2020/3/25

丹後を見る!府天然記念物の高野マキのある真言崇の古刹・神宮寺跡!  文化財研修記

京都府与謝町石川2376には平安時代初期に淳和天皇の妃如意(にょい)が開いたと伝える真言宗のの古刹・神宮寺があった。かっての神宮寺本堂は平成13年に火災により焼失してしまい、現在はふれあいホーム神宮寺という老人ホームになっています。コウヤマキの後方には粟島大明神がありその参道沿いに立っています。 神宮寺本堂が焼失した時にこのコウヤマキも類焼しましたが、幸い枯死を免れました。しかし今もその時の焼け跡が黒々と残っています。枯れ枝もずいぶん多いのですが、それでも強い生命力を見せてくれています。
 京都の自然200選によれば、この巨木の歴史的起源は古く、鎌倉時代末期の1310年頃に近江石山寺の僧侶が石川神宮寺として再興して以来、地元では信仰の木としてあがめられ、神宮寺のご本尊が女性という言い伝えから、コウヤマキに手を触れて子宝の恵みを願うそうです。

1.石造地蔵菩薩(嘉永2年(1849)の造立で高さ6メートルもある。)
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2.高野マキの駒札
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3.見事な高野マキ
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4.高野マキと粟島大明神
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5.粟島大明神堂
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6.堂内は
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2020/3/20

丹後を見る!与謝野町の伊弉諾尊を祀る古社・明境神社!  文化財研修記

京都府与謝郡与謝野町下山田1511には伊弉諾尊を祀る古社・明境神社(あけさいじんじゃ)がある。安産の神として信仰されている。境内には大きな舞台があり、現在は廃れているが敗戦後はしばらくは芝居が行われ,地方の文化活動の一拠点であった。本殿は一間社、一メートル四方ほどの小社であるが、優れた建築で脇障子には許由(きょゆう)・巣父(そうふ)の伝説を彫る。境内小社に安置されている木造阿弥陀如来坐像は鎌倉時代後期の傑作である。4月25日の平野の小聖神社(こひじりじんじゃ)と合わせての例祭があり、神楽と太刀振りが奉納される。

1、明境神社拝殿と石灯籠を見る!
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2.拝殿と左右の狛犬
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3.見事な拝殿
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4.神木の菩提樹の駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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5.見事な菩提樹の古木です!
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6.境内社の一つ
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7.拝殿と後部の本殿
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8.本殿は一間社、メートル四方だが、見事な彫刻の脇障子です。
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9.本殿をアっプで見る!
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2020/3/15

京都府綾部市(元、何鹿郡(いかるがぐん)で一番多い姓は四方(しかた)で二番目は大槻の姓!  文化財研修記

四方續夫の名は親父が四方家継ぐように續(つぐ、続)夫と名付けました。四方家の系図があり、中学生の頃、蔵の2階に有ったので当時読んでみたのです。しかし大人になってJTBに勤務して、家系図の重要性を知り、再度蔵の2階に上がって探したのですが、無くなっており,当時生きていた親父に聞くと系図買いに売ったと言ってました。先祖は近江佐々木源氏で六角貞承の一族で戦に敗れ近江国から逃げて、この何鹿郡(現、綾部市の大部分、福知山市三和町の一部、宮の一部、報恩寺町を含む。) に逃げてきて、此処を強奪し、旧姓では危ないので一族郎党は四方の姓を名乗った諭旨です。一番遠方に逃げた四方一族の一部は松江市で数軒の四方の姓の家があります。
尚、四方源太郎京都府議会議員の記事を下記に掲載します。四方府議が書かれたように九鬼隆季公が初代綾部藩主として、鳥羽から綾部に転付された時ンの記事で四方(しかた)何某も隆季公に従って部に転付したと記されています。
 祖父・源太郎が晩年に遺していた文章には「綾部の殿様、九鬼公が三重県松阪から綾部へ転封になられた時、羽室家、大槻家などと四方家も屋敷を与えられ、家号は鍛冶屋といい、殿様から花木瓜(はなもっか)の家紋をいただいた」とある。
 伯父・洋は、祖父・源太郎が死の間際に語ったこととして上記の内容に加え「九鬼の殿様の家庭教師のような家柄であった。殿様といっしょに松阪から、綾部へやってきた」と書き遺している。
 我が家に残る記録は、これのみだ。
 今回の調査の中で分かったこととして、綾部の他の四方姓の方は、先祖からの言い伝えとして「近江源氏(佐々木氏)の一族が戦に敗れて落ち延びて来て、素性を明かさないために四方と改姓した」と聞いておられるそうだ。
 四方と共に九鬼家に用いられた羽室家、大槻家のうち、羽室家はグンゼ創業者・波多野鶴吉の生家でもある。「波多野鶴吉翁伝」には羽室家の由来として「京都の公卿・葉室氏が帰農したもので、家号は京屋という」という説(他にも説あり)が紹介されている。
 大槻家は戦国時代に高津城主であった豪族・大槻氏の一族だと考えられる。
 九鬼の殿様は綾部に入った際に、元々から綾部に勢力を張っていた「土着権力」であった羽室、大槻、四方に一定の庇護を与えることで、土着勢力との融和を図ろうとしたのではないかと思う。
 四方、大槻の多さに比較して、羽室は綾部でもさほど多い姓でないのは、波多野鶴吉もそうだったが、「羽室家は分家して財産が散逸するのを嫌って、次男三男は早めに他家へ養子に出した」という話があるし、公家の出身であれば、一族であっても簡単には名乗れなかったのかもしれない。
 九鬼の殿様は国道173号の三和町との境にある質山のあたりにあった正暦寺を現在の場所(お城のあった大本・長生殿の背後にある本宮山の田野川をはさんで東北)に移している。由良川から正暦寺を見上げると砦のようでもあり、城の守りとして寺を移したのではないかと考えられる。
 同じく、熊野新宮神社も今の場所の隣り(市民センターのところ)に移した。これも由良川からの上陸ポイントになっており、敵が川から攻め込んで来た場合の砦であったと考えられる。
 うちの家は正暦寺の檀家で、熊野新宮神社の氏子であり、城防衛の施設を守る役割を与えられた人たちの中にいたのではないかと考えられる。一方、羽室家の菩提寺は広小路の浄光寺であり、ここもちょうど江戸時代初期は城下町の西の入り口に当たる場所であり、羽室家にも城下の防衛に当たらせたのではないだろうか?
 殿様から与えられた四方家の屋敷は今の大本・みろく殿の奥あたりにあったと思われる。これはちょうど、お城(陣屋)のあった大本・長生殿の真下になる。城の真下に土着権力者の屋敷を置くとは考えにくい。


綾部市観光協会の記事は下記をクリックして見て下さい!
https://www.kyotoside.jp/entry/20190920

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2020/2/20

京丹波を見る!福知山市戸田(由良川の南)の浦嶋神社(水神社)を見る!  文化財研修記

京都府福知山市戸田上嶋891には浦嶋神社(水神神社)がある。この神社は戸田地区の由良川左岸に鎮座しています。神社南側に道路を挟んで浦嶋伝説のある沼「お沼(ぬう)」が、由良川改修事業で堤防用地となった為、境内北側から南側に移築されていました。又神社の境内は改修中で参拝は社務所脇からとなりました。地図や社号標代わりの観光協会案内板には「浦嶋神社」とありますが、京都府神社庁の記載は「水神神社」と載っていますので、本来の社名は「水神神社」なのでしょう。戸田地区は、由良川がそばを流れることから、昔から水害に遭ってきました。神社の周囲にも高い堤防壁が築かれています。本殿もその水害を免れるためでしょうか、堤防前の高い位置に建立されています。御祭神は美都波芽命(みずはめのみこと)で境内社は秋葉神社、三柱神社、神武神社、疫神神社、愛宕神社です。
 由緒:この社は丹後を源とする浦島太郎伝承を伝える神社で、室町時代中期の1450年ごろ創建されたといわれています。お沼はその2、3年あとにできたとされ、形は亀の甲羅をかたどっています。
 その伝説とは「五百数十年前、沼のほとりの大木に、なぜか毎晩明かりがともり、村は大騒ぎになりました。 そのころ、近くの川北地区に住む福寿院という山伏の夢枕に浦嶋太郎が現れ、「竜宮城から戸田村の沼に続く白岩がある。乙姫から『願い事はそこから知らせなさい』と告げられた。」と話しました。 福寿院が戸田に出向いてその話をすると、村人から「明かりがともる不思議な沼がある」と聞き、足を運びましだ。ところが白岩は見つからず、思わず沼に手を触れると空が曇り、日照りに悩む村に大粒の雨が降り出しました。 福寿院の隣には赤子をもつ夫婦が住んでいましたが、母親の乳の出が悪く、毎晩激しく泣きました。浦嶋は再び福寿院の夢枕に立ち、「お沼の水でおかゆを炊いて食べるがいい。」と告げました。その通りにすると乳があふれ出て、おなかいっぱい吸った赤子はぐっすり眠り、話を聞いた人々が願掛けに訪れるようになったのだそうです。村人たちは福寿院の助言を受け、沼のほとりに浦嶋を祀る神社を建て、日照りが続くと神社のほとりのお沼にやってきて雨ごいをした」というものです。 そこで、亀を見つけると腹に願い事を書いてこの沼に放つ風習があるそうですが、今回移転時に亀さん達は由良川に放流されたそうです。 その他、農耕用の牛が病気にかかるとこの水を与えると回復するとも信じられていたそうです。

1.福知山市観光協会の案内板(全ての画像はクリックすると拡大します。)
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2.浦嶋神社の大鳥居
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3.お鳥居の左側にある巨大な御神木の大イチョウ
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4.同上の駒札
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5.拝殿を望む!後部には!巨大な京都府北部の大河「由良川」の水防土手が見える!
由良川はは京都の京北町を源とし、南丹市、丹波町和知、綾部市、福知山市、舞鶴市から丹後由良まで海に注ぐ大河です。、途中に山椒大夫の遺跡などがあります。
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6.拝殿前の阿形の狛犬
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7.同上 吽形の狛犬
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8.3メートル以上もある巨大な自然石の常夜燈
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9.拝殿を見る!後部には巨大な由良川の土手が見える!
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10.拝殿後部と本殿を見る!
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11.本殿を右側から見る!
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12.本殿を右側から見る!
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13.道路を隔てた「お沼の由来」の駒札など
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14.お沼を見る!
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2020/2/15

京丹波を見る!明智光秀公所縁の古刹・天寧寺!  文化財研修記

京都府福知山市市字大呂1474には臨済宗妙心寺派の古刹で明智光秀公所縁の天寧寺(てんねいじ)がある。創建は貞治4年(1365)、当時の金山城主(代々佐々木荘下山保の地頭職を世襲)、金山宗泰が祖先の菩提を弔う為、愚中周及を招いて開山したのが始まりと伝えられています。歴代室町将軍から庇護され寺運が隆盛し、特に4代将軍足利義持は祈願所として篤く庇護しました。戦国時代に入ると衰退しましたが明智光秀が庇護し天正8年(1580)には諸役免許の判物を賜りその直筆の文書が残っています。江戸時代に入ると歴代福知山藩主から庇護され寺領10石が安堵されています。安永6年(1777)の火災で多くの堂宇が焼失しましたがその後再建されています。薬師堂は寛政6年(1794)に建立されたもので入母屋、こけら葺、桁行3間、梁間3間、一重もこし付、棟梁は服部太郎兵衛、今井万右衛門、今井八右衛門が天井絵は原在中が手懸けています。開山堂は寛政5年(1793)に建立されたもので六角円堂、土蔵造り、桟瓦葺。両建物とも京都府指定文化財に指定されています。天寧寺の文化財: 絹本著色即休契了像-応永7年は_国指定重要文化財・ 絹本著色十六羅漢像-119.0p×56.0p-室町時代-国指定重要文化財、・ 天寧寺薬師堂−寛政6年−京都府指定文化財、・ 天寧寺開山堂(附:鎮守堂)−寛政5年−京都府指定文化財、・ 絹本著色愚中周及像−室町時代-京都府指定文化財、・ 絹本著色大中臣元実像-大永2年-京都府指定文化財、・ 絹本著色大中臣持実像-文安5年-京都府指定文化財、・ 天寧寺文書(27通)−南北朝時代〜江戸時代−京都府指定文化財、・ 紙本淡彩六祖彗能−福知山市指定文化財、・ 絹本著色愚中周及像−福知山市指定文化財です。

1.天寧寺標柱(此処から更に山腹を3キロ登って行きます。)全ての画像はクリックすると拡大します。
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2.駐車場から見た天寧寺
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3.駒札
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4.山門と薬師堂が間から見える!
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5.山門を潜ると歴代住職の石塔が左側に見える!
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6.左側に宝庫、正面に薬師堂を見る!
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7.薬師堂に向かって右側に鐘楼、方丈を見る!
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8.地蔵菩薩堂
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アップで見る!
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9.薬師堂と右には開山堂が見える!
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10.駒札
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11.同上
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12.薬師堂の須弥壇を見る!
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13.天井の龍の絵を撮影したいが!無理だ!
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14.天井の龍の絵を借りてきました!見て下さい!
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15.大方丈
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16.大方丈前の庭園の一部
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2020/2/12

京丹波を見る!関西花の寺第一番札所の観音寺の「大護摩祈祷大祭」を見る!;  文化財研修記

京都府福知山市観音寺1067には高野山真言宗の古刹・観音寺(かんのんじ)がある。2月11日(建国記念の日)に午前10時から午後3時まで盛大に開催される「観音寺大護摩祈祷大祭」に参拝して来ました。丹州観音寺は、奈良養老四年(720)にこの地を訪れた法道仙人によって開かれたお寺です。平安時代(961)になって、空也上人が七堂伽藍を建立し、丹波地方の観音信仰の中心となって栄えてきました。その後鎌倉時代に最盛期を迎え、北条時頼・貞時等の比護を受け、25余坊の寺院をもつ中本寺の寺として栄える。約3600通余りの古文書、聖教類(京都府指定文化財)が現存します。

1.あやべ市民市民新聞の掲載記事(全ての画像はクリックすると拡大します。)
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2.観音寺の総門
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3.総門に貼られえポスター
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4.総門から仁王門方面を見る!
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5.見事な仁王門です!
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6.仁王門から本堂方面を見る!両脇には春に見事な丹州のアジサイ寺の由縁のアジサイで一杯!
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7.参道途中には色々な観音寺を詠んだ歌があります!
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8.物凄い人が一杯の手水舎です!
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9.関西花の寺第一番札所の観音寺山門
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10.七観音霊場を参拝しながら本堂へ登って行きます!
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11.
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12.
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13.物凄い参拝者で本堂前は一杯です!!!
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14.本堂に参拝
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15.午前11時本堂前で「大護摩祈祷大祭」が始まったが、人で一杯!動画撮影はギブアップです!綾部の正暦寺と同じ高野山真言宗なので「山伏問答など」同じだと家内に説明した!
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16.見事に咲く「ロウ梅」を見る!
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17.



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2020/2/10

京丹波を見る!戦国時代の石原城址跡に建つ洞玄寺!  文化財研修記

京都府福知山市石原(いさ)1256番地には戦国時代の石原城址、現在は曹洞宗洞玄寺(どうげんじ)とその境内地である。洞玄寺『縁起書』によると「天(てん)文(もん)年中大槻(おおつき)安芸守(あきのかみ)光頼(みつより)此地ニ城ヲ築キ居ル弘治元卯乙六月十四日逝去」とあり、また洞玄寺三世の心宗禅明(ぜんめい)禅師が元文四年(1739)に弟子の慧勤(すいきん)に編纂させた「寺記」によれば、天文年間(1532〜1554)に安芸の国から大槻安芸守政治がこの地に土着して館と城を築き、やがて隠居して法名を「洞玄」と名乗って草庵を営み、逝去後長らく廃墟となっていたものを石原の僧、華翁(かおう)が寺を造り、安芸守の法名「洞玄」にちなんで洞玄寺と呼称するに至ったと記されている。このように、江戸時代中ごろには既にこの地が城跡として認識されていたようである。
江戸時代の文化年間に描かれた『古城址見取図絵巻』では現状に近い城跡が描かれていることから、土塁(どるい)に囲まれた今の境内が石原城の主郭を示すと見てほぼ間違いはない。以上にようなことから、平成15年、16年に遺跡内容、範囲を確認するため発掘調査および測量調査を実施した。遺跡は段丘の東北端を利用して、東・西・南の三方に土塁・空堀を廻らさせることで要害化している。土塁の内部は洞玄寺境内であり、平坦となっており、その広さは約3,400平方メートルである。
測量調査では石原城跡が部分的に改変されているが、土(ど)塁(るい)・空(から)堀(ぼり)の形状ともに良好に残存し、当時の往時の様子を伝えていることが想定されるものであった。
これら測量成果を基に埋没している空堀、形状の不明瞭な東端部を中心にトレンチを設定し、その内容を確認することした。調査箇所は別図のとおり、空堀部を中心に東部の「大門」伝承部、南面土塁崩壊部の土層断面である。空堀部では、いずれも0.6m〜0.8m地表下で地山を成形した堀底を検出した。堀底は平坦で2.5m〜3.2mの幅を測る、堀底高が判明したことで土塁高は垂直高3.4〜3.9m、実効高4.6〜4.8m、堀幅は7.2〜7.8mを測る。
一方、東端部の調査地点では明確な門遺構を見出すことはできなかったが、他の部位と異なる得意な構造を確認し、位置的にも上記の伝承を否定することはできない。土塁土層断面では、堅牢に層状に積み上げた盛土を確認した。
以上のことから石原城跡は居館的なイメージのとおり、シンプルな構成の中にも堅牢な要塞性が見出せるものであり、戦国的な城形態を伝えている。築造時期を明確にする出土品は少ないが、前述の大槻氏による築造伝承も十分に推定できるものである。
石原城跡はこれら遺構が、現代にその姿を良好に伝えているのみならず、歴史学習の教材として身近なところに存在することが特筆される。今後、福知山の代表的な中世城跡として福知山市指定文化財(史跡)とすることに遜色のない遺跡である。福知山市のHPより抜粋掲載。

1.洞玄寺の石段参道の入口にある碑文(全ての画像はクリックすると拡大します。)
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2.標柱と拡大します。)石段参道
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3.見事な石段参道
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4.総門を見る!
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5.山門手前の石仏などを見る!
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6.見事な山門を見る!
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7.山門を潜って本堂を望む‼
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8.見事な本堂を見る!
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9.本堂向拝の見事な龍の彫り物を見る!柏原の中井権次一統の作か?
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10.本堂向拝の木鼻の唐獅子、象などを見る!
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11.ボタン寺と呼ばれ福知山十景の一つである牡丹園を覗く!
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12.満開の見事な牡丹圓です!4月下旬!
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13.本堂前の摩尼(まに)を久し振りに回して健康を祈願した!
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14.本堂内の見事な須弥壇です
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15.須弥壇の左側の仏像群
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16.須弥壇の右側の仏像群
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17.洞玄寺に残る戦国時代の石原城址
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18.同上
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19.同上 濠跡
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20.同上 濠跡
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2020/2/5

京丹波を見る!元何鹿郡で現福知山市の延喜式内社・阿毘地神社!  文化財研修記

京都府福知山市興567には元何鹿郡(いかるがぐん)現福知山市の延喜式内社の阿毘地神社(あびちじんじゃ)がある。山陰本線石原駅の東500mほどの興に鎮座している。8号線を進み、小さな踏切を渡ると、社域の森が目の前にある。境内入口は東側で石造の鳥居をくぐると木々に覆われた境内となっている。参道を進むと正面に東向きの社殿。右手に社務所、左手に神庫で社殿は、瓦葺入母屋造の拝殿の後方に、銅板葺流造の本殿がある。本殿は石組の上にあり、少し高い位置にあり、屋根の前方に向拝が付いている。社伝によると人皇四十九代光仁光仁天皇の御代にあり、宝亀年間(770〜781)の創祀です。「阿毘地」と書いて「あびち」「あびぢ」と呼ばれているが、『丹波志』には「神名アリヲチ」「天日大明神」。古来、興地区では「テンニッツァン(天日様)」、観音寺地区では「アベッツァン」と俗称されてきたという。天日様と呼ばれた事から現在の祭神は大貴命だが、「アリヲチ」と呼ばれた場合もあるように異説もあり『式内社調査報告』によると、祭神不詳、天照大御神、火明命、阿利袁知明神など。当社は、元は現社地の700mほど東南の補陀洛山観音寺付近の台地に祀られていたという伝承があるらしく、観音寺村から興村が分かれて発展し、両村の中間点に遷したという。『式内社の研究』で志賀剛は、「阿比地」は「阿由地」の訛りで湧水の地であると考え補陀洛山観音寺の閼伽井のあたりを旧址と記している。また、当社は「上(かみ)」から流れてきたという伝承もある。由良川の洪水で、流れ着いた神ということだろう。社殿の右手に境内社が並んでいる。奥に稲荷神社、手前に以下の四社を祀った祠がある。疫神神社、手力神社、天神神社、大木神社。境内左手の神庫には丸に三つ柏の紋が付いており又拝殿の屋根瓦には橘紋がある。

1.西側の鳥居
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2.正面の神社標柱を見る!
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3.巨大な自然石の常夜燈が右側にある!
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4.石造り鳥居など正面を見る!
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5.拝殿に向かって左側には3メートルもあろうか、巨大な常夜燈がある。
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6.正面から拝殿と一対の狛犬を見る!
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7.阿形の狛犬
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8.吽形の狛犬
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9.神倉には丸に三つ柏の紋が見える!(画像をクリックすると拡大します。)
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10.拝殿(画像をクリックすると拡大して見えます。)
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11.拝殿をアップで見る!
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12.拝殿前右側の狛犬・常夜燈を見る!
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13.拝殿前左側の狛犬・常夜燈を見る‼
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14.左側から拝殿後部の相の間と本殿を見る!
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15.本殿をアップで見る!
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16.同上
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17.巨大な御神木を見る!
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2020/2/1

兵庫県丹波を見る!明智光秀公所縁で春日局生誕地の春日町にある興禅寺!  文化財研修記

兵庫県丹波市春日町黒井2263には国史跡で斎藤利三と春日局生誕地として有名な山号は大梅山、曹洞宗別格地、本尊は釈迦如来(仏師春日作)の興禅寺(こうぜんじ)がある。戦国時代の山城黒井城の下館、明智光秀の丹波制圧後に家臣斎藤利三が居住した館の跡に創建された。現在も楼門前には水を湛えた七間堀と高い野面積みの石垣と白ねり塀が聳えるという城砦然とした戦国時代の構えをとどめており、山上の黒井城とともに「黒井城跡」として国の史跡に指定されている。
沿革
この寺の前身は「杖林山誓願寺」といい、今の位置から150メートル下った場所にあった。八木城主内藤宗勝が黒井城を攻城した時に誓願寺も戦火にあい焼失してしまった。当時の誓願寺があった場所は「寺屋敷」と呼ばれ9つの寺が立ち並んでいて、黒井城の寺町を形成していた。この時、寺の復興に努力したのが黒井城主荻野直正(赤井直正)で、堂宇を建立などして再建につとめたと言われている。現在の場所に移転したのは、黒井城の落城50年後の寛永3年(1626)のことで下館跡に、本堂等を移転し、山号を「杖林山」から「大梅山」、宗派を真言宗から曹洞宗に、寺号を「誓願寺」から「興禅寺」に、開基を荻野直正とした。興禅寺の高石垣と水濠は、下館をそのまま再利用したのではないかと言われている。
斎藤利三と春日局の生誕地
明智光秀が黒井城を落城させた後、斎藤利三が黒井城と下館を中心にこの地を治めた。天正7年(1579)から天正9年(1581))の3年間、亀山城 (丹波国)と往来していたと思われている。その天正7年(1579年)にお福が生まれ3歳まで居住した。彼女が後の徳川家光の乳母であり大奥の礎を築き統括した春日局である。『稲葉家・御家系典』には、春日局を御乳母となし、局頭と称して春日局と号す。これすなわち、丹波国氷川郡春日井庄の生所をもってこの名をなすという。と記載され下館が生誕の地ではないかと推定されている。

1.高石垣と水濠(長さは約80メートルの水濠は「七間堀」と呼ばれており、石垣の高さは約5m程度で、黒井城と同様の「野面積み」で、部分的に切込みハギが使われている部分は後世の改修の手が入ったと思われている。楼門は宮津市にある智源寺からの移築門で、創建年代は不明だが、元禄年間改修の記録が残る。
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2.黒井城址が見える!案内板!


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4.2007年(13年前)初めて興禅寺の見学や黒井城址登山の記事は下記をクリックして見て下さい!
https://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/315.html

5.興禅寺の七間濠や仁王門をアップで見る!
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6.見事な仁王門
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7.吽形の仁王像
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8.阿形の仁王像
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8.駒札(画像をクリックすると拡大します。)
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9.鐘楼です。赤井直正の子赤井直義が先祖供養のために建てられたと言われている。現在の鐘楼は大正2年に改築されたものです。
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10.本堂を見る!
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11.お堂
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12本堂右側の庫裡
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13.お福腰かけ石(お福が腰をかけて遊んだと伝わる石)
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14.庭園の一部
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15.お福産湯の井戸(深さ1.7メートルで、お福が初湯に使ったと伝わる井戸。)
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2020/1/30

兵庫県丹波を見る!丹波市市島町にある国史跡の三ツ塚廃寺跡!  文化財研修記

兵庫県丹波市市島町上田1134には国指定史跡の三ツ塚廃寺跡や天神窯跡がある。白鳳(はくほう)時代の寺院跡で竹田川右岸の段丘上に所在し、きわめて特異な伽藍(がらん)配置をとることから、1976年(昭和51)に国の史跡に指定された。講堂、鐘楼、回廊跡などが検出されていないため、寺院跡の全容は明らかではないが、遺構は3つの基壇が東西に一列に並ぶ。東西両端の2基が東塔および西塔跡で、中央の基壇が金堂跡。中門、東門、西門は2本柱の掘立柱の遺構で、北門は築地垣のついた低い基壇をもち、南門も同様と考えられている。こうした内側に、東西両塔の基壇が版築され、各1辺10mで縁は瓦積み化粧となっており、東塔の基壇の中央には中心に径、深さともに11cmの舎利孔をもつ径約1.5mの地下式心礎が据えられている。金堂は東西12.8m、南北10.3mで、若干の礎石が確認される。金堂の北には講堂がみられず、他の白鳳時代の遺跡とは異なる伽藍配置である。寺域周辺からは、掘立柱建物群が検出され、とくに北側に隣列する数十塔の建物群は、奈良時代から平安時代に建てられたもので、氷上(ひかみ)郡家(ぐうけ)と想定されている。東南方にはこの寺に瓦を供給した瓦窯が発見されており、あわせて史跡に指定され、現在は史跡公園として整備されている。JR福知山線市島駅から徒歩約25分。

1.三ツ塚廃寺跡
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2.真中の金堂跡の碑文
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3.金堂跡
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4.西搭跡
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5.史蹟公園を見る!
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6.同上
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7.心楚の説明版
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8.心楚
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9.東門跡
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10.東門跡碑
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