2017/5/30

京を見る!19.市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)田心姫命、湍津姫命を祀る繁昌神社!  文化財研修記

京都市下京区高辻通室町西入る繁昌町には弁財天を祭神としており、市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)田心姫命(タキリビメ)湍津姫命(タギツヒメ)を祀る繁昌神社(はんじょうじんじゃ)がある。旧称は班女神社(はんにょじんじゃ)。繁昌の宮(はんじょうのみや)、京の弁財天、班女ノ社(はんにょのやしろ)とも。全国で唯一の商売繁昌についての神社であり、その他には家内安全、諸芸成就、良縁成就のご利益があるとされる。綾部市の新熊野神社境内にある繁昌神社は此処ら勧請したのです。
清和天皇の御代(858〜876)、藤原繁成の邸宅の庭に功徳池(くどくいけ)という池があった。延喜年間(901年-922年)、安芸国の宮島から市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命の三神を功徳池の中島に勧請したのが繁昌神社の起源である。13世紀前半に成立した『宇治拾遺物語』巻35には、長門前司の娘の葬送をめぐる怪異譚として繁昌神社の前身社が登場し、これが文献による繁昌神社の初出である。文明9年(1477)に作成された『八坂神社文書』の一部にも繁昌神社らしき社の記載があり、応仁の乱から遠くない時期に、繁昌神社が堀などをともなって存在していたことを知ることができる。文禄2年(1593)の書き上げには「はんちよ町」という記載がある。17世紀後半に記された地誌『雍州府志』には、豊臣秀吉が社殿を東山五条の佐女牛八番宮社(若宮八幡宮社)近くに移そうとしたが、祟りがあったとして現在地に戻されたことが記されている。元治元年(1864)、禁門の変(蛤御門の変)に付随して起こった大火どんどん焼けでは、繁昌神社の社殿も焼失した。祭神としていた弁財天は仏教色が強く、近代の神仏分離の際には市杵嶋姫命を祭神とするようになった。江戸時代には真言宗の寺院によって管理され、功徳院と呼ばれていたが、神仏分離の際に現在の神社となった。かつては班女神社(はんにょじんじゃ)と呼ばれていたが、いつしか訛って繁昌神社(はんじょうじんじゃ)と呼ばれるようになったという。18世紀になると周辺が繁昌町と呼ばれるようになり、現在でも下京区繁昌町という地名として残っている。

1.繁昌神社とその鳥居
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2.駒札
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3.拝殿を正面から見る!
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4.拝殿内陣を見る!
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5.拝殿の扁額を見る!
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2017/5/28

綾部バラ園、福知山の古刹・金光寺、第8回夜久野高原手づくり市を見る!  文化財研修記

5月28日(日)朝8:50に満開の綾部バラ園を見て、福知山市の三岳山は、平安時代には比叡山末寺の蔵王権現を祀る修験場として開かれました。此処にある高野山真言宗の金光寺(きんこうじ)の見事な不動堂は多くの山伏が修行をしていたことを証明しています。しかし、戦国時代、織田信長と比叡山の対立のため、明智光秀などの手によって焼き討ちにあうなど大きな打撃を受けたようです。三岳山周辺には、路傍の石仏も修験道にかかわる不思議な姿をしたものがあり、平安時代にさかのぼる仏像が村々の小さなお堂に残され、当時の繁栄が偲ばれます。金光寺は、三岳山修験の中心であった寺院です。山腹に開かれた寺院は、修験場であった当時をしのばせるものです。その後、第8回夜久野高原手づくり市を見学、お好みの「たこ焼き」を昼食としました。

1.満開の綾部バラ園(入場料、駐車料は無料です!)
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2.満開の見事なバラのアーチ
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3.見事なバラ
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4.福知山市三岳(みたけ)地区にある高野山真言宗の金光寺の標柱
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5.駐車場にある福知山朽木初代藩主朽木稙晟の歌碑!(下の句は「けさぞみたけの山ははつ雪」です。)
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6.福知山市教育委員会の駒札
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7.巨大なタブの木と不動堂
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8.不動堂
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9.不動堂内部を覗いて見ました!
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10.不動堂を斜めから見る!
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11.不動堂からの遠望!
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12.本堂を見る!
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13.本堂前の庭園の一部
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14.もの凄い人での福知山市の「第8回夜久野高原手づくり市」です!
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15.昼食用に食べた7個500円のたこ焼きは濃いい味だが美味かった!
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16.8回連続出店の「綾部の竹炭工房伝徳」です。家内も竹炭買っていましたよ!
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2017/5/28

京を見る!18.弘法大師が開基したという五条天神社(天使の宮)!  文化財研修記

京都市下京区松原通西当洞院天神町には弘法大師(空海)が開基したという五條天神社(ごじょうてんじんしゃ)がある。通称は「天使の宮」「天使社」と称し、後鳥羽上皇時代に「五條天神宮」へ改称された。社号の五條は、当社北側にある松原通がかつて五条通と呼ばれていたことに由来する。なお、社号の天神と菅原道真とは直接の関連はないが、境内社として筑紫天満宮があり、道真が祀られている。社伝によれば、創建は延暦13年(794)、平安京遷都の折、空海が勧請したとされる]。病気退散のため社前に靭(ゆき)を掲げて祈願し、室町時代以降は疫神、医道の祖神とされた。また伝教・弘法の両大師も唐への出発前、当社において無事帰国を祈願している。『義経記』では、一条堀川に住む陰陽師・鬼一法眼の謀略で源義経が北白川の印地大将・湛海と闘う場として当社が設定されており、また武蔵坊弁慶出生や義経・弁慶の出会いに深く関わる神社として登場する。『祇園社記』によれば、久寿年間(1154年 - 1156年)等の一時期には、祇園社(のちの八坂神社)の末社であったとされている。主祭神は少彦名命(すくなびこなのみこと)、配祀は大巳貴命(おおなむぢのみこと)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)。例祭には厄祓けに訪れる参詣者が多い。また節分には宝船図が授与される。この古図は日本最古のものとされ、船に稲穂を一束乗せただけの簡素なものです。

1.五条天神社と標柱
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2.駒札
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3.見事な拝殿
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4.拝殿をアップで見る!
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5.拝殿の内陣を通して本殿を見る!
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6.本殿の扁額
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7.摂社の筑紫天満宮
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8.多くの摂社群
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2017/5/26

京を見る!17.親鸞上人入滅の地碑!  文化財研修記

京都市下京区松原通(旧五条通)西洞院東入る藪下町にある光圓寺の門前にあり、石碑に「五條西洞院月輪本荘 親鸞聖人御入滅之地 花園殿旧跡」と陰刻されています。 『御伝鈔』「熊野霊告」に、「(親鸞聖人は)五條西洞院わたり、これ一つの勝地なりとて、しばらく居を占めたまふ」とあります。 弘長2年(1262)11月28日親鸞聖人はこの地で亡くなり、亡骸は押小路ノ南、万里小路東の地(中京区柳馬場押小路下る虎石町)にあった善法坊に移されたと伝えられています。 入滅地、善法坊は富小路通三条であったともいわれています。享年90歳。
聖人存命のころのこと、仁治元年(1240)2月常陸国(茨城県)那珂西郡大部郷の住人平太郎という人が、熊野参詣の途中、五條西洞院に住む親鸞聖人のもとを訪ね、熊野詣での是非について訊ねた、とあります。

1.光圓寺(こうえんじ)山門
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2.「親鸞聖人御入滅之地 花園殿旧跡」の碑
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3.光圓寺の駒札
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4.本堂
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5.同上
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2017/5/24

京を見る!16.猿田彦命と天鈿女命を祀る恋のパワースポット松原・道祖神社!  文化財研修記

京都市下京区烏丸松原西入玉津島町にある新玉津島神社から、さらに西の新町通の角には祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀る道祖神社(どうそじんじゃ)があります。猿田彦命はニニギノミコトの天孫降臨のときの道案内役でした。だから道の神、旅人の神様とされます。 天鈿女命は天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったときに踊りを踊って誘い出した芸能の神様です。ふたりの神様はその後結ばれたということで、縁結びや子孫繁栄の祈願の対象ともなりました。この辺りは江戸時代までは市場や集落があり、人の往来の多いにぎやかな場所だったそうです。亀山稲荷神社を参拝して、更に西の新町通りの角に道祖神社(どうそじんじゃ)があり今や恋のパワースポットで人気がでています。

1.松原・道祖神社
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2.駒札
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3.松原・道祖神社の扁額が掲げられている鳥居!
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4.拝殿
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5.拝殿をアップで見る!
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2017/5/22

京を見る!15.丹波国の亀山藩京都屋敷跡に建つ亀山稲荷神社!  文化財研修記

京都市下京区松原通室町西入中野之町には、露地奥に小さな稲荷神社が祀られています。この地は、丹波国亀山藩の京都藩邸の跡地で、この神社はその藩邸に祀られていた稲荷神でした。たいへん小さな神社ですが、参道入り口には 「丹波国亀山藩京屋敷跡」の石標が立ち、意外と目立っている印象です。下京区の多くの小さな神社は情報も非常に少ないのですが、今回の亀山稲荷神社に関しては、中野之町が掲示板を立てているので、全文を引用させてもらいます。
「この中野之町付近には、江戸前期、芸州広島藩42万石の浅野氏松平安芸守の京屋敷がありました。屋敷は間口十一間、奥行三十間あったということです。その後、享保十五年(1730)頃、丹波篠山藩5万石の形原(かたはら)松平紀伊守信岑(のぶみね)の京屋敷となりました。信岑は寛延元年(1748)に丹波亀山藩5万石に転封され、以降歴代亀山藩主は幕府の要職に就いて、また京都火消役にもなり譜代大名として京都監視の重責を勤めました。そして、幕末の慶応3年(1867)には京都市中取締役を努め、明治3年(1869)の版籍奉還で、藩名を亀岡と改称しました。 明治3年(1870)2月にこの京屋敷は民有地となり、明治7年(1874)には、この京屋敷三棟は火事(稲荷焼)で類焼した修徳小学校(下京区新町通万寿寺上るにあった下京第14番組小学校 平成4年(1992)に廃校)の仮校舎にも使用され、明治25年(1892)の京都市第二高等小学校校舎の建設時まで存続したということです。」
 この亀山藩京都松原邸の鎮守神として祀られていたのが亀山稲荷で、祭神は白瀧大明神(しらたきだいみょうじん)と花月大明神(かげつだいみょうじん)になります。かつては各々の祭神の2つの祠があり、江戸時代以来、周辺地の人々から尊崇され、亀山講もあったと伝えられます。そして、明治時代以降は、この地の中野之町が維持管理していて、大正5年(1916)の旧亀岡藩士族有志の碑も残っているということです。現在も、正月祭や初午祭、火焚祭が執行されていて、諸厄除災、商売繁昌、家庭円満のご利益があるとして地域の信仰を集めているようです。 

1.駒札
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2.丹波国亀藩京都屋敷跡碑
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3.正面が亀山稲荷神社で朱の鳥居が目立ちます!
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4.亀山稲荷神社で祀っている白龍大明神、花月大明神の碑も両側にあります。
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5.亀山稲荷神社
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6.正面から参拝します!
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7.アップで見ます!
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2017/5/20

京を見る!14.平安時代の著名なる歌人・藤原俊成所縁の新玉津島神社!  文化財研修記

京都市下京区烏丸通松原西入ル玉津島町32には平安時代末期の著名なる藤原俊成(ふじわらとしなり)所縁の新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)がある。新玉津島神社は、平安時代末期〜鎌倉時代初期を代表する歌人の藤原俊成のゆかりの神社です。1186年に、玉津島神社に祀られている和歌の神様の衣通郎姫(そとおしのいらつめ)の分霊を、藤原俊成が自邸内に勧請したのが始まりです。1183年に後白河法皇の院宣により藤原俊成は、この邸宅を和歌所とし、「千載和歌集」を編纂し始めました。江戸時代には、松尾芭蕉の師である北村季注が、約七年間この神社の宮司として住み、万葉集の注釈書の編纂に励みました。
これらの由縁から今も多くの人が短歌、俳句、文章の上達祈願に訪れています。

1.駒札
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2.木造の鳥居と新玉津島神社
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3.境内社の天満宮と秋葉神社
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4.拝殿を正面から見る!
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5.拝殿をアップで見る!
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6.本殿を右側から斜めに見る!
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2017/5/18

京を見る!13.平安時代の歌人・藤原俊成を祀る俊成社!  文化財研修記

京都市下京区烏丸松原東側に藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい・としなり)永久2年(1114)〜元久元年(1204)の邸宅跡に俊成社(しんぜいしゃ)がある。平安時代後期〜鎌倉時代初期の官人・歌人。 藤原俊忠の子。藤原定家の父。幼い時に父と死別、民部卿顕頼の養子となり名を顕廣といったが54歳の時に俊成と改名。63歳の時に出家し、法名・釋阿。
 後白河法皇の院宣を奉じて、文治3年(1187)『千載和歌集』を撰集。従三位皇太后宮大夫に至る。
百人一首に以下の歌が収められている。

 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
      山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

                 皇太后宮大夫俊成

勅撰集に415首入集されている平安時代末期の代表的歌人です。

1.俊成社
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2.駒札
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3.アップで見る!
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4.同上
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2017/5/17

綾部水源の里・老富(おいとみ)の見事なシャガの群生と山の神・市茅野杉を見る!  綾部の文化財

5月17日(水)午後、家内の運転で綾部市奥上林(おくかんばやし)にある水源の里・老富(おいとみ)のシャガ(射干、緒莪、胡蝶花)の見事な群生と山の神さん市茅野杉(いちかやすぎ)の群生を見に行ってきた!我が家にもシャガがあり毎年10数本が庭の塀沿いに白い花を約3週間咲かせます。それに比べて老富のシャガや市茅野杉の神様さんと呼ばれる杉の原木は見事なものであった。

1.パンフレットの1.
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2.パンフレットの2.老富(おいとみ)はJR綾部駅から車で1時間(福井県境)にあります。
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3.第2のパンフレットの「赤マーク」がシャガの群生地であり、第2駐車場(臨時駐車場)に
  車を置き、徒歩10分〜一番奥の森の広場へは約15分です!駐車場の旗!
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4.見事な盆栽を多数庭に展示されている家を右手に見る!
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5.市茅野杉(いちかやすぎ)と背後のシャガの群生を見る!
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6.同上
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7.下記をクリックして、「動画」でシャガの群生と市茅野杉を見て下さい!
https://youtu.be/9kodK0iXaOE


8.山の神さん「市茅野杉」の母樹です!祀られています!
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9.駒札
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10.更に奥へ登って行きます!
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11.ミツマタの群生の木は4月で終わっています!来年に期待して下さい!
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12.更なるシャガの群生!
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13.下記をクリックして、「動画」でシャガの群生を見て下さい!
https://youtu.be/T8-znr8Moao

14.更に登ります!
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15.最後の地点「森の広場」です!
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16.下記をクリックして、「動画」で見て下さい!
https://youtu.be/lyw9PGt8mLE

17.下記をクリックして、「動画」で見て下さい!
https://youtu.be/uOPkIHMU900

18.見事なシャガの群生を最後に見て帰ります!
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19.我が家の終わりの一輪のシャガです!
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2017/5/16

京を見る!12.がん封じで有名な因幡堂(平等寺)!  文化財研修記

京都市市下京区松原通烏丸東入には今から約一千年前、橘行平(たちばなのゆきひら)という人がいました。この方は第30代敏達(びたつ)天皇の子孫で、従四位上(じゅしいじょう)中納言の貴族でした。因幡堂縁起によれば、天徳3年(959)橘行平は、村上天皇の命で因幡国(現鳥取県)の一宮に赴きました。そこで神事を済ませ帰洛の途中、行平は急病になりました。平癒を神仏に祈り続けていると、ある夜、夢に異形の僧が現れこう告げました。「因幡国賀留津の海中に一つの浮き木がある。その浮き木は衆生済度(人々を救って悟りを得させるため)に遠くの仏の国からやってきた。あなたは速やかにこの浮き木を求めて供養しなさい。そうすれば必ず病気は治る。さらに一切のあらゆる願いが成就するだろう」行平は正夢に違いないと思い、早速人々を集めて大網をもって海底を探らせたところ、お告げの通り一つの浮き木がありました。そしてそれはよく見ると身の丈五尺余り(165センチ位)の薬師如来の尊像でした。行平は喜んでこれを信心しこれを供養する草堂をこの浦に建て薬師如来像を祀りました。これが「因州(鳥取県)高草郡大字菖蒲浦の座光寺(ざこうじ)」です。その後、行平の病気は平癒し、無事に京に帰る事が出来ました。ところが帰京した行平にまたある夜、一人の異形な僧から夢告があります。「我は西の天より来て、東の国の人々を救おうとやってきた。あなたには宿縁(前世からの因縁)があるから重ねて事を示す」行平が夢から覚めると丁度、屋敷の西門に来客があると家人が呼びに来ました。行平が「どなたですか」と問うと「因州の僧だ」と返答がありました。行平は驚いて西の門を開けさせたところ、あの薬師如来の尊像が立っておられたのです。さっそく行平は五尺余りの尊像を碁盤の上にのせて安置しました。これが長保5年(1003)4月8日の黎明のことでした。行平は屋敷を改造してお堂を作り、このお堂を因幡堂と名付けたのです。その後、この霊験譚は平安京の人々に広く親しまれ、第66代の一条天皇(在位986〜1011)のお耳に入り、天皇ご自身信心なされて、8ヶ所の子院を建立され、皇室の勅願所とされました。歴代の天皇もご尊崇が厚く、ご即位ごとに祈祷し、また「薬師もうで」といい、勅使の御月参りもありました。源平争乱の時代、第80代の高倉天皇が因幡堂のすぐ南「東五条院」にお住まいになられました。因幡堂の正面真南の通りを不明(あけず)門と呼びますが、これは五条院の御所に遠慮して南門を開けなかったためです。承安元年(1171)には、高倉天皇により「平等寺」と命名され、勅額を贈られました。

1.因幡薬師の標柱
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2.因幡堂(平等寺)
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3.駒札
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4.本堂内
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5.同上
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6.巨大な青銅の常夜燈
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7.本堂の鈴打ち!
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8.見事な須弥壇
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