2019/4/29
京丹波を見る!丹波国主仁木頼章が造営した中世の禅宗様式の八幡神社本殿! 綾部の文化財
京都府綾部市(元何鹿郡)淵垣町奥谷35には昭和61年4月15日に京都府登録文化財に指定された八幡神社本殿がある。この神社は本殿は三間社流造の建築で、元文四年(1739)に淵垣村の氏子講中が再建したものである。身舎と向拝の各柱間に備えられた幕股は、割合良く整った形を持ち、この地方における江戸中期ごろの特色をよくしめしている。
この社殿の注目される点は、一部に江戸時代以前のかなり古い細部形式を持った古部材が遺されていることである。
向拝部分は全く江戸期のものであるが、身舎部分では身舎の円柱十二本・長押・頭貫・大斗および妻飾りの大瓶束・花肘木などが古材として指摘できる。また身舎内部の内外陣を区画する板扉や幣軸などもこれらと同じかそれに近い古さのものと考えられる。
身舎の柱位置は古い時期のままと考えられるが、もとの隅柱を内柱にするなど相互間の転用が認められるから、旧規を踏襲し、前身社殿の遺材を利用して建て直ししていることがわかる。
社蔵の元文四年棟札には、康永二年(1343)に建った社殿が年を径たので、破損したところを改めて再建したという意味の事がかいてある。
現に康永二年の古棟札がのこり、元文に至るまで焼けなかったようだから、前身社殿は康永二年の建立と考えられる。
古材の時代性を最もよく示すのが妻飾りに用いられている大瓶束と花肘木の形式である。大瓶束頂部を飾る花肘木は絵様をもたず、繰形も単純で直線的なものであり、上端は水平である。大瓶束は断面円形で頂部はゆるやかな粽(ちまき)を持ち、足もとは直線的にすぼまり、両側をえぐるだけの簡単な装飾にとどまっている。これらの形式は禅宗様に属するが、それらの類例と比較すると、鎌倉末から南北朝にかけてのころの禅宗様初期の古制を示していることがわかる。
柱貫木鼻と大瓶束頂部から棟行にでる木鼻の形に特徴があり、花肘木の場合と違って上端が先方で一段もり上がっている。おの上には現状と同じく連斗をおいたと考えられるが(連斗・巻斗には古いものがない)、大斗と連斗との高さ位置を調整するためにこうした手法が用いられる。
ただ、一般にはこのもり上がりは一材から造り出されるのであるあるが、ここではもり上げ部分は別木をはぎ合わせてつくっている。禅宗様では頭貫は台輪をうけるために必ず上部が水平になるが、ここでは台輪を用いないものの頭貫は本来の技法にしたがって水平につくられ、ついで必要なもり上げ分をはぎ合わせたものと思われる。このように考えると、当社のこうした手法が定着するに至るまでの過渡的な例であろうと考えられる。
当社所蔵の康永二年の棟札によると、この造営は、当時の丹波守護仁木頼章によるものであり、「所願成就」と云ういい方からしても、頼章側から積極的にすすめた事業であったように思われる。
造営の実際当たっては頼章の家人と考えられる沙弥某と僧慶秀とが奉行となった。仁木頼章がこの造営をおこなった意図は明らかでないが、足利尊氏によってこのころおこなわれた篠村八幡宮(現亀岡市)の造営にならったものであろうことがまず考えられる。
この社のある八田郷は良く知られるように足利氏にとって因縁のある土地であり、光福寺(後の安国寺)や岩王寺などすでに尊氏の庇護を受けていた寺院もあった。この地が社地としてえらばれたのもこうした背景にもとずくものとおもわれる。
こうしたことを念頭においてもう一度この社殿をもにみなおすと、注意されてくるのは、この社が三間社であることと禅宗様の混入が強いという二点である。中世における社格は複合した諸要素を元に定まってきたものであろうが、それらの諸要素の中でもとりわけ施主の地位というものが大きな比重を占めたと考えられる。
1.八幡神社の標柱

2.八幡神社の大鳥居

3.八幡神社本殿を見る!

4.京都府登録文化財の三間社の八幡神社本殿!

5.京都府教育委員会の駒札

6.本殿向拝などの彫刻を見る!正面!

7.同上 左側から見る!

8.同上

9.同上 右側から見る!

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この社殿の注目される点は、一部に江戸時代以前のかなり古い細部形式を持った古部材が遺されていることである。
向拝部分は全く江戸期のものであるが、身舎部分では身舎の円柱十二本・長押・頭貫・大斗および妻飾りの大瓶束・花肘木などが古材として指摘できる。また身舎内部の内外陣を区画する板扉や幣軸などもこれらと同じかそれに近い古さのものと考えられる。
身舎の柱位置は古い時期のままと考えられるが、もとの隅柱を内柱にするなど相互間の転用が認められるから、旧規を踏襲し、前身社殿の遺材を利用して建て直ししていることがわかる。
社蔵の元文四年棟札には、康永二年(1343)に建った社殿が年を径たので、破損したところを改めて再建したという意味の事がかいてある。
現に康永二年の古棟札がのこり、元文に至るまで焼けなかったようだから、前身社殿は康永二年の建立と考えられる。
古材の時代性を最もよく示すのが妻飾りに用いられている大瓶束と花肘木の形式である。大瓶束頂部を飾る花肘木は絵様をもたず、繰形も単純で直線的なものであり、上端は水平である。大瓶束は断面円形で頂部はゆるやかな粽(ちまき)を持ち、足もとは直線的にすぼまり、両側をえぐるだけの簡単な装飾にとどまっている。これらの形式は禅宗様に属するが、それらの類例と比較すると、鎌倉末から南北朝にかけてのころの禅宗様初期の古制を示していることがわかる。
柱貫木鼻と大瓶束頂部から棟行にでる木鼻の形に特徴があり、花肘木の場合と違って上端が先方で一段もり上がっている。おの上には現状と同じく連斗をおいたと考えられるが(連斗・巻斗には古いものがない)、大斗と連斗との高さ位置を調整するためにこうした手法が用いられる。
ただ、一般にはこのもり上がりは一材から造り出されるのであるあるが、ここではもり上げ部分は別木をはぎ合わせてつくっている。禅宗様では頭貫は台輪をうけるために必ず上部が水平になるが、ここでは台輪を用いないものの頭貫は本来の技法にしたがって水平につくられ、ついで必要なもり上げ分をはぎ合わせたものと思われる。このように考えると、当社のこうした手法が定着するに至るまでの過渡的な例であろうと考えられる。
当社所蔵の康永二年の棟札によると、この造営は、当時の丹波守護仁木頼章によるものであり、「所願成就」と云ういい方からしても、頼章側から積極的にすすめた事業であったように思われる。
造営の実際当たっては頼章の家人と考えられる沙弥某と僧慶秀とが奉行となった。仁木頼章がこの造営をおこなった意図は明らかでないが、足利尊氏によってこのころおこなわれた篠村八幡宮(現亀岡市)の造営にならったものであろうことがまず考えられる。
この社のある八田郷は良く知られるように足利氏にとって因縁のある土地であり、光福寺(後の安国寺)や岩王寺などすでに尊氏の庇護を受けていた寺院もあった。この地が社地としてえらばれたのもこうした背景にもとずくものとおもわれる。
こうしたことを念頭においてもう一度この社殿をもにみなおすと、注意されてくるのは、この社が三間社であることと禅宗様の混入が強いという二点である。中世における社格は複合した諸要素を元に定まってきたものであろうが、それらの諸要素の中でもとりわけ施主の地位というものが大きな比重を占めたと考えられる。
1.八幡神社の標柱

2.八幡神社の大鳥居

3.八幡神社本殿を見る!

4.京都府登録文化財の三間社の八幡神社本殿!

5.京都府教育委員会の駒札

6.本殿向拝などの彫刻を見る!正面!

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8.同上

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2019/4/26
京丹波を見る!国重文の境内社・恵比須神社本殿を持つ京都府指定文化財の石田神社! 綾部の文化財
京都府綾部市安国寺町宮ノ越18には、京都府決定石田神社文化財環境保全地区があり、京都府指定文化財の石田神社本殿と国重文の境内社の恵比須神社本殿がある。この神社は国道27号線の反対側にある、全国安国寺の筆頭綾部安国寺の神護寺として創建されたものです。石田神社文化財環境保全地区として京都府北部最古の神社本殿遺構を取り巻く鎮守の森として昭和61年4月15日に京都府に決定されたものです。石田神社本殿は正面に軒唐破風、千鳥破風を付ける。身舎「組物は出組」で妻は立体的になっている。正徳期の大工は梅迫村の四方好兵衛政重、その長子小兵衛重頼、次男源兵衛重種の親子である。竜の彫り物や菊花の龍彫り、正面扉の花狭間格子など装飾に手がこんでいる。国重文の境内社の恵比須神社本殿は西宮大明神とも呼ばれる。元は三間社流造りでその身舎の部分が保存されてきたものです。石田神社本殿小屋根裏に残る鎌倉時代末期の延慶4年(1311)の創建のもので、石田神社本殿の前身(旧本殿)に当たる建物です。
1.石田神社文化財環境保全地区

2.石田神社の鳥居と鎮守の森を見る!

3.教育委員会の駒札wpお

4.鳥居をアップで見る!

5.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

6.拝殿を正面から見る!

7.拝殿後部と本殿を左側から見る!

8.本殿の装飾を見るが、上手撮影できない!

9.国重文の石田神社境内社の恵比須神社本殿!より詳しくは10.項をクリックして見て下さい。

10.石田神社の詳細は下記をクリックして見て下さい!!
http://www.ayabun.net/kaiho/76/ishida.html
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1.石田神社文化財環境保全地区

2.石田神社の鳥居と鎮守の森を見る!

3.教育委員会の駒札wpお

4.鳥居をアップで見る!

5.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

6.拝殿を正面から見る!

7.拝殿後部と本殿を左側から見る!

8.本殿の装飾を見るが、上手撮影できない!

9.国重文の石田神社境内社の恵比須神社本殿!より詳しくは10.項をクリックして見て下さい。

10.石田神社の詳細は下記をクリックして見て下さい!!
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2019/4/22
京丹波を見る!京都府登録無形文化財の於与岐八幡宮の祭礼芸能! 綾部の文化財
京都府綾部市(元、何鹿郡いかるがぐん)於与岐町田和28(舞鶴市に近い)には「京都府登録文化財・八幡宮本殿1棟」と同じく「府登録民俗芸能・於与岐(およぎ)八幡宮の祭礼芸能」が平成18年度は10月15日(日)午前9時30分から開催されました。又、この地域は府決定「八幡宮文化財保全地区」に指定されています。社伝によると、宇佐八幡宮(九州宮崎県)和銅3年(710年)から勧請され、天文19年(1505)大洪水以前は谷口の一ノ瀬に鎮座する八田郷(やたごう)の惣社であったとつたえています。又江戸時代から於与岐四ヶ村の惣社で宮座の伝統を残した神事芸能が今でも行なわれています。尚、すぐ近くに大本教開祖・出口なお様が修行され,又頂上から360度の素晴らしい風景が見れ、丹波富士とも云われる弥仙山(みせんさん)標高664メートルがあります。登りは修行された場所などゆっくり登って1時間,下り40分です。午前、お祭りを見て、午後、弥仙山を登られることを御薦めします。
祭礼は平成17年10月小生が撮影のものです。
http://www.ayabun.net/bunkazai/annai/oyogi8/oyogi8.htm
拝殿前で行列出発準備

祭礼行列は境内を廻ります。

祭礼行列は続きます。

天狗様の旗

獅子舞と三基の神輿

天狗の鼻高の舞

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祭礼は平成17年10月小生が撮影のものです。
http://www.ayabun.net/bunkazai/annai/oyogi8/oyogi8.htm
拝殿前で行列出発準備

祭礼行列は境内を廻ります。

祭礼行列は続きます。

天狗様の旗

獅子舞と三基の神輿

天狗の鼻高の舞

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2019/4/19
京丹波を見る!全国の安国寺の筆頭である綾部市の安国寺! 綾部の文化財
京都府綾部市(もと何鹿郡いかるがぐん)安国寺町寺の段1番地にある「景徳山 安国寺 臨済宗東福寺派」は文化財の宝庫です。国重文4点、京都府指定文化財2点、京都府登録文化財2棟、綾部市指定文化財1点があります。又、綾部随一の紅葉の名所で知られ、例年11月の第3土曜日に「安国寺もみじ祭り」が催行されます。今年は11月18日(土)がこの祭り日です。近畿自動車道舞鶴・若狭道の「安国寺IC」を降りると、足利尊氏公の銅像があり、無料の駐車場もあります。大型バスの駐車場からは歩いて3分です。尚、当日は午前11時からセレモニー開始で、紅葉に加えて、有名な位田高城(いでんたかしろ)太鼓午前11時20分〜、琴と尺八は村田社中で午前10時〜午後3時まで演奏、野点・もちつき、模擬店も「うどん、弁当、ジュース、ビール、酒、あんもち、あべかわ、やきいも、地元産品等」が販売されます。滅多に見られない国の重要文化財「木造釈迦両脇侍坐像」が無料で公開され、藤本住職が案内されます。尚、この安国寺は、正歴4年(993)ころに地蔵菩薩を本尊として、開創されたと伝えられ、もとは光福寺と称した。建長4年(1152)勧修寺重房が上杉荘を賜り、これより「上杉」を姓とするようになった。その「上杉の姓」は関東管領から、かの越後国の上杉謙信公に引き継がれたことは、ご承知と思う。その後、嘉元3年(1305)足利尊氏公の生誕によって当寺は上杉氏・足利氏の尊崇を受けるようになった。歴応元年(1338)足利尊氏公は夢窓疎石の勧めによって、元弘の戦乱以降に亡くなった多くの戦没者の霊を慰めるため、国ごとに安国寺・利生塔(りしょうとう)を建立するにあたり、光福寺を丹波の安国寺とし、諸国安国寺の筆頭においた。康永元年(1342)尊氏公は、南禅寺に住した天庵妙受禅師を招請して安国寺の始祖とし、多くの寺領を寄進した。それ以降、塔頭(たっちゅう)16、支院28を有する大寺院であったが、江戸中期に至るまでの間に、大半の寺領は押領されて、塔頭・支院は減少したが、いまなお多くの重要文化財、府・市指定文化財,重宝等を蔵する名刹である。3月の早春の安国寺を訪れた記録です。
1.綾部安国寺の標識(各画像をクリックすると拡大します。)

2.石段参道に向かって左側には「足利尊氏公の産湯の井戸」があります。その駒札。

3.同上

4.石段参道の向かって左側には巨大な石灯籠があります。

5.石段参道と京都府登録文化財の山門がみえます。

6.綾部市指定文化財の宝篋印塔(境内東側に3基が並び、左から上杉清子、足川尊氏、赤橋燈子の墓碑塔と伝えれれている。安国寺文書には2代将軍・足利義詮が、尊氏及び夫人燈子の遺骨の一部を安国寺に納めた御教書がある。尊氏公のものは延文2年(1358)6月29日、燈子のものは貞治4年(1365)7月16日の日付けで、共に、「先年帰依之由緒」により当寺に奉納するとしている。

7.同上 駒札

8.境内の京都府指定文化財の仏殿・方丈・庫裡

9.同上 駒札

10.京都府登録文化財の山門・鐘楼


11.駒札

12.より詳しくは下記をクリックして見て下さい!
https://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/1842.html
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1.綾部安国寺の標識(各画像をクリックすると拡大します。)

2.石段参道に向かって左側には「足利尊氏公の産湯の井戸」があります。その駒札。

3.同上

4.石段参道の向かって左側には巨大な石灯籠があります。

5.石段参道と京都府登録文化財の山門がみえます。

6.綾部市指定文化財の宝篋印塔(境内東側に3基が並び、左から上杉清子、足川尊氏、赤橋燈子の墓碑塔と伝えれれている。安国寺文書には2代将軍・足利義詮が、尊氏及び夫人燈子の遺骨の一部を安国寺に納めた御教書がある。尊氏公のものは延文2年(1358)6月29日、燈子のものは貞治4年(1365)7月16日の日付けで、共に、「先年帰依之由緒」により当寺に奉納するとしている。

7.同上 駒札

8.境内の京都府指定文化財の仏殿・方丈・庫裡

9.同上 駒札

10.京都府登録文化財の山門・鐘楼


11.駒札

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2019/4/16
兵庫県丹波を見る!朝来市にあるi天空の城・竹田城2−2! 綾部の文化財
兵庫県の北部(但馬)の朝来市には竹田城跡がある。。縄張りがが虎が臥せている様に見えるところから、別名虎伏城(とらふふすじょう、こがじょう)と呼ばれる国の史跡である。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、「天空の城」]や「日本のマチュピチュとも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。
天正7年(1579)5月、秀長は信長の命令で明智光秀支援のため竹田城から丹波へ攻め入ったが、秀長は竹田城に戻らず播磨に引き上げたと考えられ、毛利方の太田垣輝延が間もなく竹田城に入城した。翌天正8年(1580年)4月、再び信長の命により秀長が6400兵を引き連れ但馬攻めを開始すると、竹田城、有子山城はさしたる抵抗もせず降伏した。山名祐豊、太田垣輝延はその座を奪われ、山名氏と四天王と呼ばれた太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえ滅亡した。秀吉は秀長を有子山城主に、秀長配下の武将である桑山重晴を竹田城主にそれぞれ命じた。桑山重晴は後に和歌山城に転封となり、替わって但馬出石城に前野長康、付将として豊岡城に明石則実、八木城に別所重棟、そして秀吉に投降した龍野城主斎村政広が竹田城の城主となる。この斎村政広によって現在の竹田城が完成される。
関ヶ原の戦い
最後の城主である斎村政広は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍方は敗戦した。このため東軍の亀井茲矩の誘いに乗る形で鳥取城攻めに加わり落城させる。しかし城下の大火の責任を問われ、東軍の盟主であった徳川家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取の真教寺にて切腹。
政広の居城であった竹田城は家康の命により 山名豊国が受取りを務め、入城した。
その後江戸幕府の方針により、竹田城は廃城となった。
昭和以降
1932年(昭和7年)、出口王仁三郎により大本の布教を兼ねた登城のために南登山道が教団の財力と影響力を使って整備され、10月18日に登城している。
1943年(昭和18年)9月8日、「史蹟名勝天然紀念物保存法」に基づき、国の史跡に指定される。
1989年(平成元年)11月、文化庁の許可を得て、角川映画『天と地と』のロケーションが行われた。城跡には製作費3億円を投じて、天守閣、大手門、塀等のセットが建設された[5][6]。また2003年に映画『魔界転生』でも城をセットに原城を再現した上、ロケ地として使われた。
006年(平成18年)4月6日、日本100名城(56番)に選定された。2005年度の来客数は一年間で33,000人だったが[2]、100名城への選定で知名度が上がり、雑誌やネットのニュースサイトなどでも雲海に浮かぶ竹田城の画像がたびたび報じられ話題になるようになった[2]。
2012年(平成24年)に高倉健主演映画『あなたへ』でもロケ地として使われた。妻となる田中裕子がここの「天空の音楽祭」で宮沢賢治の「星めぐりの歌」を歌う。最後には「天空の城」の情景が映し出される。2012年度の来客数は238,000人に達し、翌2013年度は4月から9月の上半期の来客だけで22万人に達した。2013年(平成25年)3月27日、朝来市議会で入城料を徴収する条例が可決した。数年で訪問者が急増した事により整備・管理の負担が増えたことによるもの。徴収開始は2013年10月からの予定で高校生以上は300円、中学生以下は無料となる。冬場の閑散期の12月11日から翌年3月19日までは対象外となる[7][8]。また観光客増加に伴い、石垣の一部が崩落する危険性も高まっている[。登城者が増加したことに伴い迷惑駐車なども増加したため通行規制を行っている]。2013年(平成25年)11月、第20回全国山城サミットが再び朝来市で開催される。前回は第1回の幹事町として平成6年に開催。(全国お城ふぇすたin朝来も同時開催)2013年(平成25年)12月、GoogleのCMで竹田城跡が取り上げられることにより、爆発的に観光客が約60万人に激増する。2014年(平成26年)から安全性・史跡保護を考慮して冬季は全面入城禁止になった[14][15]。同年11月、朝来市が国に無許可で国史跡である竹田城跡の登山道の拡幅や付け替え工事を進めていたことが発覚し、文化財保護法に違反しているとして県教委が工事の中止を指示した。観光客の増加により見学区域の制限なども行ったが土砂の流出で地面の浸食などの問題が発生している。2015年(平成27年)8月28日現在、応急的に地面保護のマットを敷設、木杭とロープで区切った観光ルートが整備され、2016年(平成28年)3月、2013年から修復のため立ち入り禁止になっていた天守台周辺整備が終了し、全面公開が再開された。
歴代城主
太田垣光景(1443年(嘉吉3年) - 1465年(寛正6年))
太田垣景近(1465年(寛正6年) - 1479年(文明11年))
太田垣宗朝(1479年(文明11年) - 1521年(大永元年))
太田垣宗寿(1521年(大永元年) - 1538年(天文7年))
太田垣朝延(1538年(天文7年) - 1570年(元亀元年))
太田垣輝延(1570年(元亀元年) - 1577年(天正5年)?)
城代・羽柴小一郎長秀(秀長)(1578年(天正6年) - 1580年(天正8年))
桑山重晴(1580年(天正8年) - 1585年(天正13年))
赤松広秀(斎村政広)(1585年(天正13年) - 1600年(慶長5年))
城郭
虎臥城見取図
竹田城は、険しい地形にありながら、曲輪のすべてを石垣で取り囲んだ総石垣の城郭である。山頂に築かれた城郭としては最後の近世城郭にあたる。縄張りなどから類推して近世初期と考えられる。竹田城は山名宗全がこの地に城を築くよう命じ、羽柴秀長が新しく縄張りを行い、その後の赤松広秀が文禄のころより豊臣秀吉の支援を受けながら、壮大な城へ仕上げたものと考えられている。
安土城のような大規模な石垣構造をもち、虎口は枡形を有する。尾根の最高所に本丸を置き、その正面に天守台がある。本丸から三方向にのびて、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪という大きな曲輪群を有している。面積は18,473m2にも及ぶ。石垣は穴太流石積み技法で、豊臣時代の山城に代表される遺構である。『ひょうごの城紀行』によると「竹田城は赤松広秀が三十代後半の働き盛りに築いた城ということになろう」としている。竹田城の特徴のひとつとして、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪の3つの曲輪群の標高が331mとほぼ同じ高さに作られている。本丸の標高は351mになるので標高差は20mとなる。このことより、平面構成だけではなく立面構成にも高度な計算がなされ3つの曲輪群が計画的に配置されている。櫓の総数は天守を含め20基前後が推定されている。Wikipediaより抜粋。
1.乗合バス第二駐車場から徒歩で登山口へ。(画像をクリックすると拡大して見えます!)

2.途中から見る武田城址の巨大な石垣に囲まれた虎口近くを見る!

3.同上

4.武田城址の巨大な虎口

5.虎口の巨大な石垣

6.虎口からの遠望!

7.石畳から明石方面を見る!

8.明石方面を見る!

9.朝来市内方面を」見る!

10.同上

11.北千畳曲輪方面を見る!!

12.同上

13.本丸・天守台方面を見る!

14.天守台址から見る南千畳曲輪を見る!

15.天守台近くから南千畳曲輪方面を見る!

16.花屋敷曲輪方面を見る!!

17.花屋敷曲輪から徒歩での下り方面を見下ろす⁉

18.武田城址を徒歩で降りた所にある駒札!画像をクリックすると拡大して読めます!

19.同上

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天正7年(1579)5月、秀長は信長の命令で明智光秀支援のため竹田城から丹波へ攻め入ったが、秀長は竹田城に戻らず播磨に引き上げたと考えられ、毛利方の太田垣輝延が間もなく竹田城に入城した。翌天正8年(1580年)4月、再び信長の命により秀長が6400兵を引き連れ但馬攻めを開始すると、竹田城、有子山城はさしたる抵抗もせず降伏した。山名祐豊、太田垣輝延はその座を奪われ、山名氏と四天王と呼ばれた太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえ滅亡した。秀吉は秀長を有子山城主に、秀長配下の武将である桑山重晴を竹田城主にそれぞれ命じた。桑山重晴は後に和歌山城に転封となり、替わって但馬出石城に前野長康、付将として豊岡城に明石則実、八木城に別所重棟、そして秀吉に投降した龍野城主斎村政広が竹田城の城主となる。この斎村政広によって現在の竹田城が完成される。
関ヶ原の戦い
最後の城主である斎村政広は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍方は敗戦した。このため東軍の亀井茲矩の誘いに乗る形で鳥取城攻めに加わり落城させる。しかし城下の大火の責任を問われ、東軍の盟主であった徳川家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取の真教寺にて切腹。
政広の居城であった竹田城は家康の命により 山名豊国が受取りを務め、入城した。
その後江戸幕府の方針により、竹田城は廃城となった。
昭和以降
1932年(昭和7年)、出口王仁三郎により大本の布教を兼ねた登城のために南登山道が教団の財力と影響力を使って整備され、10月18日に登城している。
1943年(昭和18年)9月8日、「史蹟名勝天然紀念物保存法」に基づき、国の史跡に指定される。
1989年(平成元年)11月、文化庁の許可を得て、角川映画『天と地と』のロケーションが行われた。城跡には製作費3億円を投じて、天守閣、大手門、塀等のセットが建設された[5][6]。また2003年に映画『魔界転生』でも城をセットに原城を再現した上、ロケ地として使われた。
006年(平成18年)4月6日、日本100名城(56番)に選定された。2005年度の来客数は一年間で33,000人だったが[2]、100名城への選定で知名度が上がり、雑誌やネットのニュースサイトなどでも雲海に浮かぶ竹田城の画像がたびたび報じられ話題になるようになった[2]。
2012年(平成24年)に高倉健主演映画『あなたへ』でもロケ地として使われた。妻となる田中裕子がここの「天空の音楽祭」で宮沢賢治の「星めぐりの歌」を歌う。最後には「天空の城」の情景が映し出される。2012年度の来客数は238,000人に達し、翌2013年度は4月から9月の上半期の来客だけで22万人に達した。2013年(平成25年)3月27日、朝来市議会で入城料を徴収する条例が可決した。数年で訪問者が急増した事により整備・管理の負担が増えたことによるもの。徴収開始は2013年10月からの予定で高校生以上は300円、中学生以下は無料となる。冬場の閑散期の12月11日から翌年3月19日までは対象外となる[7][8]。また観光客増加に伴い、石垣の一部が崩落する危険性も高まっている[。登城者が増加したことに伴い迷惑駐車なども増加したため通行規制を行っている]。2013年(平成25年)11月、第20回全国山城サミットが再び朝来市で開催される。前回は第1回の幹事町として平成6年に開催。(全国お城ふぇすたin朝来も同時開催)2013年(平成25年)12月、GoogleのCMで竹田城跡が取り上げられることにより、爆発的に観光客が約60万人に激増する。2014年(平成26年)から安全性・史跡保護を考慮して冬季は全面入城禁止になった[14][15]。同年11月、朝来市が国に無許可で国史跡である竹田城跡の登山道の拡幅や付け替え工事を進めていたことが発覚し、文化財保護法に違反しているとして県教委が工事の中止を指示した。観光客の増加により見学区域の制限なども行ったが土砂の流出で地面の浸食などの問題が発生している。2015年(平成27年)8月28日現在、応急的に地面保護のマットを敷設、木杭とロープで区切った観光ルートが整備され、2016年(平成28年)3月、2013年から修復のため立ち入り禁止になっていた天守台周辺整備が終了し、全面公開が再開された。
歴代城主
太田垣光景(1443年(嘉吉3年) - 1465年(寛正6年))
太田垣景近(1465年(寛正6年) - 1479年(文明11年))
太田垣宗朝(1479年(文明11年) - 1521年(大永元年))
太田垣宗寿(1521年(大永元年) - 1538年(天文7年))
太田垣朝延(1538年(天文7年) - 1570年(元亀元年))
太田垣輝延(1570年(元亀元年) - 1577年(天正5年)?)
城代・羽柴小一郎長秀(秀長)(1578年(天正6年) - 1580年(天正8年))
桑山重晴(1580年(天正8年) - 1585年(天正13年))
赤松広秀(斎村政広)(1585年(天正13年) - 1600年(慶長5年))
城郭
虎臥城見取図
竹田城は、険しい地形にありながら、曲輪のすべてを石垣で取り囲んだ総石垣の城郭である。山頂に築かれた城郭としては最後の近世城郭にあたる。縄張りなどから類推して近世初期と考えられる。竹田城は山名宗全がこの地に城を築くよう命じ、羽柴秀長が新しく縄張りを行い、その後の赤松広秀が文禄のころより豊臣秀吉の支援を受けながら、壮大な城へ仕上げたものと考えられている。
安土城のような大規模な石垣構造をもち、虎口は枡形を有する。尾根の最高所に本丸を置き、その正面に天守台がある。本丸から三方向にのびて、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪という大きな曲輪群を有している。面積は18,473m2にも及ぶ。石垣は穴太流石積み技法で、豊臣時代の山城に代表される遺構である。『ひょうごの城紀行』によると「竹田城は赤松広秀が三十代後半の働き盛りに築いた城ということになろう」としている。竹田城の特徴のひとつとして、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪の3つの曲輪群の標高が331mとほぼ同じ高さに作られている。本丸の標高は351mになるので標高差は20mとなる。このことより、平面構成だけではなく立面構成にも高度な計算がなされ3つの曲輪群が計画的に配置されている。櫓の総数は天守を含め20基前後が推定されている。Wikipediaより抜粋。
1.乗合バス第二駐車場から徒歩で登山口へ。(画像をクリックすると拡大して見えます!)

2.途中から見る武田城址の巨大な石垣に囲まれた虎口近くを見る!

3.同上

4.武田城址の巨大な虎口

5.虎口の巨大な石垣

6.虎口からの遠望!

7.石畳から明石方面を見る!

8.明石方面を見る!

9.朝来市内方面を」見る!

10.同上

11.北千畳曲輪方面を見る!!

12.同上

13.本丸・天守台方面を見る!

14.天守台址から見る南千畳曲輪を見る!

15.天守台近くから南千畳曲輪方面を見る!

16.花屋敷曲輪方面を見る!!

17.花屋敷曲輪から徒歩での下り方面を見下ろす⁉

18.武田城址を徒歩で降りた所にある駒札!画像をクリックすると拡大して読めます!

19.同上

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2019/4/12
兵庫県丹波を見る!朝来市にある天空の城・t竹田城2−1 文化財研修記
兵庫県の北部(但馬)の朝来市には武田城跡がある。。縄張りがが虎が臥せている様に見えるところから、別名虎伏城(とらふふすじょう、こがじょう)と呼ばれる国の史跡である。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、「天空の城」]や「日本のマチュピチュとも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。築城に関しては不明な点が多い。江戸時代末期に成立した『和田上道氏日記』によると嘉吉年間(1441 - 1443、城」とは「竹田城」そのものをさす。『和田上道氏日記』は古い伝承をまとめたもので、竹田城の築城に関しては他に史料がなく『史跡・竹田城』によると「嘉吉三年、山名持豊によって築かれ、太田垣光景が初代城主に任じられたとする口碑を残すのみである」とし永享3年(1431)に但馬守護山名宗全(持豊)によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承を紹介している。 この時期、但馬守護山名氏と播磨守護赤松氏の間で度々軍事的衝突が起こる。嘉吉元年(1441)6月、室町幕府6代将軍足利義教が重臣で播磨・備前・美作守護赤松満祐に暗殺され、幕府による追討軍に宗全が志願したからである(嘉吉の乱)。8月に幕府より追討令を受けた宗全は一族を動員して3方から播磨を攻め、宗全軍は丹波より生野から播磨に入国し、9月に城山城にいる満祐を滅ぼした。10月に宗全は恩賞として任命された播磨守護として入国し、太田垣氏を守護代とし赤松氏の掃討戦を実施している。その後嘉吉3年(1443)に赤松教政が、文安元年(1444)に赤松満政が、康正元年(1455)赤松則尚が山名軍に反抗するがことごとく敗れ、自刃・逃亡している。当時の竹田城は播磨と但馬の国境を守る拠点で、播磨を平定するための出撃の拠点ともなっていた。戦国時代の応応仁元年(1467)、細川勝元と山名宗全の争いが一因で応仁の乱が起こると但馬は細川氏と山名氏の争いの場となった。翌応仁2年(1468年)3月、細川軍の内藤軍が夜久野から但馬に侵攻しようとしていた時、竹田城で留守を預かっていた太田垣軍は、竹田城から出軍し夜久野で合戦となり小勢ながらよく戦い、内藤軍の大将2名を討ち取った。夜久野高原には現在も「内藤塚」と言われている供養碑が残っている。 その後も細川氏や赤松氏の脅威は去らず、応仁の乱が終わると宗全の孫山名政豊と赤松政則が播磨などを巡って抗争を続け、一時山名軍が播磨を占領したりしたが、長享2年(1488)頃には敗戦となり政豊の権威も低下、内紛も発生してしまうようになった。大永2年(1522)に政豊の子山名誠豊が播磨へ攻め込んだが、この時になると太田垣氏は出軍要請にも従わないようになり、赤松氏は結束を取り戻し山名軍を追放することになった。出雲の戦国大名・尼子氏は永禄9年(1566)の月山富田城の戦いで毛利元就に一旦滅ぼされた。しかし、永禄12年(1569年)5月に元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していた山名祐豊(誠豊の甥)がこれを支援した。これに対して毛利元就は織田信長に祐豊の背後を脅かすよう但馬出兵を依頼、これに応じた信長は8月1日に木下秀吉軍2万兵を派兵し、わずか10日間で18城を落城させ、8月13日には京都に引き上げた。此隅山城にいた山名祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬への復帰を許された。この時竹田城も攻略されたと考えられているが、山名祐豊の重臣太田垣輝延は引き続き城主として留まったようである。 天正元年(1573)、吉川元春ら毛利軍は出雲、伯耆、因幡に進軍し尼子軍を撃破しながら但馬に迫ってきた。太田垣輝延は毛利軍に降伏し、次いで天正3年(1575)5月に山名祐豊は吉川元春に誓紙を送って芸但同盟が成立する。一旦危機が去ったように思えたが、今度は丹波の赤鬼と言われた荻野直正が同年10月に竹田城を占領すると、山名祐豊は一転して信長に救援を求め、信長も応じる形で明智光秀を派遣して第一次丹波制圧(第一次黒井城の戦い)を開始し、荻野直正は黒井城に撤退した。竹田城の戦いは攻城戦で天正5年(1577)11月頃 羽柴秀長軍、太田垣輝延軍 指導者・指揮官が約3000兵で攻め竹田城落城させた。やがて信長と毛利氏の間が次第に悪化すると、信長は播磨に羽柴秀吉を派遣した。天正5年(1577年)10月、秀吉は黒田孝高に迎えられ姫路城に入城、それから1ヶ月で播磨の諸将から人質をとり帰服させることに成功した。その後羽柴軍は二手に分かれ、秀吉率いる本隊は上月城を攻城、別の一隊は秀吉の弟羽柴秀長が3000兵を率いて但馬に進軍した。
秀長隊の狙いは2つあったのではないかと『史跡・竹田城跡』では解説していて、一つは毛利軍に帰服している但馬諸将の制圧、もう一つは生野銀山の確保が目標であったようである。竹田城は生野銀山を管轄しており秀長隊の第一目標になり、11月に秀長隊は真弓峠から但馬に侵攻、まずは岩洲城を攻城し、次いで竹田城を攻城した。太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将羽柴小一郎殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候。寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なりと。武功夜話
と、竹田城では3日間の戦闘が繰り広げられた。しかし『戦国合戦大辞典』によると「(武功夜話)同書の史料的価値はすこぶる疑問とすべきで、実際にここでこのような戦闘があった真実性が乏しい」としている。また『信長公記』によると、直に但馬国へ相働き、先山口岩州の城を落城し、此競に小田垣楯籠る竹田へ取懸り、是又退散、則、普請申付け、木下小一郎城代として入れ置かれ候キ
」とあり、秀長が竹田城の城代となったとしている。 以下次回で!!
Wikipediaより抜粋。
1.30年ぶりに訪れた竹田城は専用バスでないと登れないし、又、入場料@300円が必要となっていた!(画像をクリックすると画面が拡大して見れます。)

2.第一駐車場(ここから乗り合いバスで登山口へ。)

3.乗合バス

4.第一駐車場から武田城址を遠望アップで撮影する!

5.第二駐車場の位置図、ここから徒歩で武田城址へ上る!

6.第二に掲示の雲海に浮かぶ武田城址!!

7.竹田城址への登山口

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秀長隊の狙いは2つあったのではないかと『史跡・竹田城跡』では解説していて、一つは毛利軍に帰服している但馬諸将の制圧、もう一つは生野銀山の確保が目標であったようである。竹田城は生野銀山を管轄しており秀長隊の第一目標になり、11月に秀長隊は真弓峠から但馬に侵攻、まずは岩洲城を攻城し、次いで竹田城を攻城した。太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将羽柴小一郎殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候。寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なりと。武功夜話
と、竹田城では3日間の戦闘が繰り広げられた。しかし『戦国合戦大辞典』によると「(武功夜話)同書の史料的価値はすこぶる疑問とすべきで、実際にここでこのような戦闘があった真実性が乏しい」としている。また『信長公記』によると、直に但馬国へ相働き、先山口岩州の城を落城し、此競に小田垣楯籠る竹田へ取懸り、是又退散、則、普請申付け、木下小一郎城代として入れ置かれ候キ
」とあり、秀長が竹田城の城代となったとしている。 以下次回で!!
Wikipediaより抜粋。
1.30年ぶりに訪れた竹田城は専用バスでないと登れないし、又、入場料@300円が必要となっていた!(画像をクリックすると画面が拡大して見れます。)

2.第一駐車場(ここから乗り合いバスで登山口へ。)

3.乗合バス

4.第一駐車場から武田城址を遠望アップで撮影する!

5.第二駐車場の位置図、ここから徒歩で武田城址へ上る!

6.第二に掲示の雲海に浮かぶ武田城址!!

7.竹田城址への登山口

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2019/4/7
京丹波を見る!元伊勢三社の一つ天岩戸神社! 文化財研修記
京都府福知山市大江町佛性寺字日浦ケ嶽206-1には元伊神三社の一つで元伊勢内宮・皇大神社の」奥宮tosare,櫛御毛奴命又は櫛岩窓戸命・豊岩窓戸命の2神を祀る天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)がある。社殿の裏手に御座石があり、これを磐座として祀っている。 社殿は岩盤の上に建てられており、参拝するためには備え付けの鎖で登る必要がある。
1.元伊勢小歌(画像をクリックすると拡大して読めます。)

2.天照大御神一行が降臨したと言われる岩戸山とその遥拝所。

3.岩戸山の説明板(画像をクリックすると拡大して読めます。)

4.天岩戸神社への下り参道を覗く!

5.同上

6.岩盤の上の天岩戸神社

7.岩戸川の渓谷を見る!

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1.元伊勢小歌(画像をクリックすると拡大して読めます。)

2.天照大御神一行が降臨したと言われる岩戸山とその遥拝所。

3.岩戸山の説明板(画像をクリックすると拡大して読めます。)

4.天岩戸神社への下り参道を覗く!

5.同上

6.岩盤の上の天岩戸神社

7.岩戸川の渓谷を見る!

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2019/4/2
京丹波を見る!元伊勢 三社の一つ内宮・皇大神社! 文化財研修記
京都府福知知山市大江町内宮には元伊勢電承地・吉佐宮の一つであり、天照太神を祀る元伊勢内宮・皇大神社(こうたいじんじゃ)がある。現在伊勢神宮の祭神である天照大御神は、古くは宮中に祀られていた。この状態を畏怖した天皇の命で、崇神天皇6年から鎮座地を求めて各地を転々とした。垂仁天皇25年最終的に伊勢に落ち着くが、それまでの間に訪れた一時遷座地は、各地で元伊勢として語り継がれた。当社はそうした元伊勢伝承地の1つで、「但波(丹波)国乃吉佐宮」 の旧跡にあたる。そのため「元伊勢」を冠して称され、また特に皇大神宮(伊勢神宮内宮)の元宮であるとの伝承から、元伊勢皇大神宮または元伊勢内宮とも称される。市内大江地域には当社を加えて以下の元伊勢伝承の神社があり、総称して「元伊勢三社」と呼ばれている。
福知山市大江町の元伊勢三社
皇大神社
福知山市大江町内宮
皇大神宮(伊勢神宮内宮)の元宮伝承地
豊受大神社
福知山市大江町天田内
豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の元宮伝承地 (前回掲載済)
天岩戸神社 (次回掲載予定)
福知山市大江町佛性寺
皇大神社奥宮
なお、吉佐宮の伝承を有する神社には、当社の他にも真名井神社(宮津市の籠神社摂社)、但馬の笶原神社、竹野神社がある。
『倭姫命世記』に、崇神天皇39年、天照太神を奉じた豊鋤入姫命が鎮座地を求めて但波(丹波)国へ遷幸し、吉佐宮を築いて4年間奉斎したと記すが[2]、社伝によれば、当神社はその旧跡であり、天照大神が吉佐宮から遷座した後もその神徳を慕った人々が引き続き伊勢神宮内宮の元の宮として崇敬してきたといい、元明天皇朝(707 - 15年)に社殿を建立したという。また、それとは別に、用明天皇の皇子麻呂子親王が当地の兇賊を成敗するに際して勧請したものであるとの異伝もある(宝暦11年(1761年)の『丹後州宮津府志』『天橋記』)。
近世以前の沿革は不明であるが、江戸時代には4石3斗4合の社領を有し(天和元年(1681年)の『宮津領村高帳』)、明暦2年(1656年)に宮津藩主京極高国が社殿を造営し(社蔵棟札)、元禄14年(1701年)に同奥平昌成も修造してから歴代宮津藩主もこれに倣ったといい]、また60年に1度の式年遷宮も行われていた。 昭和5年(1930年)府社に列し、戦後は神社本庁に参加している。本殿を囲む形でコの字形に末社83社が鎮座している。(ウイキぺデアから抜粋掲載)
1.元伊勢内宮・皇大神社の駒札

2.神社への参拝口

3.大鳥居

4.鬱蒼たる森の参拝道

5.同上

6.麿子親王(聖徳太子の弟)の巨大な手植えの杉

7.摂社の一つの駒札

8.摂社の御門神社

9.カネのなる石(石をこの岩に投げるとカーンと良い音がする。)

10.見事な手水舎

11.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

12.黒木の鳥居(京都嵯峨野の野宮神社も黒木の鳥居です。)

13.]本殿(桁行3間梁間2.間の神明造茅葺。内削ぎの千木を持ち、棟に鰹木を置いている。
摂社(脇宮)本殿の両脇に鎮座。栲機千々姫社 - 本殿左。祭神:栲幡千々姫命、天手力雄命社 - 本殿右。祭神:天手力雄命、末社も多く計83社もああります。

14.本殿内陣

15.拝殿と後部の本殿を左側から見る!

16.本殿左側の御神木の駒札

17.巨大な御神木です!

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福知山市大江町の元伊勢三社
皇大神社
福知山市大江町内宮
皇大神宮(伊勢神宮内宮)の元宮伝承地
豊受大神社
福知山市大江町天田内
豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の元宮伝承地 (前回掲載済)
天岩戸神社 (次回掲載予定)
福知山市大江町佛性寺
皇大神社奥宮
なお、吉佐宮の伝承を有する神社には、当社の他にも真名井神社(宮津市の籠神社摂社)、但馬の笶原神社、竹野神社がある。
『倭姫命世記』に、崇神天皇39年、天照太神を奉じた豊鋤入姫命が鎮座地を求めて但波(丹波)国へ遷幸し、吉佐宮を築いて4年間奉斎したと記すが[2]、社伝によれば、当神社はその旧跡であり、天照大神が吉佐宮から遷座した後もその神徳を慕った人々が引き続き伊勢神宮内宮の元の宮として崇敬してきたといい、元明天皇朝(707 - 15年)に社殿を建立したという。また、それとは別に、用明天皇の皇子麻呂子親王が当地の兇賊を成敗するに際して勧請したものであるとの異伝もある(宝暦11年(1761年)の『丹後州宮津府志』『天橋記』)。
近世以前の沿革は不明であるが、江戸時代には4石3斗4合の社領を有し(天和元年(1681年)の『宮津領村高帳』)、明暦2年(1656年)に宮津藩主京極高国が社殿を造営し(社蔵棟札)、元禄14年(1701年)に同奥平昌成も修造してから歴代宮津藩主もこれに倣ったといい]、また60年に1度の式年遷宮も行われていた。 昭和5年(1930年)府社に列し、戦後は神社本庁に参加している。本殿を囲む形でコの字形に末社83社が鎮座している。(ウイキぺデアから抜粋掲載)
1.元伊勢内宮・皇大神社の駒札

2.神社への参拝口

3.大鳥居

4.鬱蒼たる森の参拝道

5.同上

6.麿子親王(聖徳太子の弟)の巨大な手植えの杉

7.摂社の一つの駒札

8.摂社の御門神社

9.カネのなる石(石をこの岩に投げるとカーンと良い音がする。)

10.見事な手水舎

11.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)

12.黒木の鳥居(京都嵯峨野の野宮神社も黒木の鳥居です。)

13.]本殿(桁行3間梁間2.間の神明造茅葺。内削ぎの千木を持ち、棟に鰹木を置いている。
摂社(脇宮)本殿の両脇に鎮座。栲機千々姫社 - 本殿左。祭神:栲幡千々姫命、天手力雄命社 - 本殿右。祭神:天手力雄命、末社も多く計83社もああります。

14.本殿内陣

15.拝殿と後部の本殿を左側から見る!

16.本殿左側の御神木の駒札

17.巨大な御神木です!

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