2019/6/29

京丹波を見る!関西花の寺霊場第一番札所で丹波あじさい寺とも呼ばれる観音寺!  文化財研修記

京都府福知山市観音寺1067には関西花の寺霊場第一番札所で丹波あじさい寺・水子供養寺ともよばれる真言宗観音寺(かんのんじ)がある。本尊は千手観音で寺伝に依れば養老4年(720)にインドの帰化僧、法道仙人によって一霊木から十一面千手千眼観世音菩薩像を刻んで草堂に安置されたのが当山の開基。本堂は丹波を代表する密教建築。(府指定文化財)約1万株のあじさいが咲く「あじさい寺」として有名。せせらぎの流れる境内は新緑や紅葉もみごと。冬のロウバイも魅力的です。また、この寺は応和元年(961)に空也上人が再興したという。平安時代末期には塔頭・子院が十余を超え鎌倉時代は執権。北条氏、室町時代には足利氏や丹波守護細川氏の庇護を受け栄えた。しかし明智光秀の丹波征伐の時反抗して仁王門を残して全山ý焼かれてしまったが、3年後にはさ再建された。仁王門は明治29年に倒壊したので昭和6年鎌倉様式で再建された。

1.車参道のアジサイ(令和元年6月12日撮影)
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2.全山の参拝図
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3.仁王門
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4.仁王門をアップで見る!
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5.両脇のアジサイを」楽しみながら大聖院角に至る!
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6.見事な手水鉢
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7.大聖院
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8.大聖院で祀られている千手観音像を襖越しに撮影!
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9.アップで拝観!
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10.大聖院横のアジサイの丘を見る!
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11.大聖院横のガラス張りの雨戸に写る見事な「アジサイの花」
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12.七観音霊場めぐりで丘から大聖院を見下ろす!
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13.七観音霊場の一つ
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14.本堂を見る!
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15.水子観音堂内の水子地蔵様を拝観する!
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16.見事な本堂を右手から見る!
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17.本堂縁側から8体仏を見る!
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18.本堂縁側から鐘楼を見る!
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19.御神木は巨大な古木のスギです。
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2019/6/26

京丹波を見る!福知山市の延喜式内社で丹波国造丹波氏の祖先・天照国照彦火明命を祀る天照玉命神社!  文化財研修記

京都府福知山市今安には延喜式内社で丹波国造丹波氏の祖神・天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこの命)を祀る天照玉命神社(あまてるたまのみことじんじゃ)がある。天照玉命神社の創建は不詳ですが垂仁天王45年(16)、倭姫命が勧請したのが始まりとされます。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社で天田郡4座のうちの1座として古くから信仰されてきました。戦国時代に一時衰退しましたが江戸時代に入ると福知山藩主から崇敬庇護され、承応2年(1653)には松平忠房が社殿を造営しています。明治5年(1872)に郷社に列し、大正9年(1920)に現在の本殿を再建、校倉造の宝庫は享保14年(1729)に建てられたもので文化財的価値があるとされます。祭神は天照国照天彦火明命(天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊)。

1.巨大な鳥居
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2.標柱を見る!
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3.石造りの駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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4.手水舎
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5.拝殿を望む!
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6.阿形の狛犬
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7.吽形の狛犬
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8.見事な拝殿
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9.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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10.拝殿と後部の本殿を左側から見ます!
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11.本殿を左側から見る!
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12.本殿側面の破風を見ます!


13.御神木の駒札!
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14.見事なスギです!
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2019/6/23

京丹波を見る!桜満開の福知山城を見る!  文化財研修記

京都府福知山市内記、福知山市役所横には明智光秀公が丹波掃討の拠点地とし、多くの転用石(日本で一番多くの転用石を使って建てた城は大和郡山城です。)をもちいて城壁を築いた桜満開の福知山城を見ます!福知山城(ふくちやまじょう)は、日本の城(平山城)跡。江戸時代には福知山藩の居城であった。1965年10月14日、市の史跡に指定され2017年には、「続日本100名城」(158番)に選定された。畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元された。福知山市郷土資料館の施設となっている。公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館がある。市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍城の別名を持つ。東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する標高40mの台地に築かれ展望のよくきく地である。東、北、西は断崖で要害の地でもあった。国道9号走行中やJR福知山線の列車内からうかがえ、夜間はライトアップもされシンボリックである。また多数の桜が城周辺に植林されており、春には満開となる。小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われている。塩見頼勝は後に姓を横山に改め、さらに城主はその息子である塩見信房へと代替わりし、城名も横山城となる。明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担していた。当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城した。これより前に明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城を築き、矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門らが城代となっていたが、丹波国の掃討戦が開始された。同年8月20日より四王天政春、林半四郎らが加わり横山城を攻めた。塩見信房とその弟塩見信勝と共同で防戦したが、破れて自刃して死去した。また山家城の城主和久利明も火を放たれ、攻められて敗れた。猪ノ崎城の城主塩見利勝は自ら火を放ち、落ち延びている途中に林半四郎らに川北周辺で討死した。これを期に福山地方に属していた国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山平定が成った。明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置いた。天正10年(1582)6月、本能寺の変となり明智秀満は武功を立てたが、本能寺の変後は明智秀満の父が福智山城が留守居役となっていたらしく、豊臣秀吉軍が福智山城を押し掛け、明智秀満の父を捕え、京に連行し同年7月2日粟田口で処刑された。明智光秀は本能寺の変では勝利したが、山崎の戦いでは敗北し後に暗殺された。明智光秀の在城期間はわずか3年間だけであった。福知山城はその後、丹波亀山城を居城とする羽柴秀勝が城主となり、次いで杉原家次が城主となったが病没後、小野木重勝が城主となった。豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍に属していた細川幽斎、細川忠興親子が立て篭もる田辺城を攻めた。この時細川忠興は関東に出陣中で、細川幽斎が留守居役で田辺城の戦いとなり必死に防戦した結果、どうにか和議にこぎつけた。関ヶ原の戦いの勝敗がはっきりすると、徳川家康の許しを得て、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝は敗れ、亀山城下の寿仙院で切腹させた。関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊氏で、現在のような城郭や城下町はこの時代に完成した。はじめ6万石で入国したが間もなく(2万石(飛び地で三田・父の遺領の継承が許される)の加増を受け8万石の大領主となった。山陰道を押える要衝地にあるこの城を、豊氏は近世城郭として大改修を行い、現在残る華麗な姿とした。しかし元和6年(1620年)12月、武功を重ねた豊氏は久留米藩に加増転封され、翌元和7年(1621年)8月岡部長盛が亀山城から移る。3年後その岡部長盛も大垣藩に転封すると、稲葉紀通が摂津国中島藩より移る。その稲葉紀通も福知山城の城主となった24年目の1648年(慶安元年)、宮津藩の京極高広と争いとなり、乱心し自殺したのではないかと伝わっている。翌慶安2年(1649年)2月刈谷藩から松平忠房が入部したきた。20年程統治したが島原藩へ転封する。寛文9年(1669年)6月、土浦城の朽木稙昌が入部、幕末の1869年(明治2年)に至る約200年の長きに亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治した。廃藩置県後の1871年(明治4年)によって廃城となり、1873年(明治6年)の廃城令によって解体された。建物は払下げとなり二の丸の台地は埋め立てられた。二の丸の建物は1887年(明治20年)取り払われ、建物一部の瓦は寺院や民家に使用された。二の丸の台地は削り取られ、城門は観瀧寺、正眼寺、法鷲寺、明覚寺の山門になったと伝わっており、これらは福知山市重要資料に指定されている。最後に残っていた二ノ丸の登城路付近にあった銅門番所は、1916年(大正5年)に天守台に移築された。1973年(昭和48年)には東京工業大学の藤岡通夫によって基本設計図が描かれて地質調査も行ったが、オイルショックの影響で天守の復元は中断された[2]。1982年(昭和57年)には塩見精太郎市長が天守再建の意向を示し、1983年(昭和58年)には調査費が計上されると、1984年(昭和59年)には再建(郷土資料館建設)期成会が発足した[2]。1口3000円の寄付を募る「瓦一枚運動」などで5億円以上の寄付金を集めた[2]。一般寄付金1億6000万円、国庫補助1億4000万円、京都府補助230万円などを合わせて、総事業費は8億1372万円。福知山市の一般財源にはほとんど頼っていない[2]。1985年(昭和60年)には小天守と続櫓が完成、1知山城は、明智光秀が築造後、その後多少の修築は行われたが、有馬豊氏時代に完成したものと推定されている。丘陵の最先端部の一番高い所、標高35m、比高約25mに本丸を置き、その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く四つの連郭式城郭を形成していた。全体として東西約600m×南北約150-300mとなっている。本来は本丸と二ノ丸は繋がっていたが、明治時代に二の丸が削り取られてしまい、また伯耆丸と内記丸間も繋がっていたが、福知山線の建設に伴いそれぞれ独立丘陵となってしまった。その他曲輪として北側には左門丸、対面丸、侍屋敷、大膳丸、南側には、泉水、蔵屋敷、馬屋、鷹部屋、庭園などを設け、周囲に二重、三重の堀を巡らしていた。城下町としては、北方に鍛冶町、紺屋町、鋳物師町、呉服町、京町などの町家、川沿いには寺町、南方に侍屋敷を配し、東北には斜めに由良川が流れ、西、南に外堀が巡らされている。いわゆる惣構えとなっていた。稲葉氏時代の絵図には、本丸と二ノ丸の間は「カラホリ」と「橋」を記している。この時代は本丸と二ノ丸は分断されていたと思われているが、稲葉氏時代の絵図以外には見られないので、それ以外は埋められたものと考えられている。二ノ丸から西の伯耆丸は有馬豊氏の弟有馬重頼(有馬伯耆重頼)の館があったところである。本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったが、城の中央に位置し規模の大きい二ノ丸御殿が中心施設であったと思われている。尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。(ウイキぺデアから抜粋掲載)

1.福知山市役所前から見る!
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2.駐車場から見る福知山城!
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3.堀から太鼓橋と天守閣への登り道!右側の隅櫓は美術館です。
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4.太鼓橋から天守閣を見る!
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5.天守閣への登り道!秋の紅葉が散ると見事な紅葉の絨毯の登り道になります!
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6.入城案内(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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7.かなりの登り道です!秋の11月末には紅葉の絨毯道となります。
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8.桜が満開です!
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9.明智光秀公は家臣に命じて緊急の城壁造りのため多くの石仏などの転用石を用いて城壁を作ったのです。
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10.アップで転用石を用いた城壁を見ます。
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11.昭和61年に再建された天守閣を見上げる。
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12.築城後に余った転用石群(石仏、碑、墓石もあります。)
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13.転用石の駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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14.銅門の駒札(同上)
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15.銅門
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16.銅門から見る桜!
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17.咲き誇る桜と隅櫓・天守閣を北から見る!
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18.同上
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19.二の丸から綾部方面を見る!
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20.今回は桜がメインです。他の福知山城は下記をクリックして見て下さい!
https://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/577.html
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2019/6/18

古都奈良を見る!国宝の本堂と薬師如来坐像,,十二神神将立像持つ新薬師寺!  文化財研修記

奈良市高畑町1352には国宝の本堂と木造薬師如来坐像、十二神将立像をもつ華厳宗(東大寺と同じ)の新薬師寺(しんやくしじ)がある。寺伝によれば天平19年(747)に光明皇后が、聖武天皇の眼病が治るように行基に建立させ、七仏薬師如来を安置したといわれています。かつては七堂伽藍が整った由緒ある寺院でしたが、現在は本堂〔国宝〕だけが残っています。東門・南門・鐘楼・地蔵堂はいずれも鎌倉時代の建造で重文に指定されています。また、境内全体に高畑独特の静かなムードがただよっています。本尊木造薬師如来坐像〔国宝〕とそれを囲む等身大の塑造十二神将立像〔国宝〕が有名です。

1.南門(鎌倉時代の四脚門、国重文)
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2.南門をアップで見る!
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3.鐘楼と中の梵鐘(鎌倉時代のもので国重文)
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4.鐘楼前から国宝の本堂を見る!
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5.地蔵堂(鎌倉時代、国重文)
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5.地蔵堂を正面から見る!
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6.国宝の本堂を正面から見る!
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7.国宝の本堂をアップで見る!(本堂内には見事な円形の土壇が築かれ国宝の薬師如来坐像や十二神将立像が安置されています。)」
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8.見事な蘇鉄と庫裡
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9.東門を望む!(国重文、平安時代末期のの楼門、南門より古く簡素な構造から当初は二脚門であったと推定されています)
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10.竜王社
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2019/6/15

古都奈良を見る!鏡j神社の別宮(摂社)で十市皇女を祀る比賣神社!  文化財研修記

奈良市高畑町には比賣塚は古くから「高貴の姫君の墓」と語り伝えられており、『日本書紀』の記載にある「天武天皇6年(67年)4月14日に十市皇女を、天武天皇10年(682)に氷上娘を「赤穂」の地に葬った」とされるこの二人ではないかと考えられている。1920年代に比賣塚は国有となって奈良財務局の管理下におかれたが、地元の有志の奔走によって奈良財務局から比賣塚の払い下げを受けたのを機に、そこに神社を造営することとなった。比賣塚の現形9坪を新薬師寺に寄進し、神殿・祭祀を鏡神社の摂社として委任することとした。1980年夏、新薬師寺・鏡神社の協力により地鎮祭が、同年末に上棟祭が行われた。1981年、十市皇女の命日である4月7日を新暦に換算した日である5月10日に鎮座奉祝祭が行われ、十市皇女を祀る比賣神社が誕生した。施設は社殿 - 高さ約2.5m、幅約2mほどの社殿が建てられている。社殿の正面1.55mぐらいのところに朱塗りの門があり、その門は閉ざされていてそこから中に入ることはできないようになっている。社殿に付いている鈴と、その門とがひもで結ばれており、参拝者は門前からそのひもを引いて鈴を鳴らすようになっている。神像石 - 社殿の正面向かって左側に、男女がむつまじく肩を寄せあっている像が彫られた高さ1.5mぐらいの石があり、その左に「神像石(かむかたいし)」という。良縁を願う人々の絵馬やそのほか、社殿の脇に絵馬を掛ける場所があり、良縁を願う人々の絵馬が多数掛かっている。その前には小さな石が置かれ、万葉集の「河の上の斎つ岩群に草むさず 常にもがもな常処女にて」という歌が彫られている。

1.比賣神社(比賣塚の上に建つ。)
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2.駒札
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3.掲示板(画像をクりっくすると拡大してよめます。)
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4.歌碑
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5.神像石の駒札
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6.神像石
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2019/6/12

古都奈良を見る!怨霊を鎮めると云われる藤原広嗣を祀る南都鏡神社!  文化財研修記

奈良市高畑町468には怨霊を鎮めると云われる藤原広嗣を祀る南都鏡神社!神社の歴史は古く、平安時代に入って間もない時期の大同6年(806)に隣接する新薬師寺の鎮守社として創建されたことに始まります。なお、創建にあたっては、現在の佐賀県唐津市にある「鏡神社」から奈良時代に謀反を起こしたとして処刑された藤原広嗣を御祭神として勧請を受けたものとされており、この神社は藤原広嗣の怨霊・御霊を鎮める神社としての役割を果たしてきました。藤原広嗣とはどんな人物か?さて、その「怨霊伝説」の由来となった藤原広嗣という人物ですが、彼は藤原不比等の三男である藤原宇合の息子として生まれた人物となっています。広嗣は天平9年(737)に天然痘の流行により「藤原四兄弟」として名をはせた宇合ら有力貴族が全員死亡する中で生き、その後反藤原氏勢力の台頭により左遷されるれる中、親族への誹謗を理由に大宰少弐に左遷される。天平12年(740)左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ)が大宰府に拠って軍勢1万を集め反乱を起こしたが,鎮圧処刑された。所謂,皇族・橘諸兄などと藤原一族の勢力争いだった。

1.鏡神社の標柱と大鳥居
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2.本殿の駒札
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3.見事な舞殿
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4.神門から見る拝殿!
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5.見事な拝殿と本殿を見る!
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6.春日くずしの見事な本殿
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7.本殿の駒札
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8.イチイガシの駒札
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9.見事なイチイガシ
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10.もう一度本殿を正面から見ます!
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2019/6/8

古都奈良を見る!国重文の閻魔王座像など多くの重文の像を持つ白豪寺!  文化財研修記

奈良市白豪寺町392には国重文の寄木造りの閻魔王坐像など8体の国重文の像を持つ真言律宗で大和北部88ケ所第63番札所・関西花の寺第18番札所の高円山・白毫寺(びゃくごうじ)がある。
若草山・春日山に続南の高円山の麓にある寺で、天智天皇の第七皇子の志貴皇子の離宮があり、その山荘を寺としたという言い伝えがあるが、定かでない。鎌倉中期に西大寺で真言律宗をおこし多くの寺を復興した興正菩薩叡尊が当寺を再興・整備したとされる。弘長元年(1261)叡尊の弟子・道照が宋から大宋一切経の摺本を持ち帰り、一切経の転読を行った。以来当寺は一切経寺と呼ばれ、奈良の町では「寒さの果ても彼岸まで、まだあるわいな一切経」とうたわれた。明応6年(1497)古市・筒井勢による戦乱でほとんどの堂宇を焼かれなど苦難の時代を得て、江戸時代寛永年間に興福寺学僧・空慶上人が再興して、幕府から禄高50石を扶持され栄えた。西方極楽浄土の仏、阿弥陀如来を本尊に、地蔵菩薩・閻魔王とその眷属の司命・司録・大山王の閻魔一族など重要文化財の仏像8体を宝蔵におさめ、本堂に阿弥陀三尊、聖徳太子二歳像他を安置している。御影堂(江戸時代)には中興の祖・空慶上人をお祀りしている。境内には不動・弥勒・地蔵などの石仏が点在し、西には奈良市街が一望できる。春には樹齢およそ450年の五色椿、秋には参道に萩の花が咲き乱れる。

1.白毫寺標柱と参道
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2.入山案内板
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3.満開の桜と山門を見上げる!
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4.見事な山門
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5.更になる石段参道を登る!
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6.山門と麓の奈良市内を望む!
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7.見事な本堂を見る!
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8.本堂と銅鑼を見アップで見る!
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9.本堂の駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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10.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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11.推定樹齢500年の白毫寺の大椿!
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12.多宝塔跡
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13.石仏群の一部
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14.石造りの不動明王像
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15.多宝塔跡を逆から見る❕
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16.五色椿がまだ咲いていた!(奈良の三椿の一つ)
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17.同上 駒札
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18.五色椿全体を見る!
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19.万葉集の駒札


20.万葉集の句碑
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21.西方の奈良市街を望む!
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22.御影堂
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23.国重文の阿弥陀如来坐像など8体の仏像などおさめる宝蔵
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2019/6/5

古都・奈良を見る!日本で唯一の氷室の創始者の神・闘鶏稲置大山主命を祀る氷室神社!  文化財研修記

奈良市春日野町1−4には日本で唯一の氷室の創始者の神・闘鶏稲置大山主命(つげいなぎおおやまぬしみこと、都祁地方の国造)を祀る氷室神社)(ひむろじんじゃ)がある。由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見される。和銅3年(711)、元明天0皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀し、厳寒に結氷たものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創始された。翌和銅4年(711)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降年4月1日より9月30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平安遷都後は廃止され、貞観2年(860)、清和天皇の時期になって、現在の地に奉遷され、左右2神併せ三座となった。社殿が建立されのは建保5年(1217)とされている。以来、春日大社の別宮に、式年費用や営繕費、祭礼費な日社、興福寺の朱印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われ明治以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形になっている。正面石段を登ると表門(四脚門)と東西廊がある。この3棟は奈良県指定有形文化財であり、棟札が建物の附(つけたり)として指定されている。棟札によると、表門は寛永19年(1642)の修理であり、内裏の日御門扉および金5枚を寄付されて修復されたとある。門は四脚門形式で屋根は本瓦葺、東西廊は門に接続し、それぞれ桁行3間、梁行2間である。本殿は奈良県指定有形文化財で三間社流造・檜皮葺で江戸時代末期の造替といわれる。本殿床下には2室があり、両開き板戸がつけられている。本殿前の拝殿は、勾欄付きで舞楽殿となっている。境内社の舞光社は南都雅楽の楽祖で、楽人達の氏神である狛光高公を祀っている。社殿は一間社春日造の見世棚がついている。祓戸社は住吉社とも呼ばれ、手水舎向かいに祀られている。国重文の木造舞楽面 陵王 1面、奈良国立博物館に寄託。木造彩色、長さ29.5センチメートル、幅24センチメートル、鎌倉時代の作。献氷祭は奈良時代、春日野に氷池や氷室を設け、氷の神を祀り、春迎えとして順調な気候と豊作を祈願する祭りが営まれていた。現在は全国各地より、製氷・販売業者が参列し、業績成就を祈願する祭りとなっており、業界繁忙な6月を避けて5月1日に行われている。神前に花氷や鯛の結氷などの花氷3基、氷柱6基を捧げ、舞楽殿では舞楽4曲が奉じられる。例祭は永久5年(1117)9月1日、鳥羽天皇の時代に悪疫鎮止のため始められたという。源平の騒乱の後一時絶えたが、建保5年(1217)、順徳天皇によって南都方楽所の氏神として仰ぎ再興され、日の使も参向したと伝わる。江戸時代の終わりまでは、氷室の舞楽祭等と称され、1日夜18時〜20時までと翌2日の後宴祭は別願の舞楽と呼ばれ、38曲もの曲が演じられ終日舞楽が奉献されていたとの記録が残っている。明治までの渡御お旅所は、旧一條院宮邸の玄関に鳳輦(神輿)が安置され、興福寺の別当一乗院宮が参列し御旅所祭を執行した。神社との往復途上、道楽と称し奏楽しつつ練り歩いたと伝わる。明治以降は興福寺南大門跡が御旅所となった。渡御は氏子の要望により、その後氏子区域32ヶ町を近年まで巡幸していたが、交通事情煩雑の為現在は中止されている。(ウイキぺデアから抜粋掲載)

1.宿から徒歩で春日神社の一の門前を通リ、氷室神社へ向かう。
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2.国立奈良博物館横を通る!
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3.見事な氷室神社の門(四脚門が良く判る)
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4.正面参道を見る!
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5.右手の手水舎と満開の桜
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6.境内社の祓戸社
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7.表門と拝殿を見上げる!
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8.見事な表門は東西廊に接続しています。
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9.表門をアップで見ます!
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10駒札
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11.見事な拝殿と其の後ろの本殿を左側から見る!
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12.拝殿後部と本殿を左側から見ます!
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13.拝殿を正面から見る!
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14.駒札
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15.本殿全景を右側から見る!
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16.拝殿左側から表門と東西廊を見る!
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17.見事な桜満開の境内です!
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2019/6/2

古都奈良を見る!奈良の老舗旅館・四季亭の滞在を満喫!  文化財研修記

4月中旬の平日、古都奈良の見学では、子供の自家用車で再度見たかった寺社や初めて見る寺社の見学を堪能し、又、20歳代に泊まり感嘆した、創業100年の老舗旅館・四季亭の滞在を満喫しました。20歳の時宿泊食事を堪能した宿で思い出のある宿に再度50年後滞在しました。

宿の女将の言葉は、次の通リです!
「「ただひたすらに奈良の旅亭でありたい」
という女将の想いの基、
他でも無い奈良の春日大社一の
鳥居横でしか出来ない旅館を目指しています。
また館のろごまーくは
春夏秋冬四季折々どんな時も
お客様と寄り添い・歩み・守るという
意味合いを持っております。
ここでしか感じる事の出来ない奈良を
どうぞお楽しみ下さい。」

宿泊したのは平成31年(5月から令和元年となります。)4月11日金曜日でJTBで予約クーポン発券、1泊2食付(部屋での夕食、朝食込)8畳(次男が寝る。)メインは12畳で此処で夕食、朝食のっサービス、此の12畳で家内と2名寝る。3名で税・サービス料込で@20,000x3名のJTBククーポンで支払った。夕食・朝食・部屋の設備や大風呂で滞在を満喫した。

1.夕方4時頃・思い出の「旅館 四季亭」に到着。玄関前に次男の自家用を止め、玄関の案内役に
車の鍵を渡し、チェックインする。
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2.四季亭の玄関前
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3.玄関内
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4.3名が泊まった部屋(12畳で夕食、朝食、私と家内の寝床を作って貰った部屋)
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5.部屋の玄関口
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6.小生が撮影、次男、部屋係の女性そして家内
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7.最初の「三寸突き出し」(いわゆる、洋食で言うとアペタイザーです。)、(夕食前に今、評判の氷室神社を徒歩の散策として撮影してきましたので、その記事は次回掲載します。)
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8.順次、料理がでてきます。「煮物」
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9.同上   「焼物」
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10.同上  「吸物」
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11.メイン
何処か?>

12.朝食
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13.四季亭の大風呂や出発の時、3名の「記念写真」の撮影を係の女性にして頂いたがカットです。

以上四季亭で楽しんだ報告です!!

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