2016/7/31

高知・伊予を見る!11.土佐一之宮で長宗我部元親が再建した国重文の本殿・幣殿・拝殿等を持つ土佐神社!  文化財研修記

高知市一宮しなね2−16−1には延喜式内社の土佐神社がある。ご祭神は味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)と一言主神(ひとことぬしのかみ)を祀っている。『日本書紀』の天武天皇4年(675)年3月2日の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」とあり、また朱鳥元年(686)の8月13日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされていますが、『土佐国風土記』逸文には「‥土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」とあり、祭神の変化がみられ、祭神を一言主尊と味鋤高彦根尊としています。この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。土佐神社の創祀については、明らかでありませんが、境内東北方の礫石と呼ばれる自然石を磐座として祭祀したものと考えられ、古代に遡ると言われています。延喜の制が布告された平安時代、醍醐天皇の御代には式内大社に列せられ都佐坐神社と称され、特に皇室の崇敬あつく勅使の参向もしばしばあり、朱雀天皇の御代天慶3年(940)年には、神階を正一位に進ませられています。鎌倉時代初頭には神仏習合時代に入り、土佐国総鎮守一宮とされました。当社・神宮寺・善楽寺にて一宮を形成、土佐高賀茂大明神と称えられました。室町時代には、武門の崇敬あつく、正親天皇の御代元亀元年(1570)には、長宗我部元親が、戦の勝利の報告に「入蜻蛉(いりとんぼ)建築」の本殿、幣殿、拝殿を再興、安土桃山時代後陽成天皇の御代慶長6年(1601)には、山内一豊封をこの地に享けると共に以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社、末社を始め、鳥居、楼門、鼓楼を増築して、土佐の国最上の祈願所としました。明治元年、神仏分離令により、永年続いた神仏習合時代が終わり、明治4年には土佐神社と改称、社格を国幣中社に列しました。戦後、昭和21年(1946)官国幣社の制度が廃止され、現在では神社本庁の別表神社とされています。味鋤高彦根神は、大国主神の御子であらせられ、国土の開拓、農工商あらゆる産業の繁栄の神様であることが伝えられ、一言主神は、和合協調の神として一言で物事が解決されるという特殊な信仰のある神様です。これにより当社は、古くより南海の総鎮守として家内安全、農産繁栄、建設、政治などの神様とされ、さらに御功績により航海安全、交通安全、病気平癒の神様と称えられるなど、広く開運招福の御神徳があるとして、崇敬されています。

1.国重文で土佐藩二代目藩主山内忠義が再建した楼門と標柱
クリックすると元のサイズで表示します

2.同上 楼門
クリックすると元のサイズで表示します

3.神社の駒札
クリックすると元のサイズで表示します

4.楼門の阿形随神(木の格子と金網で撮影が難しい!)(右大臣と呼ぶ格式ある神社もあります。)
クリックすると元のサイズで表示します

5.吽形随神(左大臣)
クリックすると元のサイズで表示します

6.長い参道にびっくり!
クリックすると元のサイズで表示します

7.手水舎
クリックすると元のサイズで表示します

8.大鳥居
クリックすると元のサイズで表示します

9.入蜻蛉建築の拝殿(長宗我部元親造営の国の重文)
クリックすると元のサイズで表示します

10.二代目藩主山内忠義造営の国重文の鼓楼
クリックすると元のサイズで表示します

11.拝殿をアップで見る!
クリックすると元のサイズで表示します

12.参拝順路
クリックすると元のサイズで表示します

13.拝殿を斜めから見る!
クリックすると元のサイズで表示します

14.拝殿内陣を見る!
クリックすると元のサイズで表示します

15.国重文の幣殿を横から見る!
クリックすると元のサイズで表示します

16.三摂社を見る!
クリックすると元のサイズで表示します

17.同上
クリックすると元のサイズで表示します

18.幣殿後部と本殿を横から見る!
クリックすると元のサイズで表示します

19.珍しい「輪抜け祓所」
クリックすると元のサイズで表示します

20.同上 駒札
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2016/7/29

高知・伊予を見る!10.日本で長宗我部元親を唯一祭る秦神社!  民俗民具

高知市長浜の雪蹊寺の隣には御祭神に長宗我部元親公之霊、秦家代々之霊 宗親忠死の徒を祀る唯一の秦神社(はたじんじゃ)がある。明治の神仏分離令のため御創建明治4年4月7日で祭 日の夏祭は7月20日で、秋の例祭は11月13日です。 長宗我部氏の菩提寺である雪蹊寺が明治3年廃寺となったため、子孫にあたる島弥九郎等が奔走。同寺に安置された元親公の御木像や戸次川戦々没者の霊璽板等を御神体として譲りうけ、長浜古城の麓にあるのが当社である。主神の元親公は前の土佐の太守で、慶長4年5月山城の伏見邸に薨去し、雪蹊寺を菩提所と定められた。山内家入府後は当院は寺領百石香奠として、その後寛政9年には200年忌法要が、又、嘉永元年には250年忌法要が雪蹊寺で行われた。その後、明治32年には当社で元親公の350年忌法要が行われて、昭和3年には正三位追贈され、昭和18年8月、高知県社に昇格、昭和27年宗教法人となり、現在に至っている。 当社には、天正14年2月12日、豊臣氏の島津征伐に際し、先陣として豊後の国(大分県)戸次川で戦い戦死した信親公主従の名を刻した霊板が奉安されている。「土佐物語」によると、この時の長宗我部勢の戦没者は2727名といわれている。なお、当社々宝の元親公画像(国重要文化財)は高知県立郷土文化会館(現高知県立文学館)に寄託、保管されている。

1.秦神社の鳥居と狛犬
クリックすると元のサイズで表示します

2.阿形の狛犬
クリックすると元のサイズで表示します

3.吽形の狛犬
クリックすると元のサイズで表示します

4.秦神社の駒札
クリックすると元のサイズで表示します

5.秦神社拝殿
クリックすると元のサイズで表示します

6.近くに長浜城址があるとの駒札
クリックすると元のサイズで表示します

7.こんな凄い登り道なので止めた!
クリックすると元のサイズで表示します

8.秦神社拝殿
クリックすると元のサイズで表示します

9.拝殿内陣を覗く!
クリックすると元のサイズで表示します

10.拝殿後部に続く廊下と本殿を横から見る!
クリックすると元のサイズで表示します

11.本殿裏側に「長宗我部元親慰霊之碑」の案内板があった!神社は必ず一周するのが当然です!本殿の裏側に遥拝する場所のある格式高い神社も結構あります。
クリックすると元のサイズで表示します

12.長宗我部元親慰霊之碑!
クリックすると元のサイズで表示します

13.まったく新しい碑なので建立碑を見るとなんと平成27年の建立です。
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2016/7/27

高知・伊予を見る!9.四国88ケ寺霊場の第33番で珍しい臨済宗・妙心寺派の雪蹊寺!  文化財研修記

高知市長浜8570−3には四国では珍しい四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院である雪蹊寺(せっけいじ)がある。弘法大師によって弘仁6年に開創されたころは真言宗で、「高福寺」と称した。その後、寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっている。2つ目は、鎌倉時代の高名な大仏師、運慶とその長男、湛慶がこの寺に滞在し、運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像を制作、また、湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげるかわいい善膩師童子像を彫造して安置したとされる。一時、慶運寺と名のったのもこうした由縁で、これらはすべて国の重要文化財に指定されている。3つ目は、「南学発祥の道場」といわれ、江戸初期の住職、天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍し、野中兼山などのすぐれた儒学者を数多く生みだしている。雪蹊寺で出家し四国を17回遍路した山本玄峰師は、まさに行雲流水の禅僧であった。

1.四国88箇所霊場の第33番札所の雪蹊寺の山門
クリックすると元のサイズで表示します

2.山門を潜り左側には明治の廃仏毀釈で大苦労をして、明治19年(1879)にこの寺を再興した当時の住職は太玄老師でその跡を継いだのが山本玄峰老師で88箇所巡りを17回もした、正に名僧であった!
クリックすると元のサイズで表示します

3.山本玄峰老師禄
クリックすると元のサイズで表示します

4.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

5.見事な鐘楼
クリックすると元のサイズで表示します

6.見事な大師堂!
クリックすると元のサイズで表示します

7.大師堂の見事な彫刻を見て下さい!
クリックすると元のサイズで表示します

8.本堂全体を見る!
クリックすると元のサイズで表示します

9.観音堂
クリックすると元のサイズで表示します

10.長宗我部元親の嫡男で豊臣秀吉公の弟秀長に従い、島津軍と豊後の戸次川(へつぎかわ)の戦(1586)で2、727名の部下と共に討死した長宗我部信親のお墓がある。元親の後を4男の盛親が継いだが、信親が生きていたら決して西軍には付いていなかっただろうと言われている。
お墓へのはこの下を潜り参ります!
クリックすると元のサイズで表示します

11.長宗我部信親のお墓
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2016/7/25

高知・伊予を見る!8.長宗我部元親初陣の像と若宮八幡宮!  文化財研修記

高知県高知市長浜6600 には主祭神の応神天皇、神功皇后、宗像三女神 (市杵島姫命、湍津姫命、田心姫命)を祀る若宮八幡宮がある。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の記述によれば、源頼朝は平氏を討ち果たした文治元年(1185)に京都六条にあった祖父源為義邸跡に石清水八幡宮を勧請し六條若宮八幡宮を創建した。この時、土佐国吾川郡一円を六條若宮八幡宮の神領とし、鎮護のために同年12月30日、当地にも若宮八幡宮を分祀したとされている。戦国時代の永禄3年(1560)長宗我部元親は初陣に臨み、若宮八幡宮馬場先に陣を構えた。この時に初陣を勝利で飾った。以来、元親は合戦のたびに当社で戦勝祈願を行うようになった。江戸時代に入り山内氏が土佐藩主となって以後も崇敬され藩主祈願八社の一つとされた。明治時代になり近代社格制度が制定されると、明治6年(1873)郷社に列した。更に昭和5年(1930)には県社となった。現在は高知市南部(長浜、御畳瀬、浦戸、横浜)の総鎮守となっている。
長宗我部元親が合戦のたびに当社で戦勝祈願を行うようになり、拝殿は出蜻蛉式(でとんぼ建築)に立て直された。また、凱旋報告を行う土佐神社の拝殿を入蜻蛉式(いりとんぼ建築)に改めた。日本では蜻蛉は勝ち虫とも言われ古来より縁起物とされてきたことによる。天正14年(1586年)豊臣秀吉に従軍し島津討伐に向かう際、元親は戦勝祈願を行った。この時、軍旗が鳥居の笠木に引っかかって落ちた。衆人はこれを不吉としたが、元親は「敵を笠にかけて討伐する吉兆である」と出陣した。しかし、戸次川の戦いで嫡子信親を失うなど惨敗となった。憤慨した元親は帰国後、この鳥居を不祥のものとして解体し海に流したという。幕末の慶応元年(1865)に地震があった際に鳥居の基礎が浮き出たという。これは神意であると明治3年(1870)木製にて鳥居を再建した。老朽化により昭和11年(1936)に建て替えられた。現在の鳥居は、木製鳥居が老朽化したので昭和55年(1980)鉄筋コンクリート製にて建て替えられたものである。長宗我部元親初陣像は外苑に建つ銅像で平成11年(1999)元親没後400年を期して造られた。槍を持ち像の前にある四国地図を掴もうとする姿になっている。四国地図には初陣当時の四国の勢力分布が記されている。台座を含めた高さ約7メートル、槍の長さ約6メートルもある。

1.若宮八幡宮の標柱と鳥居
クリックすると元のサイズで表示します

2.阿形の狛犬
クリックすると元のサイズで表示します

3.吽形の狛犬
クリックすると元のサイズで表示します

4.長い外苑の参道
クリックすると元のサイズで表示します

5.長宗我部元親初陣像の駒札
クリックすると元のサイズで表示します

6.長宗我部元親没後400年祭(平成11年)で造られた22歳の初陣像!高さ7メートル、槍は6メートルもあるそうです!(この歳で初陣で大勝利した!)
クリックすると元のサイズで表示します

7.老生の写真は何時も左下がりだそうです!もう1枚撮影!
クリックすると元のサイズで表示します

8.この像のほぼ反対側は「どろんこ祭り・神田」です!
クリックすると元のサイズで表示します

9.下記をクリックして、「音声付動画」でごろんこ祭を見て下さい!
https://youtu.be/X9CskpmxoVI


10.若宮神社の注連縄
クリックすると元のサイズで表示します

11.鳥居
クリックすると元のサイズで表示します

12.鳥居の駒札
クリックすると元のサイズで表示します

13.見事な拝殿は出蜻蛉式(でとんぼ建築)
クリックすると元のサイズで表示します

14.拝殿、幣殿、本殿と続句がどうしても撮影できない!後日インターネットで探しでも本殿の写った写真は無かった!
クリックすると元のサイズで表示します

15.で!再度、見事な拝殿は出蜻蛉式(でとんぼ建築)を撮影した!
クリックすると元のサイズで表示します


16.多くの摂社や見事な末社も多かったが、ここでは天神宮のみを取り上げた!駒札
クリックすると元のサイズで表示します

17.天神宮
クリックすると元のサイズで表示します

17.縁起の好い亀石が有ったので撮影!
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2016/7/23

高知・伊予を見る!7.長宗我部元親の愛馬の塚と元親のお墓!  文化財研修記

高知市浦戸の「一領具足供養塔・六体地蔵」から花街道・県道14号線を少し歩き、右に折れて300メートルで「元親公史跡バス停」にいいたる。「愛馬の塚」は長宗我部元親が秀吉から拝領した『内記黒』の墓であると伝えられている。『土佐物語』によると、戸次川合戦のとき、四国勢は作戦の失敗から、薩摩勢の猛攻により指揮系統は分断され、乱戦の中で信親の生死も分からず、主従わずか21騎となった元親は、武運もこれまでと馬を捨てて戦い、敵陣に斬り込もうとしていた。これを見て、家来の一人が走りよっておしとどめ、自分の馬に乗せようとしたところ、奇跡的にも戦場から内記黒がかけてきたので、家来は「これぞ家運の尽きぬしるし」と大いに喜び、元親を乗せて敵中を突破し、府内に逃れることが出来た」と記され、内記黒が元親の命を救ったという逸話が残っている。

1.愛馬の塚(表)
クリックすると元のサイズで表示します

2.裏側の碑文
クリックすると元のサイズで表示します

長宗我部元親の生涯
●岡豊城1539年1歳)土佐国岡豊城主、長宗我部国親の長男として生まれる。
1560年遅い初陣(22歳)
●家督相続は 父、国親の死により、家督を相続する。1563年(23歳)(25歳の時、美濃国の斎藤利三の娘と結婚。
●土佐平定1574年(36歳)土佐国中村の一条兼定を豊後国へ追放。1575年(37歳)
再起をはかり挙兵した一条兼定に勝利し、土佐国一国を平定。(四万十川の戦)その後は織田信長と誼を通じ、領土拡大を目指す。
●信長との対立が起きる!1582年(44歳)その台頭を快く思わない信長と対立するようになり、四国征伐の準備までされていたが、本能寺の変による信長の死で窮地をしのぐ。中富川の戦で、信長に従っていた十河存保に勝利し、阿波国を配下にする。1583年(45歳) 引田の戦で十河存保の援軍、仙石秀久に勝利する。 十河城を攻め落とす。これにより讃岐国を平定。
●四国平定は1585年(47歳)伊予国も攻略し、この時点で四国全土をほぼ支配下に置く。
●羽柴(豊臣)秀吉の10万による四国攻めに抵抗するが敗北し降伏、土佐国一国だけを安堵される。1587年(48歳) 秀吉の九州攻めに従軍。この際の、戸次川の戦で嫡子信親が戦死。
1590年(52歳) 秀吉の小田原城攻めに、水軍を率いて従軍。1592年〜1597年 (54歳〜59歳) 二度に渡る朝鮮への侵攻(文禄の役・慶長の役)に参陣。1597年ころ(59歳) 領国統治のための法典「長宗我部元親百箇条」を制定。1599年(61歳)で京都伏見で病没する。 伏見で病没し遺骸は土佐に贈られ埋葬された。土佐国の小さな領主に過ぎなかったが、勇猛果敢な戦術でわずか10年で四国をほぼ平定した。しかし折悪しく天下統一事業を進めていた信長・秀吉の全盛期と重なってしまい、その夢は長くは続かなかった。 嫡男の戦死後、養子に出していた二男や三男ではなく、四男の盛親を後継に指名したことから、相続問題が生じた。大阪の陣で敗退、土佐は山内一豊が入府する。

3.県史跡「長宗我部元親のお墓に向かう!(天甫寺山(てんぽじやま)の中腹)
クリックすると元のサイズで表示します

4.長宗我部元親公のお墓
クリックすると元のサイズで表示します

5.同上
クリックすると元のサイズで表示します

6.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2016/7/21

高知・伊予を見る!6.稲の精を神格化した宇迦魂神を祀る宇賀神社!  文化財研修記

高知市浦戸の県道14号線沿いの裏戸には文政8年(1825)生まれの浪速狛犬がおり、石段を数段上がると鳥居があり、境内は横に広く明るく、正面に千鳥破風付き入母屋造りの拝殿が建立され、後ろの「糠塚」と呼ばれる小山の上に本殿が建立されています。祭神は稲の精を神格化した宇迦之御魂神です。祭礼日は11月8日で通称『糠塚(ぬかづか)さま』と呼ばれ、高知市浦戸南浦地区の氏神様として広く崇敬されています。 宇賀神社が『糠塚さま』と呼ばれるのは、昔々土佐の国がまだ『タケヨリワケ』と言われていたころ、この地には宇賀信高という長者(村の大富豪)が住んでいました。この長者が作ったたくさんの米の糠を一所に捨てているうちに小さな塚ができやがて小山のようになり、そこに穀物の神様である『宇迦之御魂神』をお祭りしたのが始まりとされています。地元の人々は親しみを込めて『糠塚さま』と呼んでいます。
南浦地区は西と東に二地区あることから、神輿も二基あり、神社での例祭の後、それぞれの神輿に分神霊をいただき各地区を練り歩きます。
(「若宮八幡宮」公式サイトより)
本殿がある小丘のことを糠塚とも宇賀塚ともいう。宇賀長者は天武天皇白鳳年間の土佐の富豪であったとの伝えがあり、この小丘は宇賀長者が脱穀した籾殻が堆積して糠塚となったといわれている。宇賀神社の祭神は宇迦魂神(ウカノミタマノカミ)で、稲の神、商売繁盛の神である。

1.手水舎
クリックすると元のサイズで表示します

2.文政8年(1825)の銘の入った狛犬と鳥居
クリックすると元のサイズで表示します

3.隣の吽形の狛犬には角があります。(もっとしっかりアップで撮影すべきでしたが、当会の記事は画像をクリックすると5,000ピクセルの画像になります。)
クリックすると元のサイズで表示します

4.拝殿正面の鳥居
クリックすると元のサイズで表示します

5.拝殿
クリックすると元のサイズで表示します

6.拝殿背後の糠塚(ぬかつか)の本殿へ向かいます!
クリックすると元のサイズで表示します

7.本殿への登り参道
クリックすると元のサイズで表示します

8.糠塚の本殿
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2016/7/19

高知・伊予を見る!5.一領具足の供養の碑・六体地蔵を祀る石丸神社!  文化財研修記

高知市浦戸の県道の横には一領具足(いちりょうぐそく)は、戦国時代の土佐国の戦国大名、長宗我部氏が兵農分離前の武装農民や地侍を対象に編成、運用した半農半兵の兵士および組織の呼称。『土佐物語』では、死生知らずの野武士なりと書かれている。普段は、農民として生活をしているが、領主からの動員がかかると、一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を携えて、直ちに召集に応じることを期待されていた。突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も、常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたため、一領具足と呼称された。また正規の武士であれば予備を含めて二領の具足を持っているが、半農半兵の彼らは予備が無く一領しか具足を持っていないので、こう呼ばれていたとも言う。このような半農半兵の兵士であるから、一領具足は通常の武士が行うべき仕事は免除されていた。農作業に従事しているために、身体壮健なものが多く、また集団行動の適性も高かったため、兵士として高い水準にあったと考えられる。ただし、その半農半兵という性質上、農繁期の動員は困難であり、長期にわたる戦役には耐えられなかったと推測される。兵農分離によって農繁期でも大規模な軍事行動を起こせるようになった織田などの勢力とは、全く逆の方向に進化した軍事制度といえる。一領具足を考案したのは長宗我部国親である(家臣の吉田孝頼という説もある)。もっとも積極的かつ効率的に一領具足を運用したのは、国親の子の長宗我部元親である。元親は精強な一領具足を率いて四国統一を果たしたが、豊臣秀吉による四国征伐によって、元親の領地は大幅に削減され、土佐一国のみとなる。さらにその後の関ヶ原の戦いでは、家督を継承していた元親の四男長宗我部盛親が西軍に与したため、戦後、所領は没収され改易となった。長宗我部家の後継として土佐を与えられたのは山内一豊だったが、長宗我部家の遺臣団は新領主の登場を必ずしも歓迎しなかった。竹内惣右衛門を中心とする一領具足は、浦戸城の引渡しを拒否し、盛親に旧領の一部(土佐半国という)を与えることを要求した(浦戸一揆)。山内一豊は弟の山内康豊を鎮圧に派遣。遺臣団側は浦戸城に篭城して抵抗したが、城内の裏切りによって開城、降伏した。273人の一領具足が斬首され、その首は塩漬けにされて大阪の井伊直政のもとへ送られたという。その後も高石左馬助を中心とする滝山一揆など、一領具足による反乱が起こったが、山内家はこれを鎮圧し、やがて一領具足を含む長宗我部遺臣団を、藩士(上士)以下の身分である郷士として取り込んだ。土佐では郷士は藩士と厳密に区分されたため、江戸時代を通じて上下対立の原因となった。


1.桂浜からは」バスが少ないので山越えで石丸神社へ向かった!きつい!
クリックすると元のサイズで表示します

2.漸く県道の横に「一領具足供養の碑・六体地蔵地蔵様」が見つかる!
クリックすると元のサイズで表示します

3.石丸神社駒札
クリックすると元のサイズで表示します

4.石丸神社
クリックすると元のサイズで表示します
5.六体地蔵供養の碑駒札


6.最後にアップで六体地蔵尊を見てサヨウナラ!
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2016/7/17

高知・伊予を見る!4.桂浜と坂本龍馬像と浦戸城跡!  文化財研修記

高知を代表する景勝地『桂浜』の背後の山一帯が、長宗我部氏最後の居城、浦戸城跡である。ここは、北、東、南を海に囲まれた要害の地であり、また、紀貫之の『土佐日記』にも出てくる浦戸の港を擁し、上方との連絡、水軍の保有にも便利なところであった。長宗我部元親は一時、四国の大部分を占領したが、豊臣秀吉公の四国征伐で降参して土佐一国を領した。最初、天正16年(1588)現在の高知城のある大高坂山に築城しようとしたが、鏡川の治水に失敗し、天正19(1591)年に浦戸へと移り、本拠とした。以後約100年間、子の盛親が関ヶ原の合戦で敗れるまで、長宗我部氏の居城であった。山内一豊が高知城を築くにあたり、浦戸城の石垣などを取り壊して運んだといわれており、浦戸城は石垣の一部と尾根の西方二ノ丸付近に3条の堀切を残すのみであるが、古城としての面影を偲ぶことができる。

1.浦戸城の位置
クリックすると元のサイズで表示します

2.坂本竜馬像(相変わらず女性に人気があります!)
クリックすると元のサイズで表示します

3.桂浜
クリックすると元のサイズで表示します

4.元の浦戸城古図
クリックすると元のサイズで表示します

5.浦戸城壁の一部
クリックすると元のサイズで表示します

6.浦戸城跡碑
クリックすると元のサイズで表示します

7.元天守台には二つの神社が祀らていた!
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2016/7/15

高知・伊予を見る!3.長宗我部の残党・一領具足を捕獲した戎神社!  文化財研修記

高知市浦戸(桂浜近く)には戎神社がある。慶長6年(1601)、長宗我部の残党の一領具足(半士半農)にてをやいた山内一豊はこの戎神社の祭礼の「大相撲大会」に多額の賞金を出し、国中に触れを出し、相撲好きの一領具足を多数集め一網打尽にした。主だった者73名をみせしめのため種崎浜で磔にした。その後、一領具足の抵抗は殆ど無くなったと言う。

1.竹林寺から「My遊一日券」で桂浜へ向かう、浦戸大橋を渡る!
クリックすると元のサイズで表示します

2.桂浜駐車場から徒歩5分で戎神社へ
クリックすると元のサイズで表示します

3.戎神社の鳥居
クリックすると元のサイズで表示します

4.海岸の登り参道
クリックすると元のサイズで表示します

5.同上
クリックすると元のサイズで表示します

6.戎神社(祠のように小さな神社だった!)
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2016/7/13

高知・伊予る!2.日本三文殊の一つで88ケ寺霊場31番の五台山・竹林寺!  文化財研修記

高知市五台山3577には神亀元年(724)、聖武天皇(しょうむてんのう)の勅願(ちょくがん)を奉じた行基(ぎょうき)により唐の五台山(ごだいさん)になぞらえ開創され五台山・竹林寺がある。  開創の縁起には、時の帝・聖武天皇が文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の霊場として名高い大唐の五台山に登り、かの地で親しく文殊菩薩から教えを授かるという夢をご覧になりました。そこで帝は、行基に日本国中よりかの大唐五台山に似た霊地を探し、伽藍(がらん)を建立するように命ぜられたのでした。  かくして、土佐のこの地が選ばれ、行基自ら謹刻した文殊菩薩像を本尊とし当山は開創されたと伝えられています。  時代は下り、大同年間(806〜809)には弘法大師が四国回国の砌、当山に錫(しゃく)を留めて修行され、この由縁をもって、当山はのちに四国霊場第三十一番札所に定められるところとなりました。
 その後、時代を経て江戸時代に至っては、土佐代々藩主の帰依を受け、藩主祈願寺として寺運は隆盛。堂塔は土佐随一の荘厳を誇り、学侶が雲集し、学山(がくざん)(学問寺)として当地における宗教・文化の中心的役割を担うに至りました。今日、土佐の民謡「よさこい節」で広く親しまれています純信(じゅんしん)・お馬の恋物語はこの竹林寺の南の坊の住職であった純真が安政2年(1855)に五台山下の鋳掛屋の娘・お馬を連れてにげ金毘羅宮の参道の旅籠で土佐藩士に捕まったのが有名な話です。しかし、明治初頭の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の難は当山といえどもこれを避け難く、寺運は一時衰微しましたが、その後、かつての寺観を取り戻すべく伽藍の復興整備を進め、ようやく往古の輪奐(りんかん)に復するに至りました。

1.竹林寺の標柱と登り参道
クリックすると元のサイズで表示します

2.登り参道の途中の仁王門
クリックすると元のサイズで表示します

3.阿形の仁王像
クリックすると元のサイズで表示します

4.吽形の仁王像
クリックすると元のサイズで表示します

5.更に登り参道
クリックすると元のサイズで表示します

6.漸く見事な大師堂に至る!
クリックすると元のサイズで表示します

7.国重文の五重塔
クリックすると元のサイズで表示します

8.塔の駒札
クリックすると元のサイズで表示します

9.善財童子の駒札
クリックすると元のサイズで表示します

10善財童子像
クリックすると元のサイズで表示します

11.見事な本堂
クリックすると元のサイズで表示します

12.同上
クリックすると元のサイズで表示します

13.見事な須弥檀です!
クリックすると元のサイズで表示します

14.見事な国重文の木造阿弥陀如来坐像です。
クリックすると元のサイズで表示します

15.夢窓疎石の作庭と言われる国の名園「竹林寺庭園」へ
クリックすると元のサイズで表示します

16.庭園の一部
クリックすると元のサイズで表示します

17.下記をクリックして、「音声付動画」でこの名園を見て下さい!
https://youtu.be/V_ba8uVbEnk


綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ