2019/5/30
古都奈良を見る!国宝の極楽堂と僧坊、五重小塔を持つ元興寺! 綾部の文化財
奈良県奈良市中院町11には一般には極楽坊とも呼ばれて国宝の極楽堂と僧坊、五重小塔のある真言律宗の元興寺(がんこうじ)がある。この寺は前身は6世紀末蘇我馬子によって開かれた法興寺(飛鳥寺)でしたが、平城遷都に伴い今の地に移転され名も元興寺と改められました。かつては南都七大寺の一つとして威勢を振い、現在の奈良市街の南東部を占めていました。広大な寺域には、金堂・講堂・塔・僧房などが立ち並んでいましたが、平安時代半ば、その勢威も衰えてしまいました。現在では僧坊の一画が唯一現存しています。極楽坊はかつての元興寺僧坊の一部で、鎌倉時代に極楽堂〔国宝〕と禅室〔国宝〕に改築されました。中世以来庶民の信仰を集め、境内から無数の石仏と民俗資料が発見されています。法輪館には奈良時代の木造五重小塔〔国宝〕木造阿弥陀如来坐像・智光曼陀羅図・庶民信仰資料〔各重文〕などが多数保存されています。
1.元興寺の標柱(石碑)

2.東門(国重文、もと東大寺の西南院の門を室町時代に移築したもので、堂々とした本瓦葺きの四脚門です。)

3.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

4.国宝の本堂(極楽坊)

5.本堂内部(須弥壇)を見る!

6.駒札と元興寺講堂礎石(画像をクリックすると拡大して読めます。)

7.同上

8.収蔵庫(内部には国宝の五重小塔(実際の塔のを10分の1に縮小したもので5.5メートルもあり、塔の建築構造が良くわかる。内部は撮影禁止で残念です。)」

9.駒札と浮図田の一部

10.浮図田と右側にあるのは国宝の僧坊

11.もう一度本堂と裏側にある国宝の僧房を見ます。
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1.元興寺の標柱(石碑)

2.東門(国重文、もと東大寺の西南院の門を室町時代に移築したもので、堂々とした本瓦葺きの四脚門です。)

3.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

4.国宝の本堂(極楽坊)

5.本堂内部(須弥壇)を見る!

6.駒札と元興寺講堂礎石(画像をクリックすると拡大して読めます。)

7.同上

8.収蔵庫(内部には国宝の五重小塔(実際の塔のを10分の1に縮小したもので5.5メートルもあり、塔の建築構造が良くわかる。内部は撮影禁止で残念です。)」

9.駒札と浮図田の一部

10.浮図田と右側にあるのは国宝の僧坊

11.もう一度本堂と裏側にある国宝の僧房を見ます。

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2019/5/27
古都奈良を見る!真言律宗で業平寺とも呼ばれる金龍山・不退寺! 文化財研修記
奈良県奈良市北蓮町517には真言律宗で業平寺(なりひらでら)とも呼ばれる金龍山・不退寺(ふたいじ)がある。縁起によれば、大同4年(809)、平城天皇が譲位してのちこの地に隠棲し「萱の御所」と称する屋敷を創建したのがそもそもの始まりとする。その後平城天皇の皇子である阿保親王、更に阿保親王の5男である在原業平が暮らしたという。業平が伊勢神宮を参詣した時に受けた神勅を機に、承和12年(845)、仁明天皇の詔を奉って承和14年(847)、萱の御所を寺に改めて業平が自ら聖観音像を刻み、「不退転法輪寺」と号して阿保親王の菩提を弔い、仁明天皇の勅願所となったのが、寺院としての始まりと伝えられている。寺の近辺からは平安時代前期の古瓦や木簡が出土しており、創建がその頃までさかのぼることは認められるが、中世以前の沿革はあまり明らかでない。確実な史料における不退寺の初見は『三代実録』に、貞観2年(860)10月15日、真如親王が平城京内の田地を不退寺に施入したとみえるものである。真如親王(法親王)は出家前の名を高岳親王といい、平城天皇の皇子、阿保親王の弟にあたる。このことから、不退寺は伝承どおり平城天皇所縁の寺であると推定される。平安時代末期の養和元年(1181)、平重衡による南都焼討のために諸堂が炎上し、鎌倉時代になってから西大寺の興正菩薩叡尊によって再興され、中世から近世にかけては西大寺及び興福寺一乗院双方の末寺とされ、二重の支配を受けた。またこの頃には浄名院・不動院・長老坊という塔頭があったようである。江戸時代の慶長7年(1602)には江戸幕府により寺領50石が安堵されており、天和3年(1683)には七堂伽藍が軒を並べていた。しかし、江戸時代中期ごろから衰微し始め、上記の塔頭も廃絶した。幕末からは無住となり、西大寺三光院の住職が兼務をしていたようである。1872年(明治5年)から数年のうちには多宝塔の上層部を取り払っているが、1885年(明治18年)、品川弥二郎によって瑞景寺の庫裏が移築されている。明治6年から大正12年までは完全に無住となり、西大寺住職が兼務するようになった。しかし大正12年に住職が入り、昭和5年4月に青蓮院門跡久邇宮邦英が見学に来、窮状を見聞するや国と話を付けて国庫補助が下りることとなった。こうして昭和5年に本堂が昭和9年には多宝塔と南大門が解体修理された。
南門(重要文化財、南大門 - 鎌倉時代末期、正和6年(1317)の建立で、切妻造・本瓦葺。冠木上には笈形調の装飾が見られる。1934年(昭和9年)の修理時、多くの墨書銘が確認された。本堂 - 南北朝時代から室町時代前期の建立。正面5間、側面4間。寄棟造・本瓦葺。正面3間、側面2間の身舎(もや)の周囲に1間の庇をめぐらした(三間四面)古代以来の平面形式をもつが、堂内に入ると、奥の内陣と手前の外陣(礼堂)に区画された中世仏堂に一般的な形式となっている。正面と背面の頭貫(かしらぬき)は、中央の柱間の部分のみ、ゆるいカーブを付けて虹梁形としており、この形式の早い例とされる。多宝塔−鎌倉時代のもの。現状は宝形造単層の仏堂にみえるが、元は二層の多宝塔であった。「大和名所図会」によれば、寛政年間には檜皮葺きの上層部があったが、明治時代初期に取り払われ、現在は初層のみが残っている。(ウイキペデイアから抜粋掲載)
1.南門(国重文)

2.南門をアップで見る!

3.不退寺近辺図

4.駒札

5.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

6.山門から本堂や境内を見る❕

7.庫裡への門

8.駒札

9.石棺

10.本堂を見る!

11.本堂の銅鑼を見る!

12.本堂から南門を見る!

13.本堂の駒札

14.伊勢物語碑

15.同上 駒札

16.駒札

17.多宝塔を横から見る!

18.伊勢物語の一句

19.同上

20.多宝塔を正面から見る!

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南門(重要文化財、南大門 - 鎌倉時代末期、正和6年(1317)の建立で、切妻造・本瓦葺。冠木上には笈形調の装飾が見られる。1934年(昭和9年)の修理時、多くの墨書銘が確認された。本堂 - 南北朝時代から室町時代前期の建立。正面5間、側面4間。寄棟造・本瓦葺。正面3間、側面2間の身舎(もや)の周囲に1間の庇をめぐらした(三間四面)古代以来の平面形式をもつが、堂内に入ると、奥の内陣と手前の外陣(礼堂)に区画された中世仏堂に一般的な形式となっている。正面と背面の頭貫(かしらぬき)は、中央の柱間の部分のみ、ゆるいカーブを付けて虹梁形としており、この形式の早い例とされる。多宝塔−鎌倉時代のもの。現状は宝形造単層の仏堂にみえるが、元は二層の多宝塔であった。「大和名所図会」によれば、寛政年間には檜皮葺きの上層部があったが、明治時代初期に取り払われ、現在は初層のみが残っている。(ウイキペデイアから抜粋掲載)
1.南門(国重文)

2.南門をアップで見る!

3.不退寺近辺図

4.駒札

5.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

6.山門から本堂や境内を見る❕

7.庫裡への門

8.駒札

9.石棺

10.本堂を見る!

11.本堂の銅鑼を見る!

12.本堂から南門を見る!

13.本堂の駒札

14.伊勢物語碑

15.同上 駒札

16.駒札

17.多宝塔を横から見る!

18.伊勢物語の一句

19.同上

20.多宝塔を正面から見る!

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2019/5/24
古都奈良を見る!国宝の仏像2体と国史跡名勝庭園のある光明宗・法華寺門跡! 文化財研修記
奈良県奈良市法華寺町882には国宝の十一面」観音菩薩立像と阿弥陀三尊・童子象、国史跡名勝庭園等のある光明宗・総国分尼寺の法華寺門跡がある。又、光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる(門跡寺院とは、皇族、貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院の称)。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といった。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745)5月皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである(『続日本紀』)。この宮寺を「法華寺」と称したことが文書で確認できるのは2年後の天平19年(747)からである。聖武天皇は天平13年(741)2月14日、国分寺・国分尼寺建立の詔を発した(詔の日付は『類聚三代格』による)。法華寺は、この詔に基づいて建立整備された国分尼寺である。ただし、前述のように、法華寺の前身である皇后宮を宮寺としたのは4年後の天平17年(745)5月のことであり、国分尼寺を意味する「法華寺」の寺号の使用が確認できるのは、天平19年(747年)正月の「法華寺政所牒」(正倉院文書)が初見である。国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられてからの数年間、大和国の国分尼寺は存在しなかったのか、存在したとしたらどこにあったのかなど、創建経緯の細部については不明な点が多い。福山敏男は、天平16年6月8日付けの「金光明寺写経所文書」(正倉院文書)に「法花寺」という寺名が見えることに着目し、現・法華寺の創建以前に別の場所に「法花寺」すなわち国分尼寺が存在したこと、それは東大寺の前身寺院である金鐘寺に属していた阿弥陀堂であろうという説をとなえた。法華寺は皇后発願の寺院であり、国分尼寺という位置づけでありながら、伽藍の完成までには相当の歳月を要したとみられる。天平宝字6年(762年)の「作金堂所解(さくこんどうしょげ)」および「造金堂所解案」という文書を見ると、この時点で金堂の建立工事がまだ続いていたことがわかる。なお、法華寺造営のための役所であった造法華寺司は延暦元年(782年)に廃止されており、遅くともこの頃までには伽藍整備が完成していたと見られる。発掘調査の結果、奈良時代の法華寺の境内は平城宮東宮の東に接し、北は一条条間路、南は二条条間路、東は東二坊大路、西は東一坊坊間路を境として、南北3町、東西2町に及んでいたことがわかった。創建当初の金堂や講堂は、現・法華寺南門のさらに南に位置し、金堂の南に中門、その南には東西両塔があったことがわかっている。さらに、境内南西部には天平宝字3年(759年)から翌年にかけて建立された阿弥陀浄土院があった。阿弥陀浄土院は、丈六の阿弥陀三尊像を本尊とし、『続日本紀』によれば、天平宝字5年(761)、光明皇太后の一周忌がここで営まれている。法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたことが当時の記録から伺える。治承4年(1180)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたという。鎌倉時代に入り、東大寺大仏の再興を果たした僧・重源は、建仁3年(1203)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、この再興時の本尊廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されている。さらに、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊によって本格的な復興がなされた。その後、明応8年(1499)12月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経によって焼き討ちされると、永正3年(1506)7月、再び攻め込んできた赤沢朝経によってまたも焼き討ちされた。そのうえ慶長元年(1596)には地震にもあって、最終的には東塔以外の建物を失った。現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601)頃、豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興したものである。なお、兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔は宝永4年(1707)の地震で倒壊した。法華寺は叡尊の時代以来、真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていたが、1999年(平成11年)に創建当時のように独立した寺に戻ることなり、光明宗として独立し現代にいたる。(ウイキぺデアより抜粋掲載)
1.見事な山門その1.赤門(一度では撮影が難しい。)

2.同上その2.左側の国重文の南大門を見る!

3.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

4法華寺の文化財の案内碑文

5.拝観料の支払場所です!

6.境内の全箇所の位置図(画像をクリックすると拡大して読めます。)

7.国重文の鐘楼

8.名勝庭園の一部に浮かぶ「悲光殿」

9.国重文の本堂を右側から見る!右側には中門が見える。

10.年間行事予定表(画像をクリックすると拡大して読めます。国宝の十一面観世音菩薩立像などは指定された特別開扉の日時のみです。)

11.国史跡 名勝庭園入口

12.国史跡名勝庭園の一部

13.同上.

14.同上

15.同上

16.本堂と続く県指定文化財の客殿を横から見る!

17.仙洞御所より移築された回遊式庭園は客殿と共に国史跡に指定されており美しい杜若(カキツバタ)が堪能できます。

18.見事な蘇鉄

19.から風呂・光月亭への入口

20.光明皇后の千人施浴伝説で有名な「国民俗指定のからぶろ(浴室)」
21.駒札
>
22.駒札

23.光月亭(勿論、内部の見事な屋根裏や部屋も見学出来ます。)

24.薬師堂の駒札

25.薬師堂

26.東庭園の一部を見る!

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1.見事な山門その1.赤門(一度では撮影が難しい。)

2.同上その2.左側の国重文の南大門を見る!

3.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

4法華寺の文化財の案内碑文

5.拝観料の支払場所です!

6.境内の全箇所の位置図(画像をクリックすると拡大して読めます。)

7.国重文の鐘楼

8.名勝庭園の一部に浮かぶ「悲光殿」

9.国重文の本堂を右側から見る!右側には中門が見える。

10.年間行事予定表(画像をクリックすると拡大して読めます。国宝の十一面観世音菩薩立像などは指定された特別開扉の日時のみです。)

11.国史跡 名勝庭園入口

12.国史跡名勝庭園の一部

13.同上.

14.同上

15.同上

16.本堂と続く県指定文化財の客殿を横から見る!

17.仙洞御所より移築された回遊式庭園は客殿と共に国史跡に指定されており美しい杜若(カキツバタ)が堪能できます。

18.見事な蘇鉄

19.から風呂・光月亭への入口

20.光明皇后の千人施浴伝説で有名な「国民俗指定のからぶろ(浴室)」

21.駒札
>

22.駒札

23.光月亭(勿論、内部の見事な屋根裏や部屋も見学出来ます。)

24.薬師堂の駒札

25.薬師堂

26.東庭園の一部を見る!

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2019/5/21
古都・奈良を見る!国宝・五重小塔を持つ海龍王寺! 文化財研修記
海龍王寺(かいりゅうおうじ)は、奈良県奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院です。。本尊は十一面観音。光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に建てられたことから隅寺(すみでら)の別称がある。海龍王寺は平城宮跡の東方、総国分尼寺として知られる法華寺の東北に隣接している。法華寺と海龍王寺のある一画は、かつては藤原不比等の邸宅であった。養老4年(720)の不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が相続して皇后宮となり、天17年(745)にはこれが宮寺(のちの法華寺)となった。海龍王寺は、『続日本紀』、正倉院文書などの奈良時代の記録では「隅寺」「隅院」「角寺」「角院」などと呼ばれている。正倉院文書では天平8年(736)には「隅院」の存在が確認できる。「隅寺」とは、皇后宮(藤原不比等邸跡)の東北の隅にあったことから付けられた名称と言われている(「平城京の東北隅にあったため」と解説する資料が多いが、位置関係から見て妥当でない)。発掘調査の結果により、奈良時代の海龍王寺には、小規模ながら、中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂、西金堂の3つの金堂があったことがわかっている。伽藍配置は、中門の左右から発した回廊が伽藍主要部を方形に囲んで中金堂の左右に達し、回廊で囲まれた内側に南北棟の東金堂と西金堂が相対して建つものであった。現存する西金堂は、位置、規模等は奈良時代のままであるが、鎌倉時代に再建に近い修理を受けており、主要な部材はおおむね鎌倉時代のものに代わっている。中金堂の旧地には本堂が建ち、東金堂は明治時代初期に失われた後、再建されていない。平安時代の寺史についてはあまりはっきりしていないが、興福寺の支配下にあったようである。鎌倉時代には、真言律宗の宗祖である叡尊が嘉禎2年(1236)から暦仁元年(1238)まで当寺に住して復興を行っており、貞治4年(1365)には第13代信尊和尚、康暦元年(1379)には第15代興泉和尚、長禄元年(1457)には第28代元澄和尚、天文7年(1538)には光淳和尚、明和3年(1765年)には高瑜和尚と、海龍王寺から5名の西大寺長老を輩出しており、真言律宗の中でも筆頭格の寺院であった。江戸時代には寺領が400石あったが明治時代に入ると没収され、神仏分離令のなかで東金堂も失われ、境内の荒廃も進み、長らく無住の時期が続いた。しかし、1953年(昭和28年)に住職が着任し、堂宇の修理、境内の整備が行われた。長らく奈良国立博物館に寄託されていた五重小塔も本来の安置場所である西金堂に戻された。
建造物
西金堂(重要文化財)
本堂(奈良市指定文化財)
江戸時代、寛文6年(1666年)の再建。
西金堂(重要文化財)
奈良時代の建立(鎌倉時代に大修理)。内部に五重小塔(国宝)を安置する。切妻造、本瓦葺き、正面3間、側面2間の小規模な仏堂である(ここでいう「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。古代の仏堂で現存するものは、構造的に中心部の「身舎」(もや)と、その周囲の「庇」という2つの部分からなるものが多いが、この西金堂は「身舎」のみで「庇」にあたる部分がない、簡素な建物である。奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に再建に近い大修理を受けており、奈良時代の部材はその多くが当初位置ではなく、堂内の他の場所に転用されている。創建時より規模や様式的は変更は無いと考えられている。
経蔵(重要文化財)− 寄棟造、本瓦葺きの小建物。鎌倉時代に、西大寺の中興の祖・叡尊により造立されたと伝わる。叡尊の年譜(『興正菩薩行実年譜』)に、正応元年(1288)、海龍王寺の堂宇を修造し、経蔵を新築したことがみえ、これにあたるものと推定される。
山門(奈良市指定文化財)室町時代の建立。築地塀・室町時代に建立。東金堂跡:創建当初は西金堂に向かい合う形で建ち、内部に五重小塔が建っていた。明治初年に廃絶し現在は基壇が残るのみで。
五重小塔
国宝。西金堂内に安置。相輪を含む総高4.01メートル(相輪を除く高さは2.85メートル)の小塔だが、工芸品ではなく「建造物」として国宝に指定されている。当初から屋内に安置されていたもの。木箱入り法華経2巻と垂木木口金物2個が国宝の附(つけたり)として指定されている。奈良市・元興寺(極楽坊)の五重小塔が内部構造も省略せず、屋外にある塔と同様に1つ1つの部材を組み上げて造られているのに対し、海龍王寺の小塔は箱状の構造物を積み上げ、組物などの細かい部材は外側から貼り付けたものである。しかし、様式的には元興寺小塔より古い8世紀前半頃のもので、細部様式が薬師寺の三重塔に類似しており、遺例の少ない奈良時代建築の様式を知るうえで重要である。後世の塔では、四隅に45度の角度で突出する組物と、その両隣の組物とは肘木で連結するが、この小塔では連結されていない。後世の建物では、四隅の組物には鬼斗(おにと)という、特殊な形状の斗(ます)を用いるのが普通だが、この小塔では四隅にも通常の斗を使っている。また、軒の部分に支輪(しりん)という斜め方向の壁状のものを設けず、水平に張られた軒天井とするのも古い要素である。以上の点は薬師寺東塔と同様の構造になる。一方で、薬師寺東塔より時代の下る要素もいくつかある。一番外側の軒桁(垂木を直接支える水平材)は、薬師寺東塔では断面角形だが、この小塔では断面円形である。薬師寺東塔では三手先(みてさき)の組物の二手目の肘木には斗(ます)が1つしか乗らないが、この小塔では斗が2個乗り、後世の塔と同様になっている。以上のことから、この小塔の様式は、730年頃建立の薬師寺東塔よりは新しいが、奈良時代末期の當麻寺東塔よりはさかのぼるものとみられる。この塔の初重には扉や壁がない。初重と二重目の間には組み入れの格天井を張るが、それ以外の設備は何もなく、当初どのような用途に使われたものかは不明である。前述の木箱入り法華経2巻は塔内に安置されていたものだが、鎌倉時代のものである。この塔は小さいながらも「模型」ではなく、正式の「塔」として造られ、西金堂はその覆屋として建てられたものだとする説もある。基壇には永仁2年(1297年)の銘があって、その頃修理が行われたと推定される。また、相輪は明治39年(1906年)の補作で、当初の状況は不明である。
なお、海龍王寺は皇后宮の内廷寺院として、聖武天皇・光明皇后を支えたが、五重小塔および西金堂は、光明皇后宮内に残る唯一の天平時代建造物であるとともに、内廷仏教と内廷寺院の中心伽藍を現在に伝える仏教建造物として重要な役割を果たしている。
その他の文化財;木造十一面観音立像−海龍王寺の本尊。鎌倉時代の像。木造文殊菩薩立像−鎌倉時代。絹本着色毘沙門天像−鎌倉時代、奈良国立博物館寄託。木造寺門勅額−聖武天皇の宸筆と伝わる。鍍金舎利塔(正応三年七月銘)−奈良国立博物館寄託。その他の文化財;本堂、山門
海龍王経−奈良時代、奈良国立博物館寄託。隅寺心経−奈良時代、奈良国立博物館寄託。空海の書写と伝わる。法華経−鎌倉時代。愛染明王坐像−室町時代。(長文ですがウイキぺデアの抜粋です)
1.海龍王寺の山門(室町時代・奈良市指定文化財)と駒札

2.山門と駒札

3.駒札をアップで見る(画像をクリックすると拡大します。)

4.山門をアップで見る!

5.山門から境内を見る!

6.中門

7.中門から見た境内(桜が満開です!)

8.本堂の駒札(画像をクリックすると拡大して読めます)

9.見事な本堂ですね!

10.本堂内の見事な須弥壇をアップで見る!

11.国宝の五重小塔と国重文の西金堂の駒札

12.国重文の西金堂!

13.西金堂内の国宝・五重小塔(高さ4メートル、天平時代の建物)

14.同上全体をみる!

15駒札.

19.国重文の経蔵

20.巨大な古木・馬酔木(推定樹齢1000年以上のアセビ)が満開です!)

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建造物
西金堂(重要文化財)
本堂(奈良市指定文化財)
江戸時代、寛文6年(1666年)の再建。
西金堂(重要文化財)
奈良時代の建立(鎌倉時代に大修理)。内部に五重小塔(国宝)を安置する。切妻造、本瓦葺き、正面3間、側面2間の小規模な仏堂である(ここでいう「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。古代の仏堂で現存するものは、構造的に中心部の「身舎」(もや)と、その周囲の「庇」という2つの部分からなるものが多いが、この西金堂は「身舎」のみで「庇」にあたる部分がない、簡素な建物である。奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に再建に近い大修理を受けており、奈良時代の部材はその多くが当初位置ではなく、堂内の他の場所に転用されている。創建時より規模や様式的は変更は無いと考えられている。
経蔵(重要文化財)− 寄棟造、本瓦葺きの小建物。鎌倉時代に、西大寺の中興の祖・叡尊により造立されたと伝わる。叡尊の年譜(『興正菩薩行実年譜』)に、正応元年(1288)、海龍王寺の堂宇を修造し、経蔵を新築したことがみえ、これにあたるものと推定される。
山門(奈良市指定文化財)室町時代の建立。築地塀・室町時代に建立。東金堂跡:創建当初は西金堂に向かい合う形で建ち、内部に五重小塔が建っていた。明治初年に廃絶し現在は基壇が残るのみで。
五重小塔
国宝。西金堂内に安置。相輪を含む総高4.01メートル(相輪を除く高さは2.85メートル)の小塔だが、工芸品ではなく「建造物」として国宝に指定されている。当初から屋内に安置されていたもの。木箱入り法華経2巻と垂木木口金物2個が国宝の附(つけたり)として指定されている。奈良市・元興寺(極楽坊)の五重小塔が内部構造も省略せず、屋外にある塔と同様に1つ1つの部材を組み上げて造られているのに対し、海龍王寺の小塔は箱状の構造物を積み上げ、組物などの細かい部材は外側から貼り付けたものである。しかし、様式的には元興寺小塔より古い8世紀前半頃のもので、細部様式が薬師寺の三重塔に類似しており、遺例の少ない奈良時代建築の様式を知るうえで重要である。後世の塔では、四隅に45度の角度で突出する組物と、その両隣の組物とは肘木で連結するが、この小塔では連結されていない。後世の建物では、四隅の組物には鬼斗(おにと)という、特殊な形状の斗(ます)を用いるのが普通だが、この小塔では四隅にも通常の斗を使っている。また、軒の部分に支輪(しりん)という斜め方向の壁状のものを設けず、水平に張られた軒天井とするのも古い要素である。以上の点は薬師寺東塔と同様の構造になる。一方で、薬師寺東塔より時代の下る要素もいくつかある。一番外側の軒桁(垂木を直接支える水平材)は、薬師寺東塔では断面角形だが、この小塔では断面円形である。薬師寺東塔では三手先(みてさき)の組物の二手目の肘木には斗(ます)が1つしか乗らないが、この小塔では斗が2個乗り、後世の塔と同様になっている。以上のことから、この小塔の様式は、730年頃建立の薬師寺東塔よりは新しいが、奈良時代末期の當麻寺東塔よりはさかのぼるものとみられる。この塔の初重には扉や壁がない。初重と二重目の間には組み入れの格天井を張るが、それ以外の設備は何もなく、当初どのような用途に使われたものかは不明である。前述の木箱入り法華経2巻は塔内に安置されていたものだが、鎌倉時代のものである。この塔は小さいながらも「模型」ではなく、正式の「塔」として造られ、西金堂はその覆屋として建てられたものだとする説もある。基壇には永仁2年(1297年)の銘があって、その頃修理が行われたと推定される。また、相輪は明治39年(1906年)の補作で、当初の状況は不明である。
なお、海龍王寺は皇后宮の内廷寺院として、聖武天皇・光明皇后を支えたが、五重小塔および西金堂は、光明皇后宮内に残る唯一の天平時代建造物であるとともに、内廷仏教と内廷寺院の中心伽藍を現在に伝える仏教建造物として重要な役割を果たしている。
その他の文化財;木造十一面観音立像−海龍王寺の本尊。鎌倉時代の像。木造文殊菩薩立像−鎌倉時代。絹本着色毘沙門天像−鎌倉時代、奈良国立博物館寄託。木造寺門勅額−聖武天皇の宸筆と伝わる。鍍金舎利塔(正応三年七月銘)−奈良国立博物館寄託。その他の文化財;本堂、山門
海龍王経−奈良時代、奈良国立博物館寄託。隅寺心経−奈良時代、奈良国立博物館寄託。空海の書写と伝わる。法華経−鎌倉時代。愛染明王坐像−室町時代。(長文ですがウイキぺデアの抜粋です)
1.海龍王寺の山門(室町時代・奈良市指定文化財)と駒札

2.山門と駒札

3.駒札をアップで見る(画像をクリックすると拡大します。)

4.山門をアップで見る!

5.山門から境内を見る!

6.中門

7.中門から見た境内(桜が満開です!)

8.本堂の駒札(画像をクリックすると拡大して読めます)

9.見事な本堂ですね!

10.本堂内の見事な須弥壇をアップで見る!

11.国宝の五重小塔と国重文の西金堂の駒札

12.国重文の西金堂!

13.西金堂内の国宝・五重小塔(高さ4メートル、天平時代の建物)

14.同上全体をみる!

15駒札.

19.国重文の経蔵

20.巨大な古木・馬酔木(推定樹齢1000年以上のアセビ)が満開です!)

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2019/5/18
京丹波を見る!平成30年度京都府暫定登録文化財の本殿を持つ室尾谷神社! 綾部の文化財
京都府綾部市「元何鹿郡(もといかるがぐん)」中上林地区五津合町(いつあいちょう)寺内109には平成30年度京都府暫定登録文化財の本殿と同府登録文化財の木造随身坐像(2駆)を持つ室尾谷神社(むろおだにじんじゃ)がある。御祭神は珍しい大国主命の孫姫の五十鈴依姫命(いすずよりひめのみこと)であります。創立年代は定かでないが社伝によると其の昔、大町村と畑川村あたりの字、阿須伎(あすき)にの地に祀られていたという。昌秦(しょうたい)時代の頃(898〜901)上林谷総鎮守として阿須々伎神社と号し、二村の氏神として崇敬されていた。京都の源平合戦の保元(ほげん)乱の頃(1156〜59)、丹波、若狭の領主蔵持丹波守が要害形勝の地であるウスキに居城を築き臼井城と称して当神社を守護神としていたとの言い伝えがあります。承久3年(1221)の乱で戦火を被り、困って翌年の貞応(じょうおう)元年(1222)に阿須伎の地から畑川村遊里部落の字、室尾谷に遷祀した後、室尾谷明神と称した。正和2年(1313)大洪水があり、社殿の損害を被り同年10月少し社殿を移し現在の地に再建された。天正10年(1583)明知光秀が丹波攻めの時には丹波地方の多くの講社寺を焼失させたが、当社に対してはその威光を恐れてか難を免れた。当地方の武将の間には当社は特に崇敬されていた。正徳5年(1715)2月3日宗源正一位の位官を拝し、神部伊岐宿弥が奉務した記録があります。安永8年(1779)社殿を改築し現在に至る。尚昭和14年(1939)に拝殿のみが新築されている。主な境内社には高森神社「御祭神は代43代元明天皇(女帝)で有名な歌「青丹よし 平城の京 咲く花の におうがごとく 今さかりなり」があります。その他、倉稲魂、菅原道真、大山祇命、火産霊神などです。
福田筆頭宮総代様より受け取った記録を抜粋一部修正したものです。
1.室尾谷神社の案内板

2.室尾谷神社の大鳥居の手前の宮橋

3.室尾谷神社の一の大鳥居

4.二の鳥居の手前の巨大な常夜灯

5.二の鳥居の左手前の稲荷神社

6.二の鳥居を見る!奥に三の鳥居がg見える。

7.鬱蒼とした参道

8.三の鳥居

9.駒札

10.御神木のスギ

11.三の鳥居と四の鳥居と拝殿が見える!

12.拝殿とその裏の本殿(平成30年度京都府暫定登録文化財に指定)を右側から見る!

13.拝殿をアップで正面から見る!

14.京都府の平成30年度暫定登録文化財に指定された本殿(撮影が難しいので拝殿の中から撮影した本殿正面)

15.室尾谷神社の裏山から見た本殿、拝殿、舞台

16.本殿裏山にある境内社で元明女帝を祀る高森神社

17室尾谷神社の見事な秋祭りを下記をクリックして見て下さい動画も入っています。
その1
https://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/512.html
その2.
https://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/1492.html
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福田筆頭宮総代様より受け取った記録を抜粋一部修正したものです。
1.室尾谷神社の案内板

2.室尾谷神社の大鳥居の手前の宮橋

3.室尾谷神社の一の大鳥居

4.二の鳥居の手前の巨大な常夜灯

5.二の鳥居の左手前の稲荷神社

6.二の鳥居を見る!奥に三の鳥居がg見える。

7.鬱蒼とした参道

8.三の鳥居

9.駒札

10.御神木のスギ

11.三の鳥居と四の鳥居と拝殿が見える!

12.拝殿とその裏の本殿(平成30年度京都府暫定登録文化財に指定)を右側から見る!

13.拝殿をアップで正面から見る!

14.京都府の平成30年度暫定登録文化財に指定された本殿(撮影が難しいので拝殿の中から撮影した本殿正面)

15.室尾谷神社の裏山から見た本殿、拝殿、舞台

16.本殿裏山にある境内社で元明女帝を祀る高森神社

17室尾谷神社の見事な秋祭りを下記をクリックして見て下さい動画も入っています。
その1
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その2.
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2019/5/15
京丹波を見る!国登録有形文化財の大本・綾部本部の見事なみろく殿! 綾部の文化財
京都府綾部市本宮町本宮下1番地には宗教邦人・大本綾部本部があり昭和28年(1953)築の国登録有形文化財の見事な弥勒殿(みろくでん)が在ります。平成27年(2014)4月25日に指定されました。鉄骨造及び木造平屋建一部地階付、銅板葺、建築面積1950平米の見事な神殿1棟です。桁行50メートルを超す大建築で、入母屋造妻入とし裳階を廻らす。西面に間口10メートの入母屋玄関を構え、背面に張出す大神殿周りも入母屋屋根を重層させる。主構造は鉄骨造だが木材で化粧して木造に見せ、広大な広間に格天井を張る。壮大な規模の神殿です。
大本ーおおもと 大本は明治25年(1892)に綾部で開教した。全宇宙を創造された主神を到仁愛(みろく)の大神と仰ぎ、三千世界を立替立直して、「みろくの世」の実現を目的とする。そのため、信仰のまことをつくして神業に奉仕し、万有一体、万教同根の実践につとめることを使命としている。大正10年と昭和10年の大弾圧をこえ、昭和21年(1946)に再発足して、平成4年(1992)に開教100年をむかえた。綾部の梅松苑と亀岡の天恩郷を根本聖地とし、梅松苑は天国に相応する祭祀の中心地、天恩郷は霊国に相応する神教宣布の中心地で、大道場と諸活動の機関がおかれている。大本の教えとは 教旨=神は万物普遍の霊にして 人は天地経綸の主体なり 霊体合一して茲に無限の神徳を発揮す 三大学則=1、天地の真象を観察して真神の体を思考すべし 2、万有の運化の毫差無きを視て真神の力を思考すべし、3、活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし、四大綱領=1、祭ー惟神の大道 2、教ー天受の真理 3、慣ー天人道の常 4、造ー適宣の事務 四大主義=1、清潔主義 心身修祓 2、楽天主義 天地惟神の大道 3、進展主義 社会改善の大道 4、統一主義 上下一致の大道 であります。
(大本本部発行の大本百年のあゆみから抜粋、次回の大本教については順次掲載して行きます。)5月5日は大本みろく大祭でした。所要があり、全てには参加出来ませんでしたが主たる所を掲載します。
1.威容を誇る見事な神殿です。

2.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

3.梅松苑の案内図(画像をクリックすると拡大した図が見れます。)

4みろく殿を真正面に見る!

5.みろく殿を斜めから見る!

6みろく殿内部8(一般見学者の方は大本綾部本部の許可が必要です。)

7.同上

8.左の額は出口直初代教主様、真中は出口王仁三郎聖師様、右は2代目出口すみ子教主様

9.大本事件で打ち壊された建物の模型です!

10.神木エノキとみろく殿

11.元屋敷(出口なお開祖の屋敷跡、大本発祥の地)

12.大八洲神社を参拝する人々「おおやしまじんじゃ、三千年の長い間、この世を蔭から守護されていた坤(ひつじさる)の金神様を祀る。

13.沓島(めしま)神社・冠島(おしま)神社を参拝される人々「大正3年舞鶴市の沖の冠島(かんむりしま)又は竜宮島から移写した神社。

14.大本塩釜神社「安産守護の神として伊邪那岐命・伊邪那美命・乙米(おとよね)姫命を祀る。

15.木の花庵(国の重要文化財)「京都府船井郡瑞穂町(現在合併し丹波町)質志に建っていた岡花金五郎氏の住宅を移したもので、昭和47年国重要文化財に指定された江戸時代前期(17世紀後半の庄屋の屋敷」

16.長生殿の一部(平成4年11月完成の木造の見事な神殿。)

その他。弥仙山・大本教については下記をクリックし、鍋師理事の「丹の国・綾部」を見て下さい。
http://www.nbcayabe.com/ayabe.htm
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大本ーおおもと 大本は明治25年(1892)に綾部で開教した。全宇宙を創造された主神を到仁愛(みろく)の大神と仰ぎ、三千世界を立替立直して、「みろくの世」の実現を目的とする。そのため、信仰のまことをつくして神業に奉仕し、万有一体、万教同根の実践につとめることを使命としている。大正10年と昭和10年の大弾圧をこえ、昭和21年(1946)に再発足して、平成4年(1992)に開教100年をむかえた。綾部の梅松苑と亀岡の天恩郷を根本聖地とし、梅松苑は天国に相応する祭祀の中心地、天恩郷は霊国に相応する神教宣布の中心地で、大道場と諸活動の機関がおかれている。大本の教えとは 教旨=神は万物普遍の霊にして 人は天地経綸の主体なり 霊体合一して茲に無限の神徳を発揮す 三大学則=1、天地の真象を観察して真神の体を思考すべし 2、万有の運化の毫差無きを視て真神の力を思考すべし、3、活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし、四大綱領=1、祭ー惟神の大道 2、教ー天受の真理 3、慣ー天人道の常 4、造ー適宣の事務 四大主義=1、清潔主義 心身修祓 2、楽天主義 天地惟神の大道 3、進展主義 社会改善の大道 4、統一主義 上下一致の大道 であります。
(大本本部発行の大本百年のあゆみから抜粋、次回の大本教については順次掲載して行きます。)5月5日は大本みろく大祭でした。所要があり、全てには参加出来ませんでしたが主たる所を掲載します。
1.威容を誇る見事な神殿です。

2.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

3.梅松苑の案内図(画像をクリックすると拡大した図が見れます。)

4みろく殿を真正面に見る!

5.みろく殿を斜めから見る!

6みろく殿内部8(一般見学者の方は大本綾部本部の許可が必要です。)

7.同上

8.左の額は出口直初代教主様、真中は出口王仁三郎聖師様、右は2代目出口すみ子教主様

9.大本事件で打ち壊された建物の模型です!

10.神木エノキとみろく殿

11.元屋敷(出口なお開祖の屋敷跡、大本発祥の地)

12.大八洲神社を参拝する人々「おおやしまじんじゃ、三千年の長い間、この世を蔭から守護されていた坤(ひつじさる)の金神様を祀る。

13.沓島(めしま)神社・冠島(おしま)神社を参拝される人々「大正3年舞鶴市の沖の冠島(かんむりしま)又は竜宮島から移写した神社。

14.大本塩釜神社「安産守護の神として伊邪那岐命・伊邪那美命・乙米(おとよね)姫命を祀る。

15.木の花庵(国の重要文化財)「京都府船井郡瑞穂町(現在合併し丹波町)質志に建っていた岡花金五郎氏の住宅を移したもので、昭和47年国重要文化財に指定された江戸時代前期(17世紀後半の庄屋の屋敷」

16.長生殿の一部(平成4年11月完成の木造の見事な神殿。)

その他。弥仙山・大本教については下記をクリックし、鍋師理事の「丹の国・綾部」を見て下さい。
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2019/5/10
京丹波を見る!京都府指定文化財の阿須々伎神社と志賀の七不思議! 綾部の文化財
京都府綾部市「元何鹿郡(いかるがぐん)」志賀郷地区(しがさとちく)金河内町東谷1番地には京都登録文化財の阿須々岐阜(あすすぎ)神社本殿と摂社の大川神社本殿があります。また、京都府登録無形文化財の秋の祭礼芸能や文化財環境保全地区の状況を掲載します。
志賀の七不思議と「茗荷さん」の縁起
今からおよそ1400年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は国の中心勢力を固めるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王はおおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによるものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。
また志賀の里の「藤波」「金宮」「若宮」「諏訪」「向田:後の篠田」の五つの社を厚く信仰されたということです。
親王の子孫、金里宰相は、この五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して藤波大明神には「藤」金宮大明神には「茗荷」若宮大明神には「萩」諏訪大明神には「柿」向田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。
この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。
なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志賀の七不思議」として今に語りつがれています。
その奇瑞 阿須須伎神社=金宮大明神の「茗荷さん」
毎年旧暦の正月三日になると、日の出より8時までの間に、清水の流れる「お宝田」から茗荷が3本出るのです。
これを神前に供え、その茗荷の出る場所、その育ち具合いから、その年の稲作の早稲(ワセ)中稲(ナカテ)晩稲(オクテ)の吉・凶を占い、またその年の作物の出来具合い、風水害、かんばつまでも占います。
この神事は、今も新暦の2月3日に「茗荷祭 祈願祭」として行われ、地元の人からは「ミョウガさん」として親しまれています。
参拝者には、この占いの写し(お宝付きの写し)と魔除けの矢、甘酒、お餅などがふるまわれます。
是非一度お詣りください。 志賀郷公民館
1.阿須々岐神社の案内板(画像をクリックすると拡大して読めます。)

2.阿須々神社の参道(狭いので要注意です。)

3.巨大な自然石の常夜灯

4.阿須々岐神社の巨大な木製の両部鳥居と文化財環境保全地区

5.同上 背後の山と一体となった鎮守の森にはシイやカシにまじりスギやヒノキの高木が混じって
いる。文化財環境保全地区に指定され、鬱蒼とした森と神社です!

6.石造りの台輪鳥居(二の鳥居)

7.秋の大祭では「百射の神事」行われた後、行列が練り込み、祭礼が始まる。舞殿では子供による
奉納芸能が始まる。(詳細は下記を」クリックして見て下さい!)

8.百射の射場!!

9.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

10.駒札

11.拝殿

12.拝殿後部と本殿を見る!

13.本殿を右側から見る!(上手く撮影出来ない。)

14.摂社で京都府登録文化財の大川神社本殿

15.同上の駒札

16.本殿の裏側には稲荷神社があります!

17.駒札

18.同上 母樹林

19.2月3日の「茗荷さんの神事」は下記をクリックして見てください。
https://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/980.html
20.10月10日の秋の大祭での「子供の奉納芸能」は下記を」クリックして見てください。
https://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/2327.html
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志賀の七不思議と「茗荷さん」の縁起
今からおよそ1400年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は国の中心勢力を固めるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王はおおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによるものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。
また志賀の里の「藤波」「金宮」「若宮」「諏訪」「向田:後の篠田」の五つの社を厚く信仰されたということです。
親王の子孫、金里宰相は、この五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して藤波大明神には「藤」金宮大明神には「茗荷」若宮大明神には「萩」諏訪大明神には「柿」向田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。
この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。
なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志賀の七不思議」として今に語りつがれています。
その奇瑞 阿須須伎神社=金宮大明神の「茗荷さん」
毎年旧暦の正月三日になると、日の出より8時までの間に、清水の流れる「お宝田」から茗荷が3本出るのです。
これを神前に供え、その茗荷の出る場所、その育ち具合いから、その年の稲作の早稲(ワセ)中稲(ナカテ)晩稲(オクテ)の吉・凶を占い、またその年の作物の出来具合い、風水害、かんばつまでも占います。
この神事は、今も新暦の2月3日に「茗荷祭 祈願祭」として行われ、地元の人からは「ミョウガさん」として親しまれています。
参拝者には、この占いの写し(お宝付きの写し)と魔除けの矢、甘酒、お餅などがふるまわれます。
是非一度お詣りください。 志賀郷公民館
1.阿須々岐神社の案内板(画像をクリックすると拡大して読めます。)

2.阿須々神社の参道(狭いので要注意です。)

3.巨大な自然石の常夜灯

4.阿須々岐神社の巨大な木製の両部鳥居と文化財環境保全地区

5.同上 背後の山と一体となった鎮守の森にはシイやカシにまじりスギやヒノキの高木が混じって
いる。文化財環境保全地区に指定され、鬱蒼とした森と神社です!

6.石造りの台輪鳥居(二の鳥居)

7.秋の大祭では「百射の神事」行われた後、行列が練り込み、祭礼が始まる。舞殿では子供による
奉納芸能が始まる。(詳細は下記を」クリックして見て下さい!)

8.百射の射場!!

9.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

10.駒札

11.拝殿

12.拝殿後部と本殿を見る!

13.本殿を右側から見る!(上手く撮影出来ない。)

14.摂社で京都府登録文化財の大川神社本殿

15.同上の駒札

16.本殿の裏側には稲荷神社があります!

17.駒札

18.同上 母樹林

19.2月3日の「茗荷さんの神事」は下記をクリックして見てください。
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20.10月10日の秋の大祭での「子供の奉納芸能」は下記を」クリックして見てください。
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2019/5/10
二王門の金剛力士立像が国の重要文化財に認定されました。 綾部の文化財
君尾山の光明寺は、聖徳太子が創建したとされる歴史ある寺院。この寺の山門「国宝:二王門」は、現存する二重門のなかでは、法隆寺中門、東大寺大門に次ぐ国内3番目の古さです。
国宝の門の中に国宝または重要文化財の像が安置されているのは、国内で4ヶ所のみです。(京都府では初めてです)東大寺南大門、法隆寺中門、金峯山寺仁王門、光明寺二王門。
二王門 国宝:二王門は棟札によると、1242(仁治3年)12月着工、1253(建長5年)9月竣工。
上下二層に屋根を持つ二重門で、門の中でも最も格式が高いとされています。
編集中・・・
光明寺の金剛力士像の作者は
編集中・・・
綾部の指定文化財
http://www.ayabun.net/bunkazai/sitei.htm
光明寺二王門(国宝)
http://www.ayabun.net/bunkazai/annai/komyo/komyo.html

府道1号線から綾部温泉に向かい、真っ直ぐ登りつめると光明寺二王門の駐車場に着く。
光明寺に上がる参道があり遊歩道になっている。二王門までは遠くない。

国宝:光明寺二王門のこま札

修復の済んだ国宝:二王門
寺伝では白鳳八年(680)の建立としている二王門は昭和25年からの修理によって鎌倉時代の建築であることが確認されました。修理は永年風雪に堪えて来たため大破寸前の状況で解体修理が行われました。その結果、上層背面中央の左柱に「宝治二年戊申」の墨書銘と一重天井板に転用されている棟札を発見し、仁治三年(1242)着工し、建長五年(1253)竣工した様子で、宝治二年(1248)を建立年としています。修理に伴い発見されたものに順礼札があります。これは木札で、納め札とも言いますが、現在では紙札で霊場参拝の印とするものです。この他に中世の「のみ」や仁王像彩色の記録板などがありました。又、門の修理年代を知ることができ、永正十三年(1516)、享保十四年(1729)、安政六年(1859)の三回であることがわかりました。 昭和27年10月竣工をとげた二王門は、三間一戸(柱間三、戸口一)二重門、入母屋造、栩葺(とちぶき)で、昭和29年国宝に指定されました。今回の修理において京都府教育委員会の見解は「建築としての二王門」@「二重」の門は珍しい。二重であることは、建物の格の高さを表す。現在、本山などの大きな門にみられる。光明寺よりも府歩い遺構は、法隆寺中門(飛鳥時代)のみである。A二王像を奥に安置し、前に床が張られている。Bとち葺き屋根=厚板を重ねて葺く屋根・葺き材はクリ材・厚さ2.4cm、長さ75cm。・24cmずつずらしながら葺き重ねている。C建物本体に使われている木材・スギ・非常に上質な材を,木目に沿って割って製材。・建物当初の材がよく残っていある。と、ポイント@からCで表現されています。

今回国の重要文化財に認定されたのは国宝二王門の阿形金剛力士像です。
阿形像は「那羅延堅固王」が奉られている。

今回国の重要文化財に認定されたのは国宝二王門の吽形の金剛力士像です。
吽形像は「密迹金剛力士」が奉られている。

聖徳太子と光明寺の説明札

八十八ケ所の石像案内

八十八ケ所 地蔵堂

緑の参道を光明寺本堂に向う

山側から見た国宝:二王門の裏側

ここもシャガの花の群生が見事

庫裏に着く 君王山林道からの道路と駐車場がある。裏側には本堂に登る坂道がある

樹木に囲われる古い石段で本堂に登る

本堂(京都府指定文化財)

観音堂

鐘楼

新しい釣り鐘

梵鐘(400年前)慶長9年

新旧の梵鐘の説明札

本堂(京都府指定文化財) 持参の昼食を広げる

観音堂 持参の昼食を広げる

法界塔

宝篋印塔(市指定文化財)

緑の上林谷を眺望

車待ちに君王山林道の分岐まで散策する

車道から見下ろす二王門の屋根
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国宝の門の中に国宝または重要文化財の像が安置されているのは、国内で4ヶ所のみです。(京都府では初めてです)東大寺南大門、法隆寺中門、金峯山寺仁王門、光明寺二王門。
二王門 国宝:二王門は棟札によると、1242(仁治3年)12月着工、1253(建長5年)9月竣工。
上下二層に屋根を持つ二重門で、門の中でも最も格式が高いとされています。
編集中・・・
光明寺の金剛力士像の作者は
編集中・・・
綾部の指定文化財
http://www.ayabun.net/bunkazai/sitei.htm
光明寺二王門(国宝)
http://www.ayabun.net/bunkazai/annai/komyo/komyo.html

府道1号線から綾部温泉に向かい、真っ直ぐ登りつめると光明寺二王門の駐車場に着く。
光明寺に上がる参道があり遊歩道になっている。二王門までは遠くない。

国宝:光明寺二王門のこま札

修復の済んだ国宝:二王門
寺伝では白鳳八年(680)の建立としている二王門は昭和25年からの修理によって鎌倉時代の建築であることが確認されました。修理は永年風雪に堪えて来たため大破寸前の状況で解体修理が行われました。その結果、上層背面中央の左柱に「宝治二年戊申」の墨書銘と一重天井板に転用されている棟札を発見し、仁治三年(1242)着工し、建長五年(1253)竣工した様子で、宝治二年(1248)を建立年としています。修理に伴い発見されたものに順礼札があります。これは木札で、納め札とも言いますが、現在では紙札で霊場参拝の印とするものです。この他に中世の「のみ」や仁王像彩色の記録板などがありました。又、門の修理年代を知ることができ、永正十三年(1516)、享保十四年(1729)、安政六年(1859)の三回であることがわかりました。 昭和27年10月竣工をとげた二王門は、三間一戸(柱間三、戸口一)二重門、入母屋造、栩葺(とちぶき)で、昭和29年国宝に指定されました。今回の修理において京都府教育委員会の見解は「建築としての二王門」@「二重」の門は珍しい。二重であることは、建物の格の高さを表す。現在、本山などの大きな門にみられる。光明寺よりも府歩い遺構は、法隆寺中門(飛鳥時代)のみである。A二王像を奥に安置し、前に床が張られている。Bとち葺き屋根=厚板を重ねて葺く屋根・葺き材はクリ材・厚さ2.4cm、長さ75cm。・24cmずつずらしながら葺き重ねている。C建物本体に使われている木材・スギ・非常に上質な材を,木目に沿って割って製材。・建物当初の材がよく残っていある。と、ポイント@からCで表現されています。

今回国の重要文化財に認定されたのは国宝二王門の阿形金剛力士像です。
阿形像は「那羅延堅固王」が奉られている。

今回国の重要文化財に認定されたのは国宝二王門の吽形の金剛力士像です。
吽形像は「密迹金剛力士」が奉られている。

聖徳太子と光明寺の説明札

八十八ケ所の石像案内

八十八ケ所 地蔵堂

緑の参道を光明寺本堂に向う

山側から見た国宝:二王門の裏側

ここもシャガの花の群生が見事

庫裏に着く 君王山林道からの道路と駐車場がある。裏側には本堂に登る坂道がある

樹木に囲われる古い石段で本堂に登る

本堂(京都府指定文化財)

観音堂

鐘楼

新しい釣り鐘

梵鐘(400年前)慶長9年

新旧の梵鐘の説明札

本堂(京都府指定文化財) 持参の昼食を広げる

観音堂 持参の昼食を広げる

法界塔

宝篋印塔(市指定文化財)

緑の上林谷を眺望

車待ちに君王山林道の分岐まで散策する

車道から見下ろす二王門の屋根
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2019/5/10
光野の大カツラ(京都府第2位)と ヒメザゼンソウ 綾部の文化財
光野の大カツラ、京都府では第2位(1位は宇治の岩間寺)全国では第22位(H26年調査)
周囲:17.48m 樹高:33m トータルランク8位
HP:綾部の文化財に収録の「緑の文化財 綾部の古木・名木100選(地区別) 〜緑と文化の遺産〜」http://www.ayabun.net/gaiyo/100sen/koboku100.html
には、準古木・名木にも指定されていない。集落近くなのに認知漏れだった様子。
新発見を含む次の3樹木に追加する。先で古木・名木新100選に指定される事を望む。
綾部の豊かな自然には、まだまだ隠れた発見が残されている模様
ヒノキ:里町 久田山妙見宮 3.74m、高津八幡宮 幹周3.10m や山添神社境内のヒノキ幹周2.61mよりも太い
スギ: 睦寄町 坂尾呂神社境内
トチノキ:古屋 堂奥谷の滝周辺 秘境の大発見と紹介された堂奥谷の滝

橋を渡り対岸へ

上林川の流れ

大カツラまで100m の方向指示

川岸を歩く

マムシ注意の立て札 マムシの絵が生々しい
すぐ横の山道を登り下る。竹の手摺りと階段がある

光野の大カツラ

見上げる光野の大カツラ

すぐ奥となりにも1本大カツラがある

研究のため保護されたヒメザゼンソウ群生 区画

研究のため保護されたヒメザゼンソウ群生

水源の里・光野 ヒメザゼンソウ
水源の里自然大学 第1回講座「自然に埋もれる地域の宝 ヒメザゼンソウの花ってどんなの?」 パンフレットより収録

大小のマムシソウが沢山生えている。花をつけたのも

川原の直ぐそばの山道を辿る
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周囲:17.48m 樹高:33m トータルランク8位
HP:綾部の文化財に収録の「緑の文化財 綾部の古木・名木100選(地区別) 〜緑と文化の遺産〜」http://www.ayabun.net/gaiyo/100sen/koboku100.html
には、準古木・名木にも指定されていない。集落近くなのに認知漏れだった様子。
新発見を含む次の3樹木に追加する。先で古木・名木新100選に指定される事を望む。
綾部の豊かな自然には、まだまだ隠れた発見が残されている模様
ヒノキ:里町 久田山妙見宮 3.74m、高津八幡宮 幹周3.10m や山添神社境内のヒノキ幹周2.61mよりも太い
スギ: 睦寄町 坂尾呂神社境内
トチノキ:古屋 堂奥谷の滝周辺 秘境の大発見と紹介された堂奥谷の滝

橋を渡り対岸へ

上林川の流れ

大カツラまで100m の方向指示

川岸を歩く

マムシ注意の立て札 マムシの絵が生々しい
すぐ横の山道を登り下る。竹の手摺りと階段がある

光野の大カツラ

見上げる光野の大カツラ

すぐ奥となりにも1本大カツラがある

研究のため保護されたヒメザゼンソウ群生 区画

研究のため保護されたヒメザゼンソウ群生

水源の里・光野 ヒメザゼンソウ
水源の里自然大学 第1回講座「自然に埋もれる地域の宝 ヒメザゼンソウの花ってどんなの?」 パンフレットより収録

大小のマムシソウが沢山生えている。花をつけたのも

川原の直ぐそばの山道を辿る
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2019/5/10
光野町志馬家の「イチイ」綾部の古木。名木100選 綾部の文化財
綾部自然の会の現地学集会で訪れ取材した。
HP:綾部の文化財にリンクするため当ブログに編集する(FBの記事はリンク不能、メンバー制なので見れない)
緑の文化財 綾部の古木・名木100選(地区別) 〜緑と文化の遺産〜
http://www.ayabun.net/gaiyo/100sen/koboku100.html
志馬家:樹齢500年以上丹波地方随一・江戸時代大庄屋であった志馬家の巨大で優雅なイチイの木

マイクロバス2台40名の参加、ポランティアガイドさんと落ち合い、新入会員の紹介

光野橋を渡る

堤防を行く

志馬家の庭園にイチイが見える

見学するメンバー

しっかり手入れされている見事なイチイ

綾部の古木・名木100選 幹周:1.6m 樹高:7m

緑が一杯の環境

川原も長閑な田園風景

府道に停めたマイクロバスに戻る
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緑の文化財 綾部の古木・名木100選(地区別) 〜緑と文化の遺産〜
http://www.ayabun.net/gaiyo/100sen/koboku100.html
志馬家:樹齢500年以上丹波地方随一・江戸時代大庄屋であった志馬家の巨大で優雅なイチイの木

マイクロバス2台40名の参加、ポランティアガイドさんと落ち合い、新入会員の紹介

光野橋を渡る

堤防を行く

志馬家の庭園にイチイが見える

見学するメンバー

しっかり手入れされている見事なイチイ

綾部の古木・名木100選 幹周:1.6m 樹高:7m

緑が一杯の環境

川原も長閑な田園風景

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