2019/1/25

京を見る!尼門跡寺院で百々御所とも人形寺ともよばれる宝鏡寺!  文化財研修記

京都市上京区寺ノ内通堀川東入百々(どど)町には臨済宗単独寺院で西山(せいざん)と号する尼門跡寺院で百々御所とか人形寺ともよばれる宝鏡寺がある。光厳天皇皇女の華林宮惠厳(かりんのみやえごん)は、無学祖元(鎌倉円覚寺開山)の弟子にあたる尼僧・無外如大が京都の五辻大宮(現・京都市上京区)に開いた尼五山筆頭景愛寺の6代寺持であった。室町時代の応安年間(1368−1375)、伊勢の二見浦にて漁網に掛かった聖観世音菩薩を景愛寺子院の建福尼寺に安置し、建福寺を改めて宝鏡寺と称した。これには、足利義政の娘が文亀年間(1501−1504)に再興したとする説もある。足利義満の時代、隣地には小川御所があったとされ、義満母の紀良子、義満実弟の満詮の別宅だったというが、応仁の乱(1467−1477)の折、戦禍から後土御門天皇、足利義政室の日野富子が逃げ込んでいた。後に後嗣を巡る争い(明応の政変)で御殿は焼かれてしまい、跡地は宝鏡寺に取り込まれた。正保3年(1648)、後水尾天皇皇女の理昌女王(久厳尼)が入寺して以降、代々の皇女が入寺する尼門跡寺院となり、土地の名前から「百々御所」(どどのごしょ)とも呼ばれたが、天明8年(1788)焼失。以降再建された現在の建物群は尼門跡寺院の構成をよく伝えている。京都の尼門跡寺院には、内親王が入寺することが多く、父である天皇から人形が贈られたとされ、宝鏡寺も孝明天皇遺愛の人形をはじめ[、多くの人形を所蔵している。それらの人形を一般公開する人形展が昭和32年(1957)から実施されるようになった。また、その後人形供養が行われるようになり、昭和34年(1959)には京人形の振興を目的として境内に人形塚が建立された。人形塚には御所人形像と武者小路実篤の歌が刻まれている。これらのことから、人形の寺と通称されるようになった。

1.宝鏡寺山門と標柱
クリックすると元のサイズで表示します

2.山門から本堂方面を見る!
クリックすると元のサイズで表示します

3.境内の人形塚には御所人形像と武者小路実篤の歌碑がある。
クリックすると元のサイズで表示します

4.人形津塚の彫られた御所人形をアップで見る!
クリックすると元のサイズで表示します

5.本堂の入口
クリックすると元のサイズで表示します

6.庫裡への入口
クリックすると元のサイズで表示します


綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 





この記事へのトラックバックURLはありません
トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ