2020/9/30
綾部市小畑町の古社・白髭神社を見る! 綾部の文化財
京都府綾部市小畑町別所8−13には白鬚大明神、仲哀天皇、神功皇后、竹内宿禰を祀る白髭神社がある。二社作一間四面辰己向、二間ニ三間半舞堂、境内凡三十間ニ五十間、小田谷ノ古社也(『丹波志』)白鬚神社、所在 豊里村字中小字別所、祭神 仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰 縁起は碑によると、本社はもと本村北隅の宮ケ嶽頂上に鎮座、船並に火防の守護神として崇敬せられた。後年、参詣不便の為現在の山麓に遷座した。祭神の武内宿禰とは、明治十六年四月社寺取調の際からか、古くは猿田彦之命と伝えている。(明治十七年社寺明細帳)宮ケ嶽の地名、天狗の止り松の老木はこれ等に関係があろう。
現在の社殿は、文政二乙卯年四月の改建、境内に梵字を配した塔身あり、
境内小社
・八阪神社 祭神 素盟嗚尊 由緒不詳
文政二年本社再建の時創祭と記録あり。
・愛宕神社 祭神 火産霊神 由緒等仝前
・山の神 もと原貝より現地に勧請
祭礼
古くは十月十五日、作田の高稲場で、後松原の白ひげ馬場で行う。現在は十月十六日。
(『豊里村誌』)
白鬚神社の本社は高島郡、琵琶湖の中に鳥居が建っている。古くは比良神と呼ばれ、比叡山の神である。ヒラとかシラ、「白日、白鬚は新羅に候」とか柳田国男も語るとおり、渡来人が祀ったものと推定されている。高句麗人も祀ったようで、関東にもよく見られる。栗町とか当地のあたりにもそれらではなかろうかと思えるような地名が残る。当地一帯の古代渡来人たちの開拓史を物語るものであろう。
1.白鬚神社の一対の石灯籠と鳥居を見る!

2.鳥居の扁額を見るも字が薄れて読めいない!

3.文政六年(1823)九月吉日寄贈の銘のある手水鉢

4.登り参道と社殿を見る!

5.正面に拝殿、左に参集殿を見る!

6.瓦葺きの拝殿を見る!

7.拝殿の銅鑼などを見る!」

8.拝殿の奥にある本殿を見る!

9.相の間から本殿を望む!

10.本殿の見事な彫刻を見る!

11.本殿の象鼻などの彫刻を見る!

12.見事な境内社二つを祀る!

13.拝殿前から参集殿など境内を見る!

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現在の社殿は、文政二乙卯年四月の改建、境内に梵字を配した塔身あり、
境内小社
・八阪神社 祭神 素盟嗚尊 由緒不詳
文政二年本社再建の時創祭と記録あり。
・愛宕神社 祭神 火産霊神 由緒等仝前
・山の神 もと原貝より現地に勧請
祭礼
古くは十月十五日、作田の高稲場で、後松原の白ひげ馬場で行う。現在は十月十六日。
(『豊里村誌』)
白鬚神社の本社は高島郡、琵琶湖の中に鳥居が建っている。古くは比良神と呼ばれ、比叡山の神である。ヒラとかシラ、「白日、白鬚は新羅に候」とか柳田国男も語るとおり、渡来人が祀ったものと推定されている。高句麗人も祀ったようで、関東にもよく見られる。栗町とか当地のあたりにもそれらではなかろうかと思えるような地名が残る。当地一帯の古代渡来人たちの開拓史を物語るものであろう。
1.白鬚神社の一対の石灯籠と鳥居を見る!

2.鳥居の扁額を見るも字が薄れて読めいない!

3.文政六年(1823)九月吉日寄贈の銘のある手水鉢

4.登り参道と社殿を見る!

5.正面に拝殿、左に参集殿を見る!

6.瓦葺きの拝殿を見る!

7.拝殿の銅鑼などを見る!」

8.拝殿の奥にある本殿を見る!

9.相の間から本殿を望む!

10.本殿の見事な彫刻を見る!

11.本殿の象鼻などの彫刻を見る!

12.見事な境内社二つを祀る!

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2020/9/25
綾部市小畑町の古社・二ノ宮熊野神社を見る! 綾部の文化財
京都府綾部市小畑町(おばたちょう)正名8−103には創建年不詳だが古社の熊野神社がある。二ノ宮熊野大権現 中村在中 南ノ山根ニ谷川限南分ノ産神
祭ル神 祭礼 九月十六日
社一間ニ一間半三社作 正面丑寅二間ニ五間舞堂 鳥居有 社地凡三十間ニ五十間 (『丹波志』)
二の宮神社
所在 豊里村字中小字正名
祭神 速玉男之神、伊邪諾神、事解男之神
由緒 一名熊野神社、創立年月不詳、口碑に貞観二年創立、寛文十三丑年紀伊国本宮より熊野神社を勧請し祭祀すと。御神体は、聖観音。
祭礼
例祭は十月十六日、武大神と共に行う、武大神には御輿なく御鉾あり、二宮には御鉾なく神輿あり。祭礼音頭は、京都三十三間堂の棟上音頭という。
鳥居
本社は両部鳥居という。真言宗・天台宗に関係ある神社に用いると。
末社
・蛭子神社 祭神 蛭子大神 創立天明五巳年
・大社神社 祭神 大国主大神 創立 仝
・八幡宮社 祭神 誉田別天皇 仝
・若宮神社 祭神 稚郎子皇子 仝
・大川紳杜 祭神 由緒不詳
境外社
・八幡紳社
所在 字中小字作田、祭神 忘神天皇
・稲荷神社
所在 宇中小字原貝、祭神 倉稲魂神
創立 文久二年正月三十日
(資料として、稲荷本宮羽倉伯耆守内神役人の証二通あり。)
(『豊里村誌』)
小畑城の波々伯部氏:大永より天文へかけて丹波を戦火にまきこんだ大永の乱において、丹波守護代の内藤氏は細川高国方を固め、また丹波統一の野心もあったとみえ、何鹿郡の鴻ケ嶽城(大島町)に一族の日向守正綱を、小畑城(小畑町)には重臣波々伯部の一族を置き、永禄のはじめには福知山の押えとして鬼ケ城にも一族を派遣した。
波々伯部氏が伺鹿郡に入った時期については何の資料も発見できないが、内藤氏の勢力がこの地におよぶようになった永正のはじめころではなかろうか。それより天正七年(一五七九)、光秀の丹波攻略で滅亡するまで、長くても六、七〇年ほどの間ではあるが小畑城主として威を張っていたものであろう。小畑城の波々伯部氏が、細川高国あるいはその弟の晴国に従って奥郡の土豪たちとともに活躍したことは、福知山城に残された『横山硯』や「塩見家文書」で知ることができる。享禄四年(一五三一)尼ケ崎合戦に出陣した丹波の土豪について『横山硯』は、
「享禄四年京語の折節摂津尼ケ崎の合戦日々増長せり 是によって細川高国殿討手に仰付けらる 此
時天田郡にては横山の城主小笠原大膳頼氏 奈賀山隠岐守長頼 何鹿部にては大槻右京太夫信高 波
々伯部伊勢守 笹山の八上城主波多野両家等 各細川公の幕下に属し尼ケ崎へ討出云々」
と記している。この細川晴元との合戦は高国方が敗れ、高国は自殺し、丹波の土豪、足立・波々伯部・細見・牧等は討ち死、(丹波史年表)志賀郷の土豪志賀四郎兵衛尉もともに討ち死している。(志賀氏系図)次いで永禄八年(一五六五)三月、氷上郡黒井城主赤井悪右衛門直正は隣郡天田郡を押えようと、芦田・足立・久下等の族をたのみ、福知山、横山城の横山大膳亮を包囲して攻め落とそうとしたが、横山城側の計略にかかってさんざん敗れ赤井勢は退却した。この合戦に横山城主一族の姻戚、小畑中村の城主波々伯部源内義信が加勢して戦っている。
小畑城の波々伯部氏が消滅するのは、天正七年明智光秀方の猪崎城主塩見家利討減のころであろう。『横山硯』によると、光秀は四王天・木下らの武将とともに数万の軍をひきいて、横山・和久・中山の城をおとし入れ猪崎城にせまった。城主家利は、とても勝ちめなしと城に火をかけて落ちていこうとしたが、追手に打たれてしまった。奥方は親元の波々伯部の方へ逃げ帰ろうとしたが三坂峠で討たれ、「まことにあわれな次第なり」としている。このあと小畑城の波々伯部氏は滅ぼされたものと思われる。
猪崎城主の妻が遺児を抱いて三坂峠まで来たところ追手に打たれたという哀話は、三坂女郎物語としていまに語り伝えられており、このとき血に染まった太刀を洗ったという御太刀池や、明和六年に建てられた供養塔が三坂峠の上に残っている。波々伯部氏はこうして光秀の丹波平定のかげにはかなく消えていき、生き残って帰農した一族がわずかにその名を残している。
1.熊野神社の標柱を見る!

2.石灯籠一対と鳥居を見る!

3.見事な両部鳥居です!

4.鳥居の扁額を見る!

5.手水舎を見る!

6.登り参道を見る!ステンレスの手摺は中村孝行先生の寄贈です。

7.登り参道から社殿を見る!

8.右側にある参集殿を見る!

9.見事な社殿を見る!

10.社殿をアップで見る!

11.社殿の彫刻を見る!

12.拝殿から本殿を見る!

13.拝殿左側から本殿左側の覆屋を見る!

14.本殿の彫刻を見る!

15.社殿の左側側の神輿蔵を見る!

16.末社群

17.綾部の古木・名木100選の一つ幹周4メートルもある大杉と駒札

18.同上

19.小畑三社祭りの記事は下記をクリックして見てください!
https://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/1498.html
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祭ル神 祭礼 九月十六日
社一間ニ一間半三社作 正面丑寅二間ニ五間舞堂 鳥居有 社地凡三十間ニ五十間 (『丹波志』)
二の宮神社
所在 豊里村字中小字正名
祭神 速玉男之神、伊邪諾神、事解男之神
由緒 一名熊野神社、創立年月不詳、口碑に貞観二年創立、寛文十三丑年紀伊国本宮より熊野神社を勧請し祭祀すと。御神体は、聖観音。
祭礼
例祭は十月十六日、武大神と共に行う、武大神には御輿なく御鉾あり、二宮には御鉾なく神輿あり。祭礼音頭は、京都三十三間堂の棟上音頭という。
鳥居
本社は両部鳥居という。真言宗・天台宗に関係ある神社に用いると。
末社
・蛭子神社 祭神 蛭子大神 創立天明五巳年
・大社神社 祭神 大国主大神 創立 仝
・八幡宮社 祭神 誉田別天皇 仝
・若宮神社 祭神 稚郎子皇子 仝
・大川紳杜 祭神 由緒不詳
境外社
・八幡紳社
所在 字中小字作田、祭神 忘神天皇
・稲荷神社
所在 宇中小字原貝、祭神 倉稲魂神
創立 文久二年正月三十日
(資料として、稲荷本宮羽倉伯耆守内神役人の証二通あり。)
(『豊里村誌』)
小畑城の波々伯部氏:大永より天文へかけて丹波を戦火にまきこんだ大永の乱において、丹波守護代の内藤氏は細川高国方を固め、また丹波統一の野心もあったとみえ、何鹿郡の鴻ケ嶽城(大島町)に一族の日向守正綱を、小畑城(小畑町)には重臣波々伯部の一族を置き、永禄のはじめには福知山の押えとして鬼ケ城にも一族を派遣した。
波々伯部氏が伺鹿郡に入った時期については何の資料も発見できないが、内藤氏の勢力がこの地におよぶようになった永正のはじめころではなかろうか。それより天正七年(一五七九)、光秀の丹波攻略で滅亡するまで、長くても六、七〇年ほどの間ではあるが小畑城主として威を張っていたものであろう。小畑城の波々伯部氏が、細川高国あるいはその弟の晴国に従って奥郡の土豪たちとともに活躍したことは、福知山城に残された『横山硯』や「塩見家文書」で知ることができる。享禄四年(一五三一)尼ケ崎合戦に出陣した丹波の土豪について『横山硯』は、
「享禄四年京語の折節摂津尼ケ崎の合戦日々増長せり 是によって細川高国殿討手に仰付けらる 此
時天田郡にては横山の城主小笠原大膳頼氏 奈賀山隠岐守長頼 何鹿部にては大槻右京太夫信高 波
々伯部伊勢守 笹山の八上城主波多野両家等 各細川公の幕下に属し尼ケ崎へ討出云々」
と記している。この細川晴元との合戦は高国方が敗れ、高国は自殺し、丹波の土豪、足立・波々伯部・細見・牧等は討ち死、(丹波史年表)志賀郷の土豪志賀四郎兵衛尉もともに討ち死している。(志賀氏系図)次いで永禄八年(一五六五)三月、氷上郡黒井城主赤井悪右衛門直正は隣郡天田郡を押えようと、芦田・足立・久下等の族をたのみ、福知山、横山城の横山大膳亮を包囲して攻め落とそうとしたが、横山城側の計略にかかってさんざん敗れ赤井勢は退却した。この合戦に横山城主一族の姻戚、小畑中村の城主波々伯部源内義信が加勢して戦っている。
小畑城の波々伯部氏が消滅するのは、天正七年明智光秀方の猪崎城主塩見家利討減のころであろう。『横山硯』によると、光秀は四王天・木下らの武将とともに数万の軍をひきいて、横山・和久・中山の城をおとし入れ猪崎城にせまった。城主家利は、とても勝ちめなしと城に火をかけて落ちていこうとしたが、追手に打たれてしまった。奥方は親元の波々伯部の方へ逃げ帰ろうとしたが三坂峠で討たれ、「まことにあわれな次第なり」としている。このあと小畑城の波々伯部氏は滅ぼされたものと思われる。
猪崎城主の妻が遺児を抱いて三坂峠まで来たところ追手に打たれたという哀話は、三坂女郎物語としていまに語り伝えられており、このとき血に染まった太刀を洗ったという御太刀池や、明和六年に建てられた供養塔が三坂峠の上に残っている。波々伯部氏はこうして光秀の丹波平定のかげにはかなく消えていき、生き残って帰農した一族がわずかにその名を残している。
1.熊野神社の標柱を見る!

2.石灯籠一対と鳥居を見る!

3.見事な両部鳥居です!

4.鳥居の扁額を見る!

5.手水舎を見る!

6.登り参道を見る!ステンレスの手摺は中村孝行先生の寄贈です。

7.登り参道から社殿を見る!

8.右側にある参集殿を見る!

9.見事な社殿を見る!

10.社殿をアップで見る!

11.社殿の彫刻を見る!

12.拝殿から本殿を見る!

13.拝殿左側から本殿左側の覆屋を見る!

14.本殿の彫刻を見る!

15.社殿の左側側の神輿蔵を見る!

16.末社群

17.綾部の古木・名木100選の一つ幹周4メートルもある大杉と駒札

18.同上

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2020/9/20
綾部市野田町の古社・大山祇神社を見る! 綾部の文化財
京都府綾部市野田町西ノ谷109−2は主祭神を大山祇命(おおやまぎのみこと)を祀る大山祇神社がある。大山祇命、木花咲耶姫命、岩長姫命の三神昔から女子は妊娠すると、新しい腹帯を持って安産を祈る為参拝するものが多かった。藩政時代には氏神は上之山神、下之山神の二社となっているが、恐らくこの山神が大山祇神社の前身と思はれる。境内に大川神社があるが、明治二十年代に流行病が浸延した時勧請したものである。(『綾部町誌』)
【野田町の概要】
由良川左岸(南岸)の国道173号の由良川にかかる新綾部大橋あたりから上流側の河岸台地上の村。旧綾部村の一番上流になる。川沿いにJR山陰本線や府道広野綾部線(450号)が走る。
野田村は、江戸期〜明治22年の村。はじめ綾部村の枝村、のち分村独立。綾部藩領。綾部組12村の1村。
明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年綾部町の大字となる。
野田は、明治22年〜昭和28年の大字名。はじめ綾部町、昭和25年からは綾部市の大字。同28年野田町となる。
野田町は、昭和28年〜現在の綾部市の町名。
1.登り石段参道

2.石造り鳥居を見る!

3.鳥居の見事な扁額を見る!

4.脇参道かから社殿を見る!

5.巨大な御神木です!

6.30メートルを超す樹高です!

7.社殿前から登り石段参道を見下ろす!

8.社殿を見る!

9.社殿右側と阿形狛犬を見る!

10.社殿左側の吽形の狛犬を見る!

11.社殿をアップで見る!

12.同上

13.社殿内陣の見事な本殿を見る!撮影が上手くいかないです!

14.境内社の大川神社

15.小社ながら見事な造りの大川神社です!

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【野田町の概要】
由良川左岸(南岸)の国道173号の由良川にかかる新綾部大橋あたりから上流側の河岸台地上の村。旧綾部村の一番上流になる。川沿いにJR山陰本線や府道広野綾部線(450号)が走る。
野田村は、江戸期〜明治22年の村。はじめ綾部村の枝村、のち分村独立。綾部藩領。綾部組12村の1村。
明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年綾部町の大字となる。
野田は、明治22年〜昭和28年の大字名。はじめ綾部町、昭和25年からは綾部市の大字。同28年野田町となる。
野田町は、昭和28年〜現在の綾部市の町名。
1.登り石段参道

2.石造り鳥居を見る!

3.鳥居の見事な扁額を見る!

4.脇参道かから社殿を見る!

5.巨大な御神木です!

6.30メートルを超す樹高です!

7.社殿前から登り石段参道を見下ろす!

8.社殿を見る!

9.社殿右側と阿形狛犬を見る!

10.社殿左側の吽形の狛犬を見る!

11.社殿をアップで見る!

12.同上

13.社殿内陣の見事な本殿を見る!撮影が上手くいかないです!

14.境内社の大川神社

15.小社ながら見事な造りの大川神社です!

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2020/9/16
綾部市安場町の古社・一宮神社に相野{安井)安右衛門の見事な彫刻を見る! 綾部の文化財
京都府綾部市安場町(やすばちょう)東ノ段51番地に主祭神を国常立尊とし、見事な龍の彫刻のある本殿がある一宮大明神(いっきゅうだいみゅじん)が在る。由緒沿革としては加藤明氏蔵正徳元年の古文書に、び志門様月ノベ口にあり、それをあだな東ノ段より、たつみノ方くわん上仕候、ゆえコノ地わ篠原庄右衛門山森、でありそれをもらひそこに、一宮大明神といわいこめ、それ二月(附)世話方 加藤景村 篠原庄右衛門 正徳元年酉ノ六月三日 とあるが、これ以外の記録がないので、元月延口に毘沙門天として祀ってあったのを現在の地に移し、一宮大明神として氏神にしたものと伝えている。尚毘沙門天は明治十九年観音堂の境内に移され、現存の建物は明治十三年の建築である。
註、右の古文書の加藤景村は加藤氏系図によれば俗名小ヒゲと称し、天正頃の人であるから、正徳頃とすれば年代が合はない。
藩記には社七尺、拝殿壱間半に三間半、境内廿五間に廿八間、祭礼九月廿六日とある。
社殿は慶応元年炎上、明治八年改築起工、同十三年落成した。尚鳥居は文政七年の建築である。祭礼は古来旧六月三日に夏祭を、秋祭を旧九月二十六日に行ったが現在は十月九日となっている。
境内社斎神社は元鳴竹一番地に才ノ神として祀られていたが、明治六年ここに移された。
神社関係の古文書に次のものがある。
寄附一札之書
一、有所字宮ノ腰
田地一ヶ所也
右之田地壱ヶ所是則俗父三郎兵衛従私共へ譲り受候田
地ニ御座候処此度一宮大明神為御供田之奉寄附候所実
正明白ニ御座候然ル上ハ此後永世一宮社御宝田ニ受附
可被下候者外ヨり違乱可申出者無御座候依而為後日之
寄附証文如件
正徳二年三月 日
藩州
奥山寺 地蔵院
丹州安場村
一宮社内
右之通り書状一宮社内へ納置候間永世御申伝へ可被下
候様願置侯 以上
地蔵院住職孝教法印
加藤三郎兵衛殿
(加藤佐市氏蔵)
註、孝教は寺院過古帳に弘敬とあり。
(『中筋村誌』)
一宮神社
鳴竹から左に入り、安場川右岸の台地へ上がると東ノ段の集落である。集落の南端に鳥居が見える。安場の鎮守神・一宮神社である。
入口の鳥居は文政7年(1824)の建立で、両部鳥居と呼ばれる形をしている。さらに奥へ進むと手水舎があり、享保12年(1727)銘の手水鉢がある。この奥正面に本殿が南面して建っている。
覆い屋で保護された本殿は、一間社流造りで屋根は柿葺きである。祭神の国常立尊は『古事記』等によれば大地の神である。私たちが住む豊かな大地を産み、永遠に守讃してくださる神である。
創建について『中筋村誌』は、安場に残る正徳元年(1711)の古文書に、「元は月延口に祀っていた毘沙門天様を東ノ段に移し、一宮大明神として祀った」とあるという。江戸時代中期にこの地に鎮座したと思われる。その後の沿革は不明であるが、慶応元年(1865)に炎上し、明治13年(1880)に再建された。なお、上記の古文書にある昆沙門天像は明治19年(1886)観音堂境内に遷された殿へ。本向かって右に境内社である斎(さい)神社がある。鳴竹にあった才の神を明治6年(1873)移したものである。他に境内南隅に稲荷神社が祀られている。
なお、当社の入り口に建つ両部鳥居について四方晴向は次のように説明している。鳥居の特徴は両社の下部に、前後に貫を通した控柱を設けていて、鳥居の基部を支えるような支柱を持った独特の鳥居である。中筋では当社と高津八幡宮の本参道入り口に建つものと2つのみ見られるものである。また、両部とは密教における金剛界と胎蔵界を示し、一般には神仏混淆の神社に多く見られる。当社の場合は、上記古文書にあるように、仏法を守護する毘沙門天を神社に祀ったこと、即ち、天の部に属する仏像が神として祀られたという神仏混淆を両部鳥居が示していると考えられるとしている。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)
1.一部が新しく修復された一宮大明神の両部鳥居(文政7年(1824)の建立)

2.両部鳥居の扁額を見る!

3.神社の駒札

4.登り参道

5.同上

6.右手に手水舎と参集殿と石灯籠

7.手水舎(享保12年(1727)銘の手水鉢がある)

8.南隅にある稲荷神社

9.右手の見事な参集殿と本殿を見る!

10.極最近に覆屋の屋根が新しく出来たものです!(旧覆屋は取材当日出会った指し物大工さんによるとアライグマとその糞でずたずたであった諭旨)

11.見事な本殿の向拝は中井権次一統ではなく、岸和田だんじり彫刻の相野一門に弟子入りされた、福知山の相野(安井)安右衛門義一さんの作品でした。
覆屋が有り、撮影困難でしたが、龍の裏側に銘を確認しました。!明治13年築!

龍の彫刻の裏面の銘は!

12.龍の彫刻を見る!見事な龍の彫刻ですね!

13.象鼻などの彫刻を見る!(明治13年築)

14.本殿横の彫刻を見る!

15.本殿を斜め右側から見る!

16.本殿に向かって右に境内社である斎(さい)神社

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註、右の古文書の加藤景村は加藤氏系図によれば俗名小ヒゲと称し、天正頃の人であるから、正徳頃とすれば年代が合はない。
藩記には社七尺、拝殿壱間半に三間半、境内廿五間に廿八間、祭礼九月廿六日とある。
社殿は慶応元年炎上、明治八年改築起工、同十三年落成した。尚鳥居は文政七年の建築である。祭礼は古来旧六月三日に夏祭を、秋祭を旧九月二十六日に行ったが現在は十月九日となっている。
境内社斎神社は元鳴竹一番地に才ノ神として祀られていたが、明治六年ここに移された。
神社関係の古文書に次のものがある。
寄附一札之書
一、有所字宮ノ腰
田地一ヶ所也
右之田地壱ヶ所是則俗父三郎兵衛従私共へ譲り受候田
地ニ御座候処此度一宮大明神為御供田之奉寄附候所実
正明白ニ御座候然ル上ハ此後永世一宮社御宝田ニ受附
可被下候者外ヨり違乱可申出者無御座候依而為後日之
寄附証文如件
正徳二年三月 日
藩州
奥山寺 地蔵院
丹州安場村
一宮社内
右之通り書状一宮社内へ納置候間永世御申伝へ可被下
候様願置侯 以上
地蔵院住職孝教法印
加藤三郎兵衛殿
(加藤佐市氏蔵)
註、孝教は寺院過古帳に弘敬とあり。
(『中筋村誌』)
一宮神社
鳴竹から左に入り、安場川右岸の台地へ上がると東ノ段の集落である。集落の南端に鳥居が見える。安場の鎮守神・一宮神社である。
入口の鳥居は文政7年(1824)の建立で、両部鳥居と呼ばれる形をしている。さらに奥へ進むと手水舎があり、享保12年(1727)銘の手水鉢がある。この奥正面に本殿が南面して建っている。
覆い屋で保護された本殿は、一間社流造りで屋根は柿葺きである。祭神の国常立尊は『古事記』等によれば大地の神である。私たちが住む豊かな大地を産み、永遠に守讃してくださる神である。
創建について『中筋村誌』は、安場に残る正徳元年(1711)の古文書に、「元は月延口に祀っていた毘沙門天様を東ノ段に移し、一宮大明神として祀った」とあるという。江戸時代中期にこの地に鎮座したと思われる。その後の沿革は不明であるが、慶応元年(1865)に炎上し、明治13年(1880)に再建された。なお、上記の古文書にある昆沙門天像は明治19年(1886)観音堂境内に遷された殿へ。本向かって右に境内社である斎(さい)神社がある。鳴竹にあった才の神を明治6年(1873)移したものである。他に境内南隅に稲荷神社が祀られている。
なお、当社の入り口に建つ両部鳥居について四方晴向は次のように説明している。鳥居の特徴は両社の下部に、前後に貫を通した控柱を設けていて、鳥居の基部を支えるような支柱を持った独特の鳥居である。中筋では当社と高津八幡宮の本参道入り口に建つものと2つのみ見られるものである。また、両部とは密教における金剛界と胎蔵界を示し、一般には神仏混淆の神社に多く見られる。当社の場合は、上記古文書にあるように、仏法を守護する毘沙門天を神社に祀ったこと、即ち、天の部に属する仏像が神として祀られたという神仏混淆を両部鳥居が示していると考えられるとしている。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)
1.一部が新しく修復された一宮大明神の両部鳥居(文政7年(1824)の建立)

2.両部鳥居の扁額を見る!

3.神社の駒札

4.登り参道

5.同上

6.右手に手水舎と参集殿と石灯籠

7.手水舎(享保12年(1727)銘の手水鉢がある)

8.南隅にある稲荷神社

9.右手の見事な参集殿と本殿を見る!

10.極最近に覆屋の屋根が新しく出来たものです!(旧覆屋は取材当日出会った指し物大工さんによるとアライグマとその糞でずたずたであった諭旨)

11.見事な本殿の向拝は中井権次一統ではなく、岸和田だんじり彫刻の相野一門に弟子入りされた、福知山の相野(安井)安右衛門義一さんの作品でした。
覆屋が有り、撮影困難でしたが、龍の裏側に銘を確認しました。!明治13年築!

龍の彫刻の裏面の銘は!

12.龍の彫刻を見る!見事な龍の彫刻ですね!

13.象鼻などの彫刻を見る!(明治13年築)

14.本殿横の彫刻を見る!

15.本殿を斜め右側から見る!

16.本殿に向かって右に境内社である斎(さい)神社

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2020/9/10
綾部市七百石の古社・岩王神社を見る! 綾部の文化財
京都府綾部市七百石町(しちひゃっこくちょう)山遠6には祭神の菅原道真公と八代荒神を祀る岩王神社(しゃくおうじんじゃ)がある。創立年月日は不詳であるが、始め菅原道真を祀る「天神さん」として聞こえ、後八代荒神を合祀して「久原の荒神さん」として、近在近郷に響き祭日などには、無慮数千人の崇敬者の参拝あり、もと無格社であったが、最近岩王神社と改称して整備され、今日に至っている。
氏子 三十八戸 祭日 九月一日 (『西八田村誌』)
七百石の概要:萩の寺として名高い岩王寺の麓の集落。高城山・岩王寺山など標高300Mの山に囲まれた小盆地。岩王寺山の中腹から白条銀紋で著名な岩王寺硯石を産出し、近世には硯に加工して販出していたという。地名の由来は、岩王寺領が700石あったことによるという。南の高城山(299m)は何鹿の国人大槻氏の居城であった山城がある。中世の八田郷上村に属したことは建武元年(1334)4月13日付の寄進田数目録(岩王寺文書)にみえる「兼里名」が後世の村内小字の金里であることから明らかとされる。近世は西股村に含まれた。
七百石村は、明治9〜22年の村。大日・平山・大町・岩王寺の4か村が合併して成立した。同22年西八田村の大字となる。七百石は、明治22年〜昭和28年の大字名。はじめ西八田村、昭和25年からは綾部市の大字。昭和28年七百石町となる。七百石町は、昭和28年〜現在の綾部市の町名です。
1.令和2年の「久原の荒神八朔祭り」は9月6日(日曜日)午前10時からです。幟が掲げられた岩王神社

2.手水舎と石段参道を見上げる!

3.自然石を利用した巨大な常夜燈と鳥居を見る!

4.鳥居と更に石段参道を見上げる!

5.祭礼(八朔祭りのため、神幕に覆われた楼門を見る!

6.奉納された提灯に飾られた楼門をアップで見る!

7.更に石段参道と登って行くと鳥居と社殿が見えて来ました!

8.社殿と鳥居を見る!

9.社殿の全景を見る!

10.拝殿をアップで見る!

11.本殿を見る!

12.同上

13.本殿前の阿形の狛犬と境内社を見る!

14.吽形の狛犬(尻尾を挙げた見事な狛犬です!)

15.境内社を正面から見る!

16.同上

17.社殿前から石段参道を見下ろす!

18.「久原の荒神八朔祭り」の様子は下記をクリックして見て下さい!
https://www.youtube.com/watch?v=a1n5Sfc5N-Y
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氏子 三十八戸 祭日 九月一日 (『西八田村誌』)
七百石の概要:萩の寺として名高い岩王寺の麓の集落。高城山・岩王寺山など標高300Mの山に囲まれた小盆地。岩王寺山の中腹から白条銀紋で著名な岩王寺硯石を産出し、近世には硯に加工して販出していたという。地名の由来は、岩王寺領が700石あったことによるという。南の高城山(299m)は何鹿の国人大槻氏の居城であった山城がある。中世の八田郷上村に属したことは建武元年(1334)4月13日付の寄進田数目録(岩王寺文書)にみえる「兼里名」が後世の村内小字の金里であることから明らかとされる。近世は西股村に含まれた。
七百石村は、明治9〜22年の村。大日・平山・大町・岩王寺の4か村が合併して成立した。同22年西八田村の大字となる。七百石は、明治22年〜昭和28年の大字名。はじめ西八田村、昭和25年からは綾部市の大字。昭和28年七百石町となる。七百石町は、昭和28年〜現在の綾部市の町名です。
1.令和2年の「久原の荒神八朔祭り」は9月6日(日曜日)午前10時からです。幟が掲げられた岩王神社

2.手水舎と石段参道を見上げる!

3.自然石を利用した巨大な常夜燈と鳥居を見る!

4.鳥居と更に石段参道を見上げる!

5.祭礼(八朔祭りのため、神幕に覆われた楼門を見る!

6.奉納された提灯に飾られた楼門をアップで見る!

7.更に石段参道と登って行くと鳥居と社殿が見えて来ました!

8.社殿と鳥居を見る!

9.社殿の全景を見る!

10.拝殿をアップで見る!

11.本殿を見る!

12.同上

13.本殿前の阿形の狛犬と境内社を見る!

14.吽形の狛犬(尻尾を挙げた見事な狛犬です!)

15.境内社を正面から見る!

16.同上

17.社殿前から石段参道を見下ろす!

18.「久原の荒神八朔祭り」の様子は下記をクリックして見て下さい!
https://www.youtube.com/watch?v=a1n5Sfc5N-Y
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2020/9/5
綾部市渕垣町(ふちがきちょう)の古社・上宮神社を見る! 綾部の文化財
京都府綾部市淵垣町(ふちがきちょう)広道カトカ3−乙には綾部市の古社で御祭神は素戔鳴命(すさのおのみこと)を祀る上宮神社(うえのみやじんじゃ))がある。創建年は不明ですが、寛保三年(1743)に改築したとの記録が残る。JR渕垣駅に程近い八田川の北、府道484号から城山に入つていく住宅地の上に鎮座します。細い道の脇にある池を越えた山麓で、上宮といふのは村の上に位置するからでししょう。さらに上には戦国後期の武将川勝秀氏が領主だつた中山城址があります。又、本殿一棟は平成31年2月1日京都府の暫定登録に指定されています。
1.上宮神社石段参道と大鳥居

2.大鳥居をアップで見る!

3.同上

4.綾部市の古木・名木100選の一つ

5.新たに奉納された阿形の狛犬

6.吽形の狛犬

7.本殿とその覆屋

8.見事な本殿の彫刻をアップで見る!

9.同上

10.見事な本殿の彫刻を見る!

11.本殿の扁額を見る!

12.本殿の脇障子の彫刻を右側から見る!

13.本殿の覆屋の脇木掲げられた「阿含宗の平成29年12月3日大護摩供養」を実施したと記されています。(画像をクリックすると拡大しなす。)

14.境内社の一部

15.上宮神社で催行された第15回京都・京都北浄化 神仏両界柴燈大護摩供 奉修の記事は下記をクリックして見て下さい!
https://www.agon.org/blog/kansai/blog000799.php
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1.上宮神社石段参道と大鳥居

2.大鳥居をアップで見る!

3.同上

4.綾部市の古木・名木100選の一つ

5.新たに奉納された阿形の狛犬

6.吽形の狛犬

7.本殿とその覆屋

8.見事な本殿の彫刻をアップで見る!

9.同上

10.見事な本殿の彫刻を見る!

11.本殿の扁額を見る!

12.本殿の脇障子の彫刻を右側から見る!

13.本殿の覆屋の脇木掲げられた「阿含宗の平成29年12月3日大護摩供養」を実施したと記されています。(画像をクリックすると拡大しなす。)

14.境内社の一部

15.上宮神社で催行された第15回京都・京都北浄化 神仏両界柴燈大護摩供 奉修の記事は下記をクリックして見て下さい!
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2020/9/1
綾部市の味方町に在る古社・斎神社を見る! 綾部の文化財
京都府綾部市 味方町アミダ寺11−6には御祭神として経津主命(ふつぬしのみこと)を祀る古社で大本七社の一つでもある斎神社(いつきじんじゃ)がる。由緒略記;矢の神として、軍神として尊崇厚く交通安全を守る神として旅人が道中の安全を祈願したという。創紀不詳(「我が古里の語り草」より抜粋)また出口家の祖先を祀るともいう。大本七社参りは1.若宮神社、2.八幡宮、3.4.二宮神社・三宮神社(合祀)、5.斎神社、6.笠原神社、7.熊野新宮神社です。斎神社は国道27号の脇にあり、参道が国道に断ち切られたようで、鳥居は国道の反対側50メートルくらいの場所に立っている。境内に古墳が完存と書いてはあるが、今は国道や宅地になっていて、それらしき物は見当たらない。
1.綾部市味方町にある古社・斎神社の大鳥居を内側から見る!此処は旧道になっており、斎神社は国道27号線の横の高台に在る。

2.国道27号線の高台に在る斎神社の全景を見る!

3.斎神社の駒札を見る!画像をクリックすると拡大します。

4.2018年の大雨で崩れた神殿は新しく覆屋が創建されています。

5.旧神殿を掲載します!

6.神殿をアップで見ます!

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1.綾部市味方町にある古社・斎神社の大鳥居を内側から見る!此処は旧道になっており、斎神社は国道27号線の横の高台に在る。

2.国道27号線の高台に在る斎神社の全景を見る!

3.斎神社の駒札を見る!画像をクリックすると拡大します。

4.2018年の大雨で崩れた神殿は新しく覆屋が創建されています。

5.旧神殿を掲載します!

6.神殿をアップで見ます!

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