2019/4/12

兵庫県丹波を見る!朝来市にある天空の城・t竹田城2−1  文化財研修記

兵庫県の北部(但馬)の朝来市には武田城跡がある。。縄張りがが虎が臥せている様に見えるところから、別名虎伏城(とらふふすじょう、こがじょう)と呼ばれる国の史跡である。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、「天空の城」]や「日本のマチュピチュとも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。築城に関しては不明な点が多い。江戸時代末期に成立した『和田上道氏日記』によると嘉吉年間(1441 - 1443、城」とは「竹田城」そのものをさす。『和田上道氏日記』は古い伝承をまとめたもので、竹田城の築城に関しては他に史料がなく『史跡・竹田城』によると「嘉吉三年、山名持豊によって築かれ、太田垣光景が初代城主に任じられたとする口碑を残すのみである」とし永享3年(1431)に但馬守護山名宗全(持豊)によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承を紹介している。 この時期、但馬守護山名氏と播磨守護赤松氏の間で度々軍事的衝突が起こる。嘉吉元年(1441)6月、室町幕府6代将軍足利義教が重臣で播磨・備前・美作守護赤松満祐に暗殺され、幕府による追討軍に宗全が志願したからである(嘉吉の乱)。8月に幕府より追討令を受けた宗全は一族を動員して3方から播磨を攻め、宗全軍は丹波より生野から播磨に入国し、9月に城山城にいる満祐を滅ぼした。10月に宗全は恩賞として任命された播磨守護として入国し、太田垣氏を守護代とし赤松氏の掃討戦を実施している。その後嘉吉3年(1443)に赤松教政が、文安元年(1444)に赤松満政が、康正元年(1455)赤松則尚が山名軍に反抗するがことごとく敗れ、自刃・逃亡している。当時の竹田城は播磨と但馬の国境を守る拠点で、播磨を平定するための出撃の拠点ともなっていた。戦国時代の応応仁元年(1467)、細川勝元と山名宗全の争いが一因で応仁の乱が起こると但馬は細川氏と山名氏の争いの場となった。翌応仁2年(1468年)3月、細川軍の内藤軍が夜久野から但馬に侵攻しようとしていた時、竹田城で留守を預かっていた太田垣軍は、竹田城から出軍し夜久野で合戦となり小勢ながらよく戦い、内藤軍の大将2名を討ち取った。夜久野高原には現在も「内藤塚」と言われている供養碑が残っている。 その後も細川氏や赤松氏の脅威は去らず、応仁の乱が終わると宗全の孫山名政豊と赤松政則が播磨などを巡って抗争を続け、一時山名軍が播磨を占領したりしたが、長享2年(1488)頃には敗戦となり政豊の権威も低下、内紛も発生してしまうようになった。大永2年(1522)に政豊の子山名誠豊が播磨へ攻め込んだが、この時になると太田垣氏は出軍要請にも従わないようになり、赤松氏は結束を取り戻し山名軍を追放することになった。出雲の戦国大名・尼子氏は永禄9年(1566)の月山富田城の戦いで毛利元就に一旦滅ぼされた。しかし、永禄12年(1569年)5月に元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していた山名祐豊(誠豊の甥)がこれを支援した。これに対して毛利元就は織田信長に祐豊の背後を脅かすよう但馬出兵を依頼、これに応じた信長は8月1日に木下秀吉軍2万兵を派兵し、わずか10日間で18城を落城させ、8月13日には京都に引き上げた。此隅山城にいた山名祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬への復帰を許された。この時竹田城も攻略されたと考えられているが、山名祐豊の重臣太田垣輝延は引き続き城主として留まったようである。 天正元年(1573)、吉川元春ら毛利軍は出雲、伯耆、因幡に進軍し尼子軍を撃破しながら但馬に迫ってきた。太田垣輝延は毛利軍に降伏し、次いで天正3年(1575)5月に山名祐豊は吉川元春に誓紙を送って芸但同盟が成立する。一旦危機が去ったように思えたが、今度は丹波の赤鬼と言われた荻野直正が同年10月に竹田城を占領すると、山名祐豊は一転して信長に救援を求め、信長も応じる形で明智光秀を派遣して第一次丹波制圧(第一次黒井城の戦い)を開始し、荻野直正は黒井城に撤退した。竹田城の戦いは攻城戦で天正5年(1577)11月頃 羽柴秀長軍、太田垣輝延軍 指導者・指揮官が約3000兵で攻め竹田城落城させた。やがて信長と毛利氏の間が次第に悪化すると、信長は播磨に羽柴秀吉を派遣した。天正5年(1577年)10月、秀吉は黒田孝高に迎えられ姫路城に入城、それから1ヶ月で播磨の諸将から人質をとり帰服させることに成功した。その後羽柴軍は二手に分かれ、秀吉率いる本隊は上月城を攻城、別の一隊は秀吉の弟羽柴秀長が3000兵を率いて但馬に進軍した。
秀長隊の狙いは2つあったのではないかと『史跡・竹田城跡』では解説していて、一つは毛利軍に帰服している但馬諸将の制圧、もう一つは生野銀山の確保が目標であったようである。竹田城は生野銀山を管轄しており秀長隊の第一目標になり、11月に秀長隊は真弓峠から但馬に侵攻、まずは岩洲城を攻城し、次いで竹田城を攻城した。太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将羽柴小一郎殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候。寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なりと。武功夜話
と、竹田城では3日間の戦闘が繰り広げられた。しかし『戦国合戦大辞典』によると「(武功夜話)同書の史料的価値はすこぶる疑問とすべきで、実際にここでこのような戦闘があった真実性が乏しい」としている。また『信長公記』によると、直に但馬国へ相働き、先山口岩州の城を落城し、此競に小田垣楯籠る竹田へ取懸り、是又退散、則、普請申付け、木下小一郎城代として入れ置かれ候キ
」とあり、秀長が竹田城の城代となったとしている。 以下次回で!!
Wikipediaより抜粋。

1.30年ぶりに訪れた竹田城は専用バスでないと登れないし、又、入場料@300円が必要となっていた!(画像をクリックすると画面が拡大して見れます。)
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2.第一駐車場(ここから乗り合いバスで登山口へ。)
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3.乗合バス
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4.第一駐車場から武田城址を遠望アップで撮影する!
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5.第二駐車場の位置図、ここから徒歩で武田城址へ上る!
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6.第二に掲示の雲海に浮かぶ武田城址!!
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7.竹田城址への登山口
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2019/4/7

京丹波を見る!元伊勢三社の一つ天岩戸神社!  文化財研修記

京都府福知山市大江町佛性寺字日浦ケ嶽206-1には元伊神三社の一つで元伊勢内宮・皇大神社の」奥宮tosare,櫛御毛奴命又は櫛岩窓戸命・豊岩窓戸命の2神を祀る天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)がある。社殿の裏手に御座石があり、これを磐座として祀っている。 社殿は岩盤の上に建てられており、参拝するためには備え付けの鎖で登る必要がある。

1.元伊勢小歌(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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2.天照大御神一行が降臨したと言われる岩戸山とその遥拝所。
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3.岩戸山の説明板(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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4.天岩戸神社への下り参道を覗く!
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5.同上
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6.岩盤の上の天岩戸神社
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7.岩戸川の渓谷を見る!
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2019/4/2

京丹波を見る!元伊勢 三社の一つ内宮・皇大神社!  文化財研修記

京都府福知知山市大江町内宮には元伊勢電承地・吉佐宮の一つであり、天照太神を祀る元伊勢内宮・皇大神社(こうたいじんじゃ)がある。現在伊勢神宮の祭神である天照大御神は、古くは宮中に祀られていた。この状態を畏怖した天皇の命で、崇神天皇6年から鎮座地を求めて各地を転々とした。垂仁天皇25年最終的に伊勢に落ち着くが、それまでの間に訪れた一時遷座地は、各地で元伊勢として語り継がれた。当社はそうした元伊勢伝承地の1つで、「但波(丹波)国乃吉佐宮」 の旧跡にあたる。そのため「元伊勢」を冠して称され、また特に皇大神宮(伊勢神宮内宮)の元宮であるとの伝承から、元伊勢皇大神宮または元伊勢内宮とも称される。市内大江地域には当社を加えて以下の元伊勢伝承の神社があり、総称して「元伊勢三社」と呼ばれている。
福知山市大江町の元伊勢三社
皇大神社
福知山市大江町内宮
皇大神宮(伊勢神宮内宮)の元宮伝承地
豊受大神社
福知山市大江町天田内
豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の元宮伝承地 (前回掲載済)
天岩戸神社 (次回掲載予定)
福知山市大江町佛性寺
皇大神社奥宮
なお、吉佐宮の伝承を有する神社には、当社の他にも真名井神社(宮津市の籠神社摂社)、但馬の笶原神社、竹野神社がある。
『倭姫命世記』に、崇神天皇39年、天照太神を奉じた豊鋤入姫命が鎮座地を求めて但波(丹波)国へ遷幸し、吉佐宮を築いて4年間奉斎したと記すが[2]、社伝によれば、当神社はその旧跡であり、天照大神が吉佐宮から遷座した後もその神徳を慕った人々が引き続き伊勢神宮内宮の元の宮として崇敬してきたといい、元明天皇朝(707 - 15年)に社殿を建立したという。また、それとは別に、用明天皇の皇子麻呂子親王が当地の兇賊を成敗するに際して勧請したものであるとの異伝もある(宝暦11年(1761年)の『丹後州宮津府志』『天橋記』)。
近世以前の沿革は不明であるが、江戸時代には4石3斗4合の社領を有し(天和元年(1681年)の『宮津領村高帳』)、明暦2年(1656年)に宮津藩主京極高国が社殿を造営し(社蔵棟札)、元禄14年(1701年)に同奥平昌成も修造してから歴代宮津藩主もこれに倣ったといい]、また60年に1度の式年遷宮も行われていた。 昭和5年(1930年)府社に列し、戦後は神社本庁に参加している。本殿を囲む形でコの字形に末社83社が鎮座している。(ウイキぺデアから抜粋掲載)

1.元伊勢内宮・皇大神社の駒札
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2.神社への参拝口
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3.大鳥居
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4.鬱蒼たる森の参拝道
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5.同上
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6.麿子親王(聖徳太子の弟)の巨大な手植えの杉
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7.摂社の一つの駒札
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8.摂社の御門神社
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9.カネのなる石(石をこの岩に投げるとカーンと良い音がする。)
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10.見事な手水舎
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11.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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12.黒木の鳥居(京都嵯峨野の野宮神社も黒木の鳥居です。)
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13.]本殿(桁行3間梁間2.間の神明造茅葺。内削ぎの千木を持ち、棟に鰹木を置いている。
摂社(脇宮)本殿の両脇に鎮座。栲機千々姫社 - 本殿左。祭神:栲幡千々姫命、天手力雄命社 - 本殿右。祭神:天手力雄命、末社も多く計83社もああります。
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14.本殿内陣
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15.拝殿と後部の本殿を左側から見る!
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16.本殿左側の御神木の駒札
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17.巨大な御神木です!
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2019/3/31

京丹波を見る!京都府の元伊勢三社の一つ元伊勢外宮 豊受大神社!  文化財研修記

京都府福知山市大江町天田東平178−2には豊受姫命を祀る京都府で元伊勢三社の一つ豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)がある。創建年は雄略天皇22年と言われる古社で神明造り茅葺であった。豊受姫命は、雄略天皇の時に丹波国から遷宮して伊勢神宮外宮に祀られたとされる。当社はその元伊勢伝承地の1つで、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の元宮であるとの伝承から、「元伊勢外宮」とも称される。内大江地域には当社の他にも以下の元伊勢伝承の神社があり、総称して「元伊勢三社」と呼ばれている。

1.豊受大神社の標柱
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2.登り参道
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3.同上
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4.外宮参拝順路
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5.手水舎
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6.鳥居と社務所
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7.拝殿と両脇の2社を見る!
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8.同上
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9.拝殿を見る!
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10.アップで見る!
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11.拝殿後部と本殿を見る!
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12.樹齢1500年の御神木の駒札
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13.御神木の巨大な杉です!
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14.外宮への参道を見下ろす!
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2019/3/28

京丹波を見る!福知山市大江山の中腹にある大江山鬼嶽稲荷神社!  文化財研修記

京都市福知山市大江町北原の大江山の中腹には大江山鬼嶽稲荷神社(おおえやまおたけいなりじんじゃ)がある。創建年代は不明。主祭神は宇迦之御魂大神(資料が無いために正確には不明です)。主な御利益は五穀豊穣、商売繁盛(資料が無いために正確には不明です)は・参拝自由(社務所時〜時)
・最寄駅ー京都丹後鉄道宮福線「大江駅」→市営バス「山の家」→徒歩1時間
・駐車場ー無しですが、駐車スペースがあります。
・神社HPー無し。
当社は元々は鬼嶽神社と呼ばれており、大江山も鬼嶽山と呼ばれていたようです。社地も現在の位置(八合目)よりも、もっと頂上に近い位置にあったとされます。この地には鬼の伝説「酒呑童子」で有名ですが、恐らくこの地の有力者とどこからか来た有力者が戦になったと思われます。そこで負けたこの地の有力者が「鬼」ということになったのでしょう。当社のすぐ左には300m進むと「鬼の洞窟」があります。道が険しいので多少の装備がいるかもです。またこの地は修験道の史跡も多く遺されています。当社は1800年代に京都の伏見稲荷大社を勧請し、現在の社名に改められたそうです。摂社にも大国主と事代主が祀られており、五穀豊穣・商売繁盛の神様が主祭神・配神になっております。当地には古来より養蚕業と稲作が盛んな為に、当社は農業家からの信仰が非常に篤いようです。そして当社が有名になっているのは、当社から見える雲海です。雲海というと竹田城が有名ですが、当社も非常に美しい雲海が11月から12月上旬にかけて拝めます。前日が晴れで雲がなく〜という気象条件が重ならないといけませんが、早朝から待機して見てみる価値はあります。多い日には50人以上の人が来ているそうです。展望休息所もありますし、近くにトイレもあります。一度は訪れて、この美しい景色を観てほしいと思います。

1.大江山鬼嶽稲荷神社
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2.同上
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3.石造り鳥居・朱の鳥居・扁額を見る!
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4.朱の鳥居と扁額を見る!
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5.拝殿を見る!
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6.拝殿と本殿を右側から見る!
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7.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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8.鬼嶽稲荷神社から見た風景!
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9.同上
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2019/3/24

京丹波を見る!日本の鬼にの交流博物館!  文化財研修記

日本の鬼の交流博物館(にほんのおにのこうりゅうはくぶつかん)は、京都府福知山市(旧加佐郡大江町)の大江山麓にある鬼伝説をテーマとする博物館です。大江山には3の鬼伝説が残されている。この伝説を"町おこし"の起爆剤として活用すべく、廃坑となった銅鉱山の跡地に平成5年(1993)4月に開館した。
外観は鬼の力強さや挑戦的なイメージを表現したRC造平屋建ての建造物で、建築面積は639.81平米。内部は200人収容の「鬼の交流ホール」を中心とした回廊に展示スペースが設けられている。展示は4つのスペースに分けられる。
「鬼とは何者かをさぐる」
全国あるいは世界中の伝統芸能やそこで用いられる面、人形あるいは屏風画などを展示。「祀られる鬼」「仏と鬼」「神楽の鬼」「暮らしの中の鬼」「追われる鬼」「民俗芸能の鬼」など鬼の多面性について紹介する。
「大江山の3つの鬼伝説紹介」
大江山に伝わる鬼退治伝説の絵巻物などを展示。(大江山および酒呑童子の項参照)
「日本における鬼瓦の推移を見る」
飛鳥時代から現代までの銘の入った鬼瓦を時代別に実物、レプリカを含め約50個ほど展示紹介。
「チビッ子おに」
子どもの玩具としての鬼の面や絵本、紙芝居など。図書コーナー、ビデオコーナーも備えている。
博物館の前庭にある大鬼瓦は、日本鬼師の会製作による、高さ5m、重量10tの日本一の大鬼瓦である。ウイキぺデアより抜粋。

1.大江山の日本の鬼の交流博物館手前の案内板
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2.同上
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3.位置図
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4.博物館の前庭の日本鬼師会制作による高さ5メートル、重量10トンの日本一の大鬼瓦
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5.日本の鬼の交流博物館入口
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6.レプリカ展示場
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7.鬼の交流ホール
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8.同上
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9.展示の案内(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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10.同上
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11.本日の特別展示(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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12.同上
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13.同上
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14.同上
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15.同上
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2019/3/14

京丹波を見る!福知山市にある山陰道8箇国法華宗門最初の霊場である常照寺!  文化財研修記

京都府福知山市菱屋町68には創建・延慶3年(1310)で山陰道八箇国法華宗門最初の霊場である寳珠山常照寺(じょうしょうじ)がある。大善阿闍梨日範(朗門の九鳳の一人)が創建した。堂宇、仏像、僧坊ことごとく焼尽 ただ寺号を存するだけとなり、万治2年(1659)唯心院日量(21世)が福知山城主松平忠房に請願して現在地に移転し延宝6年(1678)までに現在の伽藍を復興した長い寺歴の中、洪水、災害による幾多の困難も乗り越え真浄大法を伝承して今日に至っている。。日露戦争(明治37年ー明治38年)ではロシア軍捕虜の収容所の一つとなった。・・・歴史案内札より抜粋。

1.見事な山門と標柱
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2.山門を正面から見る!
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3.山門横の宝珠山常照寺歴史案内碑
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4.山門から本堂を見る!
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5.見事な本堂です!
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6.山門を右側から見る!
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2019/3/9

京丹波を見る!福知山城の城門を山門に持つ福知山城主・朽木氏の菩提寺・法鷲寺!  文化財研修記

京都府福知山市下紺屋町86−4には福知山城主・朽木氏の菩提寺で福知山城城門を山門とする浄土宗法鷲寺(ほうじゅうじ)がある。内法が高く、豪壮な風格を持つ大型の高麗門である。軒桁より上は新材に変わっているが、鬼瓦は朽木氏の家紋である「四つ目結」が残されている。肘木から下はよく保存されている。袖塀は、様式が当初とは変わっているようである。法鷲寺の創建は室町時代末期の永禄11年(1568)、喜屋清右衛門が宝誉上人を招いて開山したのが始まりと伝えられています。当初は呉服町にありましたが寛文10年(1670)に現在地に移り寛政7年(1795)には信州善光寺(長野県長野市)の念仏道場にもなっています。江戸時代は福知山藩主朽木家から帰依され寺運が隆盛しますが文化4年(1807)、安政4年(1857)の火災、明治29年(1896)、明治40年(1907)、昭和19年(1944)の大洪水により大きな被害を出しています。山門は福知山城の城門の1つと伝えられている高麗門で、数少ない福知山城の遺構として貴重なことから福知山市指定文化財に指定されています。ご本尊は阿弥陀如来様です。

1.法鷲寺の標柱
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2.見事な高麗門です!
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3.朽木氏の家紋・四つ目結が見えます!
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4.駒札(画像をクリックされると拡大して読めます。)
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5.再度見ます!
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6.駒札
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7.見事な本堂です!
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8.見事な鐘楼です!
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2019/3/4

京丹波を見る!福知山城主朽木氏の菩提寺・久昌寺!  文化財研修記

京都府福知山市寺町1番地には福知山城主であった朽木氏(くつきし)の菩提寺で曹洞宗の久昌寺(きゅしょうじ)がある。久昌寺は創建当初「久昌庵」という庵寺であって、十一屋某者(現盛岡市下ノ橋十一屋の先祖)が祇陀寺の奇山快秀和尚の為に造った閑居でありました。快秀和尚は十一屋三代の当主高橋祐吉と相談し、周囲の谷地を求め伽藍を建立し、布教・法要を執り行う道場とし、明暦2年(1658)開山導師として、報恩寺九世蘭翁嫩芝大和尚を勧請し、自ら二世大和尚として住職になられ、そのときから「奕葉山・久昌寺」と公称するようになりました。ご本尊は釈迦年尼佛、脇侍は文殊菩薩・普賢菩薩であります。山門は楼門で総けやき造、銅版葺で昭和八年建立されたもの。久昌寺二十一世和尚の発願で、当時大圓寺(下閉伊郡川井村小国)の住職であった二十二世和尚に命じ伐採した欅で建てられたもので屋根から扇状に突出する「扇たる木造り」が特色であります。山門の周囲には数々の彫刻をはめこみ、扉には「天女」が彫りこまれ、大蟇肢には「牡丹に鳳凰」が、扉の両側には「昇り竜」「降り竜」が彫刻されてあります。山門楼上には「十六羅漢」を奉祀し、漢訳の大蔵経が納められています。 山門の鯱は南部家からの下賜の盛岡城乾の門の由緒あるものと言い伝えられていたが、長年風雨にさらされ、破損が著しく、平成8年3月補修のため取り外し調査したところ、言い伝えにたがわず、木彫りの鯱にこれの保護を意図したごとく、銅板で鯱を型どり覆工されていました。木部覆工部ともに腐食・破損が甚だしく、補修復元後再び風雨にさらすに忍び得ず、庫裡玄関に保存されています。現在の鯱は代替のものを求め設置されてえいる。本殿の狭い虹梁には柏原の名彫刻師中井一統の8代目中井権次橘正胤や中井清次良政実の合作の龍の彫刻がある。

1.久昌寺の標柱
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2.見事な山門です!
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3.山門をアップで見る!
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4.同上
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5.山門から本堂を見る!
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6.見事な石造りの七福神です!鐘楼も見事です。
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7.左側の七福神
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8.佛足跡の駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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9.佛足跡
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10.巨大で見事な本堂です!
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11.本堂の虹梁(こうりょう)には柏原の名彫刻師・中井権次一統の龍の彫刻があります。
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12.同上
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13.駒札
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2019/3/1

京丹波を見る!福知山城の城門を山門とする正眼寺!  文化財研修記

京都府福知山市寺3番地には曹洞宗の古刹で本尊・地蔵菩薩を祀り福知山城の城門を山門とする正眼寺がある。正眼寺の創建は大宝元年(701)、洪範上人(大阪四天王寺の住職)が一宇を設け全国に流行った疫病の病魔退散と病気平癒を祈願したのが始まりと伝えられています。その後も庚申堂として信仰されてきましたが、戦国時代、明智光秀が福知山城を築き城下町を整備した際、現在地に移されました。慶長18年(1613)、久昌寺3世が寺院として整備し寺号を正眼寺と改称しています。山門は福知山城の城門の1つで金具が銅製のことから銅門とも呼ばれている高麗門形式の門です。当初は福知山城の二の丸登城口にあった銅門番所に付随されていた門でしたが明治31年(1898)に移築されました。山門に掲げられている額は福知山城の南居間本床上の天床を利用したもので書は永平寺(福井県永平寺町)六十七世勅特賜円證明修禅師。正眼寺山門は福知山市指定文化財に指定されています。

1.正眼寺の標柱
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2.元福知山城の城門の一つであり、銅門と呼ばれていた見事pな城門を山門としています。
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3.駒札
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4.山門の扁額は福知山城の南居間本床上の天井にあった永平寺67世勅賜円證明修禅師の物です!
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5.山門を内側から見る!
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6.山陰最古の庚申堂の駒札
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7.山陰最古の庚申堂
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8.見事な鐘楼
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9.本堂
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10.本堂の見事な須弥壇
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