2016/6/29

大阪を見る!30.大阪三大祭りの一つがある大阪天満宮!  文化財研修記

大阪市北区天神橋には大阪天満宮がある。 大阪天満宮の創始(御鎮座)は、平安時代中期にさかのぼります。菅原道真公は、延喜元年(901年1月25日)、政治の上で敵対視されていた藤原時平の策略により昌泰4年(901年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになりました。菅公は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向いましたが、2年後にわずか59歳でその生涯をとじました。(延喜3年903年2月25日)その約50年後、天暦3年(949)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったと言われます。この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として、同地に勅命を以て鎮座されました。 大将軍社は、その後摂社として祀られるようになりましたが、大阪天満宮では、現在でも、元日の歳旦祭の前に大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。大将軍社のいわれや歴史、信仰は割愛させて頂きます。現在のご本殿は、天保14年(1843)に再建された物です。 この大阪天満宮は、江戸時代の記録に残るだけで七度もの火災に遭い、なかでも大阪市中を焼き尽くした享保9年(1724)の妙知焼けや、大塩平八郎の乱による天保8年 (1837)の大火では、全焼致しました。その約6年後に、大阪市中の氏子や崇敬者又献身的な奉仕者によって、現在のご本殿が再建されました。本殿内も他のお社に見られるようなきらびやかさは見られませんが、先の大東亜戦争にも焼けずに残ったのは、氏子の方々が焼ける自分の家を横目に見ながら「天神さんを焼いたらあかん」と守って下さったおかげですね。

1.大阪天満宮の正面の楼門
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2.蛭子門の駒札
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3.蛭子門
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4.手水舎
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5.拝殿を見るが網で覆われている!
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6.同上
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7.拝殿横の登龍門
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8.本殿を横から見る
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9.摂社 白米稲荷神社
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10.天神橋
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11.天神橋側入り口
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12.祖霊社
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13.本堂を裏側から見る!
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14.大阪天満宮より先に創建されていた「大将軍社」
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15.下記をクリックして、7月24日・25日の大阪の三大祭の一つ「天神祭の一部」を見て下さい!
https://youtu.be/uiMLNwBaDzo


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2016/6/27

大阪を見る!29.細川ガラシャの死の地・越中井と聖マリア大聖堂!  文化財研修記

大阪市中央区玉造2−24・2−3のこの付近は大坂城城内三の丸で、「越中井(えっちゅうい)」は細川越中守忠興の邸跡にあったものといわれている。石碑正面の題字は徳富蘇峰の揮毫
この越中井は細川忠興の屋敷があり、その井戸が越中井(府史跡)で忠興の妻・明智光秀の娘で洗礼を受け細川ガラシャと呼ばれていたが石田三成の挙兵により大名の妻子を人質としようとしたがガラシャはキリスト教の為、家来に刺殺されて亡くなった。ガラシャ夫人辞世の歌 石碑の正面は「越中井 細川忠興夫人 秀林院 殉節之遺址」とあり、 側面にはガラシャ夫人の辞世といわれる「散り ぬべき時知りてこそ 世の中の 花も 花なれ 人も人なれ」の歌が彫られている。  この碑は昭和9年(1934)建立された。上記の「越中井」の近くにあるカトリック玉造教会の庭にはガラシャ夫人のための「慰霊塔」が建てられている。近くの聖マリア大聖堂の前に、ガラシャ夫人と高山左近の像が建てられている。

1.越中井(府史跡)のポスター
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2.越中井(府史跡)
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3.同地の駒札
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4.聖マリア大聖堂
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5.ガラシャ像(右側の端)
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6.同上 駒札
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7.高山右近像
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2016/6/25

大阪を見る!28.豊臣秀頼公所縁の古社・玉造稲荷神社!  文化財研修記

大阪市中央区玉造(たまつくり)には宇迦之御魂大神(稲荷神)を主祭神とし、照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命を配祀する玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)がある。社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していた。蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。戦国時代の戦火で荒廃し、慶長8年(1603)に豊臣秀頼により社殿が再建された。元和元年の大坂夏の陣で社殿は再び焼失し、元和5年に徳川幕府の大坂城代や氏子らの寄進によって再建された。社地は元々は急崖に面していたため、少しでも平坦化するために、寛政元年(1789)、東横堀川の浚渫で出た土砂を町人らが運び込む「砂持」が行われた。豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称した。江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。
現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であったという伝承がある。昭和61年(1986)、創祀二千年を記念して境内に難波・玉造資料館が開館した。現在の社殿は昭和29年(1954)に再建されたものである。
境内社には厳嶋神社(市杵嶋姫神) 現在地の池(白龍池)に白龍観音が出現したことにより弁才天を祀ったもので、神仏分離により祭神を市杵嶋姫神とした。雨乞いの神として信仰される。
一し、万慶稲荷神社(宇迦之御魂大神) 大坂城内の各地に祀られていた稲荷社を、享保年間に一社に合祀し当社境内に祀ったものである。山稲荷神社(宇迦之御魂大神) 寛政11年(1789)、当時の大坂城代・松平輝和が城代屋敷内に当社の分霊を祀ったものである。明治40年(1907)、当社境内に遷座された。新山稲荷は現在の大阪府立清水谷高等学校敷地内に在った。胞衣塚大明神は 豊臣秀頼の胞衣を祀る。当初は大坂城三の丸に当たる現在地に胞衣が埋められ、その後は豊臣家を慕う当地の人々により密かに祀られていた。昭和20年、戦災により焼失し、寺山町(現 上町一丁目)、東阪町(現 玉造一丁目)に遷座していた。昭和58年(1983)、大坂築城400年を記念して元の鎮座地に遷座された。子供の夜泣きに霊験ありとされる。豊臣家奉納鳥居は慶長8年、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥居で一段低いのは阪神・淡路大震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分け、境内に置かれている。豊臣秀頼公銅像は平成23年(2011)10月13日に建立・除幕式が催行された。

1.玉造稲荷神社の位置は豊臣氏大阪城の三の丸であった!
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2.玉造稲荷神社の標柱
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3.玉造稲荷神社へ向かう!
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4、途中に近松門左衛門の碑文がある!
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5.途中に「玉作岡」の碑がある!(古代に勾玉を作る玉作部が住んでいたという!)
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6.神社の大鳥居
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7.見事な拝殿
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8.阿形の狛犬
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9.吽形の狛犬
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10.拝殿内陣を見る!
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11.伊勢参宮本街道碑
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12.まだ新しい豊臣秀頼公像
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13.豊臣秀頼公奉納の石の鳥居の駒札
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14.阪神淡路大震災で破損した奉納の鳥居の上部分
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15.豊臣時代の三の丸跡
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16.豊臣秀頼公の胞衣(えな)を祀る胞衣塚大明神
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17.摂社の万慶稲荷・新山稲荷神社
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2016/6/23

大阪を見る!27.国史跡・難波宮跡!  文化財研修記

難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)の上町台地の先端付近にあった古代宮殿である。難波宮の存在は史書(『日本書紀』)には載っていたが、第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明なままであった。大正2年(1913)大阪城外堀南の法円坂で奈良時代のものと見られる数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら)が発見されていたが、ほとんどの人は省みず、山根徳太郎は注目したが、日本帝国陸軍が一帯を用地接収していたため、調査自体が不可能だった。昭和20年1945)、日本敗戦によって法円坂が陸軍用地から開放され、このとき初めて学術調査の機会が訪れた。
 そこで山根徳太郎を指導者とする難波宮址顕彰会が何度か予備調査を行い、昭和28年(1953)同所付近から鴟尾(しび)を発見した。このことをきっかけに昭和29年(1954)2月から山根らは第一次発掘を開始。しかし、大阪の都心部でビルや道路建設の合間を縫っての発掘・調査は困難を極め、初期の数次の調査では難波宮のあとなのかどうかがはっきりせず、学会はこれを「山根の宮だ」などと冷笑した。しかし山根らの努力によって、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになり、昭和32年(1957)南北に続く回廊跡(後期)が見つかった。そればかりでなく、翌、昭和33年(1958)には奈良時代より古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。つまり、朱鳥元年(686)正月「難波の宮室が全焼した」記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。昭和35年(1960)これが回廊であることを確認。これを前期難波宮という。昭和36年(1961)山根徳太郎らの発掘により、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。これを後期難波宮という。山根徳太郎は発見当時、「われ、幻の大極殿を見たり。」という発言を残した。

1.駒札
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2.駒札
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3.駒札
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4.国史跡・難波宮跡!
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5.同上
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6.駒札
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2016/6/21

大阪を見る!26.式内社の鵲森宮(森之宮神社)!  文化財研修記

大阪市中央区森之宮2016−4には古社の式内社で森之宮の地名の由来になった鵲森宮( かささぎもりのみや )森之宮神社( もりのみやじんじゃ)がある。589年、聖徳太子がこの地に元四天王寺を創建したのが始まりだそうです。鵲森宮という格好いい社名は、新羅から持ち帰られた2羽の鵲をこの地の森に放したことからだそうです。御祭神の書かれた板に奥社とありますが、駒札に書かれているのを見ると、ビルの屋上にお社があるみたいです。勿論、参拝は不可能です。阿形吽形の狛犬はかっての古社の大社・式内社を表していますね!摂社の五幸稲荷神社もあります。

1.鵲(かささぎ)森宮(森之宮神社)周辺
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2.鵲(かささぎ)森宮(森之宮神社)の標柱と鳥居で正面は摂社の五幸稲荷神社
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3.五幸稲荷神社の駒札
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4.摂社の五幸稲荷神社
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5.手水舎
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6.森之宮神社の駒札
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7.拝殿(本殿はかろうじて撮影できるが屋根だけなので中止した。)
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8.阿形の狛犬
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9.吽形の狛犬
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10.拝殿はガラスで覆われその反射の風景が面白いので撮影する!
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2016/6/19

大阪を見る!25.四天王寺支院・光徳山i真実院!  文化財研修記

大阪市天王寺区夕陽丘4−8には593年開創と言われる聖徳太子創建の四天王寺の支院(塔頭)光徳山・真光院(しんこういん)で本尊阿弥陀如来をまつる。真光院は、四天王寺の西側・谷町筋を挟んだ位置にあるが、594年聖徳太子が開創し、 608年用明天皇の追善供養を行ったといわれている。また、太子が6万体の石造地蔵尊を祀ったと伝承され、境内や近辺から発掘されることがあるらしい。 六万体町の地名もここに由来している。

1.四天王寺支院(塔頭)真光院
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2.見事な山門を正面から見る!
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3.駒札
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4.境内の見事な蘇鉄と地蔵菩薩
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5.見事な地蔵菩薩
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6.駒札
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7.六地蔵様
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8.本堂
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2016/6/17

大阪を見る!24.松尾芭蕉の句碑と駒虎が護る大江神社!  文化財研修記

大阪市天王寺区夕陽丘には松尾芭蕉の句碑と野球の阪神フアンのパワースポットと言われ狛虎が護る大江神社がある。ご祭り神は豊受大神(とようけのおおかみ)、素戔嗚尊(須佐之男命・すさのおのみこと)、大己貴命 (おおなむちのみこと・別名大国主命)、少彦名命 (すくなひこなのみこと)、欽明天皇(きんめいてんのう)を祀っている。当社の御祭神である豊受大神は五穀豊穣の祖神であることから、開運厄除、衣食住守護、諸業繁栄を司られ、水の徳顕著で生命を守られます。素戔嗚尊は天照大御神の御弟神で、八俣大蛇を退治した勇敢な神様で、「スサ」には「荒・清浄」の意味があり、罪・穢・災・厄など身に降りかかる悪しきこと諸々を、荒々しい程の強い力で祓い清める災厄除けの神様です。当大江神社は、上之宮、小儀、土塔、河堀、堀越、久保の各社と共に天王寺七宮と云われ、 四天王寺の鎮守として聖徳太子が祀られたものと伝えられています。当社は、天王寺北村の産土神(うぶすながみ)で豊受大神を祭祀しています。いつの頃よりか神仏を混淆して毘沙門天を祀り、乾の社と称して四天王寺の所管となり、境内に神宮寺を建て祭祀も僧徒(四天王寺東光院神宮寺の別当)が当っていましたが、明治維新後神仏が分離され、慶応3年今の社名に改められました。社名は大江岸(おおえのきし)に続いた社地であったところから大江神社となりました。明治4年郷社に列せられ、明治40年、大道1丁目字土塔の村社、土塔神社(祭神素戔嗚尊)、上之宮町字上之宮の村社、上之宮神社(祭神欽明天皇、相殿に大己貴命、少彦名命)、東区安土町二丁目の無格社、男山八幡神社(祭神応神天皇)、同四十一年、勝山通一丁目字小儀の村社、小儀神社(祭神素戔嗚尊)を合祀しました。先の戦争にて絵馬堂と神器庫を残しすべて焼失しましたが、昭和38年、氏子崇敬者により本殿、拝殿が復興されました。千八百坪の広い境内には約130本もの榎木、楠木等の樹木が覆い繁り、大阪市の保存樹林の指定を受けています。

1.大江神社標柱と鳥居
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2.駒札
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3.手水舎
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4.俳句句碑の駒札
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5.句碑 1.
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6.同上 2.
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7.拝殿と狛犬
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8.拝殿内陣
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9.阪神ファアンのパワースポットへ向かう!
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10.神を護る駒虎!
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11.御神
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12.本殿を斜めから見上げる!
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13.摂社 日吉稲荷大明神
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2016/6/15

大阪を見る!23.国重文の金堂と多宝塔を持つ勝鬘院愛染堂!  文化財研修記

大阪市天王寺区夕陽丘5−36には「愛染さん」の名で知られる勝鬘院(しょうまんいん)愛染堂がある。四天王寺の四箇院のひとつである「施薬院」として推古天皇元年(593)に、聖徳太子によって建立された。施薬院とは、仏教の教えによって設けられたもので、薬草を栽培し、あまねく人々に病に応じてそれを与える福祉施設だった。後に聖徳太子が勝鬘経を人々に講ぜられ、経に登場するシュリーマーラー夫人(勝鬘夫人)の仏像を本堂に祀ったことから、当院は「勝鬘院(しょうまんいんあいぜんどう)」と呼ばれるようになった。また金堂には本尊として、良縁成就・夫婦和合で有名な愛染明王が奉安されていることから、「愛染堂」としても親しまれている。境内には、豊臣秀吉が再建した桃山時代の代表作である、多宝塔(国の重要文化財)のほか、飲むと愛が叶うといわれる「愛染めの霊水」があり、若い女性に大変人気がある。毎年6月30日、7月1・2日には、大阪の三大夏祭りのひとつとして有名な愛染祭が行われる。

1.勝鬘院愛染堂の標柱と山門
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2.第二の山門
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3.七福神堂
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4.大力金剛尊の駒札
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5.大力金剛尊堂
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6.愛染明王を安置している国重文の見事な金堂!
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7.愛染めの霊水
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8.同上の駒札
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9.金堂右手前の慈父地蔵像
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10.金堂左手前の慈母観音像
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11.金堂内を見る!
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12.国重文の多宝塔
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13.同上の駒札
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14.下記をクリックして、別嬪さんの音声付「愛染まつり」をちょっと見て下さい!
https://youtu.be/XSHKX8snndE

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2016/6/13

大阪を見る!22.真田幸村(信繁)戦死跡の碑がある安居神社!  文化財研修記

大阪市天王寺区逢坂1−3−24には安居神社(やすいじんじゃ)がある。安居天神、安井神社とも呼ばれている。創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。明治に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社であり、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺三名水の井戸があることから「安井」となったと伝えられるが、考証がないため信じられない、としている。境内には桜や萩などがあり、茶店もあって見晴らしよく、遊客も多かったという。摂津名所図会、浪速名所図絵でも花見の名所として選ばれている。大丸の創業者の下村彦右衛門正啓がよく信仰していたので大丸天神と称されることがある。
又、、大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之碑がある。

1.安居神社(安居天満宮)の標柱
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2.同上 駒札
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3.安居神社(天満宮入口)
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4.鳥居
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5.眞田幸村戦死跡の碑と幸村公像
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6.同上 駒札
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7.拝殿
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8.阿形の狛犬
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9.吽形の狛犬
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10.拝殿内陣を見る!
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11.本殿を斜めから見上げる!
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12.安居天満宮
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13.同上 拝殿
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2016/6/11

大阪を見る!21.大阪夏の陣で徳川家康公が本陣を置いた一心寺!  文化財研修記

大阪市天王寺区逢坂2−8−69には大阪夏の陣で徳川家康公が本陣を置いた浄土宗の坂松山高学院一心寺(いっしんじ)がある。文治元年(1185)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」と称して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。1596年(慶長元年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寺を再興した。彼の一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。家康は、境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の寺額を贈った。大坂冬の陣・大坂夏の陣では徳川家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれている。この寺には大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった。今でも墓所には禁酒を誓う人がよく詣でている。小堀遠州好みの数奇屋「八窓の茶室」や、大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」と呼ばれた大きな山門も有名であったが、大阪大空襲ですべて焼失した。戦後伽藍の再建と10年毎の骨仏作りが徐々に進んだが、特に建築家でもある現長老(高口恭行)の作った鉄とコンクリートの斬新な山門平成9年1997)完成。彫刻家・神戸峰男による阿形像・吽形像や、日本画家・秋野不矩による天女像がある)や、庫裏・信徒会館である日想殿などは昭和52年(1977)完成)など現代建築による施設も見所の一つである。(ウイキペデイアから抜粋)

1.一心寺南門
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2.超近代的な一心寺仁王門
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3.一心寺仁王門縁起
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4.仁王門のレリーフのある左側扉
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5.同上 右側扉
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6.見事な堂宇群
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7.近代的な開山堂
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8.同上 駒札
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9.本多出雲守忠朝の墓
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10.同上 駒札
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11.総ヒノキの見事な本堂
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12.第8代目市川団十郎の墓(多くの芸能人のお墓があります。)
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13.第11期納骨堂(人骨で作られた阿弥陀仏が安置されています!)
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14.日想殿
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15.高さ5メートルもある「おばけとうろう」
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