2015/3/20

九州の文化財・史址を見る!34.天下の名城・熊本城と細川刑部邸3−3!  文化財研修記

熊本市中央区には天下三名城の一つとして威容をみせる熊本城がある。(中略)寛永9年(1632)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入った。このとき忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所とした。加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊やお家騒動により、城の修理もままならない状況であった。細川家が肥後入部時には、熊本城は現在の本丸周辺のみ整備されていて二の丸の一部と三の丸の大半は未開発であった。 このため細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修繕を幕府に申し出ている。この修繕は建築物の修理に留まらず、本丸の増築(二様の石垣に跡が見られる)・二の丸の整備にもおよんで居る。更に上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として順次現三の丸や壺川地域(江戸中期まで三の丸扱いされていた)の開発が進められ、最後に西端の段山(現在の段山町周辺)の郭が完成したのは明治維新まで30年を切った天保年間である。この時点で城内の櫓は焼失した森本櫓を除き62を数えていと言う。
旧細川刑部邸(きゅうほそかわぎょうぶてい)は、熊本城三の丸跡にある武家屋敷である。なお、細川刑部家(子飼細川とも言う)は細川内膳家(砂取細川)と並ぶ細川藩の一門家臣家(いずれも江戸期は長岡姓)であった。この刑部屋敷は熊本藩主となった細川忠利の弟細川興孝が刑部家をおこしたのち、現在の熊本市東子飼町に立てられた屋敷で平成5年(1993)に現在地に移築され熊本県指定有形文化財となっている。


1.熊本城周辺地図(全画面をクリックしますと拡大して読めます。)
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2.天守閣の横にある「五郎の首掛石」
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3.同上 駒札
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4.天守閣を後にして西大手櫓から二の丸広場を通り細川刑部邸へ向かいます!
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5.同上
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6.地図上一番西端上に細川刑部邸があります!
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7.邸内への鬱蒼とした道筋
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8.長屋門に至る!
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9.同上 駒札
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10.玄関に至る!
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11.細川刑部邸門前の庭園や建物を、下記をクリックして「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/x4_h0Kv5Jsc

12.邸内1.
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13.邸内2.
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14.邸内3.
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15.邸内4.
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16.茶室
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