2019/1/3

京を見る!日蓮宗大本山の一つ妙顕寺!  文化財研修記

京都府京都市上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町514には日蓮宗大本山具足山龍華院妙顕寺(みょうけんじ)がある。本尊は三宝尊で創建年元亨3年(1321)で)開山は日像・開基は後醍醐天皇です。塔頭が九院ある(久本院、十乘院、泉妙院、法音院、恩命院、善行院、本妙院、實成院、旦院)。
日蓮の遺命を受け、京都布教中の日像が後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立した。京都における法華宗の根本をなす寺院となった。その後、備前法華の祖と仰がれる大覚を輩出し、法華宗の発展に大きく寄与することとなった。「四海唱導」「四条門流」と呼ばれる。妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。日像は、元亨元年(1321)、今小路(現京都市上京区大宮通上長者町)に妙顕寺を建立した。なお、師の日朗から日像あての書状には「綾小路大宮の御坊」とあり、元亨以前に綾小路大宮(現下京区)に布教の拠点があったとみられる。建武元年(1334)には後醍醐天皇より綸旨を賜り、勅願寺となった。暦応4年(1341)、光厳院の院宣により、四条櫛笥(現京都市下京区・中京区の境)に移転した。嘉慶元年(1387)、比叡山衆徒により伽藍が破却され、寺は若狭小浜に避難する。明徳4年(1393)、足利義満の斡旋により、三条坊門堀川(現中京区堀川御池)に伽藍を再建し、寺号を妙本寺と改めた。応永18年(1411年)には足利義持の祈願寺となっている。応永20年(1413)、寺は比叡山衆徒により再び破却され、永正18年(1521)、足利義稙の命により、二条西洞院(現中京区)に再建されている。その前後、永正・大永頃(1504 - 1528)に寺号を妙顕寺に戻している。 天文5年(1536)、天文法華の乱で伽藍を焼失し、寺は堺に避難するが、天文11年(1542)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、堺に避難していた法華宗寺院は相次いで京に戻った。妙顕寺は天文17年(1548年)、二条西洞院に再建されるが、天正12年(1584年)、豊臣秀吉の命により、現在地に移転した。そして秀吉は妙顕寺跡地に二第妙顕寺城を築く。天明8年(1788)、天明の大火により焼失し、その後再建されている。

1.妙顕寺の標柱
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2.見事な山門
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3.山門を正面から見る!
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4.本堂を見る!
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5.見事な本堂です!
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6.鐘楼を見る
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7.紅葉の境内
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8.見事な本堂をアップで見る!
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9.右手が本堂、左手が庫裡
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2019/1/1

京を見る!国重文の平安時代の梵鐘を持つ報恩寺!  文化財研修記

京都市上京区小川通寺の内射場町には鳴虎(なきとら)の報恩寺(ほうおんじ)といわれるこの寺は,尭天山と号し浄土宗に属します。中国の画人四明陶佾(しめいとういつ)が描く猛虎の図を豊臣秀吉の所望により聚楽第の床へ飾ったところ,夜中に虎の鳴き声が聞こえ,秀吉は一晩中安眠できませんでしたので,すぐに寺へ戻されたことから鳴虎として有名になりました。この絵は寅年の正月三が日に限り公開されます。
 寺伝では室町時代,一条高倉に開創したとあり,法園寺または法音寺という天台・浄土兼学の寺でしたが,文亀元年(1501)後柏原天皇の勅で慶譽(きょうよ)が堀川今出川の舟橋の地に再興し,浄土宗報恩寺と改めました。天正13年(1585)秀吉によって現在の地に移されますが,享保・天明の大火に類焼しています。
 重要文化財の梵鐘はその由来を明らかにできませんが,高さ123.5センチ,口径73センチ,素文の銅鐘です。高い笠形,肩すぼまりの形態,乳の形,八角素弁小形の撞座(つきざ)2個が龍頭(りゅうず)の方向と直交しているなど,奈良時代以来の古式を残す平安時代の鐘です。池の間(いけのま)には金剛界四仏を籠字(かごじ)の梵字であらわし,その下に梵文の真言を刻んでいる珍しい意匠です。西陣の機屋はこの鐘の音を聞いて仕事の手を休めました。一名,勿撞(つかず)の鐘といわれるのは,ある時,お十夜の晩に鳴るか鳴らぬかで丁稚と織子が口論した結果,鐘が鳴らなかったので織子が狂い死にしたという話があり,以後,除夜の鐘以外は撞かなくなったということです。
 門前の石橋には慶長7年(1602)架橋の刻銘があり,本法寺の石橋とともに,今は埋められた小川(こがわ)の名残を止める貴重な遺産です。


1.報恩寺の標柱
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2.駒札
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3.見事な山門
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4.観世稲荷神社
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5.同上 アップで撮影
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6.客殿
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7.客殿の本尊・阿弥陀如来像
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8.見事な庭園の一部
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9.国重文の鐘のある鐘楼堂
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10.国重文の鐘(平安時代)
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11.見事な枯山水の庭園
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12.福山藩祖の阿部正勝等の墓碑のある墓地
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2018/12/28

京を見る!崇徳天皇・淳仁天皇を祀る白峰神宮!  文化財研修記

幕末、風雲急を告げる中、121代孝明天皇は、保元の乱(1156)によって悲運の運命を辿られた第75代崇徳天皇の御霊を慰め、かつ未曾有の国難にご加護を祈らうとされ、幕府に御下命になり四国・坂出の「白峰山陵」から京都にお迎えして、これを祀らうとされましたが叶わぬままに崩御されました。明治天皇は父帝の御遺志を継承・心願成就され、宮地を和歌・蹴鞠の公卿宗家「飛鳥井家」の邸宅地跡に求められ、慶応4年(明治元年)9月6日、社殿を現在地に新造。奉迎鎮座されました。続いて明治6年に第47代淳仁天皇の御神霊を淡路島南端の御陵からお移して、御併祀になりました。当初は神祇官員が日々ご奉仕しましたが、明治の新制度により官幣中社としての待遇をうけ、昭和15年には官幣大社に御昇格・「 白峯神宮 」となりました。
また、当神宮には「まり」の守護神として「精大明神」が祀られています。「精大明神」は蹴鞠・和歌の宗家である公卿・飛鳥井家が代々守護神として邸内にお祀りしてきたもので、当神宮がその祭祀を受け継いでおります。そのために、今では「まりの神様」として崇敬され、日本サッカー協会をはじめ各種スポーツにおいて、使用された公式球が奉納されています。御神徳を仰ぎ、野球・サッカーを始めとする球技や新体操、また日々の習い事に至るまでの目的の上達を願う参拝者が多く訪れます。けまりは、ボールを落とさない事・落ちない事から、勉学の神 白峯天神様のご利益が学力を落とさない・試験に落ちないなどと縁起が良いとされています。
春秋の修学旅行シーズンには、新人戦や大会に向け御祭神の御神徳を頂こうと学生達の参拝が多く、目的の上達を願い全国唯一の「闘魂守」を授かって、日々の練習の成果を発揮して頂いています。また、蹴鞠保存会100周年記念に建立されました「蹴鞠碑」前での記念撮影や、全国唯一の「闘魂守」を授与しています。
このほか、崇徳天皇に仕え、武道の神として、源氏の頭領源為義・鎮西八郎為朝公を祀る「伴緒社」、縁結び、水の神「潜龍社」また、魔除・厄除の神と御利益が有る「柊大明神」を祀る、柊護符を節分の時季に限り戴ける。 境内各所に祀られています。(白峰神宮ホームページより抜粋)

1.白峰神宮の標柱
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2.白峰神宮神門
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3.見事な手水舎と後部に京都市指定天然記念物のオガタマの木が見える!
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4.駒札
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5.巨大な舞殿です!
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6.神官達の「蹴鞠の練習」を見る!
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7.精大明神(地主神社)拝殿
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8.同上 拝殿をアップ殿見る!
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9.駒札
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10.本殿を見る!
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11本殿を横から見る!
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11.源氏の頭領源為義・鎮西八郎為朝公を祀る「伴緒社」
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12.潜龍社の駒札
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13.潜龍社
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2018/12/25

京を見る!国宝の蓮華王院本堂(三十三間堂)を見る!  文化財研修記

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都府京都市東山区三十三間堂廻町にある寺院の仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂。本尊は千手観音で、蓮華王院は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。 国宝の現在の堂は文永3年(1266年)に完成した。洛中にある建物の中では大報恩寺本堂に次いで古く、洛中で鎌倉時代にまで遡る建物はこの2棟のみである。入母屋造、本瓦葺き、桁行35間、梁間5間とする。実長は桁行が118.2メートル、梁間が16.4メートルである。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)、組物は出組(肘木を壁面から一手持ち出す)を用いる。柱間装置は正面はすべて板扉、側面は最前方の一間のみ板扉で他は連子窓、背面は5か所に板扉を設け、他を連子窓とする。正面中央に7間の向拝を設ける。現状の向拝は江戸時代初期、慶安3年(1650年)のものであるが、後白河上皇による創建当初から現状のような形式の向拝が取り付いていたとみられる。
内部は板敷で、桁行33間、梁間3間の身舎(もや)の四方に1間幅の庇を設けた形になる。身舎が内陣すなわち仏像を安置する空間にあたる。内陣は中央の桁行3間分を内々陣とし、本尊千手観音坐像を安置する。その左右、各桁行15間分は10段の階段状の長大な仏壇とし、千手観音立像1,000躯を安置する(千手観音立像は他に本尊の背後にもう1躯ある)。天井は内々陣部分が折上げ組入天井、左右の部分は二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょう かえるまた)に化粧屋根裏(天井板を張らず、垂木を見せる)とする。庇部分(背面を除く)は各側柱(建物外周に立つ柱)から身舎柱へ繋梁を上下二重に渡す。各身舎柱間を飛貫(ひぬき、頭貫の一段下に位置する水平貫通材)で繋ぐこと、繋梁のうち下段のものが身舎柱を貫いて突出し、その部分に大仏様(よう)の木鼻(装飾的な彫り)を設けることなどが特色である。これらの特色は鎌倉時代の新たな工法を示すものである。現状では堂の内外に彩色はみられないが、1930年の修理時に、虹梁下面に貼付された装飾鏡の座を外した下から極彩色の文様が現れ、建立当初の堂は彩色で覆われていたことが判明した。(ウイキペディアより抜粋)

1.拝観料支払所
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2.駒札
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3.三十三間堂本堂を回遊先から見る!
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4.見事な手水舎
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5.本堂を見る!
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6.同上
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7.駒札
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8.法念塔
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9.本堂正面を見る!
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10.本堂内部は撮影禁止!三十三間堂の見たい所は下記をクリックして見て下さい!
https://seeing-japan.com/535

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2018/12/20

京を見る!京都国立博物館で見事な「京の刀展」を見る!  文化財研修記

京都国立博物館は明治30年(1897)に「帝国京都博物館」として開館しました。平成26年(2014)に開館した平成知新館では、館蔵品・寄託品をあわせ、約1万3千件の収蔵品の中から選ばれた作品が展示されており、京文化の神髄がお楽しみいただけます。作品保護のため1か月〜1か月半ごとに展示替えが行われており、足を運ぶたびに新しい作品との出会いがあります。



1.京都国立博物館(本館・表門・札売場・袖塀は国重文です!)
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2.京のかたな展(特別展示)入館料1,500円(物凄い人気で若い女性が多かった!)
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3.国重文の本館
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4.本館内部は補強工事で閉館中で「特別展」の一部を展示で撮影は可能だった!
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5.同上
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6.同上
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7.京都国立博物館本館から西門方面を見る!
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8.出展目録国宝・国重文の日本中の刀です!(画像をクリックすると拡大して読めます。
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9.同上4−2
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10.同上4−3
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2018/12/15

京を見る!祇園祭りでも有名な八坂神社!  文化財研修記

 社伝によれば、斉明天皇2年(656)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、名は新羅の牛頭山に由来するのだという。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まる。
 貞観18年(876) 僧・円如が播磨国広峯の牛頭天王の分霊を遷し、その後、藤原基経が精舎を建立して観慶寺(別名 祇園寺)と称した。延長4年(926) ある修行僧が祇園天神堂を建てた承平4年(934) 祇園感神院を建てた
 創建については諸説あるが、祭神は古くから牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)であったことは確実である。古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない。これは神仏習合の色あいが濃く延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られるが、後の二十二社の一社にはなっており、神社としても見られていたことがわかる。平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けた。
祇園祭は、貞観11年(869)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年(970年)ごろから当社の祭礼として毎年行われるようになった。
 祇園社は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末に戦争により延暦寺がその末寺とした。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された。足利義満は、祇園社を比叡山から独立させた。だが、それで祇園社が幕府配下となったわけではなく、以降、祇園祭は経済的に力をつけていた京の町衆により行われるようになり、現在に至っている。慶応4年(明治元年)の神仏混交禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改めた。近代社格制度のもと、明治4年に官幣中社に列格し、大正4年に官幣大社に昇格した。(ウイキペヂアより抜粋)


1.見事な楼門(四条通りに面した西楼門、国重文)
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2.楼門の阿形の随身
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3.同上 吽形の随身
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4.楼門から四条河原町方面を見る!
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5.祖霊社
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6.祖霊社の駒札
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7.南楼門
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8.藤屋と空也上人所縁の井戸
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9.同上 駒札(画面をクリックして拡大すると読めます。)
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10.忠盛灯籠
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11.同上 駒札(画面をクリックして拡大すると読めます。)
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12.舞殿
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13.本殿(国重文、祇園造りと呼ばれています。)
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14.本殿向拝をアップで見ます!
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2018/12/11

京丹波を見る!三和町中出の興雲寺開山・回天大禅師の隠居寺で古木の500年傘椿で知られる廣雲寺!  文化財研修記

京都府福知山市三和町芦渕685には臨済宗妙心寺派で興雲寺の開山・回天大禅師の隠居寺であり500年傘椿でも知られている霧窓山廣雲寺(むそうざんこううんじ)がある。 稲葉氏家老黒川氏寄進の本尊は釈迦如来である。「寺院明細帳」には「堂宇創立ハ、慶安弐年丑年月日不詳、開山同細見奥村興雲寺回天法旧和尚ヲ請テ、当寺開山トナス、当字迄の歴住八代」とある。『丹波志』には、「回天和尚隠居所芦渕村ニ存、今霧窓山広雲寺ト云、家老黒川吉之助施主本尊在之」と記され、『丹波志』にも「興雲寺ヲ退隠シテ、此所ニ住シ、稲葉氏の家老黒田吉之助寄付ノ仏を以テ本尊トシ祭リ、逐ニ壱宇トナレリ」とある。『天田郡志』にも同様に記され、『細見村史』に、「開基は妙心寺住職回天法旧和尚、寛文2年(1662)壬寅四月二十五日の創建」とまとめられ、興雲寺入寺以来10年余で、当寺を中興創建におよんだものと考えられる。


1.標柱と本堂を見上げる!
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2.石段参道と本堂
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3.見事な本堂です!
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4.本堂の扁額
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5.500年傘椿の駒札
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6.500年傘椿
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7.見事なお堂
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8.鐘楼
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9.見事な境内
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10.五色椿の駒札
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11.五色椿
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2018/12/6

京丹波を見る!福知山市三和町にある回天法旧大禅師の開山の臨済宗妙心寺派の興雲寺!  文化財研修記

福知山市美和町中出16には開山は回天法旧大禅師で開基は稲葉紀通で臨済宗妙心寺派の顕龍山・興雲寺(こううんじ)がある。福知山城は開山はご承知の通り明智光秀公が丹波攻めで造った城で急な造城のため多くの転用石(てんようせき)を使って造り上げています。この当時の稲葉紀通は、<今弁慶>と呼ばれた美濃の稲葉一鉄のひ孫にあたり春日局とも関係が深く、1624年福知山藩主になるが、領民に重税を課したり、領民を多数殺害したりの悪政がたたり、1648年福知山城内で自害している。遺体は福知山の外れにある興雲寺に葬られていたが、その後、遺骨は京都妙心寺の雑華院へ移されている。興雲寺は三和町の山間にひっそりと佇むが、寺構えのどっしり感は大名菩提寺を物語っている。紅葉の時期には多くの参拝者が訪れるが、天田郡西国7番札所、又、京都・兵庫にまたがる七福神の寿霊場第6番札所として有名で多くの参拝者が訪れている。

1.興雲寺の山門を見上げる!
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2.山門前の標柱です!
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3.見事な山門です!
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4.見事な本堂
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5.見事な鐘楼
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6.稲葉紀通の菩提寺として聖観音(稲葉紀通)を祀る観音堂
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7.観音堂内陣
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8.見事な境内
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2018/12/1

京丹波を見る!京都府登録文化財の福知山市三和町辻にある梅田神社!  文化財研修記

京都府福知山市三和町辻には京都府指定文化財の三棟の社殿と附棟札2枚を持つ梅田神社がある。この梅田神社は細見谷の中出、辻、中嶋、西谷の四ケ村の産土神とされ、細見氏の祖先である紀忠通(きのただみち)が記られている。境内は、道よりやや上に石段を登ったところの広場を中心に、南面して三棟を入れた覆屋があり、かたわらには稲荷や八幡の社がある。石段の下の手水鉢や覆屋両脇の石灯龍には、宝永5年(1708)の銘があり、この時に境内の整備がされたことがわかる。本殿をはじめとする三棟は、棟札写しによると、貞享5年(1688)の建立。覆屋も立派なつくりで、大正6年に改修したのを、昭和26年唐破風向拝を付け瓦葺とした。それまでは茅葺であったため、古くから7年ごとに葺替えをおこない社を保存してきた。このときの冠童と称する氏子となる男子の祝儀式は、瓦屋根となった現在も行われている。祭神:天児屋根命、事代主命、紀貫之で、創建等の由緒は不明。京都府登録文化財は梅田神社本殿、摂社 春日神社本殿、摂社 西宮神社本殿 (江戸時代)と附棟札2枚です。


1.梅田神社の鳥居
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2.宝永5年の銘のある手水鉢
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3.石段参道
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4.拝殿を見上げる!
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5.巨大な覆屋に覆われた梅田神社本殿、摂社春日神社本殿、摂社西宮神社本殿
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6.神社の駒札
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7.梅田神社本殿
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8.梅田神社本殿を真ん中に、左に摂社春日神社本殿、右が摂社西宮神社本殿
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9.見事な彫刻
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10.宝永5年の銘のある石灯籠
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2018/11/30

京丹波を見る!梅田七社の筆頭の三和町莵原下の梅田神社!  文化財研修記

京都府福知山菟原下166川の上(梅田神社)には梅田七社の」筆頭の梅田神社(うめだじんじゃ)がある。創立は文治元年(1184)、祭神は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、彦布都押信命(彦太忍信命ひこふつおしのまことのみこと)である。明治16年(1883)の「神社明細帳」には、天児屋根命・紀貫之(きのつらゆき)とある。この近辺の神社には紀貫之の文字は頻繁にみることができます。本殿は天保13年4月18日、燈火による火災にあいました。
それから再び再建され、嘉永元年(1848)3月15日に式典が行われました。5日間村中のお祭りとなって、皆で踊り、見せ物、出し物とそれは賑やかなものだったそうです。昭和44年3月まで藁葺きの作りでしたが、藁葺き職人も少なくなってきたとのことでトタン葺きにかえられました。集落の中でも低い位置にあり、川に近い位置にある神社ですが、大きな水害の際も不思議と水がつくことがありません。
梅田七神社
梅田七神社の根本にあたる神社で、広く丹波の地域に七社、梅田神社という名前の神社があります。昔の祭事では一晩かけて御輿を担ぎ、この神社の元に集ったこともあったようです。
秋の大祭10月に行われます。20年以上前までは御輿を担いでいましたが、今は台車に載せて村をまわります。基本的には10月9日に行われることになっていますが、昨今は日曜日に行われます。戦前は10月23日に行われていましたが、農作業の都合から9日に変更されました。


1.梅田神社の大鳥居
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2.覆屋に覆われた梅田神社(1848年に再建された総ケヤキ造、正面に軒唐破風を設けた梅田・春日社を相似形に2棟並べて接続させた珍しい連棟式社殿です。)
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3.正面の梅田社を見る!
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4.右の春日社を見る!(幕末の贅を尽くした彫刻や絵様は見事で、非常に見応えがあります。)
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5.左、梅田社、右は春日社の連棟式社殿が見事です!
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6.横側から見事な彫刻の社殿を見ます!
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7.同上
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8.社殿から朱の大鳥居を見ます!
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