2016/5/31

大阪を見る!15.摂津一宮を称する坐摩神社(いかすりじんじゃ)!  文化財研修記

大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺には式内社(大社)で、摂津国一宮を称する坐摩神社(いかすりじんじゃ)がある。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社で神紋は「白鷺」です。
正式な読み方は「いかすりじんじゃ」だが、一般には「ざまじんじゃ」と読まれることが多く、地元では「ざまさん」の通称で呼ばれる。大阪市中心部の船場にある古い神社で、同地の守護神的存在である。南御堂の西隣に位置し、境内は東向きで、入口では大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい「三ツ鳥居」が迎える。祭神は以下の5柱で、「坐摩神」と総称している。
生井神 (いくゐのかみ) 、 井水の神(生命力のある井戸水の神)、福井神 (さくゐのかみ)、 井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)、綱長井神 (つながゐのかみ)、井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清らかな井戸水の神)、波比祇神 (はひきのかみ、- 竃神(屋敷神。庭の神)阿須波神 (はすはのかみ) - 竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)。祭神の5柱の神は、『古語拾遺』等によると神武天皇が高皇産霊神・天照大神の神勅を受けて宮中に祀ったのが起源とされ、神祇官西院で坐摩巫(いかすりのみかんなぎ)によって祀られていた。『延喜式』によれば、坐摩巫には都下国造(つげのくにのみやつこ)の7歳以上の童女を充てるとされ、西から来る穢れを祓う儀式を行うといわれる。なお、都下とはこの神社が最初にあった淀川河口の地で、摂津国の菟餓野(とがの、都下野とも書く。現在の上町台地一帯)を指すと見られ、世襲宮司の渡辺氏はこの都下国造の末裔でもあり、滝口武者の嵯峨源氏の流れを汲むともいわれる。「いかすり(ゐかすり)」の語源には諸説あるが、坐摩神社では、「居住地を守ること」という意味の「居所知」(ゐかしり)の転と説明している。また、『延喜式』には「さかすり」の訓も記されている。当社の始まりは、神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったことだとされる。今でも旧社地であった坐摩神社行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている。延喜式神名帳では摂津国西成郡唯一の大社に列し、住吉大社と同じく摂津国一宮を称している。『万葉集』の中には、難波津から西国へ向かう防人が旅の安全を坐摩社に祈る歌がある。同社の神紋が白鷺なのも、神功皇后が坐摩の神の教えにより白鷺の多く集まる場所に坐摩神を奉遷なされたことに由来する。創建時の社地は現在と異なり、渡辺津・窪津・大江などと呼ばれたかつての淀川河口である。旧社地は遷座後に御旅所が置かれた現在の中央区石町(こくまち)に推定され、天神橋 - 天満橋間の南、近世以降「八軒家」と呼ばれる地に概ね該当する。なお、石町には摂津国の国府も置かれており、町名は国府の転訛と言われている。平安時代後期には源融にはじまる嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)が渡辺津に住んでこの神社を掌り渡辺を名字とし、渡辺氏を起こした。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となる。渡辺津は窪津ともよばれ、京からの船が着く熊野古道の基点でもあった。熊野三山への参詣道沿いに立っていた「熊野九十九王子」のうち、最初の「窪津王子」はこの坐摩神社行宮の場所にあったと思われる。天正11年(1583)の大坂城築城に際して、西横堀川に近い現在地に遷座した。本町通にも近く、多くの物売りや見せ物が門前に集まった。特に古着屋は「坐摩の前の古手屋」として名高く、上方落語にも「古手買」「壺算」などで登場する。また、初代桂文治が初めてこの神社で寄席を開いたとされている。この神社の近くで後の「そごう」が古手屋として生まれ、船場が繊維の町として発展するきっかけになった。ウイきぺデアより抜粋。

1.大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい「三ツ鳥居」が入口にある!
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2.同上をアップで見る!
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3.駒札
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4.阿形の狛犬
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5.吽形の狛犬
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6.駒札2
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7.拝殿
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8.干支の大絵馬
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9.拝殿の回廊から本殿を斜めに見上げる!
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2016/5/29

大阪を見る!14.真宗大谷派難波別院(南御堂)!  文化財研修記

真宗大谷派難波別院(しんしゅうおおたにはなんばべついん)は、大阪府大阪市中央区久太郎町4丁目にある真宗大谷派の寺院で通称は「南御堂」(みなみみどう)と呼ばれている。ご本尊は阿弥陀如来で同派の大阪教区教務所、教化センター会館を併設している。別院名の難波は摂津国西成郡上難波村の旧地であったことに由来する。市街化されて船場となった後も、明治5年(1872)まで当院南に位置する難波神社にかけて上難波町という町名となり、以降、大正3年(1914)まで当院南西部を含む北部が上難波北之町となった。また、東側の御堂筋は、南御堂と北御堂(浄土真宗本願寺派の本願寺津村別院)を繋ぐ道であることに由来する。
天正11年(1583)、石山本願寺跡地を含む一帯に豊臣秀吉によって大坂城が築城し、城下町の町制と整備とに着手した。文禄4年(1595)、秀吉より寺地を寄進され、東本願寺12代 教如上人が「大坂渡辺の地に大谷本願寺を開創する。となっています。
慶長2年〈1597〉に、「准如を12代法主とする本願寺教団(現、浄土真宗本願寺派)」の文禄5年(1596)、「大谷本願寺 文禄丙申五暦」銘の梵鐘を鋳造され、現存し2014年大阪市指定有形文化財津村御坊(現在の本願寺津村別院〈北御堂〉)が建立される。慶長3年(1598)、大坂城の城下町の拡大により、大谷本願寺が現在地への移転を秀吉より命じられる。慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から京都烏丸六条に寺地を寄進され、東本願寺が分立し寺基を移すまで、当寺は、教如を12代法主とする本願寺教団(現在の真宗大谷派)の実質上の本山であった。京都に東本願寺が建立後は、大坂の大谷本願寺の地を「難波御堂」とし、大坂における教如の本願寺教団の拠点寺院として、商人をはじめとする同地の門徒の篤い崇敬を集めるとともに、「南御堂」、「難波の御堂」と称されて、広く人々に親しまれ現在に至っている。
正徳4年(1714)、幕府から旧大坂城の外堀の石垣の寄進を得て、淀川の砂を用いて大規模な地盛りをし、二重屋根の壮大な本堂を建立する。京都の本山東本願寺(真宗本廟)にある御影堂(明治時代に再建されるに際し、「難波御堂」を模したとされる)が威容を誇っていた。

1.南御堂
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2.南御堂に入るとすぐ目につくのが史跡「芭蕉翁句碑」です。
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3.威容を誇る本堂です!
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4.本堂内
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5.本堂前庭には文禄5年(1596)、「大谷本願寺 文禄丙申五暦」銘の梵鐘を鋳造され、現存し2014年大阪市指定有形文化財となった、鐘楼の梵鐘。
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6.本堂に向かって左側には見事な石庭があります。
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7.同上
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2016/5/27

大阪を見る!13.本願寺津村別院(北御堂)  文化財研修記

大阪市中央区本町4丁目1−3には浄土真宗本願寺派(西本願寺)の津村別院(北御堂)がある。本願寺第8代宗主蓮如上人の手により、大坂(明治から大阪)に、親鸞聖人から伝えられた「お念仏」のみ教えを弘めるため、現在の大阪城のあたりに一つの小さな坊舎(後の石山本願寺)が建てられました。明応5年(1496)とです。その坊舎を中心にしてまわりに寺内町が形成され、大坂の町は大いに発展していったそうです。しかし、織田信長との長い争いにより、本願寺は生み育てた大坂を離れなければならなくなり、そこで、大坂の門徒はこの地での「お念仏」の灯りをまもるため、天満に近い「楼の岸」に新しい坊舎を建立しました。 その後、「津村郷」と呼ばれていた現在の地に移り(津村別院の名称の由来)、津村御坊は「北御堂」と称されるようになり、南御堂(真宗大谷派難波別院。津村別院から南へ約500メートル)とならび大坂のひとびとに親しまれてきました。 この南北両御堂(通称=御堂さん)の近くに、篤信の門徒(近江出身の商人など)が集まり、大坂の商業の中心「船場」の町を築きました。その昔、ここで働く商人たちは、「ひときわ大きな屋根を誇らしげにしている『御堂さん』の鐘の聞こえるところで商売を……」を合い言葉に商いに精を出したといいます。お念仏が繁盛していた当時の津村別院は、昭和20年3月の大阪大空襲で焼失してしまいましたが、その後、多くの方のお陰により、昭和39年、西洋風の建物で復興し現在に至ります。HPより抜粋。

1.北御堂
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2.巨大な山門
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3.昭和39年に再建された「本願寺津村別院(北御堂)
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4.親鸞上人の紹介文
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5.親鸞上人像
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6.蓮如上人紹介文
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7.蓮如上人像
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2016/5/25

大阪を見る!12.朱の大鳥居を持つ古社・御霊神社!  文化財研修記

大阪市中央区淡路町5−51には本殿では天照大神荒魂 (瀬織津比売神)、津布良彦神 (旧攝津国津村郷の産土神)、津布良媛神 (旧攝津国津村郷の産土神)、応神天皇 (広幡八幡大神)
源正霊神 (鎌倉権五郎景政公霊)を祀る御霊神社(ごりょううじんじゃ)がある。又、東宮では皇大神宮、恵比須神社、猿田彦神社、東宮十二社も祀っている。末社では松ノ木神社、大黒社を祀っている。当神社は古来大阪市の船場、愛日、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靭、阿波堀、阿波座、薩摩堀及び立売堀、長掘の西部、南北堀江の西部等旧摂津国津村郷の産土神として、信仰の中心になっていました。当神社の創立は、太古大阪湾が深く入り込んで海辺はぬかるみ、芦荻が繁茂して圓(つぶら)江(え)と云い円形の入江に創祀された圓(つぶら)神祠に始まり、嘉祥3年(850)の『文(もん)徳(とく)実録(じつろく)』に八十嶋(やそしま)祭(のまつり)の祭場が圓(つぶら)江(え)で、そこに創祀されたのが圓神祠とされ、八百年代後半の創建とされています。御神威高く、上古 天皇御即位の大嘗祭に続く八十嶋(やそしま)祭(のまつり)に預かり給い、後に土地が次第に固成して村を形成し、その名も津村(つむら)と転訛しました。豊臣秀吉公の大坂居城と共に政治経済の中心地として発展し、諸大名が来集してその崇敬も厚く什器の寄進も相次ぎました。中でも石州津和野藩の祖亀井茲矩候が邸地を割いて寄進されたので、文禄三(一五九四)境内の小祠乾八幡宮と源正霊神とを本殿に合祀して圓江(現在の靭)から現在地に鎮座しました。寛文年中御霊神社と改称、元禄9年(1696)御霊大明神と御贈号、宝暦3年(1753)9月正一位の神階を授けられました。また、伏見宮家より神輿修復の御寄進があり、幕府も城代巡見社として崇敬、明治6年(1872)郷社に昇格し、大正2年(1913)府社に列し、商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬が厚く、お弓神事、火焚神事や夏祭のお旅所への神輿渡御列淀屋橋から大川筋を下博労御旅所へ船渡御神幸)の華麗さは浪速名物の一つに数えられ現在に至っています。又、江戸時代両国三十三か所観音参りの三十三番礼所でもありました。HPより抜粋。

1.朱の大鳥居
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2.駒札
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3.阿形の狛犬
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4.吽形の狛犬
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5.人形浄瑠璃文楽座跡碑
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6.東宮
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7.見事な拝殿を正面から見る!
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8.拝殿内陣を見る!
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9.末社松之木神社
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10.末社大黒社
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2016/5/23

大阪を見る!11.うどんの美ゝ卯本店横にある緒方洪庵除痘館跡碑  文化財研修記

うどんの美ゝ卯本店別館横には緒方洪庵除痘館跡碑がある。江戸時代最も恐れられていた疫病の天然痘がジェンナーの発明した牛痘の種痘で防ぐことができることがわかった。
嘉永2年(1849)に緒方洪庵により大阪で最初の種痘が行われたのが古手町この碑の西隣の地である。洪庵はこの種痘所を除痘館と称して同志と共にここを中心に全国的に種痘事業を展開した。除痘館は万延元年(1860)に適塾の南側に移転した。

1.大阪市役所
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2.市役所の反対側の中央公会堂
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3.うどんの美ゝ卯本店別館
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4.緒方洪庵除痘館跡碑
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2016/5/21

大阪を見る!10.恋人の聖地・お初天神(露天神社)!  文化財研修記

露天神社(つゆのてんじんじゃ)は、大阪府大阪市北区曽根崎二丁目にある神社で通称:お初天神と呼ばれています。祭神は大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真の五柱の神を祀る。社伝によれば、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに「住吉住地曾根神」と祀っていたとされる。創建は西暦7000年頃とされ、「難波八十島祭」旧跡の一社とされている。天照皇大神を祭神として祀ることから、かつては難波神明社とも呼ばれ、日本七神明(東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮)の一つにも挙げられた。 社名は、「梅雨のころに神社の前の井戸から水がわき出たため」ともいうもののほか、菅原道真が太宰府へ左遷される途中、ここで都を偲んで、「露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば」との一首を詠んで涙を流したからとも伝えられている。近松門左衛門のいたころの天神の境内は560余坪の広さがあり、木が鬱蒼と茂っていた。近松は当時、天神を「影暗く風しんしんたる曽根崎の森」、「天神の森」と書き記している。太平洋戦争による戦火と、その後の社殿復興のための境内の切り売りが行われた結果、現在の広さとなったものである。元禄16年(1703)に堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」が「天神の森(現在の社の裏手)」にて心中を遂げた。一月後近松門左衛門はこの二人の悲恋を人形浄瑠璃『曽根崎心中』として発表したところ、当時の大きな話題となった。事件の神社は一躍有名となり、そのヒロインである「お初」の名前から以後今日に至るまで「お初天神」と通称されている。曽根崎心中の中では「三十三に御身を変へ、色で導き情けで教へ、恋を菩提の橋となし、渡して観世音、誓ひは妙に有難し」とお妙の名と観音信仰(明治以前は神仏習合が常態であった)をかけている。なお「お初」は天満屋での呼び名であり、墓所(慰霊碑)に記された久成寺(大阪市中央区中寺)での戒名は妙力信女であることから「お妙」などが推測される。平成16年(2004)には境内に「お初・徳兵衛」のブロンズ像[が建立された。境内末社は金刀比羅宮・水天宮(祭神:天乃御中主大神、安徳天皇、大物主大神、崇徳天皇、住吉大神、他二柱)、開運稲荷社(祭神:玉津大神、天信大神、融通大神、磯島大神)、難波神明社(祭神:天照皇大神・豊受姫大神)大阪三神明の夕日神明社です。

1.お初天神(露天神社)入口の一つ
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2.参道
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3.真紅の駒札
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4.お初天神前付近
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5.お初と徳兵衛の像
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6.別な参拝入口の鳥居
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7.摂社の玉津稲荷神社
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8.露天神社(お初天神)
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9.拝殿内陣
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10.摂社の水天宮
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2016/5/19

大阪を見る!9.嵯峨源氏の祖・源融所縁の太融寺!  文化財研修記

大阪市北区太融寺町3−7には弘仁12年(821)嵯峨天皇の勅願により、空海によって創建され、千手観世音菩薩を本尊としている太融寺(たいゆうじ)は、嵯峨源氏の祖で左大臣・大納言の源融(みなもと・の・とおる)が淳和天皇の時、8町四方の境内を有する大七堂伽藍を建立したゆかりの寺で、大阪市北区に伽藍を構える真言宗(高野山真言宗・準別格本山)の寺院です。山号は「佳木山」、院号は「宝樹院」がある。古くから当寺付近の地名にもなっている。「大融寺」と誤記されることもあり、中近世の文書に多い。大阪音霊場第2番、近畿三十六不動尊霊場第6番、摂津国八十八箇所第6番、おおさか十三仏霊場第8番、神仏霊場巡拝の道 第51番札所である。境内には本堂の他に空海(弘法大師)を祀る大師堂、不動明王を祀る不動堂、多くの女性の信仰を集める淀殿の墓所(もとは、東成郡鴫野村弁天島(現・大阪ビジネスパーク)にあった淀姫神社に安置されていたものが、(明治10年(1877)、弁天島全域が軍用地に指定されたことに伴い移転されたもの)、その墓所を守るかのように隣には雌神を祀る白龍大社がある。また、縁結びの神としても信仰を集めており、女性は白龍大神、男性は境内の外れに祀られる龍王大神にお参りするとよいとされている。写経堂では写経会や座禅会の他、桂米朝一門を筆頭に落語会なども催されている。

1.太融寺標柱
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2.札所碑群
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3.横の山門
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4.山門前の歌碑
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5.本堂を横から見る!
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6.見事な鐘楼です!
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7.稲荷社
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8.史跡淀殿のお墓(6輪の塔、元は9輪で有ったという。)
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9.本堂を斜めに見る!
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10.正面の山門と本堂
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11.本堂と右には三重塔が見える!
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2016/5/17

大阪を見る!8.7月の祭礼でだんじりや獅子舞で有名な都島神社!  文化財研修記

大阪市都島区都島本通1−5には都島神社(みやこじまじんじゃ)が鎮座している。
当地はかつて屈曲する淀川本流(現在の大川)の左岸に当たり、洪水に度々見舞われた。後白河法皇が当地へ行幸した際にこれを哀れみ、当地の守護神として神社を置くよう命じた。当社の歴史は、これを受けた毛馬村・滓上江村(沢上江村)・友渕村など8村が協力し、永暦元年(1160)に十五社神社を建立したことに始まる。当初の社名は天照大神を初めとする15神(廣田大神、住吉大神、熊野大神、三十川大神、白山大神、生野大神、小守大神、石上大神、春日大神、加茂大神、大原野大神、松尾大神、石清水八幡大神、稻荷大神)を合祀したことによるが、昭和18年(1943)に都島神社と改称した。旧本殿その他は大阪大空襲で焼失し、昭和24年(1949)に再建された。境内に立つ石造三重宝篋印塔は鎌倉時代後期の嘉元2年(1304)の銘があり、大阪市内最古の石造遺物として、大阪府の有形文化財に指定されている。主な祭礼としては7月22日の宵宮、23日にはだんじりや獅子舞が繰り出します。

1.都島神社の注連縄
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2.都島神社の大鳥居
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3.石造三重宝筐塔(大阪府指定文化財)の駒札
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4.同上 石造三重宝筐塔
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5.別な入口
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6.拝殿
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7.阿形の狛犬
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8.吽形の狛犬
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9.本殿を横から見る!
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10.下記をクリックして、都島神社の7月の「だんじり祭り」の動画を見て下さい!
https://youtu.be/zvsq-BgO7lk



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2016/5/15

大阪を見る!7.中島郷48ケ村の中島惣社!  文化財研修記

大阪市東淀川区東中島4丁目9−41には中島惣社(なかじまそうじゃ)がある。惣社というのは総社の意味で、中島郷48カ村の親宮(総社)ということからです。明治41年から42年にかけて近隣の多くの神社を合祀しました。祭神は宇賀御魂神、受保大神、大市比賣神で相殿は菅原道真公・天児屋根神・経津主神・武甕槌神・姫大神・天照皇大神・事代主神・応神天皇・速素盞鳴神・大名牟遅神・少彦名神・猿田彦神です。
『摂津名所図会』に「稲荷祠 北中嶋惣社也。此辺6ヶ村産土神とす。天満宮社家寺井紳主兼帯所」とあり、もと稲荷神社と称す。 孝徳天皇の652年に豊崎宮に遷都した際に、五穀豊穣を祈願されたとされている。それに伴い、神領を賜う。 慶長末年の大坂の陣で片桐且元の茨木街道沿いの兵火で社殿は消失し、わずかに絵図と建武2年(1335年)の木額だけが残った。 豊臣秀頼の崇敬厚く、「中嶋総社」の四字を記した絹地一通を寄進している。
明治5年(1872) 郷社に列す。明治29年(1896)中島惣社とす。明治41年 北方の天満宮、北中島の春日神社、南宮原の春日神社、西宇城の皇大神社、南方宮西の村社稲荷神社、北中島の天満宮、柴島の八幡天神宮、薬師堂の八幡天神宮、南方新家の稲荷神社、淡路の天満宮、宇引江の宮の須賀神社を合祀。須賀神社は建武年中有名な刀鍛冶国次の勧請した。明治42年(1909)- 淡路東寺の神明社、字浦の大将軍社を境内末社大将軍社に合祀。同年 須賀の森公園の場所にあった須賀神社を境内に合祀。昭和62年(1987)社殿を再建した。境内社は若宮社 祭神:足名槌神・手名槌神・迦具土神・大年神・御歳神・五十猛神・市杵島姫神・楠木正成公・大屋津比売神・天宇受売神
大将軍社 祭神:久那斗神・八衢比古神・八衢比女神・金山彦神・大山津見神・罔象女神・於冨加牟津見神である。

1、中島惣社の大鳥居
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2.標柱と拝殿
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3.拝殿
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4.駒札
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5.手水舎
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6.神馬像
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7.見事な朱の拝殿を見る!
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8.拝殿の扁額を見る!
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9.朱の本殿を斜めから見る!
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10.摂社群の一つ!
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2016/5/13

大阪を見る!6.足利義教の首塚と細川ガラシャ夫人の墓がある崇禅寺!  文化財研修記

大阪市東淀川区東中島5−27には曹洞宗の古刹で凌雲山・崇禅寺(そうぜんじ)がある。寺伝では天平年間、行基により創建されたとされる。この経緯から当初は法相宗寺院であった。
嘉吉元年(1441)6月、嘉吉の乱により赤松満祐に殺害された足利義教の首は、本領に引き上げる途中の赤松氏軍勢によってこの寺に放置された。この因縁により、以後義教の菩提寺の一つとなり、管領・細川持賢により伽藍と所領を寄付され曹洞宗に転宗、また細川氏菩提寺の一つとなった。明治2年には一時摂津県の県庁が置かれていたことから、境内は大阪府史跡、大阪市史跡に指定されている。細川持賢による大伽藍は文明15年(1483)、早くも戦火によって焼失、その後、慶安年間になってようやく再建されたが、それも昭和20年(1945)6月7日の大阪大空襲によりことごとく焼失した。現在の伽藍は平成元年(1989)になってようやく再建がなった鉄筋コンクリート造りのものである。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前哨戦に置いて石田三成の人質になることを拒否した細川ガラシャは自らを家臣に殺害させて、細川家大坂屋敷に火をつけ、死去した。その後、宣教師オルガンチノが焼失した細川屋敷より遺骨らしき物を掘り起こし、細川家菩提寺である崇禅寺に納めたとされる。この経緯から崇禅寺は細川ガラシャの菩提寺となり、先述の足利義教の首塚と並んでガラシャの墓が残っている。又、大和郡山藩士・遠城宗左衛門は剣術の試合で生田伝八郎に勝ったが、これを逆恨みした伝八郎により闇討ちにあい殺害された。宗左衛門の兄・遠城治左衛門と安藤喜八郎は弟の敵討ちのため伝八郎をこの崇禅寺に呼び出したが、逆に伝八郎は多数の加勢を呼んでおり、治左衛門と喜八郎は返り討ちに会い殺害された。当時の崇禅寺住職・門啓天岑と元江戸町方与力・勝見宗春はこの兄弟の哀れを思い、遠城兄弟の墓を崇禅寺に築き、菩提を弔った(崇禅寺馬場の仇討と呼ぶ)。

1.駐車場の門から入る!
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2.巨大な本堂です!
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3.本堂の扁額
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4.地蔵尊堂
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5.足利義教公首塚と細川玉子ガラシャ夫人の墓
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6.足利義教公首塚
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7.細川玉子ガラシャ夫人のお墓
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8.遠城治左衛門と安藤喜八郎のお墓(崇禅寺馬場での逆撃ちされた霊を弔っています。)
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9.見事な開運布袋尊像
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10.見事な禅宗庭園
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