書ですが、長くなってきましたので、この辺で。あ、出雲大社について書かれているところは、国津神系にご興味がある方なら、一度目を通されると参考になるかと思います。
2006/5/20 | 投稿者: マルセタロー
えー、先日また徹夜しまして、ハリー・ポッターの第6巻「ハリ・ポッターと謎のプリンス」を読了しましたので、ネタバレしない程度に書いておきます。
まず、ファンとしては「あー面白かった」&「早よ続きを書いてくれ」というのが正直なところです。今回も前作、前々作に引き続いて重要人物との悲しい別れがあり、また「ビバリーヒルズ高校白書」並の青くさーい恋愛模様もテンコ盛りです(青臭いですが、これが結構面白いんですねぇ)。あと、いつも巻末に登場する翻訳者の松岡節も健在で、松岡氏のでしゃばり具合には、最近慣れてしまって、脱線具合が楽しみになってきました。
ファンゆえの意見でしょうが、作者のローリング氏の伏線の張り方は、毎回感心させられます。読者の予想をはずしながら、それでいてうまく着地させるのは見事です。今回も「謎のプリンス」(原題では「the half-blood prince」ですから、正確には「混血のプリンス」ですが、日本語版はローリング氏の許可を得て「謎のプリンス」にしたとのこと)ですから、てっきりヴォルデモート卿かと思いきや、意外な人物がプリンスの正体だったりしますし、あと最重要人物が亡くなりましたので、ますます最終巻の展開から目が離せなくなりました。
考えてみると、最近はフィクションをあまり読んでいませんし(読んだものといえば、ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」と「天使と悪魔」ぐらいです)、続きものとなると、本当にハリー・ポッターぐらいです。昔はSF(サイバー・パンク物や、R.A.ハインラインとか好きでしたねぇ)やファンタジーもちょくちょく読んでいましたが、最近はサッパリです。多分読めば面白いんでしょうが、あまり読みたいと思わなくなりましたね。年なんですかねぇ…(^_^;)
さて、ハリー・ポッターも次が最終巻ですが、どのような結末が用意されているのか非常に楽しみです。といっても、また2,3年後になるんでしょうね・・。それぐらいになると、前巻の話の記憶がかなり曖昧になってしまって、思い出すのに結構苦労するんですね、これが(苦笑)
まず、ファンとしては「あー面白かった」&「早よ続きを書いてくれ」というのが正直なところです。今回も前作、前々作に引き続いて重要人物との悲しい別れがあり、また「ビバリーヒルズ高校白書」並の青くさーい恋愛模様もテンコ盛りです(青臭いですが、これが結構面白いんですねぇ)。あと、いつも巻末に登場する翻訳者の松岡節も健在で、松岡氏のでしゃばり具合には、最近慣れてしまって、脱線具合が楽しみになってきました。
ファンゆえの意見でしょうが、作者のローリング氏の伏線の張り方は、毎回感心させられます。読者の予想をはずしながら、それでいてうまく着地させるのは見事です。今回も「謎のプリンス」(原題では「the half-blood prince」ですから、正確には「混血のプリンス」ですが、日本語版はローリング氏の許可を得て「謎のプリンス」にしたとのこと)ですから、てっきりヴォルデモート卿かと思いきや、意外な人物がプリンスの正体だったりしますし、あと最重要人物が亡くなりましたので、ますます最終巻の展開から目が離せなくなりました。
考えてみると、最近はフィクションをあまり読んでいませんし(読んだものといえば、ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」と「天使と悪魔」ぐらいです)、続きものとなると、本当にハリー・ポッターぐらいです。昔はSF(サイバー・パンク物や、R.A.ハインラインとか好きでしたねぇ)やファンタジーもちょくちょく読んでいましたが、最近はサッパリです。多分読めば面白いんでしょうが、あまり読みたいと思わなくなりましたね。年なんですかねぇ…(^_^;)
さて、ハリー・ポッターも次が最終巻ですが、どのような結末が用意されているのか非常に楽しみです。といっても、また2,3年後になるんでしょうね・・。それぐらいになると、前巻の話の記憶がかなり曖昧になってしまって、思い出すのに結構苦労するんですね、これが(苦笑)
2006/5/8 | 投稿者: マルセタロー
最近は読書の傾向がちょっと偏っておりまして、俄かに東洋モードに入っています。その火付け役は謝明徳(マンタク・チャ)氏の一連の著作です。たまたま東洋医学のコーナーで立ち読みしまして、ハマってしまいました。ここでは「タオ人間医学」のリンクを貼っていますが、その他にも「気内臓療法」「鉄布衫功」「タオ性科学」「五行帰一」等の本が翻訳されていまして、そのどれもが非常に興味深い内容です。しかし、どれも医学書というか、専門書のノリで結構なお値段だったりするんですが・・。最初は図書館で借りて読もうかと思いましたが、読み始めるとどれも手元に置いておきたくて、結局購入してしまいました。
ちょっと話は横道に逸れますが、京都の図書館はかなりショボイです。知り合いに大阪の府立図書館をよく使われている方がいるんですが、聞いているとあちらの方が使い勝手も蔵書量も相当上です。京都の府立図書館は平安神宮のすぐ近くという、緑に囲まれたなかなか良いロケーションにありますが、蔵書のほとんどが倉庫に入っているので、受付でその本を出してもらわないといけないので、そもそもその本の存在を知らないと、手に取ることが出来ません。ですので本との偶然の出逢いがなかなか無い訳です。しかも私がよく読むいわゆる精神世界系や宗教系、武術系は蔵書量がイマイチでして、インターネットから蔵書の検索は可能なんですが、検索してもガックリくることが多いです。
しかもついでに書いておくと、ネットから予約できないお粗末さで、建物は立派ですが(税金の無駄遣いさを感じるバブリーな作りをしています)、お役所仕事だよなぁと行くたびに思ってしまいます。あと、市立図書館でも府立図書館でも寝てる人がやたら多い。机やソファで熟睡している人を見るたびに、仮眠室か雑魚寝する部屋でも作った方がいいんじゃないかと思ってしまいます(っていうか「寝るんやったら、家で寝ろよ!」と本当は言いたい訳なんですが…(^^;)
話を戻しまして、謝明徳氏の経歴ですが、タイ出身の中国人の方です(1944年生まれ。ご両親が中国人)。幼少の頃から仏教式の瞑想やムエタイ、太極拳等を学ばれ、その後、香港で過ごされた学生時代に本格的にタオの老師に師事されて、小周天などのタオの技法を習得されました。また20代以降はシンガポールやタイで別の老師に師事されて、クンダリーニヨガや気内臓療法、少林・内勁法等の伝授を受け、またヒーリングエネルギーの背後にあるメカニズムを深く理解するために、西洋医学と解剖学も専門に学ばれています。その後、ヒーリング・タオ・システム(後にユニーバーサル・タオ・システムに改称)として技法を確立され、タイにセンターを設立。1979年にはニューヨークにもセンターを創設され、現在では世界中に広がりを見せています(ちなみに一連の著作はアメリカで出版された英語の本で、「タオ人間医学」の日本語訳の監修は帯津良一氏がされています)。
もともと私は高藤聡一郎氏の著作で仙道や気功に興味を持ったくちですので、この手の本も何冊か読んでいますが、その中でも謝明徳氏の著作はそのわかりやすさ(ココ強調!)と、内容の深さは今まで読んだ中ではダントツです(お値段も…)。この手の関係では、東洋文庫に入っているアンリ・マスペロ著「道教」や、人文書院からでているR・ヴィルヘルム著「黄金の華の秘密」も読んでいますが、かなり高尚な感じでとっつきにくく、説明も抽象的です(大滝秀治風にいうと「おまえの話はつまらん!」と言いたくなるような…)。しかし、謝明徳氏の著作は打って変わって、やたらと?わかりやすく、その技法体系・説明が理路整然かつ具体的です。
本の内容を本当にざっくり書くと、小周天や内笑瞑想、六字訣といった技法の説明といえますが、その中でちりばめられている知識が結構驚くようなものが多いんです。最近、他の本でEMDRに関する内容を読んでいましたから「マインドと目のつながりに関する」箇所を読んだ時には「やっぱりそうなんかー!!」と思いましたし、あと松果体と視床下部が北極星・北斗七星と関連づけられているところ等は、私的にはかなりツボだったりしました(これはタロットカードの7番「戦車」とも関係が非常に深いです)。
しかし現在、自室で木刀を振りながら熟読しているのは「鉄布衫功」(てっぷざんこう)という、謝明徳氏の気功に関する著作だったりしまして、これについては後日まとめたいと思います。
ちょっと話は横道に逸れますが、京都の図書館はかなりショボイです。知り合いに大阪の府立図書館をよく使われている方がいるんですが、聞いているとあちらの方が使い勝手も蔵書量も相当上です。京都の府立図書館は平安神宮のすぐ近くという、緑に囲まれたなかなか良いロケーションにありますが、蔵書のほとんどが倉庫に入っているので、受付でその本を出してもらわないといけないので、そもそもその本の存在を知らないと、手に取ることが出来ません。ですので本との偶然の出逢いがなかなか無い訳です。しかも私がよく読むいわゆる精神世界系や宗教系、武術系は蔵書量がイマイチでして、インターネットから蔵書の検索は可能なんですが、検索してもガックリくることが多いです。
しかもついでに書いておくと、ネットから予約できないお粗末さで、建物は立派ですが(税金の無駄遣いさを感じるバブリーな作りをしています)、お役所仕事だよなぁと行くたびに思ってしまいます。あと、市立図書館でも府立図書館でも寝てる人がやたら多い。机やソファで熟睡している人を見るたびに、仮眠室か雑魚寝する部屋でも作った方がいいんじゃないかと思ってしまいます(っていうか「寝るんやったら、家で寝ろよ!」と本当は言いたい訳なんですが…(^^;)
話を戻しまして、謝明徳氏の経歴ですが、タイ出身の中国人の方です(1944年生まれ。ご両親が中国人)。幼少の頃から仏教式の瞑想やムエタイ、太極拳等を学ばれ、その後、香港で過ごされた学生時代に本格的にタオの老師に師事されて、小周天などのタオの技法を習得されました。また20代以降はシンガポールやタイで別の老師に師事されて、クンダリーニヨガや気内臓療法、少林・内勁法等の伝授を受け、またヒーリングエネルギーの背後にあるメカニズムを深く理解するために、西洋医学と解剖学も専門に学ばれています。その後、ヒーリング・タオ・システム(後にユニーバーサル・タオ・システムに改称)として技法を確立され、タイにセンターを設立。1979年にはニューヨークにもセンターを創設され、現在では世界中に広がりを見せています(ちなみに一連の著作はアメリカで出版された英語の本で、「タオ人間医学」の日本語訳の監修は帯津良一氏がされています)。
もともと私は高藤聡一郎氏の著作で仙道や気功に興味を持ったくちですので、この手の本も何冊か読んでいますが、その中でも謝明徳氏の著作はそのわかりやすさ(ココ強調!)と、内容の深さは今まで読んだ中ではダントツです(お値段も…)。この手の関係では、東洋文庫に入っているアンリ・マスペロ著「道教」や、人文書院からでているR・ヴィルヘルム著「黄金の華の秘密」も読んでいますが、かなり高尚な感じでとっつきにくく、説明も抽象的です(大滝秀治風にいうと「おまえの話はつまらん!」と言いたくなるような…)。しかし、謝明徳氏の著作は打って変わって、やたらと?わかりやすく、その技法体系・説明が理路整然かつ具体的です。
本の内容を本当にざっくり書くと、小周天や内笑瞑想、六字訣といった技法の説明といえますが、その中でちりばめられている知識が結構驚くようなものが多いんです。最近、他の本でEMDRに関する内容を読んでいましたから「マインドと目のつながりに関する」箇所を読んだ時には「やっぱりそうなんかー!!」と思いましたし、あと松果体と視床下部が北極星・北斗七星と関連づけられているところ等は、私的にはかなりツボだったりしました(これはタロットカードの7番「戦車」とも関係が非常に深いです)。
しかし現在、自室で木刀を振りながら熟読しているのは「鉄布衫功」(てっぷざんこう)という、謝明徳氏の気功に関する著作だったりしまして、これについては後日まとめたいと思います。
2006/3/1 | 投稿者: マルセタロー
イギリスでは「レンヌ・ル・シャトーの謎」の著者が「ダ・ヴィンチ・コード」の著者を訴えたところでもあるので、ホットな話題である「マグダラのマリアと聖杯」の続きをまとめようと思ったが、俄かに心理療法関連の本を何冊が読み始めてしまい、関心がそちらに移ってしまった。といってもなかなかまとまる内容でもないので、雑感を少し述べておく。
予めお断りしておくが、私は精神科医に対して良い印象を持っていない。確かに世の中には患者のために尽くしている精神科医も多くいるだろうと思うが、どうも自分の周りの人達で精神科医に関係した話などを聞くと、違和感を感じて仕方がない。なにやら問題のすり替えというか、一種の依存関係を作り出すだけで、根本的にその人を治そうとする気があるのかどうか疑問に思ってしまう。
最近はテレビのCMなどでも、鬱の症状があれば早めに医者にかかりましょう、などと流れているが、確かに症状によっては、処方された向精神薬が劇的に症状の緩和に役立つこともある。しかし、これにはかなり個人差があるので、なにか人体実験をしているように感じられるのは私だけだろうか。実は知り合いでも、何年も精神科にかかった挙句、結局は自殺という結末を迎えて、未だにそのやりきれなさが胸に残っている。
カウンセリングや認知療法などについても、結局、長期間深層心理をほじくり返したとしても、人間の心理は広大で掘っても掘っても掘りつくせるようなものではないので、あまり治療になっていないように感じられる。そんな中で、上記の本はこういった治療について考えさせてくれるものだった。
簡単に上記の本について紹介しておくと『危ない精神分析』はジュディス・ルイ・ハーマン著『心的外傷と回復』が発表されてから世界的に起こった現象を紹介している。『心的外傷と回復』が世界的に一大ブームを巻き起こしたときに「カウンセリングを受けて、今まで抑圧し忘れていた、幼児期に父親から受けた虐待」を女性が告訴告発するケースが多発したそうである。それは社会的に一大論争を巻き起こしたが、なんと次に「ありもしなかった偽りの記憶を植えつけられた」として精神科医やカウンセラーを医療過誤で訴えるという展開になったとのこと。その顛末が詳しく語られている。
『洗脳護身術』はオウム真理教信者の脱洗脳で有名な苫米地英人氏の著作で、心理療法とは若干距離があるものとは思うが、洗脳とは一体なんなのかというところがかなり詳しく述べられている。また本書で説明されている、変性意識、内部表現、ホメオスタシスに関する内容は洗脳だけに限らず、心理療法などでも非常に関係が深い。
『最新心理療法』はEMDR、臨床催眠、エリクソン催眠、イメージ療法、TFT等の臨床技法の実例を数多く紹介している。中でも、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)と、TFT(経絡上のツボを2〜3分軽く叩くだけで、さまざまな心理的苦痛を解消するセラピー)は、整体の考え方ともリンクするところがあるので注目している。
トラウマやPTSD(外傷後ストレス障害)は、ある面その人の自我を崩壊から守っているところがあるので、それを外してしまうのが全て治療になるとはいえないが(無理に外すとパニック障害などがでるケースがある)、しかし従来の心理療法や薬づけになるよりは、よほど効果が期待できるように感じられる。もう少しこれらの療法を早く知っていればと悔やまれる・・。
2006/2/11 | 投稿者: マルセタロー
世間では甲野善紀氏をはじめとして、古武術がちょっとしたブームになっているようである。この本の著者・河野智聖氏も、もともとは武術畑の人だが、それを整体と融合されて、今は「自由人ネットワーク」という武術や健康法を指導する団体を主宰しておられる。
河野氏が学ばれた整体は一般的には「野口整体」といわれるものだが(厳密には野口整体の創始者・野口晴哉氏の弟子にあたる岡島瑞徳氏から学ばれている)、この野口整体は知名度の割には、なかなかその内容がよく分からない。
よく分からないというと、自分が分からないだけなので語弊があるが、野口晴哉氏は一種の天才だった方だが、その残した体系はかなり膨大で、しかも気の感覚に踏み込んだ微妙なものが多く、話を聞いたり本を読むとそれなりに納得できるのだが、実際に体感できるか、となると一筋縄でいくようなものではないためである。
そんな中、本書では著者自身の研究を取り入れつつ、主に腰椎とよばれる5つの椎骨に焦点を絞って解説がされている。私自身、この腰椎の考え方はかなり感覚と合致しており、自分の体調や動きの観察に重宝しているところがある。簡単にまとめると以下のようになる(L1は腰椎1番を表す。Lは腰椎=lumbalesの略称)
L1 上下運動を支配。頭の働きや頸の動きに関係する。
神経系
L2 左右運動を支配。感情と関係する。消化器系
L3 捻れ運動を支配。闘争心と関係する。泌尿器系
L4 骨盤の開閉運動を支配。直感や本能と関係する。
生殖器系
L5 前後運動を支配。走る・リズム感などと関係する。
呼吸器系
これらの分類は他の野口整体の本の見方とほぼ一致している。この本の面白いところは、この5つの腰椎のどこに焦点を当てるかによって、国や民族の特徴を捉えるのに使っているところである。これは必ずあてはまるとはいえないが、大枠としては当たっているのではないかと思う。
L1 アングロサクソン系
L2 フランス人、中国人
L3 韓国人やラテン系
L4 日本人
L5 黒人
腰椎の得意分野を類型することによって、何に焦点をあてて物事を捉えるか、また得意とする動きやスポーツがある程度分類できてくる。例えば、L1ならバレーボールやバスケットボール、または高跳などのジャンプ系の能力を発揮するのに役立つし、L2に焦点がある中国やフランスは、共に食文化が豊かで、情緒面においても豊かな面を持つ、という具合である。
日本人はというと動きの中心はL4となり、これは民族衣装やアイテムにも影響を及ぼす。例えば、ヘソ下に帯を巻くことや、草履や足袋、着物なども腰椎4番に意識が集中するように構成されているとのこと。L4に意識を置くと跳ね上がったり、足を高く上げる動作がやりにくくなり、足は自然とすり足になってくる。運動にみる典型的な例としては、バレエのようにつま先立ちで足を跳ね上げる動作ではなく、日舞や歌舞伎のように腰を落として、身体の意識を地に向ける舞が発達することに表われてくる。
現代は非常にボーダーレスとなってきているし、日本人の中でも様々なタイプがいるので、必ずしもあてはまらないかも知れないが、その民族固有の文化については、なかなかよく表現できている体系だと思う。
また本書の後半では、仙椎に関する解説や、何種類かの生理現象と感受性についてもまとめられている。心身一如とよく言われるが、ただの印象論や根性論だけではなく、ある程度客観的に自分の感情と身体のつながりを知る手がかりとなる一冊である。
河野氏が学ばれた整体は一般的には「野口整体」といわれるものだが(厳密には野口整体の創始者・野口晴哉氏の弟子にあたる岡島瑞徳氏から学ばれている)、この野口整体は知名度の割には、なかなかその内容がよく分からない。
よく分からないというと、自分が分からないだけなので語弊があるが、野口晴哉氏は一種の天才だった方だが、その残した体系はかなり膨大で、しかも気の感覚に踏み込んだ微妙なものが多く、話を聞いたり本を読むとそれなりに納得できるのだが、実際に体感できるか、となると一筋縄でいくようなものではないためである。
そんな中、本書では著者自身の研究を取り入れつつ、主に腰椎とよばれる5つの椎骨に焦点を絞って解説がされている。私自身、この腰椎の考え方はかなり感覚と合致しており、自分の体調や動きの観察に重宝しているところがある。簡単にまとめると以下のようになる(L1は腰椎1番を表す。Lは腰椎=lumbalesの略称)
L1 上下運動を支配。頭の働きや頸の動きに関係する。
神経系
L2 左右運動を支配。感情と関係する。消化器系
L3 捻れ運動を支配。闘争心と関係する。泌尿器系
L4 骨盤の開閉運動を支配。直感や本能と関係する。
生殖器系
L5 前後運動を支配。走る・リズム感などと関係する。
呼吸器系
これらの分類は他の野口整体の本の見方とほぼ一致している。この本の面白いところは、この5つの腰椎のどこに焦点を当てるかによって、国や民族の特徴を捉えるのに使っているところである。これは必ずあてはまるとはいえないが、大枠としては当たっているのではないかと思う。
L1 アングロサクソン系
L2 フランス人、中国人
L3 韓国人やラテン系
L4 日本人
L5 黒人
腰椎の得意分野を類型することによって、何に焦点をあてて物事を捉えるか、また得意とする動きやスポーツがある程度分類できてくる。例えば、L1ならバレーボールやバスケットボール、または高跳などのジャンプ系の能力を発揮するのに役立つし、L2に焦点がある中国やフランスは、共に食文化が豊かで、情緒面においても豊かな面を持つ、という具合である。
日本人はというと動きの中心はL4となり、これは民族衣装やアイテムにも影響を及ぼす。例えば、ヘソ下に帯を巻くことや、草履や足袋、着物なども腰椎4番に意識が集中するように構成されているとのこと。L4に意識を置くと跳ね上がったり、足を高く上げる動作がやりにくくなり、足は自然とすり足になってくる。運動にみる典型的な例としては、バレエのようにつま先立ちで足を跳ね上げる動作ではなく、日舞や歌舞伎のように腰を落として、身体の意識を地に向ける舞が発達することに表われてくる。
現代は非常にボーダーレスとなってきているし、日本人の中でも様々なタイプがいるので、必ずしもあてはまらないかも知れないが、その民族固有の文化については、なかなかよく表現できている体系だと思う。
また本書の後半では、仙椎に関する解説や、何種類かの生理現象と感受性についてもまとめられている。心身一如とよく言われるが、ただの印象論や根性論だけではなく、ある程度客観的に自分の感情と身体のつながりを知る手がかりとなる一冊である。
2006/2/8 | 投稿者: マルセタロー
これはユダヤ教の概略を知るために参考になった。「ユダヤ教」の名前はよく知られているが、その内容はよく知られているとはいいがたい。学研のこのシリーズは他の宗派の本に関しても比較的偏りなく、よくまとまっていると思う。
前半は主に聖書に基づいて、ユダヤ民族がどのような歴史を辿ってきたかがまとめられている。また古代から現代にかけての歴史についてもまとめられているが、その道程は困難を極めており、そのような状況のなかで深化していった信仰の歴史が伺える。
私は元々クリスチャンであったので、聖書にもある程度なじみがあったが、聖書にあまりなじみのない方はどのような印象を持たれるだろうか?遠い神話の世界のように感じられるかも知れないが、ユダヤ民族にとっては紛れもない事実なのである。
また、タロットともよく関連づけられるカバラ(ユダヤ神秘主義)の歴史についても纏められている。ここで一旦話は横道にそれるが、タロットとカバラの関係について触れておきたい。
現在まるで周知のごとく、タロットとカバラは関連づけて語られるが、実は両者が結びつけられた歴史は比較的新しく、19世紀中葉のエリファス・レヴィ「高等魔術の教理と祭儀」が発端となっている。レヴィ自身は複雑な経歴を辿った人物であるが、ユダヤ教の正統なカバラを学んだわけではなく、おそらく17世紀ドイツのアタナシス・キルヒャー「エジプトのオイディプス」からヒントを得て、タロットとカバラを結びつけたと考えられているようである(伊泉龍一「タロット大全」P.175より)。
しかし、ここでいうカバラとは、もともとの聖書の解釈学としてのものではなく、3〜6世紀頃に成立した「セフェール・イェツィラー(形成の書)」等に基づく世界共通の解釈学を指し、ユダヤ教のカバラとは厳密には区別されている。
話がそれてしまったが、ユダヤ教には様々な戒律が存在し、またそれが現在でも守られているが、これは非常に苦難の歴史を辿ってきたユダヤ人が、自分達の民族としてのアイデンティティを守るためにも必要であったことを思わせる。また、現在のイスラエル、パレスチナ問題の根の深さについても考えさせられる一冊である。
前半は主に聖書に基づいて、ユダヤ民族がどのような歴史を辿ってきたかがまとめられている。また古代から現代にかけての歴史についてもまとめられているが、その道程は困難を極めており、そのような状況のなかで深化していった信仰の歴史が伺える。
私は元々クリスチャンであったので、聖書にもある程度なじみがあったが、聖書にあまりなじみのない方はどのような印象を持たれるだろうか?遠い神話の世界のように感じられるかも知れないが、ユダヤ民族にとっては紛れもない事実なのである。
また、タロットともよく関連づけられるカバラ(ユダヤ神秘主義)の歴史についても纏められている。ここで一旦話は横道にそれるが、タロットとカバラの関係について触れておきたい。
現在まるで周知のごとく、タロットとカバラは関連づけて語られるが、実は両者が結びつけられた歴史は比較的新しく、19世紀中葉のエリファス・レヴィ「高等魔術の教理と祭儀」が発端となっている。レヴィ自身は複雑な経歴を辿った人物であるが、ユダヤ教の正統なカバラを学んだわけではなく、おそらく17世紀ドイツのアタナシス・キルヒャー「エジプトのオイディプス」からヒントを得て、タロットとカバラを結びつけたと考えられているようである(伊泉龍一「タロット大全」P.175より)。
しかし、ここでいうカバラとは、もともとの聖書の解釈学としてのものではなく、3〜6世紀頃に成立した「セフェール・イェツィラー(形成の書)」等に基づく世界共通の解釈学を指し、ユダヤ教のカバラとは厳密には区別されている。
話がそれてしまったが、ユダヤ教には様々な戒律が存在し、またそれが現在でも守られているが、これは非常に苦難の歴史を辿ってきたユダヤ人が、自分達の民族としてのアイデンティティを守るためにも必要であったことを思わせる。また、現在のイスラエル、パレスチナ問題の根の深さについても考えさせられる一冊である。