2017/4/30

京を見る!4.現在東寺真言宗のお寺となっている国史跡「神泉苑」!  文化財研修記

京都市中京区御池通神泉町東入る門前町166には現在東寺真言宗で国史跡の神泉苑(しんせんえん)がある。本尊は聖観音・不動明王・弘法大師。二条城の南に位置し、元は平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)であった。境内に「大歳神:歳徳神(としとくじん)」を祀るが毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変える点が他の神社仏閣と異なる(日本国内で毎年向きを変える「大歳神」は唯一ここだけに見られる祀り方であると伝えられる)。延暦13年(794)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。もともとここにあった古京都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられ、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ、池を中心とした大庭園であった。史料に初めてその名が見られるのは『日本紀略』の記事であり、延暦19年7月19日(800年8月12日)、桓武天皇が行幸したという内容である。延暦21年(802年)には雅宴が催されたとあり、この頃から神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となったとみられる。また、『日本後紀』には、嵯峨天皇が弘仁3年(812)に神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したとあり、これが記録に残る花見の初出と考えられている。季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったという。貞観5年(863)に都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われた。貞観11年(869)には神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社の位置)に66本(当時の律令制度の国の数)の鉾を立てて祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になったと言われている。尚、現在でも京都を中心に祭典時に鉾を立てる神社が幾つか存在する。この鉾は剣鉾(けんぼこ)と言う。中世以降は荒廃し、慶長8年(1603)、徳川家康が二条城を造営した際には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模を縮小した。神泉苑の水源も城の堀の水源の一つとして奪われた。天明8年(1783)の天明の大火で、堂塔社殿を焼失した。平成26年(2014)には善女竜王勧請1200年記念事業として法成池の水を55年振りに抜いて善女竜王社本殿等の解体・修復を行っている。伝承では源義経と静御前が出会った場と言われ、また神泉苑の池が京都市の東西に伸びる通りの一つ「御池通」の名前の由来であるとの説もある。ウイキペデイアより抜粋掲載。

1.神泉苑の鳥居と標柱(5月1日〜4日にかけて苑内の狂言堂で大念仏狂言が催される。)
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2.神泉苑拝殿、本堂を正面から見る!
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3.神泉苑の裏口は料亭「祇園平八別館」の入口と成っている!
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4.再び、拝殿、本堂正面を見る!
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5.途中、境内社の天満宮を見る!
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6.本殿を見る!
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7.拝殿前から不動明王を祀る不動堂への朱の「法成橋」
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8.不動堂
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9.神泉苑全景(竜頭の船も見える!)
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10.5月3日神泉苑で「靜御前の舞」を見たい方は下記をクリックして、「動画」で見てくださ
 い。
 https://youtu.be/tOvM1So2CqI

2017/4/30

4月29日「あやべ丹(に)の国まつり」が盛大に開催された!  あやべの街

恒例の「あやべ丹(に)の国まつり」が4月29日(祝)午前9時あやべ由良川花壇展で主催者の平野綾部市観光会長の挨拶、ご来賓の山崎綾部市長の祝辞と花壇展の入賞者の」表彰式を始め、綾部中学校吹奏部の演奏、午前9時45分には天理教花の木分教会の子供達の元気」一杯の鼓笛隊を先頭にパレードが始まった。

1.花壇展会場
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2.綾部中学校吹奏部
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3.平野綾部市観光会長の挨拶
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4.山崎綾部市長の祝辞と花壇展入賞者の表彰式
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5.ゴールデンウイーク中の由良川花壇展での催!
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6.グンゼ博物苑の水墨画展を見に行く!
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7.グンゼ博物苑内のあやべバラ園を見る!
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8.水墨画展出展者作品リスト
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9.会場内(会館してすぐで見学者は少ない!午後は凄かった諭旨)
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10.安達一男氏の80号の大作「梅雨」を1枚掲載
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11.歩行者天国となった3番街で世界一周自転車旅の四方さんと展示写真を撮影
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12.ITビル前のパレードはJR綾部駅南口へ
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13.11;15分「花まつり」お稚児さんのお練が始まる!
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14.下記をクリックして、「動画」でお練を見て下さい!
https://youtu.be/2XAX3sBTppo


15.花まつり「甘茶献上」とお参り
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16.綾部市文化協会創立70周年記念あやべ丹の国まつり「芸能発表会」プログラム
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17.同上
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18.12時35分 綾部市文化協会副会長 菅野佳松山氏 開会挨拶
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19神心流尚道館綾部会(多くの発表の一つ、舞士:泉 旻風、吟士:河北 秀哲、久木 秀弘  の「春夜落城に笛を聞く」を1枚掲載)
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20.尾上流菊宣会の(わくわくこども教室)本当に可愛くって1枚掲載
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21.第一部の鶏:民謡みやび会
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22.同上メンバーの「斉太郎節」を「動画」見たい方は、下記をクリックして見て下さい!
https://youtu.be/QX2ubRllM3Q

23.綾部市文化協会会長 木下和美氏(当会会員)の第二部にあたっての挨拶
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24.琴城流大正琴 琴麗会
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25.同上 見事な「ボギー大佐」の演奏を「動画」で見たい方は、下記をクリックして見て下さい!
https://youtu.be/lu2nFIPW0WA


26.所要があったので途中、会場を去ると、途中に綾部出身の新日本プロレスの嵐弾次郎が子供相手にショーをしていたので1枚撮影!
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2017/4/28

京を見る!3.世界遺産で元離宮の国宝の二条城と桜を見る!3−3!  文化財研修記

京都市中京区二条通り堀川西入二条城町541番地には世界遺産・元離宮の国宝の二条城がある。二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時(慶長8年、1603)は現在の東側半分(二の丸)のみであった。家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(=現堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けられ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわからない。二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説があるが証拠はない。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都でなぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作ったのは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性もあるが、これにも確証がない。将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。(ウイペデイアを一部抜粋)

1.本丸御殿から西橋を渡る!
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2.梅園・桜園の桜(4月17日撮影)
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3.桜
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4.しだれ桜
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5.見事な桜
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6.同上
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7.同上
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8.同上
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9.しだれ桜
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10.国重文の米蔵・倉庫
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11.同上 駒札
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12.国重文の南中仕切門
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13.同上 駒札
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14.白の八重桜
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15.赤い八重桜
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2017/4/26

京を見る!2.世界遺産・元離宮で国宝の二条城と桜を見る!3−2!  文化財研修記

京都市中京区二条通り堀川西入二条城町541番地には世界遺産・元離宮の国宝の二条城がある。二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時(慶長8年、1603)は現在の東側半分(二の丸)のみであった。家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(=現堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けられ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわからない。二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説があるが証拠はない。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都でなぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作ったのは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性もあるが、これにも確証がない。将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。(ウイペデイアを一部抜粋)

1.二の丸庭園へ向かう途中の「吊鐘が二つ」地面に置いてある!
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2.同上 駒札
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3.特別名勝「二の丸庭園」の桜
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4.国宝二の丸御殿を振り返って見る!
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5.二の丸庭園の一部
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6.同上
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7.同上
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8.同上
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9.同上
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10.同上
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11.本丸櫓門と東橋
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12.本丸櫓門を潜る!
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13.国重文の本丸御殿の一部
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14.同上
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15.天主閣跡
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2017/4/24

京を見る!1.世界遺産・元離宮で国宝の二条城と桜を見る!3−1  文化財研修記

京都市中京区二条通り堀川西入二条城町541番地には世界遺産・元離宮の国宝の二条城がある。二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時(慶長8年、1603)は現在の東側半分(二の丸)のみであった。家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(=現堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けられ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわからない。二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説があるが証拠はない。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都でなぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作ったのは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性もあるが、これにも確証がない。将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。(ウイペデイアを一部抜粋)

1.JR京都二条駅と桜から徒歩で二条城へ向かう。この日は4月17日(月)
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2.徒歩5分で二条城の西南隅櫓に至る!
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3.南中仕切門を濠越に見る!
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4.国の重要文化財の東南隅櫓を見る!
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5.同上を東大手門方面に向かって見る!
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6.国重文の東大手門!
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7.同上
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8.同上
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9.東大手門番所
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10.国重文の唐門
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11.同上を内側からアップで見る!
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12.唐門から国宝二の丸御殿の間の桜
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13.国宝の二の丸御殿(内部撮影禁止)
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14.パンフレットを撮影
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15.同上
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2017/4/23

京都を見る!24.(最終回)京都井伊美術館!  文化財研修記

京都市東山区花見小路四条下がるには「甲冑刀剣考証専門美術館の京都井伊美術館(いいびじゅつかん)がある。平成28年2月1日〜11月15日まで午後1時から午後5時まで大人1、500円(甲冑体験着用料は別途必要)館内は撮影不可。予約電話:075−525−3921で必ず予約して下さい。平成29年度は2月1日〜11月10日まで「井伊直政と次郎法師尼」の主旨で展開されています。見応え満点です。

1.京都井伊美術館
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2.駒札(画像をクリックすると拡大して読めます!)
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3.平成28年度パンフレット表紙
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4.パンフレットの一部
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5.同上
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2017/4/21

京都を見る!23.臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺特別展を見る!  綾部の文化財

京都市北区紫野大徳寺町53には臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺がある。既に見ているが、特別展で国重文の三門、国宝の唐門と方丈、国重文の法堂と狩野探幽斎筆の天井龍等を拝観した。方丈の内部等は撮影禁止であった。鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話は有名。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第二日曜日公開)現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、それぞれに貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。

1.大徳寺は中門より入る!
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2.勅使門
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3.三門
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4.法堂前の塔頭「三玄院」
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5.方丈から拝観する!
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6.撮影が難しい又は禁止が多いのでパンフレットを見て下さい!(画像をクリックすると
拡大して読めます。)
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2017/4/19

京都を見る!22.大徳寺孤篷庵を覗く!  文化財研修記

京都市北区紫野大徳寺町には国重文で史蹟名勝であり、大徳寺本坊の大徳寺孤篷庵がある。一時特別拝観を許可した時もあったが現在は拝観禁止となっている。作庭家、建築家、茶人として後世に大きな影響を与えた小堀遠州が建立した寺院です。茶室「忘筌」は建築、茶の湯を知る者なら、一度は足を踏み入れたい場所である。忘筌ほか、書院「直入軒」茶室「山雲床」も非公開となあった。「直入軒」・茶室「山雲床」は直入軒は遠州が寝泊まり、仕事などを行った寺院内で一番プライベートな空間になっている。そのため、南向きの部屋は本堂とこちらの2部屋だけとなる。床の間や次の間(つぎのま)の入り口の純粋な墨絵の部分は探幽の襖絵である。
山雲床は草庵造りの茶席であるため、本来はにじりなるはずが、貴人口としているのが特徴である。茶室「忘筌」の一番の特徴はやはり、正面の明かり障子が半分になっていて、下が吹き抜けになっていることである。この明かり障子部分がお茶席のにじり口の変形版となっている。そのほか、お点前席の位置など遠州以外にはないお茶席の造り方となっている。庭園は遠州の故郷である近江八景を現した庭園。赤土が水を表現しており苔が陸地を表している。本堂、忘筌、直入軒と見る所によって異なった雰囲気が味わえる。

1.大徳寺孤篷庵を横から見る!
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2.山門を正面から見る!
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3.国重文の駒札が立つ参道!
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4.孤篷庵
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5.茶室への横門
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6.見事な庭園の一部で写真をお借りしてきました!
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2017/4/17

京都を見る!21.旧京都島原遊郭「角屋はもてなしの美術館」!  文化財研修記

京都市下京区西新屋敷揚屋町32には公益法人角屋(すみや)保存会がある。20歳代の頃アメリカ人やオーストラリア人等を案内して「花魁(おいらん)とその見事な芸」を見た大変懐かしいところなので、公益法人角屋(すみや)保存会のホームページを抜粋記載します。角屋は、島原開設当初から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋(あげや)建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。揚屋とは、江戸時代の書物の中で、客を「饗すを業とする也」と定義されているところによると、現在の料理屋・料亭にあたるものと考えられます。饗宴のための施設ということから、大座敷に面した広庭に必ずお茶席を配するとともに、庫裏と同規模の台所を備えていることを重要な特徴としています。所蔵美術品では、昭和58年(1983)に与謝蕪村筆「紅白梅図屏風」が重要文化財に指定されました。また、平成元年(1989)には財団法人角屋保存会が設立され、以来、角屋の重要文化財建造物と美術品等の保存と活用がおこなわれています。さらに平成10年度からは、「角屋もてなしの文化美術館」を開館して、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品等の展示・公開を行うことになりました。
開館期間:3月15日〜7月18日、9月15日〜12月15日、開館時間:午前10時〜午後4時、休館日:月曜日(祝日の場合翌日)、入館料:一般1000円、中・高生800円、小学生500円(2階の特別公開料金を除く)※2階の特別公開の座敷(青貝・扇の間他)につきましては、事前にお電話でお申し込み下さい。料金は入場料の他に別途必要です。大人800円、中・高生600円(小学生以下はお断り)、2階特別公開:ご案内時間(約30分)午前10:15、午後は13;15、14;15、15;15但し定員 各回20名。
電話番号:075−351−0024にて予約受付(午前10時〜午後5時)

1.旧島原遊郭の大門(慶応3年、1867年再建)と標柱
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2.島原の碑文(各画像はクリックすると拡大して読めます、)
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3.島原の駒札
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4.揚屋(あげや、料亭)に対す置屋の駒札
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5.角屋を横から見る!
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6.角屋の入口
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7.角屋の仲戸口(此処からはカメラ持ち込み禁止です!)
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8.下記をクリックして、「動画」で「幕末の志士が愛した花街、島原」(2分30秒)を観て下さい!
https://youtu.be/_BvVFJMZ1Os

2017/4/15

京都を見る!20.国宝や多くの重要文化財を持つ東寺の「少子房」特別展!  文化財研修記

小子房はかっては東寺の西院にあり、鎌倉時代に後宇多天皇が密教修行された時や、足利尊氏公が南北朝時代に北朝の光厳上皇と共に上洛された時には御所として使われた天皇をお迎えする特別な所であり非公開ですが、秋や冬には特別公開もされます。金堂の西側に位置する現在の小子房は、昭和8年、弘法大師1100年御遠忌にあたり、総檜造りで再建されました。庭園「澄心苑」は七代目小川治兵衛のだくです。又建物の内部は、鷹の間、牡丹の間、勅使の間な6部屋からなり、近代美術界で名を馳せた京都画壇の巨匠、堂本印象、43歳のときの筆による障壁画で飾られています。16部屋のうち、5つの部屋は水墨画が描かれ、最も奥の勅使の間は、「渓流に鶴」などの極彩色が描かれています。この襖絵は、JRの冬のポスターにも使われています。堂本印象氏といえば、抽象画のイメージが強いかもしれませんが、こちらに描かれているのは、純粋な日本画です。ただ、東山を描いた日輪山獄図は、すこし抽象的で、このあとの印象氏の画風を感じることができます。小子房の勅使の間には、天皇陛下、皇后陛下の玉座がありますが、両陛下の玉座があるということが、この間が近代になって作られたことを物語ります。最近では、平成3年に今上天皇がおみえになり、記念の植樹も残っております。国宝の蓮花門は弘法大師空海が高野山に向かうとき最後に出た門と伝えられる不開門です。門まで見送りに来た西院の不動明王の足元に、蓮の花が咲いたという故事がその名の由来です。(パンフレットより一部抜粋)

1.東寺の標柱と国重文の慶賀門
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2.国重文の慶賀門から入る!
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3.国宝の五重塔が見える!
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4.少子房の勅使門!透かし彫りが見事です!
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5.少子房の駒札
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6.拝観までに時間があったので、国重文の東大門と国宝の五重搭を見る!
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7.此処から拝観料800円を支払い門を潜る!2人なのに案内して貰えた!
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8.正面は事務所です!
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9.正面黒い建物が少子房です!
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10.銀杏の巨木に赤いハゼの木が宿っていますね!
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11.勅使門を内側から見ます!
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12.国宝の蓮花門!
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13.木立が大きくなり醜いのでパンフレットを見て下さい!
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14.見事な庭園「澄心苑」の一部
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15.同上
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16.同上
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17.東寺の西側の通り壬生通からは「国宝の蓮花門」が何時も無料で見れます!
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