自閉症の息子と共に歩みながら、沢山の仲間や支援者に支えられてきました。そしてきっと、これからも〜
自閉症の息子と出会い《ジヘイショウ》を知りました。様々な出会い、失敗、成功・・・過去を振り返りながら今を綴ります。そして今、私たちの暮らす社会との架け橋になろうと思います。
【登場人物】アイボ:自閉症(カナータイプ) コアカ:アイボの姉 アカギ:父 ハレハレ:母(管理人)
2009/6/15
自閉症への指導は、“集団と個別”なんて云われていますね。
確かに、居心地のいい集団は必要でしょうが、
アイボのような、孤立型・聴覚過敏を持つ自閉症にとっては、大き過ぎる集団は辛い環境でした。
成長と共に、認知を含め発達してきましたが、周りが見え、自分が見えてきたのでしょう。
『がっこうない!』そう言いはじめたのは、ある日突然でした。
しかし、いきなりというよりは、蓄積されたものではないでしょうか。
鏡に向かって怒鳴るのも、自分に対してのように感じます。
かなりセルフエスティームが下がっていました。
嫌な記憶を忘れてくれればいいのでしょうが、記憶によって生きている自閉ッコですから、どう受け止めても、復帰は難しいものがありました。
不登校児に、無理矢理行きなさい!なんてやるのは逆効果、理由があると思い、アイボの気持ちに寄り添いましたが、生きる世界が狭いゆえ、そのまま引きこもるのは、かなりのリスクがあると思いました。
学校は、一生懸命指導してくれます。
集団参加が本人のためだなんて〜ね。
しかし、式典や行事だけが生きる喜びを与えるのでしょうか。
日本独特というか〜“皆一緒が由”という観念が抜けないように思うのです。
マンモス校ゆえのハード面の弱さだけではなく、大きな集団の中に、居場所を作ってあげることが必要だったように思います。
行事だって、参加する子、部分参加する子、参加しない子があってもいいと思うのです。
小学校時代を振り返ると健常クラスと特殊学級は、参加の仕方を個別に考えてやっていました。
同じ学校に様々な集団があるのですから、対応しないわけには、行かなかったように思います。
特別支援学校の方が専門でありながら、集合にこだわってしまう。
その子において何が大切なのが〜優先なのか〜
本来細かなアセスメントがあって指導するのが当たり前なのでしょうが、行事は、学校全体のものですから、担当だけの対応では、限界があるように思います。
ハード面(人数が多く教室がない)、に理由をつける前に、もっと柔軟で本人に寄り添った支援が求められているように感じます。
個に過度な刺激を与えると、必ずといっていいほど、家庭でも引きずってしまうんですよ。
先生たちは、理解しているのでしょうか〜
学齢期が自閉症にとって、マイナスの支援にならない教育が求められると思います。

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投稿者: harehare
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