2016/9/30

山形・仙台を見る!3.国の重要文化財となっている第2代の山形県庁・山形県郷土館「文翔館」  文化財研修記

文翔館(ぶんしょうかん)は、山形県山形市の中心部にある国の重要文化財「山形県旧県庁舎及び県会議事堂を修復・利活用している施設の愛称。正式名称は「山形県郷土館」。日没から21:30までライトアップが行われている。大正5年(1916)に、第2代の山形県庁舎および山形県会議事堂として、イギリス・ルネサンス様式を基調としたレンガ造りで建てられた。設計は、米沢藩出羽国領・米沢(現・山形県米沢市)出身の中條精一郎を顧問とし、現・東京都出身の田原新之助が担当。同一人物の設計による同時期の建築ながら、旧県庁舎の方は外壁に山形県産花崗岩を用いているため、両者の外観の印象は異なる。 文翔館(第2代山形県会議事堂、第2代山形県庁舎)および前庭の県政史緑地。現在は、議場ホール(約250収容)、中庭、2つの会議室、8つのギャラリーが貸し出されている。また、文翔館の前庭にあたる南側には、1.6ヘクタールの面積に日本庭園・噴水・石張りの広場などを備えた「県政史緑地」(地図)が整備されている。文翔館と県政史緑地は別の施設であるが、一括して1つの指定管理者が管理・運営をしており、県民活動の場としての利用のほか、コンサートやライブ、その他屋外イベントが行われ、中心部の集客装置として機能している。なお、山形テルサを本拠とする山形交響楽団が、文翔館を練習場および小規模なコンサートの会場として利用している。

1.文翔館入口
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2.文翔館
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3.玄関ホール
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4.館内図
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5.館内その1.
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6.館内その2.
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7.館内その3.
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8.館外から2つの建物を見る!
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9.見事な庭園です!
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2016/9/28

山形・仙台を見る!2.山形城三ノ丸跡土塁と二ノ丸東大手門!  文化財研修記

山形城は山形城(やまがたじょう)は、山形県山形市霞城町にあった日本の城。別名は霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる。また、吉字城とも呼ばれた。国の史跡に指定され、日本1000名城に選定されている。おおよその城郭構造の基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。現在は、そのほとんどが失われ、二の丸跡が霞城公園として残されている。建造物では、大手南門が、市内の万松寺山門として移築され現存する。また、市内八日町宝光院の本堂は、御殿の建物を移築したものといわれている(県指定文化財)。山形市は、2033年をめどに本丸全体の発掘調査を完了させるとともに、本丸北枡形の復元を完了することを計画している。2012年度末現在、本丸は一文字門及び御殿等の写真・図面などの史料が発見されていないことにより、大型建築物の復元のめどは立っていないが、本丸大手門の高麗門及び土塀は時代考証に基づき復元が行われている。2013年の発掘調査は本丸西側濠の遺構が中心となり、本丸濠南西部に関しては本丸土塁構築が出来る状態となっている。20133年の発掘調査では三の丸跡から奈良・平安時代のものと推定される竪穴住居跡6棟が発見され、城下町は古代から存在した集落を基盤として形成されたのではないかとみられている。山形城が立地するのは山形盆地南側、馬見ヶ崎川扇状地の中央やや北寄りに位置する。羽州街道と笹谷峠の合流点に当たり、鎌倉時代までは最上郡の中心として栄えた。1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し、1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)初期の山形城が築城される。以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、最上氏本宗家の居城となった。最上義光が、慶長年間に城郭を拡大し三の丸を構築、家臣団の屋敷が置かれた。さらに城下町を整備し、慶長出羽合戦で得た出羽57万石の本城となる。元和8年(1622)最上氏が転封された後、鳥居忠政により改修がなされた。鳥居氏以後、たびたび主の変更があり、改修もなされたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、江戸中期以降は城の維持が困難になる。幕末には本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていた。

1.山形城三の丸跡の土塁の駒札
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2.三の丸方面へ
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3.三の丸土塁跡
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4.同上
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5.現在地
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6.山形城二の丸東大手門前
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7.下記をクリックして、「音声付動画」で山形城東大手門口周辺を見て下さい!
https://youtu.be/GMnJUKYyPU4

8.東大手門口
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9.東大手門櫓
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10.東大手門櫓内
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11.最上義光公勇戦の像
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12.山形城の石垣
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13.西門(まだ修復中です!)
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2016/9/26

山形・仙台を見る!1.山形城の土塁を持つ歌懸稻荷神社!  文化財研修記

山形市十日町1−1−26には主祭神の稲倉魂命(いなだまのみこと)、配神は大市姫命(おおいちひめのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、火産霊神(ほむすひのかみ)を祀る歌懸稻荷神社(うたかけいなりじんじゃ)がある。当神社は、山形城主斯波兼頼が山形城の守り神として城内に建立したのが、その始めと伝えられています。それより十代目、最上義定が山形城の内部に社殿を建て、十二代目義光のとき、天童城主との開戦に際して勝利を祈願するなど、最上家代々の信仰が厚いものがありました。城主や城下の人々が、短冊に歌を書いて神社に奉納する風習があり、歌を詠まないものは渡らせない橋も付近にはあったことから、歌懸の名が残ったと伝えられています。元和8年(1622)、最上家が改易されて新城主となった鳥居忠政は、人心一新をはかり、部内稲荷口(現山形駅付近)にあったこの社を三の丸の外の現在地に移しました。それ以降、このご縁日である毎月十日に定期市が門前で開かれ、十日町の名の起こりとなり、年の最初の十日市(1月10日)を初市と呼ぶなど、城下町の人々と深く結びつき信仰をあつめ、現在に至っております。尚、本来の社名は「歌懸稻荷神社」と 表記し、「稲」の字は旧字体の「稻」となっておりますが、当ホームページでは新字体の「稲」を使用しております。神社HPより抜粋。

1.JR京都駅発21;23発の夜行高速バスでJR山形駅に07:56到着。JR山形駅に併設のメトロポリタン山形ホテルに荷物を預けレンタル自転車で見学開始!
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2.スターバックス・コーヒー店で朝食
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3.歌懸稻荷神社標柱
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4.大鳥居
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5.駒札
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6.山形城の駒札(土塁・三の丸跡などは次回で掲載します。)
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7.二の大鳥居
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8.見事な拝殿
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9.拝殿内陣
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10.本殿
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11.毎年7月第二日曜に行われる例大祭を「音声付動画」で見てみたい方は下記をクリックして見てください!
https://youtu.be/5Q8RzvrQGkA

2016/9/24

高知・伊予を見る!39.(最終回)国宝の本堂を持つ真言宗の古刹・大宝寺!  文化財研修記

松山市南江戸には真言宗豊山派である大宝寺(たいほうじ)がある。山号は古照山。詳しくは、古照山 薬王院 大宝寺と号する。本尊は阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)。本堂は愛媛県内最古の木造建築で国宝に指定されている。寺伝によれば、飛鳥時代の大宝元年(701)に地元の豪族小千(越智)伊予守玉興が創建したと伝えられている。寺号は創建されたとされる年号に由来する。江戸時代には歴代松山藩主の祈願所となった。松平氏4代藩主松平定直によって貞享2年(1685)本堂の修理が行われた。うば桜伝説:角木長者伝説とも呼ばれる。その昔、この地に角木長者と呼ばれる豪族がいた。彼は子宝に恵まれなかった。薬師如来に祈りを捧げたところ娘が生まれた。娘の名を「露」と名付けた。露には「お袖」という名の乳母を雇い大切に育てた。お袖の乳の出が悪くなり、再び薬師如来に祈ると乳が出るようになった。そこで、お礼にお堂を建立した。これが大宝寺の始まりという。露は15歳になった時に重病にかかった。お袖は自分の命と引き替えに露を助けて欲しいと薬師如来に祈った。すると露の病気は平癒した。その祝いの席でお袖は病に倒れた。お薬師様との約束と言って、お袖は薬も飲まず治療を拒み、とうとう亡くなった。亡くなる直前に「お薬師様へのお礼に桜の木を植えて下さい。」と言い残した。長者は約束どおりお堂の前に桜の木を植えた。その桜は枝が伸びないうちから幹に2〜3輪の花が咲いた。その花はお袖の乳房のような形で、母乳のような色であったという。その後、母乳の出が悪い女性が参拝に訪れるようになった。この話は明治時代、小泉八雲によって英語に訳された。また、『怪談』にも納められている。

1.大宝寺標柱と前方に見えるのは山門です。
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2.見事な鐘楼
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3.乳母桜(うばさくら)(根回り2.8メートル、樹高5メートルで実際はエドヒガンサクラで3月下旬白に近い淡紅色の通常のエドヒガンサクラよりかなり大きな花弁で見事な乳母桜を咲かせます。)
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4.見事な手水舎、左側は乳母桜です。
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5.乳母桜の3月下旬の写真を借りてきました!
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6・鎌倉時代の国宝の本堂です。
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7.夢殿
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8.見事な夢殿内部
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2016/9/22

高知・伊予を見る!38.持統天皇の時代に創建された古社・朝日八幡神社!  文化財研修記

松山市南江戸5−12−1には氏神として足煩地主神(あぬみちしゅのかみ)。八幡三神として本陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、帯中津彦命(たらしなかつひこのみこと、仲哀天皇)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)、比売神、宗像三神として市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)、多紀理比売命(たぎりひめのみこと)、多岐津比売命(たぎつひめのみこと)を祀る朝日八幡神社がある。社伝によると持統天皇の治世(686〜697)に、仲哀天皇、神功皇后の行宮跡である沼台(ぬみだい)に、足煩地主神(あぬみちしゅのかみ)を祭り、沼戸明神(ぬみとみょうじん)と称した。その後、山城国乙訓郡(現在の大阪府・京都府の境)の山崎八幡宮(現在の離宮八幡宮)を勧請して、山崎八幡宮と改称した。元弘3年(1333)、河野通網が神領を献じる。延文6年(1361)、貞和年間に戦災を受けた社殿を河野氏が修理亮(しゅりのすけ)平範有に命じて現在地の朝日谷に社殿を造営した。応永19年(1412)、越智通成が社殿を増築。慶長6年(1601)、松山藩主加藤嘉明が城を松前から勝山城に移してから、松山八社八幡に加え厚く敬った。明治3年(1870)、以前よりの藩主の勧めに従い、社殿に朝日の差し込む姿から現在の朝日八幡神社に改称した。明治20年(1887)、社殿を火災で焼失、明治22年(1889)に現在の社殿が新築された。

1.朝日八幡神社の登り参道
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2.見事な神門と拝殿が見える!
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3.見事な拝殿
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4.拝殿内陣
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5.本殿は撮影が難しい!屋根のみが見える!
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6.下記をクリックして、秋祭りを「音声付動画」で見てください!
https://youtu.be/FShLepd_l7E

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2016/9/20

高知・伊予を見る!37.天智天皇の時代に創建された古社・阿沼美神社!  文化財研修記

松山市味酒町3−1には社伝によると越智守興が天智天皇3年(664)に創建したとされる阿沼美神社(あぬみじんじゃ)がある。味耳命の後裔である久米氏の氏神でもあったとされる。もとは現在松山城の建つ勝山の頂上にあり、「勝山三島大明神」とも称していた。慶長7年(1602)加藤嘉明が松山城を築く際、味酒村に移されたことから「味酒神社」と称するようになった。旧社格は県社。神紋は「傍折敷角切縮三文字」で、河野氏の家紋に同じである。ご祭神は主祭神大山積命 (おおやまづみのみこと)であり、雷神 (いかずちのかみ)、味耳命 (うましみみのみこと) 高御魂命八世の裔孫だが事蹟不詳。久米氏が末裔にあたる。その他多くの神を祀っている。その後も歴代松山藩主から篤く崇敬された。当時、味酒神社の行宮所は堀之内の西ノ馬場と城山東麓の杉谷にあり、それぞれ松山城の裏鬼門・表鬼門とされていた。また、通りを南に一つ隔てた曹洞宗江勝山雲祥寺は、明治4年(1871)の神仏分離令が出るまで、阿沼美神社の別当寺として社僧が仕えていたとされる。式内社・阿沼美神社とされて近代社格制度において県社に列格し、社号を旧称の「阿沼美神社」に復した。昭和20年(2945)7月の松山空襲で、社殿など数多くの建物が焼失し、昭和32年(1957)8月、鉄筋コンクリートの社殿が完成した。拝殿 内部には、旧伊予松山藩藩主の嫡流で元愛媛県知事の久松定武が揮毫した社号の額面が掲げられている。又、3つの句碑で有名です。

1.阿沼美神社を正面から見る!
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2.栗田樗堂(くりたちょどう)の句碑
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3.同上 駒札
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4.巨大な鳥居
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5.松尾芭蕉の句碑と駒札
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6.巨大な拝殿
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7.拝殿内陣(扁額は元松山藩久松家の嫡流のものです。)
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8.正岡子規の句碑
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2016/9/18

高知・伊予を見る!36.松山藩11代藩主松平定通が藩祖を祀ったのが始まりの東雲神社!  文化財研修記

松山市丸之内73−1には東雲神社(しののめじんじゃ)がある。松山藩11代藩主松平定通(さだみち)が文政6年(1823)に、東雲大明神(藩祖松平定勝)を祀ったのが始まりで、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)、天穂日命(あめのほひのみこと、久松松平家の家祖神)、菅原道真(すがわらのみちざね、天満大自在天神、久松松平家の家祖)、興長福玉命(おきなかさきたまのみこと)、奇足玉命(くしたるたまのみこと、伊予松山藩11代藩主、松山藩中興の祖松平定通)、真都栄命(まつさきのみこと、伊予松山藩16代藩主、老中松平定昭)、稚国玉命(わかくにだまのみこと、藩祖松平定勝の嫡男松平定吉)を祀っている。天保11年(1840)に社殿が完成し、一般の参拝が許され、東雲大明神と呼ばれるようになった。昭和20年の松山大空襲で神社内の多くの建物が焼失したが、1971年伊勢神宮の分社松山大神宮を奉還し、1973年に神明造りの社殿が完成した。

1.東雲神社標柱
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2.登り参道
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3.神門
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4.登り参道と大鳥居
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5.巨大な神明造りの拝殿と本殿
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6.拝殿から本殿を見る!
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7.神社駒札
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8.神社所有の文化財
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2016/9/16

高知・伊予を見る!35.日本12名城の一つ松山城を見る!3−3  文化財研修記

松山城は、松山市の中心部である標高132mの城山(勝山)山頂に本丸があり、裾野に二之丸にのまる(二之丸史跡庭園にのまるしせきていえん)、三之丸(堀之内)がある、広大な平山城です。加藤嘉明(かとうよしあき)公こうが1602年から築城を開始し、わが国の築城史上、最長の歳月(四半世紀)を完成までに要した四国最大の城郭で、「現存する12天守」の中では、姫路城と並ぶ連立式の天守を有しています。加藤氏は、城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生氏を経て1635年から明治維新までの235年間に渡り、親藩大名であった松平家の居城となりました。わが国最後の完全な城郭建築と言われている大天守の最上階からは、360度眺望がひらけ、松山平野まつやまへいやや瀬戸内海などを見渡すことができます。日本で唯一現存している望楼型二重櫓(ぼうろうがたにじゅうやぐら)である野原櫓や、「現存12天守」の城郭では松山城と彦根城しか存在が確認されていない、韓国の倭城の防備手法である「登り石垣」が二之丸にのまるから本丸にかけてあり、また、堀之内を含む城山公園全体が国の史跡で、「日本さくら名所100選(平成元年)」や「日本の歴史公園100選の指定も受けています。 

1.三ノ門
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2.二ノ門
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3.大天守を見上げる!
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4.大天守閣を登る!
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5.初代松山城々主・加藤嘉名(よしあき)公の鎧兜
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6.第三代目城主の松平定行の鎧兜(この松平定行は徳川家康公の異父同母弟の松平定勝の子で明治維新まで続くが明治維新後旧姓の久松姓に戻った。)
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7.天守閣にある「石落(いしおとし)」
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8.松山城全景を見る!
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9.平成18年81年振りに天守閣のシャチが変わった!この旧シャチは全国に名前を募集して、左が天丸、右がまつ姫と決まった!
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10.ロープウエー乗り場近くには加藤嘉明の騎馬像がある!
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2016/9/14

高知・伊予を見る!34.日本12城の一つ松山城!3−2  文化財研修記

松山城は、松山市の中心部である標高132mの城山(勝山)山頂に本丸があり、裾野に二之丸にのまる(二之丸史跡庭園にのまるしせきていえん)、三之丸(堀之内)がある、広大な平山城です。加藤嘉明(かとうよしあき)公こうが1602年から築城を開始し、わが国の築城史上、最長の歳月(四半世紀)を完成までに要した四国最大の城郭で、「現存する12天守」の中では、姫路城と並ぶ連立式の天守を有しています。加藤氏は、城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生氏を経て1635年から明治維新までの235年間に渡り、親藩大名であった松平家の居城となりました。わが国最後の完全な城郭建築と言われている大天守の最上階からは、360度眺望がひらけ、松山平野まつやまへいやや瀬戸内海などを見渡すことができます。日本で唯一現存している望楼型二重櫓(ぼうろうがたにじゅうやぐら)である野原櫓や、「現存12天守」の城郭では松山城と彦根城しか存在が確認されていない、韓国の倭城の防備手法である「登り石垣」が二之丸にのまるから本丸にかけてあり、また、堀之内を含む城山公園全体が国の史跡で、「日本さくら名所100選(平成元年)」や「日本の歴史公園100選の指定も受けています。

1.松山城の石垣(太鼓櫓)への途中
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2.筒井門西続櫓方面を見る
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3.松山城の石垣の駒札
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4.太鼓櫓方面へ向かう!
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5.太鼓櫓を見る!
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6.右手の屋根が大天守で左側は少天守!
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7.隠門方面へ向かう「見えるのが戸無門(となしもん)」
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8.戸無門前から松山市街を見る!
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9.隠門(かくれもんん)
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10.隠門続櫓(かくれもんつずきやぐら)
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11.太鼓櫓
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12.天守閣に向かって歩く!
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13.大天守閣を見る!
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14.筋鉄門(すじがねもん)
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2016/9/12

高知・伊予を見る!33.日本12名城の一つ松山城を見る!3−1  文化財研修記

JR宇和島駅発08:40特急電車宇和海8号でJR松山駅に10;07に到着。ロッカーに荷物を預けて、レンタル自転車で先ず2回ロープウエーの最終時間に間に合わず見学できていなかった松山城を見学します。松山城は、松山市の中心部である標高132mの城山(勝山)山頂に本丸があり、裾野に二之丸にのまる(二之丸史跡庭園にのまるしせきていえん)、三之丸(堀之内)がある、広大な平山城です。加藤嘉明(かとうよしあき)公こうが1602年から築城を開始し、わが国の築城史上、最長の歳月(四半世紀)を完成までに要した四国最大の城郭で、「現存する12天守」の中では、姫路城と並ぶ連立式の天守を有しています。加藤氏は、城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生氏を経て1635年から明治維新までの235年間に渡り、親藩大名であった松平家の居城となりました。わが国最後の完全な城郭建築と言われている大天守の最上階からは、360度眺望がひらけ、松山平野まつやまへいやや瀬戸内海などを見渡すことができます。日本で唯一現存している望楼型二重櫓(ぼうろうがたにじゅうやぐら)である野原櫓や、「現存12天守」の城郭では松山城と彦根城しか存在が確認されていない、韓国の倭城の防備手法である「登り石垣」が二之丸にのまるから本丸にかけてあり、また、堀之内を含む城山公園全体が国の史跡で、「日本さくら名所100選(平成元年)」や「日本の歴史公園100選の指定も受けています。 なお、松山城ロープウェイ東雲口駅舎1階には、(財)松山観光コンベンション協会による観光案内所が設置されていますので、観光情報を得るのにとても便利です。顔抜きパネルや観光レンタサイクルポートもあります。

1.JR松山駅前の正岡子規の句碑
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2.同上駒札
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3.松山城二之丸(堀之丸)の堀が見えて来た!
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4松山市街地図
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5.二之丸の堀沿いにある「八股お袖大明神」
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6.松山市役所
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7.愛媛県庁
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8.ロープウエーで松山城天守閣のある城山へ。
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9.同上
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10.城山にある城郭案内図
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