2018/7/20

京丹波を見る!式内社・高倉宮以仁王を祀る高倉神社の土用の丑祭り!!  綾部の文化財

京都府綾部市「元何鹿郡(いかるがぐん)」には高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)を祀る高倉神社がある。明治9年5月に明治政府令により作成された「延喜式内並国史見在神社考証(えんきしきないならびにこくしじんじゃこうしょう)京都府立総合資料館所蔵」には天田郡(現、福知山市にはったたの3社、元何鹿郡の我が綾部市には12神社がる。その1つがこの高倉神社で、12世紀後半、平安時代末期には徐々に武士の時代になりつつあり、まさに平家の全盛の時代であった。平清盛は太政大臣として権力を振るい、治承3年(1179)には後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、翌4年高倉天皇(以仁王の異母兄弟)を退位に追い込み、自らの孫を安徳天皇として即位させた。源氏の有力者源三位頼政は、後白河法皇の第二皇子として将来を期待されていた以仁王を中心に挙兵する計画を立て、以仁王は平家追討の令旨を諸国の源氏に発し,自らも頼政を総大将として平家追討の兵を挙げられた。しかし、頼政方に利あらず、宇治の合戦で敗北、頼政は平等院で自刃。以仁王はそこを逃れ,南都で再興しようと数十騎の側近と南進された。丁度井出の渡し(木津川市山城町)で追撃の平家軍の猛攻撃を受け、以仁王の身代わりとして影武者が討ち死に、以仁王は13名の側近と丹波に逃れ頼政の領地であった吉美卿有岡村目指して10日余りの旅で何鹿郡綾部に着かれ由良川を渡たられたのは治承4年5月下旬か6月初め、農作業の中、里人は都からの高貴な方の到着を喜び笛、太鼓で田楽踊りを舞い今も伝わる「ひやそ踊り」で以仁王を慰めたという。しかし以仁王の矢傷は悪化し、同年6月9日「後世、庶民の腹痛の悩みを我代わって救わん」という言葉を残して昇天された。翌年養和元年(1181)9月9日以仁王の神霊を奥谷の森、高倉に移し奉り、ここに高倉神社が創建された。四方幸則宮司作成文を略す。宵宮祭の神事が午前0時に行なわれ、今は午前8時50分からの十二士神社の祭典からを掲載します。

1.高倉神社の土用の丑祭りのポスター
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2.平日にも係わらず多くの自家用車が臨時駐車場に一杯!
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3.以仁王所縁の「はらわた餅」6個400円が飛ぶように売れています!
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4.夜中12時からの宵宮の祭礼、午前8時からの本殿祭の祭礼も終わり、以仁王に随伴してきた12士を祀る境内社の「十二士神社」の祭礼が午前8時50分から始まった!
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5.同上
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6.京都府指定文化財の見事な拝殿をアップで見る!
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7.同上  見事な彫刻です!(画像をクリックすると拡大して見れます!)
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8.本殿から拝殿に向かって撮影!
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9.本殿祭の様子は下記をクリックして見て下さい!
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/1803.html


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