2016/9/28

山形・仙台を見る!2.山形城三ノ丸跡土塁と二ノ丸東大手門!  文化財研修記

山形城は山形城(やまがたじょう)は、山形県山形市霞城町にあった日本の城。別名は霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる。また、吉字城とも呼ばれた。国の史跡に指定され、日本1000名城に選定されている。おおよその城郭構造の基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。現在は、そのほとんどが失われ、二の丸跡が霞城公園として残されている。建造物では、大手南門が、市内の万松寺山門として移築され現存する。また、市内八日町宝光院の本堂は、御殿の建物を移築したものといわれている(県指定文化財)。山形市は、2033年をめどに本丸全体の発掘調査を完了させるとともに、本丸北枡形の復元を完了することを計画している。2012年度末現在、本丸は一文字門及び御殿等の写真・図面などの史料が発見されていないことにより、大型建築物の復元のめどは立っていないが、本丸大手門の高麗門及び土塀は時代考証に基づき復元が行われている。2013年の発掘調査は本丸西側濠の遺構が中心となり、本丸濠南西部に関しては本丸土塁構築が出来る状態となっている。20133年の発掘調査では三の丸跡から奈良・平安時代のものと推定される竪穴住居跡6棟が発見され、城下町は古代から存在した集落を基盤として形成されたのではないかとみられている。山形城が立地するのは山形盆地南側、馬見ヶ崎川扇状地の中央やや北寄りに位置する。羽州街道と笹谷峠の合流点に当たり、鎌倉時代までは最上郡の中心として栄えた。1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し、1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)初期の山形城が築城される。以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、最上氏本宗家の居城となった。最上義光が、慶長年間に城郭を拡大し三の丸を構築、家臣団の屋敷が置かれた。さらに城下町を整備し、慶長出羽合戦で得た出羽57万石の本城となる。元和8年(1622)最上氏が転封された後、鳥居忠政により改修がなされた。鳥居氏以後、たびたび主の変更があり、改修もなされたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、江戸中期以降は城の維持が困難になる。幕末には本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていた。

1.山形城三の丸跡の土塁の駒札
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2.三の丸方面へ
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3.三の丸土塁跡
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4.同上
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5.現在地
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6.山形城二の丸東大手門前
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7.下記をクリックして、「音声付動画」で山形城東大手門口周辺を見て下さい!
https://youtu.be/GMnJUKYyPU4

8.東大手門口
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9.東大手門櫓
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10.東大手門櫓内
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11.最上義光公勇戦の像
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12.山形城の石垣
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13.西門(まだ修復中です!)
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