表題作は連作短編集のような趣。 帯には 「むかし, 遊んで生きている人が たしかに居た」 とある。
国立国会図書館
語り手が次々と変わるのだが, 何故か一人称にはならない。 何故一人称にはしないのだろう。 語り手が変わる所為で, 一つの出来事の色々な側面が語られる。
作家が元英語教師ということがあってか, 登場人物が英語を教える, 教えられるという状況が生じる (第 12 節)。 彼が英語教師でなくても英語であったろうか。 物理教師だったら? 数学教師だったら? と考えてしまう。
第 13 節では, 頁の節約の所為か, 会話が改行せずに鍵括弧だけで区切られて続けられる。 単なる節約ではなく, James Joyce の様に, 「この会話はおばちゃんたちの会話だとあなたは思っているでしょう? でもあなたはこの会話を書いているのは作者であるこの私であるってことを忘れてはいませんか?」 と言っているのかもしれない。
第 15 節に 「人は髪の毛一本思い通りにならない」 とあるが, その直前にキリスト教への言及があって, 新約聖書でも読み込んで影響されたかと思う。
物語は淡々と進んでいく。 特に目立った事件も起きない。 アンドレ・ジッドの 「贋金使い」 のようだ。 「現実は続きなの」 というジッドの登場人物の台詞を思い出す。
括弧付の注が一寸気になる。 括弧なしに済ませられそうだと思うのだが。
第 18 節で, 童貞の筈なのに, 挿入感が分かるというのは一寸不思議な気がする。
終段になると, 物語としてのつながりが強くなってきて, 次の話に続く。
二番目は 「茜荘外伝」。 「外伝」 とはいえ別に 「正伝」 があるわけでもなさそう。 「板橋遊民伝」 に対して 「外伝」 なのか。 「板橋遊民伝」 の 「
旅人」 が主人公。 一人称体。
途中で気付いたが, もしかして外に出たから 「外伝」 なのか。
「外伝」 は短い。 知り合い同士が皆繋がっているような狭い世界での話。
最後の 「柳町列伝」 は前の 「外伝」 から繋がっている。
階段をトラックで走る話は無茶するなぁと思った。 ポールを一本でも立てれば自動車が入れなくなるだろうに。
途中職場の仲間でキャンプに行って, これから物語が動き始めるのか, と期待を持たせた中で, 唐突に終わってしまう。 が, それでいいのだ。 Bildungsroman (教養小説) とはそういうものだ。 Thomas Mann の 「魔の山 Der Zauberberg」もそうだった。
それにしても, 毎度のこと
乍ら, 一度読んだ筈の作品をちっとも思い出せなくなったのは悲しい。 以前は誰の何という作品は大体こういう話だということをいつも覚えていたのに。 歳はとりたくないものだ。
帯に 「主な登場人物」 として三人の名前が書いてあるが, 各々, 収録されてている三作品に出てくる人物なのだった。 しかし代表的な人物かと言われると, そうとも言い切れない所がある。
又, 裏表紙と中の表紙には, チンチロリンの絵が施してある。
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