今日も暑くなる予報です。

本日の北日本新聞から
悠閑春秋 2009年06月24日
−地獄の山・劔岳−
映画『劔岳 点の記』を公開初日に鑑賞した。俳優の方々の演技は絶賛に値する。でも私の中ではこの映画の真の主役は剱岳そのものだったと思う。
映画では剱岳が地獄の剣の山、あるいは針の山であることを、ストーリーの屋台骨としていた。では剱岳はいったいいつ頃(ごろ)からそうなったのだろうか。
米国・フリア美術館蔵『地蔵菩薩霊験記絵巻』(13世紀中頃成立)は日本の地蔵説話を集め描いた絵巻で、その中に立山地獄説話も含まれている。
作中、若死にして立山地獄に堕(お)ちた京都七条の女性が火で燃やされる、剣の山に登らされる、鬼に鞭(むち)で打たれる等の責め苦を受けていたが、生前、地蔵講に2度参詣した功徳で、鞭打ち以外は地蔵菩薩(ぼさつ)が身代わりになってくれているといった状況が描かれている。
実は、この内容は平安時代末期の仏教説話集『今昔物語集』所収の立山地獄説話の一つを絵画化したものである。同書では女性亡者が受けた責め苦の内容は具体的に記されていないが、『地蔵菩薩霊験記絵巻』には、責め苦の一つに地獄の「剣の山」が言葉と絵の両方で表されている。従って鎌倉時代頃までには確実に、剱岳が地獄の剣の山、あるいは針の山に見立てて信仰されるようになっていたものと思われる。剱岳の真のブランド性はここにある。
県立山博物館主任・学芸員 福江 充

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