2020/7/30

舞鶴市の見事な鐘楼門を持つ浄土宗の古刹・浄土寺を見る!  綾部の文化財

京都府舞鶴市字新103には浄土宗で見事な鐘楼門を持つ随心山浄土寺(じょうどじ)がある。浄土寺の創建は不詳ですが、当初は随心寺と称し河辺村にありましたが、後に福来村に移り中之寺に改称、さらに丹波町と平野屋町との間に移り、尊誉上人が永禄元年(1558)に現在地に移し浄土寺として再興しています。昭和21年(1946)の火災で多く堂宇が焼失し、唯一残ったのが三誉上人の時代に建立した鐘楼門です。鐘楼門は三間一戸、入母屋、桟瓦葺(鯱付き)、上層部は吹き放し四方高欄付きで鐘撞堂になっています。山号は随心山、宗派は浄土宗でご本尊は阿弥陀如来を祀っています。

1.見事鐘楼門を右側から見る!

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2.浄土寺の標柱
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3.見事な三間一戸の鐘楼門です!
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4.舞鶴100選の標柱
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5.見事な鐘楼門の彫刻を見る!
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6.同上
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7.鐘楼門から本堂を見る!
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8.本堂を見る!
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2020/7/25

舞鶴市の朱塗りの鳥居と社殿を持つ玉岡稲荷神社を見る!  文化財研修記

京都府舞鶴市字西71番地には正一位稲荷大明神を祀る玉岡稲荷神社(たまおかいなりじんじゃ)がある。見海寺に北隣し、すぐ西には松林寺があり、北西には見樹寺がある。南東方向には笶原神社があるが、その間にも、浄土寺・妙法寺、金刀比羅神社が密集する。田辺城の西にあたることから西町と呼ばれるようになったこの地域は現在、舞鶴市街地中央部にあたる。神仏混淆時代(明治)以前には次回掲載する浄土寺の管轄で在った。宝珠と巻物を加えた神孤の像が安置されている。社頭に設けられた鈴は、見事な音色でその清々しい音色で参拝者を敬虔な気持ちにするとともに参拝者を祓い清め、神霊の発動を願うものと考えられています。【ご利益】家内安全、大漁満足・五穀豊穣。

1.玉岡稲荷神社の社号と朱塗の明神鳥居
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2.朱塗りの鳥居の扁額は玉岡神社と記されています。
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3.朱塗りの第二、第三鳥居と1対の神狐像(宝珠と巻物を咥えています。)
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4.朱塗りの第二、第三の鳥居と右側のタブの巨木を見る。
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5.本殿とタブの巨木を見る!
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6.タブの巨木を見る!
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7.お堂があるが祭神は不明。
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8.本殿を見る!
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9.本殿の扁額と見事な音色の鈴を見る!
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10.本殿内陣を視る1

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11.参拝口を振り返って見る!
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2020/7/20

舞鶴市東の夜祭と秋祭の神輿で有名なる白糸濱神社を見る!  文化財研修記

京都府舞鶴市養老敷島角には白糸濱神社(しらいとはまじんじゃ)がある。浜地区が現在に見られるような軍港の町となる以前には、白糸湾に面したこの浜地区には三つの社があった。寺川尻(今の財務局あたり)に水無月神社、現在の七条通八島南(今の七条商店街)に蛭子神社、八島児童公園に稲荷神社が在った。水無月神社境内が軍用地になるのを機に、これら三社を合祀して「白糸浜神社」とし、新舞鶴町の氏神とすることになった。河川改修、区画整理された与保呂川東岸の現在地に、大正2年6月に移転、同4年に社殿建築、同7年に村社、同13年に郷社と社格が上がり、昭和19年3月には大森神社と肩を並べる府社となった。夜祭は7月6日夜5時30分位から開催されています。秋祭は「だるま祭」の初日、11月1日としていたが、最近は神輿のかつぎ手の集めやすい10月下旬の日曜日になっています。

1.白糸濱神社の7月6日の夜祭りの御旗が掲げられています。
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2.手水舎
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3.大鳥居
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4.拝殿を見る!
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5.拝殿の扁額を見る!
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6.拝殿内陣を見る!
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7.右側から拝殿と相の間と本殿を見る!
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8.見事な本殿を右側から見る!
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9.摂社の水無月神社を見る!
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10.同上 内陣を見る。
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11.巨大な自然石の常夜燈を見る。
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12.摂社の蛭子神社
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13.7月6日の「夜祭り」の様子は下記をクリックして見て下さい!
https://tangonotimei.com/doc/tango/siraitohamajj.html


14.10月の秋祭りの様子は下記をクリックして見て下さい!その1.
https://www.google.com/search?sa=N&sxsrf=ALeKk03isNfdsNPWTrh0PIAq7ajE0dfa4Q:1594887486522&source=univ&tbm=isch&q=%E7%99%BD%E7%B3%B8%E6%B5%9C%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%81%E8%88%9E%E9%B6%B4%E5%B8%82&ved=2ahUKEwiE19zwqtHqAhUcyosBHZ8dBtU4KBCwBHoECAoQAQ&biw=1920&bih=918#imgrc=B6iJ_ycZF3i_NM


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2020/7/15

舞鶴市東の古社・延喜式内社・三宅神社を見る!  文化財研修記

京都府舞鶴市北吸751に延喜式内社の一つ三宅神社(みやけじんじゃ)がる。豊宇気姫命を主祭神に、多遅麻毛理(たじまもり)、縁結びの白兎神を配祀しています。
『延喜式神名帳』にある「三宅神社(丹後国・加佐郡)」に比定される式内社(小社)の論社(後継社)です。創祀年代は不詳。もとはもう一つ西側の谷で、現在の三宅団地に鎮座した。三宝荒神・三宅荒神・三宅太荒神社などと称した。往古は荘厳な大社だったようで、いつしか衰微したという。鎮座地は字神子屋敷、字宮ノ平などと呼ばれ、貴官の屋敷など何らかの遺構だったともされる。式内社「三宅神社」は三宅郷の総鎮守だったと考えられるが、その三宅郷も不詳。『室尾山観音寺神名帳』に「従二位三宅明神」「正三位三宅明神」とある。つまり、式内社「三宅神社」は後年、二社かそれ以上に分裂した可能性があり、各種資料でも様々な指摘がある。『丹後風土記残欠』では、「三宅郷 河辺坐三宅社」とあり、河辺鎮座の社を式内社であると示唆している。現在該当するのは河辺八幡神社である。『丹哥府志』では、「三宅神社今訛りて宮崎明神と称す、祭六月十八日」とある。喜多に宮崎神社がある。ただし、水戸家修『大日本史神祇志』、栗田寛『神祇志料』、吉田東伍『大日本地名辞書』、村岡良弼『日本地理志料』では、「今北吸村に在り」と当社を比定。ただ、当社はあくまでも荒神であり、式内社との関わりは不明。ともかく、古くから地元の篤い崇敬を受けてきたのは間違いない。明治になり、神仏分離令により、北吸神社と改称、さらに明治15年(1882)には式内社として現社号への改称が許可された。明治24年(1891年)、もとの地は軍用地(射撃場)になって立ち退かされ、全戸が糸谷(現在の北吸谷)や浜地区に移住したため、当社も現在地に遷座した。また、荒神だったので、台所の守護神(竃の神)だったのだろう。明治になり、神仏分離令を通じて、同じ食物に関係の深い神として、豊宇気姫命を御祭神としたと記裁された。例祭は7月10日。境内社に、稲荷神社、吉備大臣命社、恵比寿神社、秋葉神社がある。なお、式内社「三宅神社」の論社は上述の他に、福知山市大江町公庄の熊野神社がある。

1.三宅神社の標柱を見る!7月10日の祭礼のため御旗が掲げられている。
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2.見事な参拝道を登って行きます。
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3.参拝道の途中の手水舎
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4.参拝道の途中にある社務所
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5.更に石段参道を登ります!
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6.漸く鳥居に至る!
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7.7月10日の例大祭の幕が張られている拝殿です!
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8.苔むした阿形の狛犬
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9.吽形の狛犬(膝に子犬を抱いています。)
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10.青木信光子爵の揮毫による「豊宇気姫命」の神額が懸かる拝殿
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11.拝殿内陣を見る!奥の本殿が見える!
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12.見事な本殿を斜から見る!
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13.見事な本殿を横から見る!
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14.本殿左側の稲荷神社、吉備大臣命社を見る。
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15.本殿右側の恵比寿神社、秋葉神社を見る。
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16.見事な自然石の常夜燈を見る!
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17.同上 駒札
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2020/7/10

舞鶴市東の真言宗醍醐寺派の古刹・大聖寺を見る!  文化財研修記

京都府舞鶴市北吸970には真言宗醍醐寺派のの鎮守山・大聖寺(だいししょうじ)がある。本尊は大聖不動明王(秘仏)です。大聖寺は旧称を「鏡智院」といい、もともとは西国第二十九番札所松尾寺の塔頭でしたが、明治三十四年の舞鶴海軍鎮守府開庁及び新市街地整備を機に、時の松尾寺住職懸空上人が一層の教線拡張を願い、明治三十六年、東西舞鶴を結ぶ交通の要所である現在地に移転されたものです。塔頭の移転とはいえ、本尊大聖不動明王は松尾寺本坊遍明院護摩堂の主尊であったことが知られており、また、移転時の資料からは用地の選定や買収など、新寺建立ともいうべき大事業であったことがうかがえます。
 懸空上人は時の鎮守府司令東郷平八郎との親交が厚く、「鎮守山」の山号はその縁により名づけられたそうです。当山に東郷元帥所縁の品などは残っておりませんが、松尾寺には懸空上人が東郷元帥に贈った
 北門鎖鑰巍然成 ?(厂に虎)踞龍盤気勢昌
 鎮海将軍西海傑 西郷之後有東郷
【北門の鎖鑰(さやく)(鍵となる要衝)巍然として成る。?(厂に虎)(てい)(水中も泳ぐという虎、架空の動物)踞(きょ)龍盤(虎や龍ともまごう勇猛の兵卒、踞も盤もうずくまる)気勢昌(さか)んなり。鎮海の将軍西海(薩摩)の傑。西郷の後に東郷あり。
・・・読み下しと注釈は、松尾寺前住職松尾心空師著『「武士道」について』より・・・】
という漢詩の墨跡が残っています。
 当山は、移転後まだ百年を経過したばかりですが、大正五年の本堂をはじめ徐々に諸堂が整備され、楽寿観音像横のお堂には等身大の七福神が祀られています。

1.見事な山門を望む!
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2.山門をアップで見る!
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3.近畿楽寿観音第22番札所
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4.見事な本堂を見る!
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5.本堂を左側から見る!
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6.本堂の見事な扁額などを見る!
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7.本堂内陣を見る!
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8.近畿楽寿観音第22番札所の観音像と後部に薬師堂が見える!
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9.不動滝の駒札
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10.本堂左側に在る不動滝
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11.薬師堂の駒札
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12.薬師堂内を見る!
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13.寿楽観音堂手前にあるお堂には見事な等身大の七福神像が祀られいます。
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14.七福神の一つ恵比須の駒札
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15.同上 像を見る!
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16.大黒様です!
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17.同上 毘沙門天様の駒札
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18.同上 像を見る!
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19.吉祥天様の像を見る!
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20.福禄寿様の像
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21.寿老人様の像
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22.見事な輝く布袋和尚様の駒札
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23.同上 像
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2020/7/5

舞鶴市の見事な山門を持つ曹洞宗の古刹・般若寺を見る!  文化財研修記

京都府舞鶴市字富室682には曹洞宗で見事な山門を持つ般若寺(はんにゃじ)があります。その見事な彫刻のある山門でも有名です。
曹洞宗慧光山般若寺は天和2年(1682)の丹後国寺社帳にその名がみえる。六ヵ村(富室・西方寺・河原・岡田由里・下漆原・下見谷)の檀那寺であった。
案内板
 〈 慧光山 般若寺(曹洞宗)
開創年代 延宝八年(一六八〇)
本  尊 釈迦如来(座像)
伝法開山 華梁霊重大和尚(桂林寺十七世・「田辺府志」三巻を著す)
法地免許 貞亨三年(一六八六)
開基檀越 南部弥左衛門家
本  堂 文化十年(一八一三)・工事着手(一八〇七)
観音堂  文政十年(一八二七)
     昭和五十五年(一二九八〇)再建
山  門 天保十五年(一八四四)
庫  裡 不明(本堂建築以前の本堂)
     平成四年(一九九二)再建
開山堂  大正九年(一九二〇)
     平成七年(一九九五)再建
般若寺の案内板
当寺の前身は天台宗に属し、その間創年代も十世紀に遡ることが、現存する巻物「般若寺聖観世音記」(元禄十六年・一七〇三)により知れる。
「般若寺聖観世音記」に「般若寺の開基は恵心僧都なり、本尊の釈迦如来は恵心僧都の作にして云々」の一節あり。
恵心僧都(九二四〜一〇一七)は天台宗の高僧なれば、当初は天台宗に属し、場所もこの地より南方二〇〇米余りの「フルボ」(古坊か?)の谷に位置せしものか。時移り、隠山普月和尚(当寺二世・華梁霊重大和尚の弟子)が衰微せしこの寺の再興を発願し、土地の郷士・南部弥左衛門家の後援を得てこれを成就す。爾来三〇〇余年なり。

加佐郡三十三所霊場 第二十一番
  般若寺聖観世音菩薩のご詠歌
心なきふしいのとこに夢さめて
  谷に般若の声をきくらむ

平成十年八月吉日
岡田中むらつくり委員会・ふるさと再発見キャンペーン  〉 

『ふるさと・岡田中』
般若寺本堂
 〈 曹洞宗慧光山般若寺(富室)
慧光山般若寺は慧心僧都の開基であると伝えられている。比叡山延暦寺良源伝教大師より十八代目座主慈慧大師の教えを受けた慧心僧都は、平安時代の末期学徳一世に高く各種の著書を残し、中国においては、皇帝の帰依を得たほどの高僧である。慧心僧都は比叡山横川慧心院にいたので、慧心僧都といい、俗姓卜部氏、名を源心という。
 現在の寺の下手、南方約二百メートルの所に古坊と呼ばれる谷があり、そこにはかなりの規模の石垣跡があり、この地に寺院を開基したと伝えられている。当時は天台宗で、本尊は慧心自作の釈迦像を安置した。これが般若寺の元の位置であり、元寺である。
 草創以来三百年、変遷あってついに衰微してしまった。隠山普月禅師が当地を訪れた時、廃寺同様の当寺を見て、由緒のある般若寺の再興を決意し、元禄癸未七月九日、当地に移り住んだ。時の大庄屋南部豊後守の後裔南部弥左衛門慈光と図り、同氏の後援を得て精美な伽藍を作り当寺を再建した。
 加佐郡誌によると、当山は曹洞宗の禅刹であり、応永八(一四○一)年開創の桂林寺(舞鶴市紺屋町六九)の末寺に当たり、四門主の一つである。般若寺の開創年代は延宝八(一六八○)年で、初代には隠山和尚の師である桂林寺十七世霊重大和尚をすえ、隠山和尚は当寺の二世として住職となると記されている。
 隠山普月大和尚は、桂林寺華梁霊重大和尚の高弟で生国は不明であるが、師である霊重大和尚が播州の生まれで、豊岡の帯雲寺より桂林寺に移っていることと、隠山和尚自身が隠栖の地として出石を選んでいることの二点を考え合わせるとき、出生の地はおそらく但馬と思われる。
 このように般若寺は田辺藩の禅刹の支院であって、十七世華梁霊重大和尚まで開法の道場であった。そして、その嗣隠山和尚の手によって中興が成り、それ以来、百年余を経て堂宇の朽廃甚だしくなり、文化元(一八○四)年甲子六月十八日、檀家に造営を図ったところ、境内が狭隘であるので縦十間余、横二間余、周囲三十間余の石垣を組み、境内を広げる一方、これまで建物全体が西向きであった本堂・庫裡等を南向きに再建することになった。その棟札によると、
   表 文化十年、城主 牧野豊前守以成公、
   奉再建 客殿・庫裡 癸酉三月二十八日 現住九世即道、大庄屋 西方寺村 上野弥市良 他庄屋年寄
   文政十年   十世和尚により裡堂(観音堂)
   天保十五年  十一世和尚により山門
   大正九年   十七世和尚により開山堂
   昭和廿六年  太平洋戦争時供出した焚鐘再建
   昭和五十三年 東堂新築
   昭和五十四年 普山式 十九世 正応英俊(現)
   昭和五十五年 観音堂再建
   昭和五十六年 消火設備完成 水槽消火栓等
   昭和五十八年 本堂屋根葺替
など連年、大事業を遂行し、現在の威容に整えた。

曹洞宗慧光山般若寺は天和2年(1682)の丹後国寺社帳にその名がみえる。六ヵ村(富室・西方寺・河原・岡田由里・下漆原・下見谷)の檀那寺であった。

案内板
 〈 慧光山 般若寺(曹洞宗)
開創年代 延宝八年(一六八〇)
本  尊 釈迦如来(座像)
伝法開山 華梁霊重大和尚(桂林寺十七世・「田辺府志」三巻を著す)
法地免許 貞亨三年(一六八六)
開基檀越 南部弥左衛門家
本  堂 文化十年(一八一三)・工事着手(一八〇七)
観音堂  文政十年(一八二七)
     昭和五十五年(一二九八〇)再建
山  門 天保十五年(一八四四)
庫  裡 不明(本堂建築以前の本堂)
     平成四年(一九九二)再建
開山堂  大正九年(一九二〇)
     平成七年(一九九五)再建
般若寺の案内板
当寺の前身は天台宗に属し、その間創年代も十世紀に遡ることが、現存する巻物「般若寺聖観世音記」(元禄十六年・一七〇三)により知れる。
「般若寺聖観世音記」に「般若寺の開基は恵心僧都なり、本尊の釈迦如来は恵心僧都の作にして云々」の一節あり。
恵心僧都(九二四〜一〇一七)は天台宗の高僧なれば、当初は天台宗に属し、場所もこの地より南方二〇〇米余りの「フルボ」(古坊か?)の谷に位置せしものか。時移り、隠山普月和尚(当寺二世・華梁霊重大和尚の弟子)が衰微せしこの寺の再興を発願し、土地の郷士・南部弥左衛門家の後援を得てこれを成就す。爾来三〇〇余年なり。

加佐郡三十三所霊場 第二十一番
  般若寺聖観世音菩薩のご詠歌
心なきふしいのとこに夢さめて
  谷に般若の声をきくらむ

平成十年八月吉日
岡田中むらつくり委員会・ふるさと再発見キャンペーン  〉 

『ふるさと・岡田中』
般若寺本堂
 〈 曹洞宗慧光山般若寺(富室)
慧光山般若寺は慧心僧都の開基であると伝えられている。比叡山延暦寺良源伝教大師より十八代目座主慈慧大師の教えを受けた慧心僧都は、平安時代の末期学徳一世に高く各種の著書を残し、中国においては、皇帝の帰依を得たほどの高僧である。慧心僧都は比叡山横川慧心院にいたので、慧心僧都といい、俗姓卜部氏、名を源心という。
 現在の寺の下手、南方約二百メートルの所に古坊と呼ばれる谷があり、そこにはかなりの規模の石垣跡があり、この地に寺院を開基したと伝えられている。当時は天台宗で、本尊は慧心自作の釈迦像を安置した。これが般若寺の元の位置であり、元寺である。
 草創以来三百年、変遷あってついに衰微してしまった。隠山普月禅師が当地を訪れた時、廃寺同様の当寺を見て、由緒のある般若寺の再興を決意し、元禄癸未七月九日、当地に移り住んだ。時の大庄屋南部豊後守の後裔南部弥左衛門慈光と図り、同氏の後援を得て精美な伽藍を作り当寺を再建した。
 加佐郡誌によると、当山は曹洞宗の禅刹であり、応永八(一四○一)年開創の桂林寺(舞鶴市紺屋町六九)の末寺に当たり、四門主の一つである。般若寺の開創年代は延宝八(一六八○)年で、初代には隠山和尚の師である桂林寺十七世霊重大和尚をすえ、隠山和尚は当寺の二世として住職となると記されている。
 隠山普月大和尚は、桂林寺華梁霊重大和尚の高弟で生国は不明であるが、師である霊重大和尚が播州の生まれで、豊岡の帯雲寺より桂林寺に移っていることと、隠山和尚自身が隠栖の地として出石を選んでいることの二点を考え合わせるとき、出生の地はおそらく但馬と思われる。
 このように般若寺は田辺藩の禅刹の支院であって、十七世華梁霊重大和尚まで開法の道場であった。そして、その嗣隠山和尚の手によって中興が成り、それ以来、百年余を経て堂宇の朽廃甚だしくなり、文化元(一八○四)年甲子六月十八日、檀家に造営を図ったところ、境内が狭隘であるので縦十間余、横二間余、周囲三十間余の石垣を組み、境内を広げる一方、これまで建物全体が西向きであった本堂・庫裡等を南向きに再建することになった。その棟札によると、
   表 文化十年、城主 牧野豊前守以成公、
   奉再建 客殿・庫裡 癸酉三月二十八日 現住九世即道、大庄屋 西方寺村 上野弥市良 他庄屋年寄
   文政十年   十世和尚により裡堂(観音堂)
   天保十五年  十一世和尚により山門
   大正九年   十七世和尚により開山堂
   昭和廿六年  太平洋戦争時供出した焚鐘再建
   昭和五十三年 東堂新築
   昭和五十四年 普山式 十九世 正応英俊(現)
   昭和五十五年 観音堂再建
   昭和五十六年 消火設備完成 水槽消火栓等
   昭和五十八年 本堂屋根葺替
など連年、大事業を遂行し、現在の威容に整えた。

1.般若寺の標柱と山門
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2.山門
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3.山門を正面から見る!
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4.山門をアップで見る!
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5.山門左側の彫刻
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6.山門中央の彫刻
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7.本堂を見る!
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8.山門の右側を見る!
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9.山門の左の隅のお地蔵様を見る!
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