2018/1/29

京丹波を見る!35.亀山藩主菅沼定芳公の母上が創建した嶺樹院!  文化財研修記

京都府亀岡市西堅町には慶長8年(1603)時の藩主菅沼定芳公の母上が先祖の菩提を弔うためにを建立した曹洞宗の大亀山・嶺樹院(れいじゅいん)があります。寺名は母上の戒名である嶺樹院殿恵光惣智大姉から嶺樹院と称することになりました。

1.見事な山門と標柱
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2.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます!ひとくちコラムも読んで下さい!)
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3.見事な山門
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4.見事な本堂
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5.見事な境内
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2018/1/26

京丹波を見る!34.小早川秀秋寄進の5箇所寺の一つ大圓寺!  文化財研修記

京都府亀岡市西町にあ尊る大圓寺(大円寺)は、正式には「鏡智山瑞雲院大圓寺」という浄土宗知恩院派の寺院で、本堂に本阿弥陀如来像を祀ります。大圓寺(大円寺)は、天文22年(1254)9月、室町幕府の第13将軍・足利義輝の外護を受けた、専譽周公(専譽秀光 せんよしゅうこう)上人によって創建されました。創建当初は、保津川の北に建てられ、学問所としての性格を備えていたということです。その後、明智光秀が亀山城を中心とした城下町を形成するにあたり、城下の西、穴太道の要衝となる現在地に移されました。また、小早川秀秋が文禄4年(1595)に米2石を寄進した五箇寺の一つでもあるということです。その後、寛永20年(1643)と元禄12年(1699)の2回の火災に遭って焼失再建を繰り返し、現在の本堂や山門は、宝永7年(1710)に再建されたものです。元々亀山城の天守付近に祭られていたんだそうです。本堂の本阿弥陀如来像は関西でも珍しい仏像なのだと言われています。

1.山門
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2.駒札
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3.見事な本堂を見る!
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4.見事な境内
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5.塀越に五重の塔を見る!
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6.亀山城の外堀であった穴太口はこの大圓寺の横にあります!
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2018/1/23

京丹波を見る!33.亀山藩主青山氏が浜松から勧請した火伏の神・秋葉神社!  文化財研修記

紺屋町には元禄15年(1702)に、遠江浜松藩から丹波亀山藩に移封されて三代に渡ってこの地を支配し、形原松平家と領地を交換する形で丹波篠山に移った青山家ゆかりの秋葉神社(あきばじんじゃ)がある。丹波亀山藩の青山氏といっても、どうもイメージが湧きそうにありません!この機会に、明智光秀が亀山城を築いたあたりから、少し近世の丹波亀山の歴代領主について確認してみます。戦国時代末期、亀山地域(現京都府亀岡市)では、波多野氏をはじめとする諸豪族が攻防を繰り返していましたが、天正5年(1577)に、織田信長が明智光秀を派遣して丹波攻略を進めました。そして、天正7年(1579)に波多野氏を滅ぼすことに成功した光秀は、信長から丹波一国を与えられました。その後、天正10年(1582)に、本能寺の変を起こした光秀が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に滅ぼされると、秀吉は、信長の4男で秀吉の養子となっていた、羽柴秀勝に丹波亀山を与えます。しかし、秀勝は天正13年(1585)に病死し、秀吉の甥で同名の羽柴秀勝(豊臣秀勝)が代わって丹波に入ります。その後、天正18年(1590)に、秀勝の甲斐国転封によって、秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が、丹波亀山を与えられました。そして、文禄4年(1595)、小早川秀秋(前年に小早川家の養子となりました)が、隠居した養父隆景の九州北部の領地を継承すると、豊臣5奉行として知られる前田玄以が亀山5万石を領有しました。こうして、近世丹波亀山藩は前田家によって始まりました。しかし、慶長七年(1602)に玄以が死去すると、藩を継承した子の茂勝は、丹波八上藩に移封され、僅か2年で丹波亀山藩は幕府の天領となりました。その後、慶長14年(1609)に譜代大名の岡部長盛が下総山崎藩から3万2千石で移封され(以後、幕末まで譜代大名が続きます。)、再び丹波亀山藩が誕生しましたが、大阪の陣で功績を挙げた長盛は、慶長二十年(1615)に丹波福知山藩へ加増移封されます。代わって、元和7年(1621)、三河西尾藩より大給松平家の松平成重が2万2千石で移封され、寛永10年(1633)の成重の死後は、二代忠昭が継承しますが、翌寛永11年(1634)に豊後亀川藩に移封されます。その後、近江膳所藩から菅沼定芳が4万1千石で移封され、寛永20年(1643)の定芳の死去後は、二代定昭が継承しますが、慶安元年(1648)に定昭が若くして嗣子無く死去したことから改易となります。代わって藤井松平家の松平忠晴が3万8千石で移封され、二代忠昭を経て、貞享3年(1686)三代忠周が武蔵岩槻藩へ移封されるまで続きます。貞享3年(1686)、久世重之が備中庭瀬藩より5万石で移封されますが、元禄10年(1697)に三河吉田藩へ移封となり、美濃郡上藩より井上正岑が4万7千石で移封されますが、元禄15年(1702)に、常陸下館藩へ移封されます。さらに、遠江浜松藩から青山忠重が5万石で移封され、二代俊春を経て、三代忠朝が寛延2年(1749)に丹波篠山藩へ移封されるまで続きます。そして、代わって形原松平家の松平信岑が丹波篠山藩から5万石で移封されて来ると、その後は、信直、信道、信彰、信志、信豪、信義、信正の8代123年に渡って形原松平家が亀山藩を継承し幕末に至りました。

1.紺屋町の秋葉神社
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2.駒札(秋葉神社については画像をクリックっすると拡大して読めます。)
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3.秋葉神社をアップで見ます!
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4.拝殿内陣
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5.素朴な紅葉を神社の外から見ます!
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2018/1/20

京丹波を見る!32.形原松平家の奥方の菩提寺の円通寺!  文化財研修記

京都府亀岡市紺屋町には曹洞宗で亀山城主の奥方の菩提寺の葉屋山・円通寺(えんつうじ)がある。江戸時代の寛延元年(1748)から幕末まで、丹波亀山藩(現京都府亀岡市)は、八代に渡って形原松平家(かたはらまつだいらけ)が継承しましたが、今回はこの形原松平家ゆかりの寺院です。形原松平家(かたはらまつだいらけ)は、室町時代の三河の豪族、松平信光(後に徳川家康を登場させる松平宗家の第3代とされます)の4男・松平与副を祖とする松平氏の庶流で、当初、三河国宝飯郡形原(愛知県蒲郡市形原)を領したことから形原松平家と呼ばれます。4代家広、5代家忠の時代に、宗家の徳川家康に仕えて功をあげ、その子の6代家信は、元和4年(1618)に、形原藩1万石の大名となり、その後、摂津国高槻藩2万石、下総国佐倉藩4万石へと移封しました。その後、佐倉藩を継承した7代の康信が、摂津国高槻藩を経て、慶安2年(1649)に、丹波篠山藩5万石の藩主となりました。その後、典信、信利、信庸(信利弟)を経て、信岑(丹波篠山藩形原松平家五代)が、享保の大飢饉で苦しむ領民に重税を課すという失政を行って、寛延元年(1748)に丹波亀山藩5万1千石に移封されます。以降、幕末まで丹波亀山は形原松平家が八代に渡って領有しました。形原松平家藩主の菩提寺としては、亀山城跡の東にある光忠寺(京都府亀岡市古世町北古世町)が有名で、6代家信以降の歴代藩主の墓がありますが、今回採り上げた円通寺は、亀山城跡の西に位置し、藩主の奥方の菩提寺になります。大永2年(1523)、勅諡法輝円明(ちょくしほうきえん)禅師、白洲巌龍(しらすがんりゅう)大和尚を開山として招請し、形原松平家の奥方の菩提寺として創建されました。(開基については、藩主の正室側室等々諸説あるようです。)創建当時は、まだ形原松平家は三河国(愛知県西部)の小豪族に過ぎませんでしたが、その後、徳川家康に使えて松平家が大名になると、藩主の菩提寺である光忠寺と共に、松平氏の国替えに伴って、三河国形原、摂津国高槻、下総国佐倉、摂津国高槻、丹波篠山、丹波亀山へと再三移転を繰り返しました。寛延元年(1748)の丹波篠山からこの丹波亀山(亀岡市)への移転の際は、当初は本町の寿仙院(円通寺の東)のある場所に移されましたが、寛政元年(1789)に、穴太道の要衝である亀山城の西の現在地に移りました。

1.見事な山門
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2.駒札
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3.山門から本堂を見る!
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4.見事な本堂
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5.もう一度見事な土塀から本堂を見る!
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2018/1/17

京丹波を見る!31.法華宗の名刹・本門寺!  綾部の文化財

京都府亀岡市本町62には法華宗の名刹・誇林山・本門寺(ほんもんじ)がある。本門寺は、1308年日蓮聖人の弟子・日弁が藤原定家の末孫・日寿を折伏し、藤原定家の旧邸を寺として開創したと伝えられている。応仁の乱後の1493年、本門寺は現在の亀岡市稗田野町に移転したといわれている。1600年丹波亀山藩主となった前田玄以が現在地に移している。その時、本門寺は分家して一つは京都へ戻り、現在の宥清寺となっている。本門寺に祀られている鷲大明神は日蓮聖人由縁の明神で、東京鷲神社から勧請されている。

1.本門寺の見事な山門
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2.駒札
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3.山門から境内を見る!
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4.見事な本堂と開祖・日蓮上人像
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5.境内の紅葉
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2018/1/14

京丹波を見る!30.小早川秀秋公が城主の時、息子の一存の為に米2石を寄進した五箇寺の一つ壽仙院!  文化財研修記

京都府亀岡市本町64には浄土宗霊松山・壽仙院(じゅせんいん)があります。元亀3年(1572)、霊松山浄土寺として創建されたと伝えますが詳細は不明です。明智光秀が厚く帰依した大誉春光和尚(だいよしゅんこうおしょう)を中興開山として亀山城の本丸の地にあり、天正20年(1592)小早川秀秋が息子の一存の菩提を弔うために米二石を寄進した五箇寺の一つとして寺名が壽仙院と改称されました。さらに亀山城主前田徳善院玄以(まえだとくぜんいんげんい)の時、現在地に移されました。境内の裏には元福知山城主の小野木公知(おのぎきんとも)(重勝)の墓があります。公知は豊臣秀吉の大母衣衆(おおほろしゅう)として活躍し、関ヶ原の合戦では西軍に属して丹後の田辺城を占領しましたが、石田三成方の敗戦により細川忠興に城を包囲され、助命と所領安堵を条件に降伏しました。しかし条件が果たされないまま慶長5年(1600)、当寺で自害をして果てました。

1.壽仙院の駒札
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2.本堂
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3.境内
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2018/1/11

京丹波を見る!29.小早川秀秋公が亀山城主の頃創建した法華寺!  文化財研修記

京都府亀岡市本町67には日蓮宗の法華寺(ほっけじ)があります。丹波亀山城主・小早川秀秋の保護を受けて現在地に移されました。城下の寺院本堂の中で最も古く、本堂に祀られている高祖日蓮上人像は、身延山日号上人の作と伝えられます。また、山門脇には本町妙見堂(元妙見)が鎮座しています。

1.法華寺の山門と見事な標柱
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2.山門から本堂を見ます!
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3.見事な本堂です!
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4.境内とお堂
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5.山門脇の本町妙見堂
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2018/1/8

京丹波を見る!28.浄土真宗本願寺派(西本願寺)の名刹・誓顕寺!  文化財研修記

京都府亀岡市塩屋町には豪族有馬則秀が開祖の浄土真宗本願寺派の名刹・誓顕寺(せいけんじ)がある。創建400年を得ている見事な寺です。 境内には亀山藩を代表する文人として知られる、軽森野楊(かるもりやよう)のお墓があります。 軽森野楊は亀山藩士で、松尾芭蕉の十哲の一人である榎本其角の俳風を亀山に伝えるのに活躍した人物。 参勤交代の道中や江戸において俳諧の人々と交流し、 なんと当時の俳壇において”日本の三俳人”の一人にあげられています。

1.誓顕寺の山門と標柱
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2.標柱をアップで見る!
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3.駒札
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4.見事な本堂を見る!
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2018/1/5

京丹波を見る!27.織田信長公の叔父が開基の浄土宗の專念寺!  文化財研修記

京都府亀岡市塩屋町には、天正2年(1574)、玉蓮を開基として創建され、寺号も玉蓮寺と呼ばれました。その後、織田信長の外護を受けて、黒谷金戒光明寺(くろだにこんかいこうみょうじ)の二十一世を勤めていた信長の叔父でもあった源蓮社性譽上人(げんれんしゃしょうよしょうにん)あ、天正4年(1576)10月に金戒光明寺の仏を遷座して本尊として里人の教化に努められたことから、性譽上人を開山としています。天正20年(1592)には、亀山城主小早川秀秋から2石の寄進を受けた亀山五箇寺の一つに列しました。寛文10年(1670)には、亀山藩主大給松平忠昭の菩提寺となり寺領20石の寄進を受けて以後、歴代藩主の庇護を受けました。さらに、城下に起こった大火の類焼により堂宇が焼失しましたが、貞享4年(1687)に、藩主久世出雲守重之(くぜいずものかみしげゆき)から木材の寄進を受けて七間四面の堂宇が再建されました。又、本堂には徳川二代秀忠、三代家光、四代家綱の三代にわたる将軍の位牌を安置し祀っていることから、その供養料として歴代亀山藩主から、領内の下矢田村の御高より20石の寄進を受けました。このように、当寺は、歴代城主や藩主の庇護を受けた由緒ある寺院の一つです。

1.塩屋町通りの駒札
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2.專念寺の標柱
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3.專念寺の駒札
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4.見事な山門
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5.見事な境内と庭園
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6.境内庭園2.
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7.見事な本堂
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2018/1/2

京丹波を見る!26.真宗大谷派の名刹の正誓寺!  文化財研修記

京都府亀岡市矢田町22番地で城址のお土居の中には真宗大谷派の名刹の平等山・正誓寺(しょうせいじ)がある。天正6年(1578)に行信坊教善を開基として、中矢田久保の地に建立されました。その後、亀山城下の整備に際して、大手門から南へ2町のところ、御土居の内側にあたる現在地に移転した。現在の本堂は大棟に上げられた鬼瓦銘により宗祖親鸞聖人の500回忌にあたる宝暦11年(1761)に建造されたものと考えられます。しかし、内陣仏壇の格子に描かれた牡丹や唐獅子の絵や欄間の大振りな彫刻、かって装置されていた火頭窓等の意匠から、桃山時代の余韻を残した元和9年(1622)頃に建てられた前身本堂の部材を再利用して建立されたものと考えられます。(お寺の駒札より抜粋掲載)

1.正誓寺山門
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2.山門から本堂と境内を見る!
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3.駒札
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4.見事な境内と十三重の石塔
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5.見事な本堂
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6.すぐ横に「亀岡祭りの難波山の鉾蔵」があります。
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7.鉾蔵の説明
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8.矢田町の説明
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