2019/4/12

兵庫県丹波を見る!朝来市にある天空の城・t竹田城2−1  文化財研修記

兵庫県の北部(但馬)の朝来市には武田城跡がある。。縄張りがが虎が臥せている様に見えるところから、別名虎伏城(とらふふすじょう、こがじょう)と呼ばれる国の史跡である。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、「天空の城」]や「日本のマチュピチュとも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。築城に関しては不明な点が多い。江戸時代末期に成立した『和田上道氏日記』によると嘉吉年間(1441 - 1443、城」とは「竹田城」そのものをさす。『和田上道氏日記』は古い伝承をまとめたもので、竹田城の築城に関しては他に史料がなく『史跡・竹田城』によると「嘉吉三年、山名持豊によって築かれ、太田垣光景が初代城主に任じられたとする口碑を残すのみである」とし永享3年(1431)に但馬守護山名宗全(持豊)によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承を紹介している。 この時期、但馬守護山名氏と播磨守護赤松氏の間で度々軍事的衝突が起こる。嘉吉元年(1441)6月、室町幕府6代将軍足利義教が重臣で播磨・備前・美作守護赤松満祐に暗殺され、幕府による追討軍に宗全が志願したからである(嘉吉の乱)。8月に幕府より追討令を受けた宗全は一族を動員して3方から播磨を攻め、宗全軍は丹波より生野から播磨に入国し、9月に城山城にいる満祐を滅ぼした。10月に宗全は恩賞として任命された播磨守護として入国し、太田垣氏を守護代とし赤松氏の掃討戦を実施している。その後嘉吉3年(1443)に赤松教政が、文安元年(1444)に赤松満政が、康正元年(1455)赤松則尚が山名軍に反抗するがことごとく敗れ、自刃・逃亡している。当時の竹田城は播磨と但馬の国境を守る拠点で、播磨を平定するための出撃の拠点ともなっていた。戦国時代の応応仁元年(1467)、細川勝元と山名宗全の争いが一因で応仁の乱が起こると但馬は細川氏と山名氏の争いの場となった。翌応仁2年(1468年)3月、細川軍の内藤軍が夜久野から但馬に侵攻しようとしていた時、竹田城で留守を預かっていた太田垣軍は、竹田城から出軍し夜久野で合戦となり小勢ながらよく戦い、内藤軍の大将2名を討ち取った。夜久野高原には現在も「内藤塚」と言われている供養碑が残っている。 その後も細川氏や赤松氏の脅威は去らず、応仁の乱が終わると宗全の孫山名政豊と赤松政則が播磨などを巡って抗争を続け、一時山名軍が播磨を占領したりしたが、長享2年(1488)頃には敗戦となり政豊の権威も低下、内紛も発生してしまうようになった。大永2年(1522)に政豊の子山名誠豊が播磨へ攻め込んだが、この時になると太田垣氏は出軍要請にも従わないようになり、赤松氏は結束を取り戻し山名軍を追放することになった。出雲の戦国大名・尼子氏は永禄9年(1566)の月山富田城の戦いで毛利元就に一旦滅ぼされた。しかし、永禄12年(1569年)5月に元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していた山名祐豊(誠豊の甥)がこれを支援した。これに対して毛利元就は織田信長に祐豊の背後を脅かすよう但馬出兵を依頼、これに応じた信長は8月1日に木下秀吉軍2万兵を派兵し、わずか10日間で18城を落城させ、8月13日には京都に引き上げた。此隅山城にいた山名祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬への復帰を許された。この時竹田城も攻略されたと考えられているが、山名祐豊の重臣太田垣輝延は引き続き城主として留まったようである。 天正元年(1573)、吉川元春ら毛利軍は出雲、伯耆、因幡に進軍し尼子軍を撃破しながら但馬に迫ってきた。太田垣輝延は毛利軍に降伏し、次いで天正3年(1575)5月に山名祐豊は吉川元春に誓紙を送って芸但同盟が成立する。一旦危機が去ったように思えたが、今度は丹波の赤鬼と言われた荻野直正が同年10月に竹田城を占領すると、山名祐豊は一転して信長に救援を求め、信長も応じる形で明智光秀を派遣して第一次丹波制圧(第一次黒井城の戦い)を開始し、荻野直正は黒井城に撤退した。竹田城の戦いは攻城戦で天正5年(1577)11月頃 羽柴秀長軍、太田垣輝延軍 指導者・指揮官が約3000兵で攻め竹田城落城させた。やがて信長と毛利氏の間が次第に悪化すると、信長は播磨に羽柴秀吉を派遣した。天正5年(1577年)10月、秀吉は黒田孝高に迎えられ姫路城に入城、それから1ヶ月で播磨の諸将から人質をとり帰服させることに成功した。その後羽柴軍は二手に分かれ、秀吉率いる本隊は上月城を攻城、別の一隊は秀吉の弟羽柴秀長が3000兵を率いて但馬に進軍した。
秀長隊の狙いは2つあったのではないかと『史跡・竹田城跡』では解説していて、一つは毛利軍に帰服している但馬諸将の制圧、もう一つは生野銀山の確保が目標であったようである。竹田城は生野銀山を管轄しており秀長隊の第一目標になり、11月に秀長隊は真弓峠から但馬に侵攻、まずは岩洲城を攻城し、次いで竹田城を攻城した。太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将羽柴小一郎殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候。寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なりと。武功夜話
と、竹田城では3日間の戦闘が繰り広げられた。しかし『戦国合戦大辞典』によると「(武功夜話)同書の史料的価値はすこぶる疑問とすべきで、実際にここでこのような戦闘があった真実性が乏しい」としている。また『信長公記』によると、直に但馬国へ相働き、先山口岩州の城を落城し、此競に小田垣楯籠る竹田へ取懸り、是又退散、則、普請申付け、木下小一郎城代として入れ置かれ候キ
」とあり、秀長が竹田城の城代となったとしている。 以下次回で!!
Wikipediaより抜粋。

1.30年ぶりに訪れた竹田城は専用バスでないと登れないし、又、入場料@300円が必要となっていた!(画像をクリックすると画面が拡大して見れます。)
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2.第一駐車場(ここから乗り合いバスで登山口へ。)
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3.乗合バス
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4.第一駐車場から武田城址を遠望アップで撮影する!
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5.第二駐車場の位置図、ここから徒歩で武田城址へ上る!
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6.第二に掲示の雲海に浮かぶ武田城址!!
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7.竹田城址への登山口
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