ちびとアタシが同じ幼稚園を卒園しているということに関わる不思議なご縁?
まず、アタシが小学校一年生まで住んでいたところにこの幼稚園はあります。武家屋敷の中にある幼稚園です。金沢の街の真ん中にあります。
100年の歴史を持つこの幼稚園もアタシが通っていた頃はまだ60年ちょいの歴史だった頃ですね(∩_∩)ゞ
そして、その園を卒園して小学校2年生になる時に、今の実家のあるところ(国際ホテルまでは行かないがその近辺)に引っ越してそれからは全くの無縁な場所となります。
全く無縁となりながら、アタシは結婚して子供を生みます。まず、にいちゃんが生まれます。彼の幼稚園を探す頃には、彼の障害には気づいています。だから、「2年保育がいいか?3年保育がいいか?」「普通の幼稚園がいいか専門のところがいいのか?」等と悩む時期もありました。
インターネットとは当時は言わなかった・・・当時は「パソコン通信」といっていた世界に、ちょうどその少し前から、どっぷり浸っていたアタシ(なので、ネットの世界はもうかなり長いんですわ。アタシ)
○フティのいろいろなフォーラムに所属して、いろいろな悩みを相談したり、小学館のマフィンという雑誌が今で言うサイトのようなものを持っていて、そこにアクティブに参加して楽しんだり(マフィンに書いたものが取り上げられたり、家族の写真入で紹介されて載ったこともあったっけ・・・)
そういう時間も、少し生活の一部分に持っていた頃でした。
その○フティのフォーラムで出会った方に『
玉井真理子』さんと言うかなりその方面では有名な方だと思うのですが・・・今は山梨大学の助教授をされているかと・・・パソコン通信の世界ではハンドルネームと中味がすべての世界でしたから・・・当時すでに著書を出されるくらいの方だったのに、タメの立場で、いろいろと相談に乗ってくださり、何通やり取りを続けたことでしょうか?(ずっと後になって、すごい有名な方だったと知り、タメでやり取りしていたことを恥じる時期が来ます・・・笑)玉井さんが「ネットでこんなにやりとりしているのだからもう見ず知らずじゃないわ」なんて言ってくださったり・・・ということもありました。
玉井さんにもダウン症のお子さんがいらして、奇しくも漢字は違うのですがにいちゃんと同じ名前だったりして、「2年保育でいいわ」って決めかかっていた頃に「集団の中に入れたらいいよ。3年にしなさいよ」とアドバイスをしてくれたのが玉井さんでした。
玉井さんのご主人は発達障害を取り上げたNHKなどの番組によくゲストで出ておられる方です。
「3年に」のアドバイスだけではなく、「学会でよく話をして親しくしている金沢の人の奥さんが園長をしている幼稚園で障害のある子を受け入れているから電話してあげる」と言って、連絡を取ってくださりどきどきしながら電話をしたのが、アタシの出た幼稚園。そしてその園長先生がかの有名なY子先生なのです。はい、ですから玉井先生の知り合いの・・・というのはM先生ですね(-^.^-)
残念ながら、3年に思いなおした時期がすでに園児募集開始からずいぶんたっていたので、にいちゃんはアタシの卒園した幼稚園には入れませんでした。その時代それまで1名だった障害児を2名取る事になった時期だったから尚無理でした。でも、にいちゃんには金沢市立の療育センターの園に通うことになります。にいちゃんにはそこがよかったと思っています。
にいちゃんはY子先生の園には入れませんでしたが、そこの障害児のお母さん達の勉強会誘っていただくことになります。当時は外部の親の参加は特例だったのです。その勉強会に月一回の頻度で通うことになります。
そして、ちびも幼稚園の時代にはいります。
ちびはちびでネフローゼなどに罹ってしまい、無事退院は出来たけれど翌年の春にまだ集団に入るのは免疫力が回復できなければ無理だと言う頃に入園の申し込みをすることになります。ちびも、言葉が遅かったり、今もですがコミュニケーションの力が劣っていました。でも、病気のこと、発達が少し遅いことということを理解していただいてその頃住んでいた家の近くの保育園に通うことになります。
ちびが入院する頃からY子先生の幼稚園の勉強会へはなかなか参加できなくなって遠ざかっています。
そして、ちびは保育園に一年半程通うようになるのですが、加配をつけてくれたりということはしてくれるのですが、一向にお客様扱い。行事のあるときは親が行くか休ませるか?状態。保育園なのに給食を食べたら昼寝前に帰るという、おやつも一度も食べたことのない生活が続きます。
いつになったら、もう少し違うのになるのか・・・と思いながらいたけれどとうとう「ここにいたら、ちびは伸びない・・・」とそう思っていたときに、ちびが生まれる前に公園で親しくなったお母さんが、でもその頃は引越しもしてしまったしほとんど行き来がなくなっていたのに「私の友達の子供が行っている園が大丈夫かもしれない」って話を持ってきてくれることになります。
はい そうです。その園がまた、Y子先生のあの幼稚園だったのです。
そこで、そのお友達にも一応連絡していただいて、しばらく勉強会からも遠ざかっていた園に再び足を運ぶことになります。
そして、にいちゃんの時に受け入れてやれなかったことを申し訳なく思っていたらしい経緯もあり、ちびの転園が決まります。
余談ですが、この幼稚園は武家屋敷近辺の細い道路の、一方通行だらけのところにあります。当時 オデッセイに乗っていたアタシは、実はこの園に勉強会に参加するのに行くのが命がけでした(笑)怖かったのよ・・・でも、にいちゃんが今の学校の小学部に合格できたときに、やはり学校の近辺も路地なので、軽自動車を通学用に買ってもらって乗り回すようになっていて幼稚園の周りの道路もOKになっていたのも運がよかったのかもしれません(笑)
残りの幼稚園時代の1年半を、ちびは先生やお友達に恵まれ、のびのびと楽しく過ごすことになります。そのまま最初の保育園を出ていたら・・・今のちびはいなかったかもしれないと思っています。
そうして、母子二代で卒園生となったのです。
ちびが通い、卒園した関係で、今幼稚園のサイトの作成・管理。園児募集のポスター作成などの有償ボランティアの仕事が入り、引き続きずっと縁が繋がったままでいます。にいちゃんが3歳の頃からだから、もう12〜3年のお付き合いになっているわけです。
玉井先生と知り合いだったと言うM先生は石川県の障害児のほとんどと面接されている先生で、実は「にいちゃんのことを知っていたのだと言っていた」と後でY子先生から聞いたこともあります。昨年はにいちゃんの学校の校長先生になられたりもしました。
また、玉井先生とはこちらのダウン症の親の会さんが主催の講演会を企画されたときに、やはりネットで以前からやり取りをさせていただいていた会のお父さんに誘っていただいて講演会のお手伝いをさせていただき、玉井先生の接待係として始めてお会いして、また講演会の膨大なるテープ起こしをボランティアさせていただいたと言う繋がりも出来ました。
にいちゃんの頃参加させていただいていた勉強会で一緒に勉強していたお母さんとそれから数年後に学校で同じ保護者と言う立場として再会したり、そのお母さんの友人と言うことで出会った中のお一人がpurunちゃんだったり・・・
出会うべきして出会ったのか?という不思議なつながりを感じずにはいられません。長々と失礼いたしました(*^∇^*)
きっと、みなさんにも不思議な縁ってあると思いますよ。

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