2016/4/29

豊後・阿蘇を見る!50.城井神社の隣に祀られている扇城神社!  文化財研修記

城井神社の隣には扇城神社(せんじょうじんじゃ)がある。 天正16年(1688)宇都宮鎮房公従臣は、庶子誉上人(鎮房公と静の方の間に生まれた)の合元寺(ごうがんじ)に止め置かれ、鎮房公は小姓を伴い中津城内の館で謀殺されました。異変を知った家臣群は次々に城中に駆け入り、龍が荒れるように戦いましたが、ことごとく討死しそれぞれに埋葬されました。扇城神社は、城井神社再興後、大正9年(1920)4月20日、鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀ったものです。

1.鳥居と扇城神社
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2.扇城神社
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3.駒札
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4.神社手前にはこんな「旗」が置かれています。
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2016/4/27

豊後・阿蘇を見る!49.黒田官兵衛の最大の敵であった宇都宮鎮房を祀る城井神社!  文化財研修記

城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房(しげふさ)に至る16代およそ四百年の間豊前国守として徳政を布いた。 天正15年(1587)5月豊臣秀吉は九州平定にあたり豊前6郡を黒田孝高に、2郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治(12万石)移封の御証判を与えた。
鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、このご朱印状を返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政を敗退させた。
そこで秀吉は孝高と謀り所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。天正16年(1588)4月20日鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。
天正19年長政は深く感ずる処があって城内守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀り、福岡移封後はその地に警固大明神として祀った。 宝永2年(1705)小笠原長円は小社を建て城井大権現として崇め、その後幾度かの変遷の後城井神社(きいじんじゃ)として改められた。

1.城井神社標柱と拝殿
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2.拝殿を正面から見る!
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3.駒札
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4.拝殿の裏にある本殿はほんの少ししか見えない!
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2016/4/25

豊後・阿蘇を見る!48.豊前のお伊勢様と呼ばれる中津大神宮!  文化財研修記

中津大神宮は、『豊前の国のお伊勢様』と親しまれ、中津城址に御鎮座しています。 当社は、明治14年、伊勢の神宮の大神様の御分霊を奉斎し、神宮豊前教会として発足し、神宮教、 神宮奉斎会と改称の後、昭和21年より、『中津大神宮』として今日に至っております。 豊前の国(企救郡・田川郡・京都郡・仲津郡・築城郡・上毛郡・下毛郡・宇佐郡)のお伊勢様と言われ、 普く崇敬を集めております。御祭神は天照大御神(あまてらすすめおおかみ) 伊勢神宮内宮の祭神 、豊受大神(とようけのおおかみ) 伊勢神宮外宮の祭神、倭姫命(やまとひめのみこと) 伊勢神宮外宮の祭神、天宇豆売命(あめのうずめのみこと) 芸能・芸術の神です。御神徳は伊勢神宮(内宮と外宮)の御祭神である天照皇大神(日本の最高神であり、日本人の総氏神)と 豊受大神(農業・諸産業・衣食住の守護神)さらに伊勢神宮(内宮と外宮)の御祭神である天照皇大神(日本の最高神であり、日本人の総氏神)と 豊受大神(農業・諸産業・衣食住の守護神)さらに、倭姫命、天宇豆売命を奉斎していることにより、 そのご神徳は、開運招福・商売繁盛・学芸上達など広大無辺です。御本殿は伊勢の神宮と同じ、神明造りです。 奉拝殿は、勇壮、かつ豪壮にして、近郷では珍しく妻入り縦長型の大型拝殿です。 内部は、上・中・下三段の間を設け、明治の日本を代表する書道家、宮小路康文謹書の『大哉神徳』の大扁額が 掲げられています。 また、格天井には、創建当時の崇敬者等の手による天井絵、216枚が奉納されています。

1.中津大神宮の標柱と拝殿
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2.拝殿を正面から見る!
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3.駒札
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4.拝殿をアップで見る!
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5.日露戦争で使われた砲弾と狛犬!
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6.歌碑
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7.歌碑の駒札
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2016/4/23

豊後・阿蘇を見る!47.奥平神社と高輪地蔵!  文化財研修記

中津城址にはご神体は、奥平家中興の祖 奥平貞能・信昌・家昌公三柱の御祭神が祀られている奥平神社があある。のちに宇都宮城(栃木)を経て宮津城(京都)から入城した7代目 奥平昌茂公は中津城入場の翌年享保3年正月(1718)、城内の二の丸にあった観音院を祈祷所と改称し、十一代目昌高公が天明7年(1788)、祈願所を長福寺と改名いたしました。現在の中津裁判所がその旧敷地であります。 ご祭神の貞能・信昌・家昌三公は永禄3年(1561)より元亀・天正・文禄を経て慶長19年(1619) 特に奥平家二代目の信昌公は関が原の合戦後、初代京都諸司代として綱紀を振るい凶賊から庶民を護りました。後世武士(もののふ)の鑑(かがみ)として徳川三百年の礎(いしずえ)を築き、人々から義勇と武功を称えられました。
(案内板より)

1.奥平神社拝殿(拝殿正面の賽銭箱には奥平家の家紋の軍「配団扇」の見事な浮彫がある。)
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2.拝殿をアップで見る!
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3.本殿を見る!
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4.駒札
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5.高輪地蔵尊の駒札
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6.高輪地蔵尊
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7.同上 アップで見る!
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2016/4/21

豊後・阿蘇を見る!46.豊前の国の中津城2−2!  文化財研修記

中津城(なかつじょう)は、豊前国中津(現在の大分県中津市二ノ丁)にあった日本の城。黒田孝高(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代の大半は、奥平氏が居城としていた。周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された梯郭式の平城である。堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。櫓の棟数は22基、門は8棟。総構には、6箇所の虎口が開けられた。中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されている。また、吉富町にある八幡古表神社と薦神社とを結ぶ直線上に位置する。鬼門である北東には、闇無浜神社(くらなしはま)がある。天守の存在については不明である。江戸時代の絵図には天守は描かれていない一方、黒田孝高(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、天守の存在をうかがわせる記録もある。江戸時代後期の「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。中津城に残る黒田孝高(如水)が普請した石垣は、天正16年(1588)に普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものである。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境が見られる。また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができる。扇状の旧城下町には、今でも築城した黒田官兵衛に因んだ「姫路町」や「京町」等の町名が残る。天正15年(1587) 黒田孝高(如水)が、豊臣秀吉より豊前国6郡12万3000石(一説には16万石・その後の検地で18万石となる)を与えられる。当初、馬ヶ岳城に入城した。天正16年(1588)黒田孝高(如水)は、領地の中心である山国川河口に中津城の築城を始めた。同年、熊本の一揆征伐で黒田孝高(如水)が中津城を留守の間に、嫡男の長政は、敵対していた城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城内に引き入れて、惨殺する。慶長5年(1600年) - 黒田家は関ヶ原の戦い時に、徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城が中断される。同年 、 細川忠興が豊前国と豊後国2郡339万石で入封。大修築を開始する。慶長7年(1602) 小倉城築城に着手し、忠興は小倉城を主城、居城とする。修築中の中津城の城主は細川興秋になる。
元和7年(1621) 扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。寛永9年(1632) 細川家の熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封し事実上中津藩が成立。以後、中津城は中津藩藩主家の居城となる。享保2年(1717) 奥平昌成が10万石で入封。明治維新まで奥平家の居城となった。

1.中津神社の大鳥居と天守閣
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2.三斎池の駒札
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3.三斎池と天守閣
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4.中津市指定文化財の福沢諭吉の「独立自尊の碑」
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5.中津城公園の地図
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6.天守閣を見る!
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7.天守閣から中津市街を見る!
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8.天守閣から中津城公園を見下ろす!
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9.下記をクリックして、「音声付」動画で天守閣から山国川河口方面を見て下さい!
https://youtu.be/qd5YCLQbr-s

10.太鼓櫓内
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2016/4/19

豊後・阿蘇を見る!45.豊前の国の中津城2−1!  文化財研修記

中津城(なかつじょう)は、豊前国中津(現在の大分県中津市二ノ丁)にあった日本の城。黒田孝高(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代の大半は、奥平氏が居城としていた。周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された梯郭式の平城である。堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。櫓の棟数は22基、門は8棟。総構には、6箇所の虎口が開けられた。中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されている。また、吉富町にある八幡古表神社と薦神社とを結ぶ直線上に位置する。鬼門である北東には、闇無浜神社(くらなしはま)がある。天守の存在については不明である。江戸時代の絵図には天守は描かれていない一方、黒田孝高(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、天守の存在をうかがわせる記録もある。江戸時代後期の「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。中津城に残る黒田孝高(如水)が普請した石垣は、天正16年(1588)に普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものである。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境が見られる。また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができる。扇状の旧城下町には、今でも築城した黒田官兵衛に因んだ「姫路町」や「京町」等の町名が残る。天正15年(1587) 黒田孝高(如水)が、豊臣秀吉より豊前国6郡12万3000石(一説には16万石・その後の検地で18万石となる)を与えられる。当初、馬ヶ岳城に入城した。天正16年(1588)黒田孝高(如水)は、領地の中心である山国川河口に中津城の築城を始めた。同年、熊本の一揆征伐で黒田孝高(如水)が中津城を留守の間に、嫡男の長政は、敵対していた城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城内に引き入れて、惨殺する。慶長5年(1600年) - 黒田家は関ヶ原の戦い時に、徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城が中断される。同年 、 細川忠興が豊前国と豊後国2郡339万石で入封。大修築を開始する。慶長7年(1602) 小倉城築城に着手し、忠興は小倉城を主城、居城とする。修築中の中津城の城主は細川興秋になる。
元和7年(1621) 扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。寛永9年(1632) 細川家の熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封し事実上中津藩が成立。以後、中津城は中津藩藩主家の居城となる。享保2年(1717) 奥平昌成が10万石で入封。明治維新まで奥平家の居城となった。

1.中津城の内堀と天守閣を見る!
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2.駒札
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3.駒札
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4.上記駒札の「本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境が見られる」
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5.同上
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6.黒田官兵衛孝高の坐像とモットーの碑文
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7.天守閣を真横から見る!
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8.下記をクリックして、「音声付動画」で中津城の城郭全体を見て下さい!
https://youtu.be/8czncIQXR9k

9.中津城周辺図
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10.中津城天守閣を逆側から見て下さい。
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2016/4/17

豊後・阿蘇を見る!44.黒田官兵衛の末弟が創建し初代住職となった西蓮寺!  文化財研修記

中津市寺町には浄土真宗本願寺派の西蓮寺(しょうれんじ)がある。この寺は天正16年(1588)に光心師によって開創された。光心師の俗名は、黒田市右衛門であり、黒田孝高公の末弟で父・黒田職隆公の逝去時に出家した。 黒田孝高公が播州から豊前中津に入国の際に兄・孝高公の御徳を慕いともに中津に入り、寺町に西蓮寺を建立し、初代住職となったのである。 以来、400年以上の長きにわたり、現第20代住職までこの地で法灯を伝えている。現在の本堂は、天保14年(1844)に再建されたもので、金剛棟札を見ると、発起人は8歳の童子・播磨屋助次郎とある。 この童子が山国川から小石を運び、立派な本堂を建てる用意をしていることを聞き、総代・小幡親民は深く感激し再建に尽力した。この本堂は、再建当時藩主であった第8代奥平昌服(おくだいらまさもと)公が度々お茶会を催した場所でもある。

1.西蓮寺の見事な山門
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2.駒札
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3.見事な本堂
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4.本堂前の見事な蘇鉄
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5・駒札
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6.見事な鐘楼
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2016/4/15

豊後・阿蘇を見る!43.小笠原氏の菩提寺で浄土宗鎮西派の淨安寺!  文化財研修記

大分県中津市寺町には寛永17年(1640)、小笠原長次の祖父・小笠原貞慶の従弟・小笠原長継の菩提を弔うため、長男の小笠原政直が建立。正徳5年(1715)9月、本堂と鐘楼が焼失。現在の本堂は文化8年(1811)、舟町の豪商・井筒屋勘之助高通の寄進により再建されました。明治22年(1889年)中津町会議員の初選挙が行われましたが、初町議会がこの浄安寺でひらかれました。 境内には、明治・大正期の貴族院議員で、富士紡績などで活躍した実業家・和田豊治の墓や福澤諭吉が養子になったこともある叔父・中村術平の墓、があります。
 例年2月15日から3月15日には、平安時代の作と伝えられる阿弥陀如来像の傍らで「大涅槃図」が公開されます。「大涅槃図」は中津小笠原藩絵師・海北友倩による1690年頃の作で、小笠原家から寄進されました。縦2.9m・横2.1mの大作で、入滅する釈迦の周りで嘆く中津藩書家の磯田崇山・東郭の墓、書家の中村寿山の墓弟子たちや空に現れる天女などが細かく描かれています。
寺宝:大涅槃図、維摩居士図、小笠原山城守長継公画像などがあります。

1.山門
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2.駒札
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3.見事な蘇鉄のある本堂
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4.見事な象鼻の彫刻がある本堂
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5.和田一族のお墓
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6.中津藩書家の磯田崇山・東郭の墓、書家の中村寿山の墓
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2016/4/13

豊後・阿蘇を見る!42.閻魔大王を祀る珍しい浄土宗鎮西派の円龍寺!  文化財研修記

大分県中津市寺町には閻魔大王を祀る珍しい浄土宗鎮西派の円龍寺(えんりゅうじ)がある。
地元では「閻魔さんの「 お寺」として親しまれる円龍寺は寛永9年(1632)播州龍野から中津藩主として入国した小笠原長次が創建したという。長次は専譽上人を開山として開創したと云われる。山門を潜った左手にある観音堂には子安観世音菩薩が祀られている。閻魔堂には閻魔大王と葬頭河婆(そうずかのうば)(奪衣婆(だつえば))が安置されている。閻魔像は檀家の武士が旅先で閻魔大王への懺悔と信仰により仏道に帰依し、山国川河畔に造立した ものが移されたという。 地獄・餓鬼・畜生・修羅・天人界と極楽を表現した「地獄極楽図」がある。

1.円龍寺山門
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2.正面が本堂
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3.本堂に向かって左側には「観音堂」がある。
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4.子安観世音菩薩像
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5.本堂に向かって右側の閻魔堂の駒札
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6.閻魔堂内
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7.同上 アップで見る!
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2016/4/11

豊後・阿蘇を見る!41.黒田官兵衛建立の浄土宗の円応寺!  文化財研修記

円応寺(えんおうじ)は天正15年(1587)豊臣秀吉により豊前6郡の12万石を与えられ備前から豊前・中津に移封した黒田孝高(後の如水)の開基、真誉上人見道上人開山による浄土宗の寺院で、黒田、細川そして小笠原と各藩主より篤く崇敬されています。又、河童の由来の寺として名高い寺院とされ、境内の案内板では次の内容の記載があります。「江戸中期当寺の寂玄上人が河童どもを仏の道に入らせ修業の末、河童の頭目三匹に戒名を授けた。河童たちは上人への御恩返しに寺を火災から守ったという。この寺の瓦には「水」の印の瓦が葺かれていて、水乞いの祈りが捧げられと言う。境内に「河童の墓・河童の池」があって、今でも寺の法要の時には河童の頭目の回向を行っている。頭目たちの戒名を彫った火難水難除けの護符の版木も残されている。尚当寺開山の真誉上人ですが彼は播州赤穂の出身で武門で名高い赤松氏の流れを伝える名家で黒田氏と同郷で孝高が中津に移る時も黒田氏に同道しています。更に慶長3年(1600)に小倉に於いて同名の円応寺を建立、そして慶長7年(1602)如水室である光の方が出家し福岡城大手門が見える地に寺院を創建の折には室の招きにより円應寺の開山として役割を果たしています。尚、今も残る河童の墓は黒田二十四騎の一人野村太郎兵衛の墓とも言われています。

1.円応寺山門(瓦の○水に注意)
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2.駒札
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3.見事な鐘楼
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4.観音堂
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5.堂内の十一面観世音菩薩様
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6.駒札
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7.駒札
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8.河童のお墓(丸水瓦にご注意。黒田二十四騎の一人野村太郎兵衛の墓とも言われています。)
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9.河童の池
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