2010/2/11
林きむ子:
明治17年(1884年)12月1日〜昭和42年(1967年)2月2日
舞踏家、作家、社会運動家、実業家。大正三美人の一人と称される。戸籍名は「日向きん」。
東京の柳橋に生まれ、父は狂言浄瑠璃の祖といわれる初代豊竹和国太夫。母は女義太夫の初代竹本素行。異父弟に曾我廼家弁天、藤間林太郎。俳優の藤田まことは甥に当たる。娘に舞踊家の林一枝、知恵ら。
きむ子は七歳のときに新橋の料亭「浜の家」の女将内田はな(花)の養女となり、跡を継ぐように望まれる、9歳で藤間流の藤間久満、11歳で西川流の初代西川喜洲、9代目西川扇蔵に師事し西川扇紫を名乗り、三味線、踊り、お茶、お花など、ありとあらゆる芸事を身につけたという。
1904年、17歳で美貌をのぞまれ富豪の代議士 日向輝武と結婚。田端の山の上に豪邸をかまえ谷中・上野を馬で闊歩したという。彼女は美しいだけではなかった。歌を読み、随筆や小説を書き大正の婦人運動に参加していく。
大正七年、夫が疑獄事件(大浦事件)にまきこまれ狂死してしまうと、翌1919年1月6人の子供がいながら9歳年下の詩人の林柳波(「ウミ」の作詞者)と再婚し、大正スキャンダルとして大きな話題となった。
社交界の花形だったきむ子はその美貌を看板に化粧品の製造・販売も行っており、柳波は薬剤師として化粧品の改良に助言を行うことなどで、きむ子との繋がりを強めた。夫の死から1年も経たぬうちの再婚は、夫の死で世間の同情を集めていたきむ子の評判を落とした。折りしも愛人島村抱月を追って自殺した松井須磨子と比較されて一大スキャンダルとなったが、柳波は渦中のきむ子をよく支えた。柳波ときむ子は本郷にあったきむ子の化粧品店「瓢々堂」に新居を構え2人の子をもうけた。後に夫の柳波は別の女性との間に子をなし別居。
きむ子は1924年児童舞踊や創作舞踊を中心とした林流を創始し「銀閃会」を主宰、舞踊譜も創作。1966年に勲五等瑞宝章受賞。
一中節の婦匠、美顔水の発売、そして舞踏家として大正末の自由主義童謡運動に踊りで参加していく生涯だった。
(Wikipedia/その他より)
大正美人伝:
九条武子(歌人,社会事業家)・柳原白蓮(歌人)と並ぶ大正三美人の一人(大正三美人は、柳原白蓮、九条武子、江木欣々(新橋の美貌芸者)の3人をさす場合と、欣々の代わりにきむ子を入れる場合がある)彼女の一生には様々な面々が顔をだす。政界の黒幕と言われた頭山満、杉山茂丸の影響を受け、夫 日向輝武はハワイ移民の立役者であった。順風満帆に見えた結婚生活は夫の賄賂疑惑による投獄、狂死によって暗転。大正スキャンダルと言われた年下の林柳波との再婚を経て童謡舞踏を発案する。本居長世、野口雨情と童謡運動を支え林流をおこした大正の時代を自由に、しなやかに、強く生きた女性の評伝。
著者=森まゆみ:
1954年文京区動坂生まれ。早稲田大学政治経済部卒業。地域雑誌「谷中・根津・千駄木」編集人。98年「鴎外の坂」(新潮社)で芸術選奨文部大臣新人賞受賞
出版社:文芸春秋刊
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