2016/10/31

山形・仙台を見る!19.山形県上山市にある平山城の上山城!  文化財研修記

山形県上山市(かみにやまし)にはJRかみのやま温泉駅から徒歩15分で小さいながら再建された天守閣を持つ上山城(かみのやまじょう)がある。別名は月岡城とも呼ばれている。構造は小高い岡に立つ平山城で望楼型3層5階、鉄筋コンクリート造模擬1982年再建。南北朝時代斯波氏の祖斯波兼頼の孫)の子上山満長が上山に配されたことに始まる。満長は上山市松山の虚空蔵山に高楯城を築き居城とした。永正5年(1508)に伊達氏がこの城を攻め落とし、城主上山義房は逃亡。伊達家臣小簗川貞範がこの地に入った。永正17年(1520)最上義定の死去に伴う混乱に乗じて義房が兵を挙げるものの伊達稙宗と戦って討死する。天文4年(1535)上山義房の子武衛義忠が城を奪還。義忠によって天神森に改めて築城された平山城が現在の上山城である。以後城主は武衛義節、そしてその子上山満兼と続く。この頃、天童氏は最上八楯を形成し、最上義光と対立。満兼も天童一門として義光に従う事を拒否し、伊達氏とともに山形を攻めるなどした。しかし天正8年(1580)義光は里見民部を寝返らせて上山城を攻め落とし、城主満兼は討死。代わって里見民部が上山城主になった。江戸初期に最上氏が改易された後は、没落した諸大名が3万石から4万石で入部し、城主を務める氏族がめまぐるしく変わるが、上山藩自体は幕末まで存続した。本丸を囲んで一段低く周囲に二の丸があり、外濠が取り巻いていた。藤井氏時代は天守はなく、二の丸に居館が設けられていた。金森家が転封された際に一度破却されたが、破却前は本丸に三重の天守や各所に櫓門がある近世城郭であり、月岡・天神森にそびえるその壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れ渡っていた。藤井松平家が封じられた際に上山城は再興されたが、二の丸に居館を設けた程度の城構えであり明治を迎えた。
歴代藩主は上山藩に詳しいが、能見松平家2代(4万石)、蒲生家1代(4万石)、土岐家2代(2.5万石、後3.5万石)、金森家1代(3.87万石)と目まぐるしく藩主が入れ替わった後、藤井松平家が封じられた。その後明治維新まで藤井氏が当地を治め、10代(3万石)信安の代まで居城として用いた。しかし明治時代に入ると廃城令の影響で1873年より取り壊されたり、払い下げられたりして廃城となった。城跡は月岡公園および月岡神社境内となり、1982年に二の丸跡に3層の模擬天守が建立された。模擬天守の内部は、郷土歴史資料館として利用されており、季節によって、雛人形展や鎧などの収蔵品展、刀剣展といった催しが行われている。

1.江戸時代の燈篭と遠方に上山城天守閣を見る!
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2.上山天守閣を遠望!
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3.大手門黒塀跡
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4.天守閣を見上げる!
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5.天守閣への上り口
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6.天守閣を見上げる!
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7.天守閣
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8.駒札
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9.土岐家由来の七重塔
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10.駒札
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11.駒札(レリーフ)
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12.駒札
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13.天守閣に登る!
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14.天守閣内部
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15.同上
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16.天守閣から城下町を見る!
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17.上山城天主閣から城下町を「音声付動画」で見たい方は下記をクリックして見て下さい!
https://youtu.be/yfv9JfcMeuc


2016/10/29

山形・仙台を見る!18伊弉册命、速玉男命、解男命を祀る熊野神社!  文化財研修記

米沢市御廟1−8−21の上杉家御廟所のすぐ西に鎮座している熊野神社は、伊弉册命、速玉男命、解男命を祀っております社殿の掲示によれば、足利時代延徳年間(1489ー1491)に浅井権太夫という郷士が紀州熊野権現の分霊を迎えて崇敬したとのことです。8月の祭礼日には法音寺、上杉家御廟とこの熊野神社の3社をお参りするしきたりがあります。
一の鳥居、二の鳥居をくぐって民家の間の参道を進むと、境内は「御廟児童遊園」となっており、拝殿左側に庚申塔など石仏が立っています。
境内社として稲荷神社が祀られています。

1.熊野神社一の鳥居
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2.二の鳥居
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3.拝殿
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4.熊野神社神額
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5.摂社 稲荷神社
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6.庚申塔
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2016/10/27

山形仙台を見る!17.米沢市の国史跡の上杉家廟所!  文化財研修記

山形県米沢市御廟1−869には真言宗で「国史跡・上杉家廟所」を護る法音寺(ほうおんじ)がある。戦国時代の大名である上杉謙信が越後国(新潟県)春日山城に没すると、その遺骸は漆を塗り甲冑を着せて埋葬された。後継者の上杉景勝は、後に天下統一を果たした豊臣秀吉の臣下となり五大老に任じられ、会津へ移動。 それに伴い謙信の霊柩も越後から会津に移され仮堂に安置されたと云われている。慶長6年(1601)関ヶ原の戦い後、上杉家は米沢に移動を命じられ、謙信の霊柩も再び移動することになる。 景勝は米沢入りを果たすと米沢城本丸に御堂を建立し謙信の霊柩をそこに安置したのである。現在の上杉家廟所は米沢城址の北西あたりに位置しており、この場所は元々米沢城に一大事があった場合、一時的に謙信の霊柩を避難させる場所として設けられたと云う。元和9年(1623)景勝が他界すると現在の廟所に埋葬され、以後12代藩主までここに埋葬される事になる。 明治政府の「廃城令」に伴い米沢城は解体され、謙信の霊柩も移動する事になり、当地に移る。尚、現在の廟所は謙信霊廟を中央にして、その左右に歴代藩主の霊廟(墓所)が厳かに立ち並んでいる。2代景勝から8代重定までは、火葬での埋葬が行われ、御堂は入母屋造りの建造物である。さらに9代治憲から12代斉定までは土葬となり御堂も宝形造りとなっている。治憲の倹約令により、構造も簡略化され材質も落とされている。 藩主ではないが、治憲の実子で10代治広の養嗣子であった顕孝も共に祀られている。また、明治以後に死去した13代斉憲からは東京に墓所があるが、14代茂憲は沖縄県令としての功績をたたえられ、沖縄県民有志により歴代藩主廟に並んで記念碑が建てられている。地元では御霊屋(おたまや)とも呼ばれている。

1.法音寺の駒札
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2.法音寺の山門
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3.見事な本堂
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4.駒札
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5.上杉家廟所へ向かう!
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6.駒札
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7.廟所入口
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8.上杉家廟所その1。
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9.同上 その2。
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10.上杉家廟所
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11.上杉謙信公廟所
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12.アップで見る!
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2016/10/25

山形・仙台を見る!16.名将直江兼続夫婦の墓のある林泉寺!  文化財研修記

米沢市林泉寺1−2−3には曹洞宗で直江兼続夫婦達のお墓のある春日山・林泉寺(りんせんじ)がある。上杉氏の本拠地があった春日山城(現在の新潟県上越市)の山麓に建立された林泉寺を元としている。関ヶ原の戦いの後に米沢に移った上杉景勝の実母(上杉謙信の姉、長尾政景の妻)仙洞院(仙桃院とも呼ばれる)が元和3年(1617)に林泉寺14世・万安大悦を招聘して同号の寺を建立された。上杉氏の転封にともない謙信の遺骸、上杉氏関係の文書、重宝の大半が米沢に移された。林泉寺もこれに従って移転したとされる。謙信の遺骸は慶17年(1612)に米沢城本丸内に設けられた堂に安置され城内に建立された真言宗寺院21か寺によって守護されたため林泉寺は謙信廟所ではなくなったが、藩主上杉氏の菩提寺として尊崇された。また、歴代藩主の墓は廟所が別個に造営されたために寺内には設けられなかったものの、藩主の正室や子女の墓が安置されるとともに上杉氏代々の菩提寺であったことから米沢藩内では大きな影響力を持ち、寛文4年(1664)には当時米沢藩を構成していた3郡(置賜・信夫・伊達郡)の僧録に任じられた。僧録の役割はあくまでも曹洞宗の諸寺に対する統制であったが、実際には藩内の全ての宗派・寺院に対して統制を加えることが可能であったと言われている。寛永14年(1637)、絶家となっていた重臣直江氏の菩提寺であった徳昌寺と僧録の地位をめぐって争った結果、徳昌寺は廃絶となり住職は与板(現在の、新潟県長岡市)に追放された。徳昌寺の寺域は林泉寺に併合され、米沢藩は徳昌寺にあった直江兼続夫妻の墓を林泉寺が管理することと決めた。このため、林泉寺は兼続夫妻の墓を林泉寺内に改葬した。正徳元年(1711)には春日山城跡地にあった春日社を寺内に移して「明神堂」を建立している。現在でも庭園は「米沢三名園」の1つに数えられている。伽藍は越後林泉寺の古規にしたがい元和5年(1619年)に境内整備を完了した。享保17年(1732)の火災により伽藍の大半が焼失したが、その後、元文5年(1740)に再建され現在に至っている。現在の林泉寺境内には仙洞院、武田信玄の娘で景勝正室の菊姫をはじめとする歴代藩主の夫人、菊姫の弟で上杉氏に仕えた武田信清などの上杉氏の子女・縁者や、分家である米沢新田藩の歴代藩主、米沢藩重臣の墓がある。また上杉治憲(鷹山)側室お豊の方の墓も林泉寺境内に設けられ、景勝側室の墓も寛永6年(1629)4月、米沢極楽寺に移葬されるまでは林泉寺にあった。(ウイキペヂアより抜粋)

1.林泉寺標柱
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2.山門
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3.山門から見た境内!
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4.境内社の春日大明神
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5.見事な本堂
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6.パンフレット
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7.林泉寺庭園の一部
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8.駒札
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9.同上 お墓
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10.直江兼続ご夫婦の駒札
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11.同上 お墓
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12.他のお墓が多数あります!
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2016/10/23

山形・仙台を見る!15.米沢城本丸跡の上杉謙信公を祀る上杉神社!  文化財研修記

山形県米沢市には天正6年(1578)上杉謙信公が、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られたが、次代の上杉景勝が会津を経て慶長6年(1601)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された。以後、米沢城二の丸の法音寺を主席とする11ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、11ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職を務めている。併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」とした。明治9年(1876)5月21日、現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座された。明治35年(1902)4月26日には別格官幣社に列せられる。この時鷹山は新たに設けた摂社「松岬神社」に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることとなった。大正8年(1919)の大火で境内は本殿以下全焼し、伊東忠太の設計により現在に残る社殿が再建された。

1.上杉神社の大鳥居
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2.手水舎
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3.二の大鳥居を見る!
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4.見事な神門と拝殿です!
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5.阿形の狛犬
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6.吽形の狛犬
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7.見事な拝殿前の神門!
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8.見事な拝殿
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9.拝殿内陣
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10.拝殿後部と本殿を斜めから見る!
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2016/10/21

山形・仙台を見る!14.伊達・蒲生・上杉と変遷した米沢城跡!  文化財研修記

米沢市丸の内1−4−13には米沢城址がある今では米沢城は、上杉の城下町であるが伊達家8代・宗遠から17代・政宗までの212年間は伊達家が米沢を支配していた。伊達政宗・幼名・梵天丸(ぼんてんまる)は永禄10年(1567)8月3日に父・輝宗の嫡男として米沢城に生まれた。母は最上義光の妹の義姫(よしひめ)です。政宗は、天正5年(1577)11月15日に米沢城で元服し『藤次郎政宗』(とうじろう)と名前を変えた。時の天下人・豊臣秀吉が天正18年(1590)正月に、北条氏の小田原城を攻めるから参陣せよと命令を受けたが、伊達政宗は北条氏と組んで天下を狙おうと企んでいたので参陣しなかった。しかし秀吉軍の圧倒的な数により、北条家が勝つ見込みがないと知ると渋々送れて参陣した。秀吉軍が勝った後に、迅速に参陣しなかった伊達家は米沢を没収され、奥州仕置により岩出山城に移された。米沢は奥州仕置後に蒲生氏郷(がもううじさと)が60万5千石を与えられると、米沢は支城として蒲生郷安が入居し松ヶ岬城と命名。氏郷が亡くなると秀行が133歳で家督を相続するが慶長2年(1597))に内紛が起き、秀吉に統制能力がないと見なされ宇都宮18万石に減封され蒲生氏の米沢支配は7,8年で終わった。上杉景勝は慶長3年(1598)に、蒲生氏の領土であった会津と米沢92万石を与えられこれまで所持していた佐渡と庄内を合わせ120万石となった。米沢城へは、上杉景勝の重臣・直江兼続が城主として入り、米沢は幕末の13代茂憲(もちのり)まで上杉家の居城となった。上杉家は慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の合戦で西軍側につき戦ったため、慶長6年(1601)7月26日に上杉景勝は大阪城で徳川家康に背いたので120万石から30万石へ削封されてしまった。貴重な金の調達場の佐渡の金山も失い禄を3分の1に減らされ、越後時代から居た家臣や社員・およそ6千余りがそのまま景勝に従い米沢へ移ったため、財政が困難になり大変苦しい時代を迎えた。更に上杉家3代・綱勝(つなかつ)には、子も養子もいない状況で腹痛で急死したため、跡継ぎがいない上杉家は幕府により改易されるのが当時のルールだったが、上杉家存続のため会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)の尽力により綱勝の妹・参姫と吉良義央との間に生まれた子の綱憲(つなのり)を、上杉家の養子にすることにより上杉家の存続を認められた。しかし領地の15万石を取り上げられてしまいさらに苦しくなった。吉良義央(きらよしなか)とは『忠臣蔵』で有名な吉良上野介(きらこうずけのすけ)のこと。米沢藩は普通の藩の2,3倍多く下級武士を抱えてたため、藩の財政は思うようにいかなかった。さらに徳川幕府による江戸城の橋や石垣製作の費用の負担や、吉良義央や綱憲の華美な生活により増え続ける借金。大火事で建物が焼失しても、能の舞台を作ったり新たに建物を新築したりして借金は増え続けた。高金利で商人に金を借りていたため、借金が増えに増え上杉家9代・上杉鷹山公の時代では米沢藩の借金は約16〜20万両になった。(今の金額で約100〜120億円)当時、米沢は全国で1番貧乏な藩だったらしい。幕府に藩を返上するかどうかの極致を迎えた。『なぜば成る なさねば成らぬ 何事も』上杉鷹山公は借金返済のため、自らの給料を削減し、当時の下級武士以下の生活だと言われている『一汁一菜』の食事をし木綿の服を着て、自ら藩の手本となって大倹約を行った。その甲斐があって今の米沢ができた。故に米沢では上杉鷹山は尊い存在にあり名前に”公”を付けて呼ぶのが一般化している。家督を譲り隠居してから名前が鷹山になった。元々天守閣などない典型的な東日本の城であり、上杉謙信公の遺骸を祀る詞堂があるが、明治維新政府の命で廃城となり城郭など濠を除いて殆ど無い!

1.松が岬公園が米沢城跡です!
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2.濠に掛かる橋!
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3.ここから見えるの上杉謙信公の祠堂のある本丸東南隅の高台です!
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4.反対側の濠!
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5.上杉謙信公の祠堂
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6.同上 駒札
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7.上杉鷹山公の像! 本丸跡には次回紹介する上杉神社が建てられています!
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8.天地人の像と偽装者達!
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2016/10/19

山形・仙台を見る!13.上杉鷹山公・直江兼続公など6御神を祀る松岬神社!  文化財研修記

米沢市丸の内1丁目3−63には上杉神社の摂社で松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を祀る松岬神社(まつがさきじんじゃ)がある。明治に入ると上杉謙信の祠堂を改めた上杉神社に合祀された米沢藩中興の大名・上杉鷹山は、明治35年(1902)に上杉神社が別格官幣社に列せられるに際し、米沢城二の丸世子御殿跡に設けた摂社「松岬神社」へ遷されることとなった。大正元年(1912年)9月28日には神殿が造営され、県社に列した。あわせて神餞幣公料供進神社にも指定された。大正12年(1923)4月に米沢藩2代上杉景勝、また米沢市制施行50周年にあたる昭和13年(1938年)には、景勝の家老である直江兼続、鷹山の師・細井平洲、鷹山の下で活躍した竹俣当綱・莅戸善政を合祀し、現在に至る。

1.松岬神社の標柱と鳥居
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2.駒札
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3.拝殿を見る!
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4.拝殿前の庭園
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5.二の鳥居と拝殿
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6.阿形の狛犬
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7.吽形の狛犬
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8.見事な拝殿
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9.拝殿をアップで見る!
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10.拝殿後部と本殿を見る!
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2016/10/17

山形・仙台を見る!12.伝国の社・米沢市上杉博物館!  文化財研修記

山形県米沢市丸の内1丁目には伝国の社(やしろ)米沢市上杉博物館がある。上杉氏ゆかりの城下町・米沢の歴史に触れる「米沢市上杉博物館」には、数千に及ぶ上杉氏ゆかりの貴重な品々や国宝が収蔵されています。展示室は「常設展示室」と「企画展示室」に分かれていて、常設展示室では上杉の歴史と文化を中心とした「江戸時代の置賜・米沢」を主軸に構成されています。
企画展示室では、置賜の歴史、上杉文化など歴史や美術に関する企画展や、郷土ゆかりの作家や作品を取上げた展示を行います。
また、博物館前には名君と呼ばれJ・F・ケネデイアメリカ大統領が尊敬していた上杉鷹山公(うえすぎようざんこう)の像があり、大統領の子女でキャロライン・ブービエ・ケネデイ駐日本大使のレリーフも平成26年9月に建立されている。

1.JR米沢駅で一日市内乗り放題「米沢乗るパス」500円を購入して見学開始です。
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2.伝国の社(やしろ)米沢市上杉博物館
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3.館内撮影禁止!可能な能舞台のみ撮影!
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4.博物館裏庭の見事な庭園を撮影
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5.博物館前の上杉鷹山公駒札
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6.同上  上杉鷹山公像
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7.キャロライン・ブービエ・ケネデイ駐日本大使のレリーフ
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2016/10/15

山形・仙台を見る!11.上杉の城下町・米沢市の宮坂考古館!  文化財研修記

山形県米沢市のJR米沢駅から徒歩で10分で公益財団法人の米沢藩の文化財を展示する「宮坂考古館」を見た!上杉謙信の上杉の姓の発祥地は京都府綾部市の上杉町であるからであった。米沢市の歴史文化財8ヶ所から5ヶ所を選んで1,300円と格安の「おもてなしクーポン」を購入した。この本館は、故宮坂善助初代館長が80余年の生涯をかけて蒐集した約7百余点の貴重な資料を収蔵している。その大部分は米沢・置賜地方の考古、歴史、民俗資料である。大別すると56領の甲冑をはじめ、火縄銃、槍、屏風など米沢藩関係の重要文化財が数多く含まれている。
 初代館長は若くから郷土史の研究に熱心で、地域の隅々にまで足を運んで考古資料の調査・収集を行った。戦後は特に旧藩関係の資料の散逸するのを惜しみ、その収集・保存に力を尽くした。収集した資料を広く人々に公開し地域文化の向上に資するために、昭和37年12月に私設博物館宮坂考古博物館を開設、昭和48年3月には財団法人宮坂考古館と組織を改め、更に昭和52年11月博物館法に基づいた博物館として登録された。新たに平成4年9月には新館もオープンし、土蔵とともに公開している。平成25年4月に公益財団法人と改める。

1.JR山形駅発08:15普通列車でJR米沢駅09:06着
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2.途中、蔵王山が見える!すばらしいスキー場がある諭旨!
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3.上杉の城下町・米沢の表示板
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4.徒歩で10分で宮坂考古館の看板が見えた!
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5.考古館
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6.パンフレット
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7.新館
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8.新館は一部撮影可能だった!
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2016/10/13

山形・仙台を見る!10.最上義光のお墓ある曹洞宗の光禅寺!  文化財研修記

山形市鉄砲町には最上義光のお墓のある曹洞宗の光禅寺(こうぜんじ)がある。慶長年間]に最上義光が自らの菩提寺とするため、現在の大石田町にある向川寺の9世、春林禅冬を招請して開創した。寺領は250石。当初は現在の七日町(当時の名称では三日町)にあり、慶長寺という名称であった。最上義光は慶長19年(1614)に没し、葬儀も慶長寺で行われた。この際、寒河江十兵衛尉ら4人が殉死している。その後、江戸幕府の社寺法規により年号を寺院名とすることが禁じられたため、元和年間に最上家親により光禅寺と改称された。元和8年(1622)に最上氏が改易となって近江国大森藩に移封されると、磐城国の磐城平藩(現在のいわき市)から鳥居忠政が山形に転封された。忠政が父元忠の菩提寺である長源寺を平から移すことになった際、光禅寺の寺地を使用することとなった。このため光禅寺は現在地に移転させられ、義光や殉死者の遺骸も改葬された。移転にあたっては諏訪神社前にあり既に廃寺となっていた天正寺を移築したとされる。改葬には最上氏の浪人500人から600人が集まって義光の遺骸を光禅寺に運んだといわれ、その後も山形に残った最上氏の旧家臣らにより寺が護持されてきた。移転の際に寺や住民と共に「三日町」の地名も同時に移転し、元の場所は「元三日町」と呼ばれるようになった。江戸時代に入っても光禅寺には義光から寄進された250石がそのまま幕府から朱印地として認められ、財政的には恵まれた寺院であった。嘉永年間の記録によれば6718坪の境内地に234坪の本堂があったといわれている。明治27年(1894)の山形市南部大火により、観音堂と鐘楼を残して全焼。貴重な宝物や古文書なども失われた。現本堂は大正2年(1913)の再建である。

1.光禅寺の駒札
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2.光禅寺庭園の駒札
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3.光禅寺入口
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4.太鼓橋
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5.本堂を見る!
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6.鐘楼
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7.山形108地蔵菩薩霊場の大23番札所の地蔵菩薩様
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8.再度、本堂を見る!
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9.庭園の駒札
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10.庭園の一部
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11.同上
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12.最上義光公のお墓
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