2019/1/30
京を見る!京都市最古の神社の松尾大社! 文化財研修記
京都市西京区嵐山宮町3には京都市最古の神社である松尾大社(まつおたいしゃ)がある。松尾大社は大宝元年(701)に建立された社で、酒づくりの神様として有名です。境内に足を入れると目を引く山のように積まれた酒樽は、各地の酒造業者が奉納したもの。亀の井とよばれる湧き水を元水に加え酒を醸造すれば腐らないという言い伝えがある。4月下旬には楼門から本殿の間の一ノ井川沿いなど境内一円に3,000本もの山吹が咲き誇る。また、それぞれ趣の違った庭が集まる「松風苑」がある。これらの庭園で用いられた200余個の石はすべて徳島県吉野川の青石(緑泥片岩)で、昭和45年(1970)着工、昭和50年(1975)5月に完成。
「上古の庭(じょうこのにわ)」(磐座風)
松尾山中の頂上付近にある巨岩が信仰の対象になったといわれており、古代の磐座を模して造られたのがこの庭である。祭神である二つの巨石の男女二神を囲む岩石群は、随従する諸神を表し、地上一面に植えられている丹波笹は高山の趣をあらわしている。
「曲水の庭(きょくすいのにわ)」(平安風)
松尾大社が最も栄えた平安時代を表現した庭といわれ、御手洗川の清流が七曲がりして山麓を洗い、岩が点在する山からこれを見下ろす優雅な姿をあらわしている。
「蓬莱の庭(ほうらいのにわ)」(鎌倉風)
鎌倉時代に代表される回遊式庭園で、不老不死の仙界にあこがれる蓬莱思想を表しているといわれ、岩の間から噴出する水が鶴形に池に注ぐところ、多くの島が点在し、周囲を回遊しながら眺めると、自ら仙界に遊ぶ境地になると表現している.
1.松尾大社一の鳥居

2.巨大な碑文

3.一の鳥居をアップで見る!

4.見事な巨大な楼門

5.駒札

6.楼門から拝殿を見る!

7.見事な拝殿です!

8.国重文で両流れ造(りょうながれ)であるが切妻(きりつま)造りに似た建築で松尾造りと呼ばれている本殿

9.本殿の向拝をアップで見る!

10.有名な酒の資料館

11.上古の庭

12.左上は宝物館で、曲水の庭

13.宝来の庭

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「上古の庭(じょうこのにわ)」(磐座風)
松尾山中の頂上付近にある巨岩が信仰の対象になったといわれており、古代の磐座を模して造られたのがこの庭である。祭神である二つの巨石の男女二神を囲む岩石群は、随従する諸神を表し、地上一面に植えられている丹波笹は高山の趣をあらわしている。
「曲水の庭(きょくすいのにわ)」(平安風)
松尾大社が最も栄えた平安時代を表現した庭といわれ、御手洗川の清流が七曲がりして山麓を洗い、岩が点在する山からこれを見下ろす優雅な姿をあらわしている。
「蓬莱の庭(ほうらいのにわ)」(鎌倉風)
鎌倉時代に代表される回遊式庭園で、不老不死の仙界にあこがれる蓬莱思想を表しているといわれ、岩の間から噴出する水が鶴形に池に注ぐところ、多くの島が点在し、周囲を回遊しながら眺めると、自ら仙界に遊ぶ境地になると表現している.
1.松尾大社一の鳥居

2.巨大な碑文

3.一の鳥居をアップで見る!

4.見事な巨大な楼門

5.駒札

6.楼門から拝殿を見る!

7.見事な拝殿です!

8.国重文で両流れ造(りょうながれ)であるが切妻(きりつま)造りに似た建築で松尾造りと呼ばれている本殿

9.本殿の向拝をアップで見る!

10.有名な酒の資料館

11.上古の庭

12.左上は宝物館で、曲水の庭

13.宝来の庭

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2019/1/25
京を見る!尼門跡寺院で百々御所とも人形寺ともよばれる宝鏡寺! 文化財研修記
京都市上京区寺ノ内通堀川東入百々(どど)町には臨済宗単独寺院で西山(せいざん)と号する尼門跡寺院で百々御所とか人形寺ともよばれる宝鏡寺がある。光厳天皇皇女の華林宮惠厳(かりんのみやえごん)は、無学祖元(鎌倉円覚寺開山)の弟子にあたる尼僧・無外如大が京都の五辻大宮(現・京都市上京区)に開いた尼五山筆頭景愛寺の6代寺持であった。室町時代の応安年間(1368−1375)、伊勢の二見浦にて漁網に掛かった聖観世音菩薩を景愛寺子院の建福尼寺に安置し、建福寺を改めて宝鏡寺と称した。これには、足利義政の娘が文亀年間(1501−1504)に再興したとする説もある。足利義満の時代、隣地には小川御所があったとされ、義満母の紀良子、義満実弟の満詮の別宅だったというが、応仁の乱(1467−1477)の折、戦禍から後土御門天皇、足利義政室の日野富子が逃げ込んでいた。後に後嗣を巡る争い(明応の政変)で御殿は焼かれてしまい、跡地は宝鏡寺に取り込まれた。正保3年(1648)、後水尾天皇皇女の理昌女王(久厳尼)が入寺して以降、代々の皇女が入寺する尼門跡寺院となり、土地の名前から「百々御所」(どどのごしょ)とも呼ばれたが、天明8年(1788)焼失。以降再建された現在の建物群は尼門跡寺院の構成をよく伝えている。京都の尼門跡寺院には、内親王が入寺することが多く、父である天皇から人形が贈られたとされ、宝鏡寺も孝明天皇遺愛の人形をはじめ[、多くの人形を所蔵している。それらの人形を一般公開する人形展が昭和32年(1957)から実施されるようになった。また、その後人形供養が行われるようになり、昭和34年(1959)には京人形の振興を目的として境内に人形塚が建立された。人形塚には御所人形像と武者小路実篤の歌が刻まれている。これらのことから、人形の寺と通称されるようになった。
1.宝鏡寺山門と標柱

2.山門から本堂方面を見る!

3.境内の人形塚には御所人形像と武者小路実篤の歌碑がある。

4.人形津塚の彫られた御所人形をアップで見る!

5.本堂の入口

6.庫裡への入口

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1.宝鏡寺山門と標柱

2.山門から本堂方面を見る!

3.境内の人形塚には御所人形像と武者小路実篤の歌碑がある。

4.人形津塚の彫られた御所人形をアップで見る!

5.本堂の入口

6.庫裡への入口

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2019/1/20
京を見る!本門法華宗大本山・妙蓮寺! 文化財研修記
京都市上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町875には 大本山妙蓮寺がある。、宗祖日蓮大聖人より帝都弘通宗義天奏の遺命を受けた日像聖人によって、 永仁2年(1294)に創建された。
日像聖人が遺命を果たすため鎌倉より京都へ上られた時、 五条西洞院の柳酒屋は深く聖人に帰依し、未亡人は邸内に一宇を建立して聖人を請じ、卯木山妙法蓮華寺と称した。これが妙蓮寺の縁起である。(柳の字を二つに分けて卯木山という。)その後、たびたびの法難にあったが、応永年間(1420年頃)本勝迹劣、本迹一致の論争を 契機に妙顕寺を退室した日慶聖人によって柳屋の地に本門八品門流として再興された。その後、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係深い日応僧正を迎えるにおよび、 皇族始め足利将軍義尚等の参詣多く、また今出川家の公達日忠聖人は、三井寺より改宗して 当寺に投じて学室道輪寺を創立し、本化教学の道場を開く。ここにおいて当寺の法運は隆昌 を極め、山門の様式も格式高いものとなった。天文5年(1536)には、法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗を筆頭に諸宗の僧俗10万人に よって襲撃され、妙蓮寺をはじめとする日蓮聖人門下21本山は、ことごとく灰燼に帰し堺 に立ち退いた。天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉の聚楽 第造営に際して現在地に移転した。当寺は、1kuの境内に塔頭27ヶ院を有する大寺院で あったが、天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼 を残すのみとなった。
寛政元年より漸次復興して、現在に至り、塔頭8ヶ院を残すのみです。
1.妙蓮寺の標柱

2.見事な山門をアップで見ます

3.鐘楼

4.見事な本堂と御会式桜が手前にあります。

5.伽藍配置図

6.御会式桜の駒札

7.見事な鐘楼を本堂側から見ます。

8.見事な本堂です!

9.妙蓮寺椿

10.庫裡入口

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日像聖人が遺命を果たすため鎌倉より京都へ上られた時、 五条西洞院の柳酒屋は深く聖人に帰依し、未亡人は邸内に一宇を建立して聖人を請じ、卯木山妙法蓮華寺と称した。これが妙蓮寺の縁起である。(柳の字を二つに分けて卯木山という。)その後、たびたびの法難にあったが、応永年間(1420年頃)本勝迹劣、本迹一致の論争を 契機に妙顕寺を退室した日慶聖人によって柳屋の地に本門八品門流として再興された。その後、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係深い日応僧正を迎えるにおよび、 皇族始め足利将軍義尚等の参詣多く、また今出川家の公達日忠聖人は、三井寺より改宗して 当寺に投じて学室道輪寺を創立し、本化教学の道場を開く。ここにおいて当寺の法運は隆昌 を極め、山門の様式も格式高いものとなった。天文5年(1536)には、法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗を筆頭に諸宗の僧俗10万人に よって襲撃され、妙蓮寺をはじめとする日蓮聖人門下21本山は、ことごとく灰燼に帰し堺 に立ち退いた。天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉の聚楽 第造営に際して現在地に移転した。当寺は、1kuの境内に塔頭27ヶ院を有する大寺院で あったが、天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼 を残すのみとなった。
寛政元年より漸次復興して、現在に至り、塔頭8ヶ院を残すのみです。
1.妙蓮寺の標柱

2.見事な山門をアップで見ます

3.鐘楼

4.見事な本堂と御会式桜が手前にあります。

5.伽藍配置図

6.御会式桜の駒札

7.見事な鐘楼を本堂側から見ます。

8.見事な本堂です!

9.妙蓮寺椿

10.庫裡入口

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2019/1/15
京を見る!古田織部が後陽成天皇の勅願所として再興した本山・興聖寺! 文化財研修記
京都市上京区堀川寺之内上ル2丁目上天神町647には臨済宗興聖寺派本山の円通山・興聖寺(こうしょうじ)ある。本尊は釈迦如来。虚応円耳(こおうえんに)が創建した大昭庵が前身で曾我蕭白(そがしょうはく)とその一族の菩提寺です。塔頭に古田織部の妻が隠居し、豊後岡藩家老・古田家が織部の墓を建てた関係で「織部寺」とも呼ばれる。慶長8年(1603)、虚応が創建。後に後陽成天皇および後水尾天皇の勅願所となる。当初は顕密兼修の寺院であったが、元禄14年(1701)に禅宗寺院となる。天明の大火(1788)で焼失するが、その後再興された。本堂には本尊釈迦三尊像のほか、愛宕神社旧本地仏の地蔵菩薩像(勝軍地蔵)、藤堂高虎寄進と伝える達磨像などを安置する。国重文の紙本墨画寒山拾得図; 曾我蕭白筆、絹本著色兜率天曼荼羅図などがある。
1.駒札

2.興聖寺標柱と山門

3.山門の見事な揮毫

4.山門から中門を見る!

5.見事な中門

6.中門から本堂方面を見る!

7.鐘楼

8.庫裡を見る!

9.庫裡から本堂へ

10.見事な本堂全景

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1.駒札

2.興聖寺標柱と山門

3.山門の見事な揮毫

4.山門から中門を見る!

5.見事な中門

6.中門から本堂方面を見る!

7.鐘楼

8.庫裡を見る!

9.庫裡から本堂へ

10.見事な本堂全景

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2019/1/11
京を見る!醍醐天皇の勅願により創建された水火天満宮! 文化財研修記
歴史[編集]京都市上京区堀川通上御霊前上る扇町722−10には延長元年(923)醍醐天皇の勅願により水難火難除けの守護神として延暦寺の尊意僧正に勅命があり、菅原道真の神霊を勧請し建立された水火天満宮(すいかてんまんぐう)がある。以前は同じ上京区の上天神町にあったが、堀川通の拡張に伴って1952年に現在の場所に移転した。境内には、末社六玉稲荷をはじめとし、道真の霊が降り立ったといわれる投天石、近年出世した人が寄進した出世石、眼病に効くといわれる井戸水「金龍水」や安産の石「玉子石」がある。また元禄8年(1695))に都への出入り口30箇所に木杭で作られた標識があったが、朽ちたため享保2年(1717)、石に作り変えられたといわれる「是より洛中荷馬口付のもの乗べからず」と記した石標もある]。堀川通沿いの鳥居横には、孝学堂跡の石碑もある。これは、江戸時代に天満宮宮司の孝道が境内に開設し学問所跡である。
1.水火天満宮全景

2.鳥居と扁額

3.駒札

4.手水舎など

5.11月18日午後4時からのお火焚祭の護摩供養の準備ができています。

6.拝殿

7.本殿を見る!

8.六玉稲荷社

9.道真の霊が降り立ったと言われる投天石

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1.水火天満宮全景

2.鳥居と扁額

3.駒札

4.手水舎など

5.11月18日午後4時からのお火焚祭の護摩供養の準備ができています。

6.拝殿

7.本殿を見る!

8.六玉稲荷社

9.道真の霊が降り立ったと言われる投天石

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2019/1/7
京を見る!京都府有形文化財の本堂・開山堂・多宝塔・仁王門など持つ本法寺! 文化財研修記
京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺門前町には京都府有形文化財指定の本堂・開山堂・多宝塔・仁王門などを持つ日蓮宗本山本法寺(ほんぽうじ)がある。叡昌山本法寺は、室町時代に活躍した日蓮宗僧侶、久遠成院日親上人(1407−88)によって築かれた日蓮宗の本山です。開創の時期や場所については諸説あって、明らかではありませが、永享18年(1436)に東洞院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされています。その後、永享12年(1440)に、日親上人の幕府諫暁が原因で破却され、康正年間(1455−57)に四条高倉で再建しました。
寛正元年(1460)、2度目の破却に遭った本法寺は、三条万里小路に移転して復興を果たすと、日親上人はこの寺を一門の中心地に定めています。その後、本法寺は隆盛し多くの僧侶たちが棲むところとなり繁栄しましたが、天文5年(1536)の法難によって一時は都を追われ、大坂堺に避難する事となりました。後に一条戻橋付近で再興し、さらに天正15年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の影響で、堀川寺之内へ移転して今日に至っています。
現在地に移転したときの貫首日通上人は、外護者であった本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備し、本法寺は京都の町に一大栄華を誇るまでに及びました。しかし、天明8年(1788)に襲った大火は本法寺の伽藍をのみ込み、経蔵と宝蔵を残すだけとなりました。その後、檀信徒達の堂塔再建に対する願いは着々と結実され、本堂・開山堂・多宝塔・書院・仁王門などが整備され、今の本法寺となりました。獄中で知り合った本阿弥清信の帰依を受け、後に本阿弥家の菩提寺となる。1463年(寛正3年)地蔵ヶ原にて、焼いた鍋を頭に被せる酷刑を受け、後に「鍋かぶり日親」と称されている。桃山時代の絵師長谷川等伯は本法寺10世・日通と交友があり、塔頭教行院を宿としていた。このため、当寺には等伯の作品やゆかりの品が多数伝来している。
1.本法寺の駒札

2.見事な仁王門

3.仁王門をアップで見ます!

4.阿形の仁王像(金網が邪魔で仁王像の撮影は不可能です!)

5.多宝塔と本堂

6.駒札

7.大摩利支天堂

8.堂内陣

9.見事な本堂

10.見事な多宝塔

11.庫裡と玄関

12.国重文の長谷川等伯の釈迦涅槃図

13.同上

14.庭と山門

15.本阿弥光悦作の本法寺庭園へ

16.本阿弥光悦作の国名勝庭園「三巴の庭」

17.同上

18.三巴の庭の意味

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寛正元年(1460)、2度目の破却に遭った本法寺は、三条万里小路に移転して復興を果たすと、日親上人はこの寺を一門の中心地に定めています。その後、本法寺は隆盛し多くの僧侶たちが棲むところとなり繁栄しましたが、天文5年(1536)の法難によって一時は都を追われ、大坂堺に避難する事となりました。後に一条戻橋付近で再興し、さらに天正15年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の影響で、堀川寺之内へ移転して今日に至っています。
現在地に移転したときの貫首日通上人は、外護者であった本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備し、本法寺は京都の町に一大栄華を誇るまでに及びました。しかし、天明8年(1788)に襲った大火は本法寺の伽藍をのみ込み、経蔵と宝蔵を残すだけとなりました。その後、檀信徒達の堂塔再建に対する願いは着々と結実され、本堂・開山堂・多宝塔・書院・仁王門などが整備され、今の本法寺となりました。獄中で知り合った本阿弥清信の帰依を受け、後に本阿弥家の菩提寺となる。1463年(寛正3年)地蔵ヶ原にて、焼いた鍋を頭に被せる酷刑を受け、後に「鍋かぶり日親」と称されている。桃山時代の絵師長谷川等伯は本法寺10世・日通と交友があり、塔頭教行院を宿としていた。このため、当寺には等伯の作品やゆかりの品が多数伝来している。
1.本法寺の駒札

2.見事な仁王門

3.仁王門をアップで見ます!

4.阿形の仁王像(金網が邪魔で仁王像の撮影は不可能です!)

5.多宝塔と本堂

6.駒札

7.大摩利支天堂

8.堂内陣

9.見事な本堂

10.見事な多宝塔

11.庫裡と玄関

12.国重文の長谷川等伯の釈迦涅槃図

13.同上

14.庭と山門

15.本阿弥光悦作の本法寺庭園へ

16.本阿弥光悦作の国名勝庭園「三巴の庭」

17.同上

18.三巴の庭の意味

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2019/1/3
京を見る!日蓮宗大本山の一つ妙顕寺! 文化財研修記
京都府京都市上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町514には日蓮宗大本山具足山龍華院妙顕寺(みょうけんじ)がある。本尊は三宝尊で創建年元亨3年(1321)で)開山は日像・開基は後醍醐天皇です。塔頭が九院ある(久本院、十乘院、泉妙院、法音院、恩命院、善行院、本妙院、實成院、旦院)。
日蓮の遺命を受け、京都布教中の日像が後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立した。京都における法華宗の根本をなす寺院となった。その後、備前法華の祖と仰がれる大覚を輩出し、法華宗の発展に大きく寄与することとなった。「四海唱導」「四条門流」と呼ばれる。妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。日像は、元亨元年(1321)、今小路(現京都市上京区大宮通上長者町)に妙顕寺を建立した。なお、師の日朗から日像あての書状には「綾小路大宮の御坊」とあり、元亨以前に綾小路大宮(現下京区)に布教の拠点があったとみられる。建武元年(1334)には後醍醐天皇より綸旨を賜り、勅願寺となった。暦応4年(1341)、光厳院の院宣により、四条櫛笥(現京都市下京区・中京区の境)に移転した。嘉慶元年(1387)、比叡山衆徒により伽藍が破却され、寺は若狭小浜に避難する。明徳4年(1393)、足利義満の斡旋により、三条坊門堀川(現中京区堀川御池)に伽藍を再建し、寺号を妙本寺と改めた。応永18年(1411年)には足利義持の祈願寺となっている。応永20年(1413)、寺は比叡山衆徒により再び破却され、永正18年(1521)、足利義稙の命により、二条西洞院(現中京区)に再建されている。その前後、永正・大永頃(1504 - 1528)に寺号を妙顕寺に戻している。 天文5年(1536)、天文法華の乱で伽藍を焼失し、寺は堺に避難するが、天文11年(1542)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、堺に避難していた法華宗寺院は相次いで京に戻った。妙顕寺は天文17年(1548年)、二条西洞院に再建されるが、天正12年(1584年)、豊臣秀吉の命により、現在地に移転した。そして秀吉は妙顕寺跡地に二第妙顕寺城を築く。天明8年(1788)、天明の大火により焼失し、その後再建されている。
1.妙顕寺の標柱

2.見事な山門

3.山門を正面から見る!

4.本堂を見る!

5.見事な本堂です!

6.鐘楼を見る

7.紅葉の境内

8.見事な本堂をアップで見る!

9.右手が本堂、左手が庫裡

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日蓮の遺命を受け、京都布教中の日像が後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立した。京都における法華宗の根本をなす寺院となった。その後、備前法華の祖と仰がれる大覚を輩出し、法華宗の発展に大きく寄与することとなった。「四海唱導」「四条門流」と呼ばれる。妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。日像は、元亨元年(1321)、今小路(現京都市上京区大宮通上長者町)に妙顕寺を建立した。なお、師の日朗から日像あての書状には「綾小路大宮の御坊」とあり、元亨以前に綾小路大宮(現下京区)に布教の拠点があったとみられる。建武元年(1334)には後醍醐天皇より綸旨を賜り、勅願寺となった。暦応4年(1341)、光厳院の院宣により、四条櫛笥(現京都市下京区・中京区の境)に移転した。嘉慶元年(1387)、比叡山衆徒により伽藍が破却され、寺は若狭小浜に避難する。明徳4年(1393)、足利義満の斡旋により、三条坊門堀川(現中京区堀川御池)に伽藍を再建し、寺号を妙本寺と改めた。応永18年(1411年)には足利義持の祈願寺となっている。応永20年(1413)、寺は比叡山衆徒により再び破却され、永正18年(1521)、足利義稙の命により、二条西洞院(現中京区)に再建されている。その前後、永正・大永頃(1504 - 1528)に寺号を妙顕寺に戻している。 天文5年(1536)、天文法華の乱で伽藍を焼失し、寺は堺に避難するが、天文11年(1542)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、堺に避難していた法華宗寺院は相次いで京に戻った。妙顕寺は天文17年(1548年)、二条西洞院に再建されるが、天正12年(1584年)、豊臣秀吉の命により、現在地に移転した。そして秀吉は妙顕寺跡地に二第妙顕寺城を築く。天明8年(1788)、天明の大火により焼失し、その後再建されている。
1.妙顕寺の標柱

2.見事な山門

3.山門を正面から見る!

4.本堂を見る!

5.見事な本堂です!

6.鐘楼を見る

7.紅葉の境内

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2019/1/1
京を見る!国重文の平安時代の梵鐘を持つ報恩寺! 文化財研修記
京都市上京区小川通寺の内射場町には鳴虎(なきとら)の報恩寺(ほうおんじ)といわれるこの寺は,尭天山と号し浄土宗に属します。中国の画人四明陶佾(しめいとういつ)が描く猛虎の図を豊臣秀吉の所望により聚楽第の床へ飾ったところ,夜中に虎の鳴き声が聞こえ,秀吉は一晩中安眠できませんでしたので,すぐに寺へ戻されたことから鳴虎として有名になりました。この絵は寅年の正月三が日に限り公開されます。
寺伝では室町時代,一条高倉に開創したとあり,法園寺または法音寺という天台・浄土兼学の寺でしたが,文亀元年(1501)後柏原天皇の勅で慶譽(きょうよ)が堀川今出川の舟橋の地に再興し,浄土宗報恩寺と改めました。天正13年(1585)秀吉によって現在の地に移されますが,享保・天明の大火に類焼しています。
重要文化財の梵鐘はその由来を明らかにできませんが,高さ123.5センチ,口径73センチ,素文の銅鐘です。高い笠形,肩すぼまりの形態,乳の形,八角素弁小形の撞座(つきざ)2個が龍頭(りゅうず)の方向と直交しているなど,奈良時代以来の古式を残す平安時代の鐘です。池の間(いけのま)には金剛界四仏を籠字(かごじ)の梵字であらわし,その下に梵文の真言を刻んでいる珍しい意匠です。西陣の機屋はこの鐘の音を聞いて仕事の手を休めました。一名,勿撞(つかず)の鐘といわれるのは,ある時,お十夜の晩に鳴るか鳴らぬかで丁稚と織子が口論した結果,鐘が鳴らなかったので織子が狂い死にしたという話があり,以後,除夜の鐘以外は撞かなくなったということです。
門前の石橋には慶長7年(1602)架橋の刻銘があり,本法寺の石橋とともに,今は埋められた小川(こがわ)の名残を止める貴重な遺産です。
1.報恩寺の標柱

2.駒札

3.見事な山門

4.観世稲荷神社

5.同上 アップで撮影

6.客殿

7.客殿の本尊・阿弥陀如来像

8.見事な庭園の一部

9.国重文の鐘のある鐘楼堂

10.国重文の鐘(平安時代)

11.見事な枯山水の庭園

12.福山藩祖の阿部正勝等の墓碑のある墓地

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寺伝では室町時代,一条高倉に開創したとあり,法園寺または法音寺という天台・浄土兼学の寺でしたが,文亀元年(1501)後柏原天皇の勅で慶譽(きょうよ)が堀川今出川の舟橋の地に再興し,浄土宗報恩寺と改めました。天正13年(1585)秀吉によって現在の地に移されますが,享保・天明の大火に類焼しています。
重要文化財の梵鐘はその由来を明らかにできませんが,高さ123.5センチ,口径73センチ,素文の銅鐘です。高い笠形,肩すぼまりの形態,乳の形,八角素弁小形の撞座(つきざ)2個が龍頭(りゅうず)の方向と直交しているなど,奈良時代以来の古式を残す平安時代の鐘です。池の間(いけのま)には金剛界四仏を籠字(かごじ)の梵字であらわし,その下に梵文の真言を刻んでいる珍しい意匠です。西陣の機屋はこの鐘の音を聞いて仕事の手を休めました。一名,勿撞(つかず)の鐘といわれるのは,ある時,お十夜の晩に鳴るか鳴らぬかで丁稚と織子が口論した結果,鐘が鳴らなかったので織子が狂い死にしたという話があり,以後,除夜の鐘以外は撞かなくなったということです。
門前の石橋には慶長7年(1602)架橋の刻銘があり,本法寺の石橋とともに,今は埋められた小川(こがわ)の名残を止める貴重な遺産です。
1.報恩寺の標柱

2.駒札

3.見事な山門

4.観世稲荷神社

5.同上 アップで撮影

6.客殿

7.客殿の本尊・阿弥陀如来像

8.見事な庭園の一部

9.国重文の鐘のある鐘楼堂

10.国重文の鐘(平安時代)

11.見事な枯山水の庭園

12.福山藩祖の阿部正勝等の墓碑のある墓地

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