2018/2/27

京丹波を見る!2の6.南丹市八木町にある古社の式内論社・荒井神社!  文化財研修記

京都府南丹市八木町美里には式内社論社で、旧社格は村社の荒井神社(あらいじんじゃ)がある。祭神は荒魂神。物部氏祖神・宇摩志麻遅命とする説もある。創建は不詳。『日本三代実録』元慶6年(882)10月9日条に、従五位を授けられた丹波国荒井神の記載があり、その頃の存在は確認されている。当社が旧船井郡内の古社であり、また当地を「志麻郷」と言ったことなどから、平安時代中期の『延喜式神名帳』に記載される式内社「丹波国船井郡 嶋物部神社」の論社とされている。当社には隣接して西光寺があり、神仏分離までは当社に神官はおらず西光寺の僧が奉仕していた。永正16年(1519)、永禄9年(1566)、明暦3年(1657)には建造・補修がなされており、棟札が現存しておる。本殿は室町時代後期の作とされる。一間社流造檜皮葺。現在は覆屋内に鎮座する。京都府登録文化財と南丹市指定文化財に指定されている。

1.荒井神社の鳥居
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2.駒札
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3.神社の駒札
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4.手水舎
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5.阿形の狛犬
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6.吽形の狛犬
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7.拝殿
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8.拝殿と後部の本殿を見る!
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9.拝殿内で掲げられている奉納絵馬の一つ!
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2018/2/23

京丹波を見る!2の5.南丹市の東大寺開創の高僧良弁によって創建された古刹の西光寺!  文化財研修記

京都府南丹市八木町美里には奈良東大寺を創建した高僧・良弁によって勝宝8年(756)に創建されたと云う西光寺(さいこうじ)がある。本堂の阿弥陀堂は亀腹其壇(かめばらきだん)上に建ち、入母屋造、桟瓦葺、妻入で正面に唐破風の向拝を付け、擬宝珠(ぎぼし)高欄付の切目縁(きりめえん)をめぐらしている。(南丹市指定文化財)又、京都府指定無形文化財の「六斉念仏」が行われる外陣は見事です。詳細は「駒札」を参照願います。

1.西光寺の標柱
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2.参道
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3.山門(竜宮門)
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4.竜宮門から本堂への参道
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5.勤相堂
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6.本堂(阿弥陀堂)を見上げる!
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7.本堂(阿弥陀堂)
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8.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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9.アップで見ます!
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10.本堂から竜宮門を見下ろす!
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2018/2/19

京丹波を見る!2の4.曹洞宗の古刹で木喰上人で有名な清源寺!  文化財研修記

京都府南丹市八木町諸畑の田園には曹洞宗の古刹・金龍山清源寺(せいげんじ)があります。
○木喰上人と十六羅漢○
清源寺の羅漢堂には、木喰上人が彫り上げた木造の十六羅漢像や 釈迦像が収められています。 八木町の清源寺を、木喰上人が全国を巡っているうちに訪れたのが、 文化3年(1806)の10月でした。その頃には遊行造仏僧として、木喰上人の名は広く 知られるようになっていたのです。
---苦行の聖 木喰上人---
十六羅漢像を彫った木喰上人とは一体どんな人物だったのでしょうか。 木喰とは、木喰戒を行ったことを意味し、したがって木喰上人と呼ばれる人物は何人もいます。 では木喰戒とは何か。それは五穀や十穀を断つ苦行です。 この丹波清源寺の木喰さんつまり木喰五行明満は、45歳から93歳で没するまで生涯それを続けました。 その上木喰上人明満は、江戸時代末期に全国を流浪しながら、おびただしい仏像を 彫り続けた、偉大な彫刻家としても知られています。
---木喰上人の最高傑作---
北海道、佐賀、新潟、静岡、山口、宮崎、木喰上人が彫った仏像は 全国各地に残されています。それは木喰明満が歩いた道に、点々と 足跡のように付いてまわっています。しかし、そのおびただしい数の木喰上人作の仏像の中でも、最高傑作だとされているのが、 ここ八木の清源寺、十六羅漢像です。

1.清源寺前景
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2.駒札
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3.境内
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4.羅漢堂(木喰上人が彫り上げた木造の十六羅漢像や 釈迦像が収められている、)
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5.本堂への山門
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6.見事な本堂(住職様不在で残念ながら木喰上人が彫り上げた木造の十六羅漢像見れず!)
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7.見事な境内と庭園
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8.16羅漢像の一つ「阿氏多尊」(木喰自身の像)をお借りしてきました!
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2018/2/15

京丹波を見る!2−3.臨済宗の古刹・龍興寺!  文化財研修記

竜興寺(りょうこうじ)は臨済宗妙心寺派の寺院で、南丹市八木町に位置しています。JR山陰線八木駅より徒歩数分のところです。開山は義天玄詔(1393−1462)で、開基は応仁の乱で悪名高い細川勝元(1430−73)でご本尊は釈迦如来です。この竜興寺は京都市右京区の竜安寺、亀岡市の竜潭寺とともに「京都三竜寺」と称されています。 竜興寺の開山は義天玄詔です。以降、初期妙心寺派祖師の基本的伝記である『正法山六祖伝』竜安義天詔禅師伝によって記述してみます。 義天玄詔は土佐国(現高知県)出身で、俗姓は蘇我氏。大化の改新の契機となった政変である乙巳の変(645)で殺害された蘇我入鹿の後裔と伝えられる。『正法山誌』第6巻、古今紀談には、軍記物語『曾我物語』で有名な曾我兄弟の五郎時宗(時致)の孫とする。それによると曾我兄弟が父の仇(工藤祐経)を討ち取った際に、助成は戦死し、時宗(時致)は生捕りにされて由比浜で斬られようとしたところ、源頼朝がその義勇を惜しんで死一等をゆるし、曾我兄弟を助成した箱根別当にあたえて土佐に配流したという。その曾我時宗(時致)の子孫が義天玄詔なのであるという。しかし実際には建久4年(1193)5月29日に工藤祐経の子犬房丸に引き渡されて斬首されており、土佐国の配流は確認できない。義天玄詔は寛正3年(1462)に70歳で示寂していることから逆算すると、1393年誕生ということになる。父は生まれた子を「王法師」と名付けた。現在からみると奇妙な名であるが、昔日本では小児を名づけて○△法師と名付ける習慣があった。応永14年(1407)、15歳の時に土佐国天忠寺の義山和尚によって剃髪し、応永17年(1410)18歳で得度し、海を渡って京に上った。なお義天玄詔の法諱である玄詔は、当初は明詔であったが後に玄承と改め、晩年に自ら玄詔としたが、混乱を避けるため特に明記しない限り「義天玄詔」とする。 建仁寺に掛搭し、同寺の開山塔である護国院にあって侍客(住持の内客を掌る)となり、やがて侍香に転じた。建仁寺に孤芳阿菊が住山したとき、蔵主となり、結制秉払した。この時に細川満元は法筵にのぞんで楽聞していたが、義天玄詔をみて周囲に「わが州のさいわいなり」と称賛したという。この孤芳阿菊は古芳阿菊ともいい、夢想疎石の法嗣龍湫周沢(1308〜88)の弟子であり、華徳院に住しており、建仁寺第107世住持となったという(『扶桑五山記』4、建仁寺住持位次)。義天玄詔はこの時まで五山派に属していたことが窺える。 その後、義天玄詔は南禅寺福聚院の舂夫宗宿のもとで学んだが、2年後に去った。舂夫宗宿は不昧子と号し、無因宗因に印信を受けた。筑前国の崇福寺に住み、南禅寺の福聚院に戻っており(『延宝伝灯録』巻第28、筑前州崇福舂夫宗宿禅師伝)は、ここではじめて関山派の法を学んだのである。

1.竜興寺の標柱と山門を見る!牡丹はつぼみです!
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2.名高い竜興寺の梅林!まだつぼみです!
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3.山門
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4.見事な梅林と境内
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5.見事な鐘楼(南丹市指定文化財)
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6.本堂への参道
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7.見事な本堂
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8.見事な本堂前の庭園
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8.鐘楼を振り返って見る!
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9、鐘楼の駒札
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2018/2/11

京丹波を見る!2−2.南丹市八木町の古社・春日神社!  文化財研修記

京都府南市八木町八木内山3−3には天児屋根命(あめのこやねのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、建御雷命(たけみかづちのみこと)、狭依毘売命(さよりひめのみこと)を祀る春日神社(かすがじんじゃ)がある。承平5年(935)に大和の春日神社を勧請して創建と伝わります。祭神は春日四柱。境内には創建950年紀念碑が建てられています。旧社格は村社。通称本郷地区に鎮座します。境内は広く、本殿は拝殿一体型となった覆屋の中に祀られています。正面鳥居が2つあり、2本の参道が平行につけられています。旧参道と新参道ということなのかも知れません。境内社は天満宮、八幡宮、住吉神社、皇大神宮、西宮恵比寿神社、厳島神社、岩神社、賽神社、稲荷神社などです。またこの神社に車を駐車して、内藤ジュアン所縁の八木城跡へ登ることが出来ます。

1.春日神社の標柱
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2.春日神社の正面の鳥居
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3.手水舎
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4.境内の石灯篭
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5.摂社の厳島神社
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6.摂社の天満宮
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7.絵馬で飾られた舞殿
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8.拝殿
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9.阿形の狛犬
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10.吽形の狛犬
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11.見事な拝殿をアップで見る!
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12.拝殿内陣
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13.本殿を右側から見る!
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2018/2/7

京丹波を見る!2の1.丹波国三大城郭の一つ八木城!  文化財研修記

八木城(やぎじょう)は京都府南丹市八木町八木および亀岡市宮前町神前周辺にあった城です。内藤ジョアンゆかりの城としても有名である。丹波国三大城郭のひとつで、黒井城、八上城そして八木城が数えられている。JR西日本八木駅の南西にある、城山(標高344メートル)にある複合梯格式の山城である。城郭施設の広さは広大で、山頂部に本丸、支尾根筋にも多数の曲輪などの防御施設が築かれている。現在でも、本丸、天守台、石垣といった遺構が地表面から確認できる。ただ、沿革についてはよく解っていない点が多い。八木城の記載されている史料は多く、『太閤記』『明智軍記』『丹波風土記』『丹波興廃記』『籾井家日記』『内藤盛衰記』『八木町誌』等があるが、『日本城郭大系』によるとこれらの史料は原史料の十分な考察がされないまま引用され、それらが更に孫引用され誤りが多いのではないかとされている。また、丹波守護細川氏の守護代をつとめた内藤氏の居城であった他は、その存続期間や城主の系譜については明確でない点が多く、八木城は有名な山城ではあるが、不明な点も多い。元弘3年(1333)足利尊氏が丹波篠村八幡宮での挙兵に応じた内藤顕勝(定房とも)が戦功により船井郡を与えられ建武2年(1335)に八木に入ったのが築城の始まりとされる。明徳3年(1392年)、細川頼元が丹波守護に任命されると、管領として在京を常とする細川氏に代わり内藤氏がこの城を守の護所として丹波を治めた。内藤ジョアンも一時この城の城主でした。


1.城山(344メートル)を見る!
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2.内藤ジョアン顕彰碑
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3.八木城への登山口
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4.本丸虎口
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5.本丸土塁
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6.本丸跡
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7.屋敷曲輪跡
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8.東の曲輪跡
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9.八木城跡から南丹市八木町を展望する!
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2018/2/4

京丹波を見る!(最終回)37.織田信長公のお墓のある聖隣寺!  文化財研修記

京都府亀岡市東堅町には臨済宗天竜寺派の聖隣寺(せいりんじ)があります。お寺の角に毘沙門堂があり、鎌倉時代後期の作といわれる毘沙門天立像が安置されています。丹波国分寺の守護として祀られていた毘沙門天立像を、明智光秀が亀山城を築城した際に城の鎮守のため城内に移し、その後、羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が城主を務めた頃に、ここ聖隣寺に安置したものです。当時は聖隣庵といったようです。毎年6月の第1日曜日に毘沙門天祭が行われます。聖隣寺境内の墓地に「総見院殿」と彫られた五輪塔があります。「総見院」は織田信長の院号です。なぜ、明智光秀が築いた亀山城下に信長の墓があるのか不思議ですが、本能寺で信長を討った光秀の後に亀山城主となったのは、信長の四男で羽柴秀吉の養子となった羽柴秀勝で、父の供養のためこの聖隣寺に供養塔を建てたということです。6月2日の命日に合わせ毘沙門天祭と一緒に信長公忌が営まれます。

1.聖隣寺の山門と標柱
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2.駒札
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3.山門から本堂へ
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4.織田信長公供養塔
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5.聖隣寺横にある毘沙門堂


6.毘沙門天立像
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2018/2/1

京丹波を見る!36.時の藩主家菅沼氏の菩提寺・曹洞宗の宗堅寺!  綾部の文化財

京都府亀岡市西堅町には曹洞宗で時の亀山藩主家菅沼氏の菩提寺の宗堅寺(そうけんじ)がある。亀岡の地名は、1869年三重県亀山と混同しやすいという理由から亀岡と改名されている。明治維新までは、三重県亀山を伊勢亀山、こちらの亀山を丹波亀山と呼んでいた。丹波亀山の礎を築いたのは、丹波亀山城を築いた明智光秀であり、現在でも亀岡市では明智光秀が亀岡の最大の功労者である。江戸時代になって、丹波亀山藩の藩主は重く交代しており、9家が藩主になっている。その中で、1634〜1648年間に藩主であった菅沼家の菩提寺で寺名:宗堅寺(そうけんじ)住所:京都府亀岡市西堅町65、山号:幸雲山 、宗派:曹洞宗、開創:1489年 、ご本尊:聖観音、その他1)如意輪観音坐像は京都府指定文化財です。宗堅寺は、1489年長徳寺として開創されたのが始まりと伝えられ、小早川秀秋が丹波亀山城主であった1592年子供の菩提を弔うために亀山5ヶ寺に帰依している。

1.山門と標柱
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2.駒札
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3.見事な境内
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4.見事な本堂
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5.見事な境内一部
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