2016/12/31

徳島・讃岐を見る!6.延喜式内社で阿波一の宮・大麻比古神社!  文化財研修記

徳島県鳴門市板東広塚には塩喜式内社で阿波一の宮の大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)がある。社伝によれば、神武天皇の御代、天太玉命の御孫の天富命が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、麻・楮の種を播殖してこの地を開拓、麻布木綿を生産して殖産興業と国利民福の基礎を築いたことにより祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀ったのが当社の始まりだと言う。延長5年(927)には『延喜式神名帳』により式内社、名神大社へ列格された。室町時代に成立したとされる『大日本国一宮記』には当社が阿波国一宮として記載されているが、『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、南北朝時代に、伝統的な社格を誇り細川氏の守護所にも近かった当社が、敵対勢力であった一宮氏が神主を世襲していた一宮神社に代わる新たな阿波国一宮としての地位を得ることになった、と考察している。『全国一の宮めぐり』によれば室町時代には細川氏や三好氏、江戸時代には徳島藩主蜂須賀家の庇護を受けたとしている。また、享保4年(1719)には最高位の正一位の神階が陞叙されている。本殿の裏に石築アーチ橋がある。この橋は第一次世界大戦の捕虜として板東俘虜収容所に収監されていたドイツ兵が帰国の際に彼らの提案と工事により建設されたことから、ドイツ橋と呼ばれている。

1.朱の大鳥居
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2.朱の大鳥居から見る参道!
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3.長い参道には吃驚!
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4.石造りの大鳥居
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5.碑文を抱く阿形の狛犬
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6.碑文を抱く吽形の狛犬
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7.手水舎と左側には神木で樹齢1,000年を越す大楠木がある!
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8.古神札納所と開運招福のふくろう
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9.注連縄を通して拝殿を見る!
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10.見事な拝殿
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11.拝殿両脇の阿形と吽形の狛犬
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12.拝殿をアップで見る!
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13.見事な拝殿を斜めから見る!
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14.拝殿後部と本殿を横から見る!
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15.駒札
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16.心願の鏡池
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17.めがね橋
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18.駒札
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19.ドイツ橋
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2016/12/29

徳島・讃岐を見る!5.四国88ヶ所第一番霊場の霊山寺!  文化財研修記

徳島県鳴門市大麻町坂東塚鼻26には四国88ヶ所第一番霊場の真言宗の霊山寺(りょうぜんじ)がある。寺伝によれば奈良時代、天平年間(729 - 749)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創されたという。弘仁6年(815)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け第一番札所としたという。本尊の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像である。室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間(1573 - 1593)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によって再興されたが明治時代の出火でまた多くの建物を失った。本堂と多宝塔以外は近年の再建である。寺伝その他の言い伝えでは空海が弘仁6年(815)に四国霊場を開き、札所と札所番号を定めたことになっているが、これは史実ではなく、四国は奈良時代から山岳信仰(後の修験道)の修行地で、空海も渡唐前には私度僧として修行のために故郷でもある四国で修行をしたが、唐から戻って後、特定の八十八箇寺を札所として定めたことはなく、後の人々が空海ゆかりの寺々を霊場に定めたものと推定される。実在の人物としての空海は、弘仁年間には都で密教の普及に努めていた。江戸時代に入り庶民による霊場巡礼が盛んになると、四国を修行した僧などが案内書を出版するようになる。そのうちの一人が大坂で四国邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)を出版した真念であり、この真念がはじめて八十八箇所に札所番号を定めた。当時大坂から四国へ渡るには淡路島を経由し鳴門から四国入りするのが一般的であったので、鳴門の撫養(むや)の港に最も近い霊山寺を第一番札所と定めたと推測される。ウイキペヂア等から抜粋。

1.見事な仁王門
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2.向かって左側の吽形の仁王像
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3.見事な仁王門をアップで見る!
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4.手水舎
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5.大師堂と放生池
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6.多宝塔「文政2年(1819)から建て始めて明治18年(1885)に完成した高さ22メートルを誇っています。」
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7.境内の一部でこの前には本尊釈迦如来を祀る釈迦堂があります。
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8.釈迦堂
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9.巨大な石燈籠と十三仏堂
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10.十三重の石塔と多宝塔を見る!
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11.本堂を見る!
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2016/12/27

徳島・讃岐を見る!4.徳島城本丸大地にある清玄坊神社!  文化財研修記

阿波徳島城の天主大地には清玄坊神社(せいげんぼうじんじゃ)があります。その駒札には次のように書かれています。清玄坊の元祖は清和天皇で、皇子民籍降下にあたり天皇より「源氏」の称号を賜わり、後に修験者となり三好家と共に、阿波に移り城山に祈祷所を建てていた。蜂須賀公が阿波に入国、築城に際し付近の全寺社に移転を命じたが、清玄坊だけは頑としてこれに応じない為、蜂須賀公は一計を編み換地を与えると言って城下に連れ出し、紙屋町を通行中後から弓で射て謀殺した。途端に蜂須賀家には、変事が続出したので蜂須賀公は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石碑をたて、末代まで供養することを誓った所、此の変事はピタリと止ったという。以来紙屋町の住民は毎年お祭を続けている。清玄坊の長男範月は家政公と和睦をし、父の菩提を弔う為、刻んだ石地蔵が霊験あらたかで、現在掃溜地蔵として瑞巌寺に安置する。次男右京院、三男左京院は難を逃れて、阿波郡の東西善地に落ち着き、祈祷の傍ら農業をしながら酒巻家として今日に至っている。その子孫の五宝翁太郎は徳島県立聾唖学校の創始者であり初代校長でもある。又真珠湾攻撃で魚雷不発の為、九死に一生を得た特攻隊員の酒巻和男も此の子孫です。之でなぜ天主が本丸で無く、東二の丸に建てられたかわかりますね!

1.本丸跡にある清玄坊神社
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2.駒札
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3.下記をクリックして、「音声付動画」で本丸跡周辺を見て下さい!
https://youtu.be/-bEhLT2SqZY

4.駒札
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5.同上 数寄屋橋
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6.城址公園には平成28年に、ここを訪れて,詠んだ野口雨情の歌碑が建てられた。
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2016/12/25

徳島・讃岐を見る!3.国史跡・名勝で蜂須賀氏284年の居城・徳島城2−2!  文化財研修記

徳島城はJR徳島駅の北側にあり、徳島市の中心部に位置している。吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城である。この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。室町時代の至徳2年(1385)に細川頼之が四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。頼之は助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付けたとされ、または富田庄(のちの徳島)の地頭として来任した河野通純が文永9年(1272)に築いたともされる。渭山の名についても、西から見た姿がイノシシに似るため猪山と呼んだという説もある。『城跡記』は徳島城築城について「渭山寺島両城を合して一城となす」と記す。寺島城は平地にあった城で、文献は寺島の西端(現 郷土文化会館付近)とするが、発掘調査ではのちの花畑(現 市立体育館付近)の可能性が示唆される。戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。天正10年(1582)には土佐国の長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成した。以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万7千石の居城となり、明治維新を迎えた。

1.旧徳島城表御殿庭園入口
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2.駒札
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3.庭園の一部
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4.下記をクリックして、「音声付動画」でこの名勝庭園を見て下さい!
https://youtu.be/g48dAyXCJQ8

5.徳島城天主台への道
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6.蜂須賀家政公の駒札
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7.家紋(丸に左卍)の付いた蜂須賀家政公像
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8.トチの木の駒札
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9.巨大なトチの木
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10.天主台への登り道は急斜面で恐慌です!
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11.東二の丸跡碑(天主はここに在ったのです!)
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12.本丸跡碑
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13.本丸から徳島港が見えます!
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2016/12/23

徳島・讃岐を見る!2.国史跡・名勝の蜂須賀氏284年の居城・徳島城2−1!  文化財研修記

徳島城はJR徳島駅の北側にあり、徳島市の中心部に位置している。吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城である。この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。室町時代の至徳2年(1385)に細川頼之が四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。頼之は助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付けたとされ、または富田庄(のちの徳島)の地頭として来任した河野通純が文永9年(1272)に築いたともされる。渭山の名についても、西から見た姿がイノシシに似るため猪山と呼んだという説もある。『城跡記』は徳島城築城について「渭山寺島両城を合して一城となす」と記す。寺島城は平地にあった城で、文献は寺島の西端(現 郷土文化会館付近)とするが、発掘調査ではのちの花畑(現 市立体育館付近)の可能性が示唆される。戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。天正10年(1582)には土佐国の長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成した。以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万7千石の居城となり、明治維新を迎えた。

1.再建された「鷲の門」を内側から見る!(伝説では将軍より賜った鷲を飼うためにつくられた門で、脇戸付き薬医門)
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2.下乗橋
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3.駒札
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4.月見櫓
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5.下乗橋を正面から見る!
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6.大手門跡石垣
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7.徳島城博物館
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8.同上 館内
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9.館内撮影禁止ですが、面白いパンフレット(蜂須賀家の江戸時代ブンカイ大図鑑をいただいたので掲載します。入館者にはこのパンフレットが貰えます。)その1.
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10.その2.
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11.その3.
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12.その4.
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13.その5.
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14.その6.   以下は次号で掲載します!
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2016/12/21

徳島・讃岐を見る!1.JR高速バスで徳島へ旅立つ!  文化財研修記

第一日目はJR綾部駅発07:12分特急きのさき4号で京都駅08;21着。JR京都駅烏丸口前の高速バス発着場09:10発のJR高速バスに乗車。昼間の高速バスは初めてであった。
2席、通路、2席の4名が横並びで、最後部にトイレが設置されていた。途中休憩は淡路島の室津PAの1回のみであった。車窓からの撮影は窓ガラス越しだから難しい。JR京都駅から京都南ICまで普通道路でそこから名神高速、阪神高速、明石大橋を渡り、淡路島を縦断、淡路島の室津PAで休憩し、大鳴門橋を渡り、徳島県の鳴門市からJR徳島駅前到着は12:05であった。徳島のホテルは幸いにもJR徳島駅すぐ近くの阿波観光ホテルであったので荷物を預け、初めてJR駅構内のスターバックコーヒー店でサンドイッチ定食をたべた。結構いけるな!の感じであった。

1.JR京都駅高速バス発着場
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2.昼間のJR高速バス内部
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3.車窓から見るホテルオークラ神戸
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4.あっという間に明石大橋を越え、淡路島方面を撮影!
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5.淡路島にある遊園地の横を通る高速バス
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6.淡路島の室津PAから瀬戸内海を見る!
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7.淡路島最後の定期バス発着場
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8.JR徳島駅
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2016/12/19

山形・仙台を見る!44.(最終回)仙台市のアジサイ寺と呼ばれる臨済宗妙心寺派の資福寺!  文化財研修記

仙台市青葉区北山にある北山五山の一つで臨済宗妙心寺派の資福寺(しふくじ)がある。鎌倉時代の弘安年間、長井時秀によって米沢近郊の夏刈(山形県高畠町夏茂)に建立される。学問の中心として、関東十刹の一つに挙げられることもある有力寺院であった。南北朝時代、長井氏が伊達氏に滅ぼされた後も、伊達氏の保護を受ける。戦国時代には、伊達輝宗が虎哉宗乙を招いて住持とし、子の政宗の教育を任せたことで知られる。後には伊達氏の移封に従い、天正19年(1591)に岩出山、慶長5年(1600)に仙台谷地小路(仙台市東六番丁)、寛永15年(1638)現在地に移転した。紫陽花の名所で、いわゆる「アジサイ寺」として有名である。

1.資福寺標柱
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2.両側にはアジサイが一杯の登り参道
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3.山門は三間一戸の棟門
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4.資福寺全景
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5.観音堂
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6.見事な鐘楼とアジサイ
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7.見事な庭園の一部
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8.本堂前の境内
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9.見事な本堂
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10.本堂をアップで見る!
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11.本堂裏の庭園へ道
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12.本堂裏の庭園の一部
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2016/12/17

山形・仙台を見る!43.仙台七福神霊場の大黒尊天を祀る秀林寺!  文化財研修記

仙台市青葉区北山には喜伝山・秀林寺がある。慶長5年(1600)、藩祖政宗により仙台城の築城が開始され、その没する寛永13年(1636)まで、36年間に亘り城下町の整備が同時に行われ、多くの寺が各地より集められた。北山五山といわれる寺々、輪王寺、秀林寺も例外ではない。 秀林寺は、もともと泉区松森に在った古寺と言われている。藩祖の意を汲んだ郷士丹野今内が自費を投じてこの地に移築し、寺容を一新し、輪王十三世角外麟恕大和尚を第一世として勧請し開山されたと言う。現存する過去帳の記載は、寛永4年よりであり、また檀徒大槻定安は、政宗に殉死しているのをみても、寺は寛永10年前より在ったと思われる。(残念ながら移転前の記録は全く不詳である) 平成8年 開山角外麟恕大和尚三百五十回忌法要が営まれた。又、仙台の地名は千躰仏を基としています。 三門とは、「智恵」「慈悲」「方便」の三つを言いますが、それぞれに千躰仏を祀るので「三千大仙門」と銘名されました。「大仙」とは仏の別称です。HPなどから抜粋記載しました。

1.秀林寺の標柱
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2.三千大仙門と呼ばれる竜宮門
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3.三千大仙門をアップで正面から見る!
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4.門の両側に祀られている千躰仏の一部
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5.右側の千躰仏はアップで撮影
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6.仙台市最古の木造りの本堂です。
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7.本堂に祀られている三面大黒天(右、弁天、中、大黒天、左、毘沙門天)画面をクリックすると拡大して見れます!
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2016/12/15

山形・仙台を見る!42.伊達家9世政宗公の夫人蘭庭明玉禅尼の所願により創建された輪王寺!  文化財研修記

仙台市青葉区北山1−14−1にある輪王寺は、嘉吉元年(1441)、伊達家九世政宗の夫人、蘭庭明玉禅尼の所願により、11持宗が、太菴梵守和尚を開山として、福島県梁川に創建されました。政宗夫人は、三代将軍足利義満の生母の妹に当たるため、6代将軍義教は、後花園天皇に奏請し、「金剛寳山輪王禅寺」の額を賜りました。輪王寺の六遷とは輪王寺の草創期は、伊達氏の躍進の時期と重なり、伊達氏の居城は、梁川・西山・米沢・会津・米沢・岩出山・仙台と変わりましたが、輪王寺もこれに従って転々とし、現在の仙台の地に移ったのは、17世政宗の慶長7年(1602)、9世久山光天和尚の時でした。これを「輪王寺の六遷」と呼びます。仙台の地に落ち着いて後、輪王寺は伊達氏の庇護のもと、奥州における曹洞宗の一大叢林として、300余年の間「海東禅窟」の名をほしいままにしました。 明治維新以後、伊達氏の外護を失った輪王寺は、明治九年(1876年)野火に類焼し、仁王門 のみを残して伽藍の全てが灰燼に帰しました。以来復興の策なく山内は荒廃にまかされました。 曹洞宗の大本山、永平寺と総持寺は、輪王寺の衰徴を惜しみ、明治36年(1903)福定無外和尚を輪王寺住職に特選し、その復興を託しました。 無外和尚は辛苦10余年、寝食を忘れて再建に努力し、大正4年(1915)、現在の本堂と庫 裡を完成しました。現在の庭園と伽藍は 無外和尚は庭園の建設にも意を注ぎ、その晩年には、ほぼ現在の規模を備えた庭園が出来上がり、今日の輪王寺禅園の基礎が整えられました。無外和尚以来の伽藍の復興と庭園の整備は、次の日置五峰和尚(1893-1972)に受け継がれ、梵鐘・位牌堂・坐禅堂・開山堂などが次々と完成し、七堂伽藍のすべてが整いました。また、庭園も茶室半杓庵が建設され、東北有数の名園となりました。HPより抜粋。

1.輪王寺案内図
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2.山門
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3.山門の駒札
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4.山門の阿形仁王像(撮影が上手く出来ないので吽形仁王像はカットです。)
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5.輪宮の森の碑文
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6.本堂と境内
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7.見事な鐘楼
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8.見事な本堂
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9.本堂横から裏にある「輪王寺庭園」の一部
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10.同上
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11.三重塔
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12.輪王寺庭園を「動画」で見たい方は下記をクリックして見てください!
https://youtu.be/XnOTtEfkurg

2016/12/13

山形・仙台を見る!41.国宝の社殿を持つ大崎八幡宮!  文化財研修記

仙台市青葉区八幡4−6−1には慶長12年(1607)に伊達政宗公によって創建され、昭和27年に国宝に指定された大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう)がある。社殿は権現造(石の間造)の典型で、本殿・石の間・拝殿が一体となっています。入母屋造(いりもやづくり)、こけら葺で、正面に千鳥破風を付け、向拝(こうはい)には見事な軒唐破風(のきからはふ)を付けています。石の間の格天井(ごうてんじょう)には、多数の草花や薬草が描かれています。内外とも漆塗(うるしぬり)・胡粉(ごふん)下地に彩色を施し、彫刻・金具に飾られ、絢爛たる雰囲気を表しています。桃山建築の傑作です。長床が国の重要文化財に、石鳥居が県の重要文化財に指定されています。1月14日の「松焚祭(どんと祭)」(仙台市指定無形民俗文化財)では、松飾りや古いお札を焚き上げて新年の無病息災・商売繁盛を願うが、この時行われる「裸まいり」は全国的に有名です。また、毎年1月14・15日には例大祭が行われ、9月14日夕刻には能神楽(県指定無形民俗文化財)が、1月15日には大神輿が近隣町内を練り歩き、流鏑馬神事(やぶさめしんじ)が境内で行われます。

1.朱の大鳥居
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2.登り参道
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3.宮城県有形指定文化財の石造り大鳥居
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4.神社標柱
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5.大石段
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6.狛犬が外側に向かって護っている珍しい楼門
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7.見事な楼門
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8.楼門内の飾り
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9.国宝の見事な拝殿
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10.国宝の拝殿後部と本殿を見る!
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11.国宝の本殿を右側から見る!
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12.見事な神輿です!
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13.平成27年1月14日の大崎神宮の「どんど裸参り」を見たい方は下記をクリックして見て下さい!
https://youtu.be/TaSlzD9opfw



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