2015/2/10

九州の文化財・史址を見る!15.平山城で唯一山鹿流兵法で築城された平戸城!  文化財研修記

平戸城(ひらどじょう)は、長崎県平戸市にあった城で江戸時代には平戸藩松浦氏の居城であった。別名は亀岡城(かめおかじょう)、亀甲城、日之嶽城とも呼ばれていた。
 平戸島の北部、平戸市街の東部に位置する。平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にある。三方を海に囲まれ天然の堀としている。丘陵の頭頂部に本丸が築かれ、その南側に二の丸、東側に三の丸が配された梯郭式の平山城である。最初は安土桃山時代の末期に松浦鎮信(法印)によって築かれたが破却され、江戸時代中期になって再建された。再建にあたっては山鹿素行の軍学に沿って縄張りがなされた。平城の赤穂城と並んで、平山城では唯一の山鹿流による城郭である。下松浦党の棟梁である松浦鎮信(法印)は、豊臣秀吉の九州平定に加わり松浦郡と壱岐の所領を安堵された。文禄・慶長の役の後、慶長4年(1599)現在の城地である日之嶽に最初の築城を開始した(現・平戸市岩の上町)。しかし、完成も間近となった慶長18年(1613)自ら火を放ち城を破却した。理由としては、豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためとも、最愛の嗣子、久信の死によるものともいわれている。鎮信は、平戸港を挟んだ北側に「中の館」と呼ばれる居館を構え、平戸藩の藩庁とした(現・平戸市鏡川町)。ここには明治時代に松浦氏の私邸が築かれた。現在は松浦史料博物館となっている。元禄15年(1702)4代藩主松浦鎮信(天祥)は幕府に築城を願い出て、翌年の元禄16年(1703)許可された。江戸時代中期に築城が裁可されたのは異例である。これは徳川家との姻戚関係と東シナ海警備の必要性によるものと言われる。鎮信(天祥)は山鹿素行の弟子であり、素行とともに全国を歩き資料集めを行い山鹿流軍学に基づく縄張りがなされた。素行を平戸に迎えたいと希望したが叶わず、実子の山鹿高基・義昌の兄弟が藩士として迎えられた。実際の築城指導は山鹿義昌によってなされた。5代藩主松浦棟によって元禄17年(1704)2月に着工され、宝永4年(1707)にほぼ完成した。天守は上げられず、二の丸に建てた3重3階の乾櫓をその代用としていた。

1.平戸海上ホテルより平戸城を見る!
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2.下記をクリックして、「音声付動画」で大しけの平戸大橋や平戸城を見て下さい!
http://youtu.be/EDySS3-7eDI

3.平戸城北虎口門(石垣と石垣の間にのった「渡櫓」様式で、城内に現存する唯一の木造遺構)
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4.同上から本丸二重櫓を見る!
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5.本丸二重櫓を見上げる!
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6.見事な本丸二重櫓
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7.城内に展示の見事な鎧兜と武具
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8.城内展示の見事な刀剣類(4世紀頃西海鎮護のため、駐留した十城別王(仲哀天皇の弟)の武将、七郎氏広の佩刀と云われる見事な鐶頭太刀もあったがガラスで撮影失敗!)
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9.城内展示の見事な武具類
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10.平戸城古地図
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11.天守櫓から見た平戸湾
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12.天守櫓から見た平戸大橋と平戸湾
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13.第二の櫓「見奏櫓」へ向かう
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14.二の丸大手門
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15.傍の面白い名前の「狸櫓(たぬきやぐら)」
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16.狸櫓をちょっと覗く!
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