2016/3/31

豊後・阿蘇を見る!35.中津市寺町にある見事な本傅寺!  文化財研修記

中津市寺町には見事な法華宗の本傅寺(ほんでんじ)がある。創建については詳細は定かでないが康永2年(1343)に開山されたともいう。当初は、天台宗であったと云われる。慶長10年(1605)本住院日住が住職の時法華宗に改宗した。本堂は文化3年(1806)に再建されたと云われる。本尊は十界勧請大曼荼羅で日蓮上人像は博多にある上人立像を模して造られたという。又この寺には江戸時代後期の医者・田中信平、通称「田信(でんしん)」の墓所がある。
 田信は書画作家、食道楽の風流人としても知られ中華料理書「卓子式(しっぽくしき)」を出版。中津の郷土料理などにも影響を与えたという。

1.本傅寺の標柱
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2.山門
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3.山門をアップで見る!
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4.山門から境内を見る!
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5.本堂と見事な蘇鉄
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6.江戸時代後期の「田信」のお墓(詳細は記事に掲載してあります。)
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7.本堂前から山門の内側を見る!
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2016/3/29

和藤合戦古戦場・旧跡巡りウォークに参加  綾部の文化財

戦国時代に攻手・丹波守護代:内藤宗勝が1800の軍勢で、受手・200の山家勢と下原町で大合戦を繰り広げた物語り。
和藤合戦古戦場跡を巡る約3時間の山歩きが、山家歴史の会(有道大作会長)の呼びかけで行われた。3月28日(日)午後13時30分JR山家駅に集合出発。

和藤合戦古戦場 旧跡
永禄六(1563)年 戦国時代 この地 下原で大合戦が行われた。

 丹波の国守護代 内藤備前守宗勝は、丹後攻略の途上、山家領主 和久左衛門佐吉政も滅ぼすべく、将兵およそ1800名の大軍で、大原神社から大原峠を越えて下原に攻めてきた。

 下原ではこれを察知して待ち構えていた、下原の地侍 白波瀬肥前守忠次と、大水の由良川を鷹栖から渡ってきた和久方の武将達、加勢に駆け付けた地元の住民達、約200人が応戦した。

 白波瀬館、禅定庵、備州ヶ尾の下原の山々に繰り広げられた熾烈な戦いは、内藤宗勝の首をあげて白波瀬方が大勝した。

 備州ヶ尾・鑓場成の「内藤宗勝の墓碑」「禅定庵跡」「白波瀬館跡」等が今も下原に存在している。


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あやべ市民新聞にJR山家駅周辺開発の記事があったので、今回はJR綾部駅で乗車しJR山家駅で下車で参加した。下原公会堂前まで歩いて受付

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和藤合戦古戦場・旧跡の案内

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山家歴史の会の有道大作会長と応援に来られた四方源太郎京都府議

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蛇が谷を越えて侵入した内藤勢が集結した禅定庵跡に向かう

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内藤勢が集結した禅定庵跡

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梅の花が咲く長閑な田園風景だが、下に見える由良川手前の白波瀬館一族とこの谷で決戦

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五輪石が並べられた禅定庵跡の案内

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更に林道に入り備州ヶ尾〜内藤宗勝の墓碑を目指す
かなりの登りを歩く

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備州ヶ尾、内藤宗勝の墓碑、八木の方角に向け立てられている
三郡山の峠までもう一息の地点だ。綾部(何鹿郡)から出てしまえば
下りは八方に広がるので逃げ延びられたであろうか・・?

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少し行くと関電の高圧線鉄塔が建っている
三郡山からこの高圧線沿いに下山したことを思い出した

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更に少し登ると、分岐点に出た。
主尾根の三郡山・大原峠〜蛇ヶ谷の主尾根も直ぐ近くにある。
ここから上原町の行者堂へ下る

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ずっと下ると毎年火祭りが行われる、岩根山行者堂の分岐
麓から1100m(40分)の地点に来た

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三郡山(岩根山行者堂)の登山口に立つ
山家歴史古道案内図

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GPSでトレースした歩行マップ、3時間のかなりハードな行程だった。
ここからマイカーで参加された隣組のAさんの車に便乗させていただき帰宅した。

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資料1 和藤合戦記地名・旧跡

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資料2 和藤合戦記
近く山家歴史の会より出版される模様

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2016/3/29

豊後・阿蘇を見る!34.中津市にある福沢諭吉旧居と福沢記念館を見る!  文化財研修記

大分県中津市には「福澤諭吉旧居・福澤記念館」がある。福澤諭吉は、天保5年(1835)に大坂の中津藩蔵屋敷で、13石2人扶持の下級武士福澤百助の次男として生まれました。1歳6ヶ月の時父と死別し、母子6人で中津に帰郷。貧しくとも信念を持った少年時代を過ごし、14歳になって儒学者白石照山の塾に入りました。
  安政元年(1854)、19歳の時蘭学を志して長崎に遊学、翌年からは大坂の緒方洪庵の適塾で猛勉強に励みました。安政5年(1858)には、藩命により江戸の中津藩中屋敷に蘭学塾を開きました。これが慶應義塾のはじまりです。
  西洋の語学力と知識をたくわえたいと考えた諭吉は、万延元年(1860)「咸臨丸」に乗り込み渡米。以後、ヨーロッパ諸国も歴訪し、社会の制度や考え方などに旺盛な好奇心で見聞を広めました。その後『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを続々と著し、当時の日本人に西洋文明の精神を伝えました。

1.福澤諭吉旧居
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2.福澤記念館内の胸像
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3.館内
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4.パンフレット
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5.屋外にある福澤諭吉胸像
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6.昭和天皇行幸記念植樹
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7.宇樹橘
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8.駒札
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9.その土蔵
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10.記念植樹
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2016/3/27

豊後・阿蘇を見る!33.大友氏所縁の浄土宗西山派の来迎寺!  文化財研修記

大分市錦町1−1−30には文亀元年(1501)に創建された浄土宗西山派の寺院です。
開祖・文忠梵英榮(もんちゅうぼんえい)上人が仏道修行のために、諸国を巡った折に豊後国を訪れたところ、その徳のすぐれた人望に深く感動した大友氏第18代親冶(ちかはる)が上人を府内町に引きとめて建立した寺です。
それ以来500年以上この地にあります。戦国時代の府内を描いた「府内古図」と現在に残る地割から復原すると、大友館跡から約450m北に位置することがわかります。
当時の海岸線は現在よりはるか南で、古絵図には来迎寺の北西に舟入が描かれています。

1.来迎寺門柱と入口
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2.巨樹と禅堂への門
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3.禅堂への門
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4.巨大な山門
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5.山門の見事な彫刻
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6.鐘楼と本堂
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7.巨大な鐘楼
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8.駒札
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9.本堂
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10.見事な本堂の彫刻
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11.見事な蘇鉄の庭
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2016/3/25

豊後・阿蘇を見る!32.大友氏第5代当主大友貞親が再興の万寿寺!  文化財研修記

万寿寺(まんじゅじ)は、大分県大分市金池町にある臨済宗妙心寺派の寺院で山号は蔣(まこも)山。本尊は釈迦三尊像。萬壽興聖禅寺とも言う。
平安時代初期、百合稚麻呂というこの地域の有力者が娘の万寿姫の菩提を弔うために、現在の大分市元町の地に創建したのが始まりとされる。
その後衰退したが、徳治元年(1306)、大友氏第5代当主大友貞親が博多より承天寺住職の直翁智侃和尚を中興開山に迎え再興し、室町時代に初期には十刹に列せられた。
南北朝時代には、南朝方の菊池氏らが高崎山城に拠点を置く北朝方を攻める際に、この寺に本拠を置いた。当寺はたびたび兵火や火災により焼失しているが、1582年(天正10年)には、大友義統が家臣への恩賞のために焼き討ちを行い、寺社領を没収している(大友氏の菩提寺でもあったのだが、当時の大友氏の勢力衰退によって家臣へ与える領地が減少したことや、大友義鎮・義統親子のキリスト教への傾倒も理由とされる)。また、天正14年(1586)には島津軍の豊後侵入のために焼失している。中世の府内中心部に位置する大友氏館跡及び旧万寿寺跡は近年発掘調査が進んでおり、旧万寿寺の遺構からは、「紅地金襴手宝相華文碗」(こうじきんらんでほうそうげもんわん、国内初出土)や「褐釉陶器水注」(かつゆうとうきすいちゅう、国内で2例目の出土)といった希少な陶磁器等が発掘されている。2002年には大友氏館跡が国の史跡に指定され、2005年には万寿寺跡が追加指定されて大友氏遺跡として国の史跡に指定されている。
 江戸時代に入ると、玉英という僧が府内藩初代藩主の竹中重利の許可を得て現在地に草庵を営んだ。これを継いだ丹山は第2代藩主竹中重義(重興)の援助を受けて寛永年間(1624〜1644)に堂宇を再建し、中興の祖とされた。境内墓地にはかつて瀧廉太郎の墓や記念碑があった。これは、当寺の近くに住んでいた廉太郎の父が建てたものである。しかし、瀧家は日出藩の家老を務めた家系で、代々の墓は大分県速見郡日出町の龍泉寺にあるため、親族の意向を受け、2011年3月に廉太郎の墓等は龍泉寺に移設された。

1.巨大な山門(ここからは入れず。)
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2.別な山門から境内へ入る!
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3.見事な鐘楼
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4.見事な経蔵
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5.見事な巨大な山門を内側からみる!
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6.見事な本堂
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7.下記をクリックして、「音声付動画」で境内周辺を見て下さい!
https://youtu.be/7cq8FKefL2A

8.見事な庫裡
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9.松尾芭蕉の句碑
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2016/3/23

豊後・阿蘇を見る!31.大友氏第5代貞親が創建の萬壽豊府稲荷社!!  文化財研修記

大分市錦町(にしきまち)には宇迦之御魂神、佐田彦神、大宮能賣神を祀る萬壽豊府稲荷社がある。、国道10号が南へと向きを変えるあたりの1本北側に入った道路沿いに、鬱蒼と木々を茂らせた場所がある。ここが萬壽豊府稲荷社で、神社創建は徳治元年(1306)、豊後国守護大友氏5代貞親公が蒋山萬壽寺を創建(一説には衰退していた寺を再興)の際に、寺の鎮守として勧請したと伝えられる。大友氏隆盛の時代、この一帯は豊後の中心地であり、府内と呼ばれ国際貿易都市として大いに繁栄した。当社は当時から位置が変わっておらず、かつての面影があまり残っていない大分の町にあって往時の町割りを知るための重要な手がかりとなっている。

1.稲荷社駒札
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2.拝殿を正面から見る!
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3.拝殿の扁額
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4.透かし彫りの拝殿内陣を見る!
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5.拝殿横から本殿を見る!
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6.本殿
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2016/3/21

豊後・阿蘇を見る!30.国史跡・大友館跡!  文化財研修記

大友氏遺跡(おおともしいせき)は、大分県大分市顕徳町一帯にある大友氏館(大友館)跡を中心とする中世の遺跡。2001年8月13日に「大友氏館跡」(おおともしやかたあと)として国の史跡に指定された後、2005年に旧万寿寺跡地区が追加され、「大友氏遺跡」に改められた。 中世に豊後国守護となった大友氏の大友氏泰は、現在の大分市市街地の東部、大分川の河口であった付近(現在の大分市顕徳町)に館を構え、この館を中心とする大友氏の城下町は府内と呼ばれた。中世の府内は東西約0.7km、南北約2.2Kmに及び、その中心となる大友氏館は一辺約200mの四辺形で、典型的な守護館であったと推定されている。
  最盛期にはほぼ九州一円を支配した大友宗麟はキリスト教を保護し、明との貿易や南蛮貿易を行った。戦国時代の府内は、大友氏の城下町として、また、外国との貿易港として栄え、1557年には日本で初めての西洋式の病院が開設され、1580年にはコレジオ(神学院)が設置されるなど、南蛮文化が花開いた。しかし、フロイスの『日本史』によれば、府内は天正14年(1586)の島津家久の侵攻の際に焼き討ちに遭い、壊滅したとされる。
1990年代後半から行われている大友氏遺跡の発掘作業では、15世紀から16世紀にかけての庭園遺構や整地層、掘立柱建物跡等が発見され、大型の建物の存在が推定されている。また、周囲からは明との貿易や南蛮貿易によってもたらされた華南や東南アジアの多数の陶磁器や、キリシタンの遺物であるコンタツ(ロザリオ)やメダイ(メダル)が出土している。出土した陶磁器の多くには、炎熱の痕が認められ、大友氏館周辺が焼き払われたことを物語っている。今後の
庭園再興や屋敷再興に期待したい。

1.大友館跡地にある駒札(画像をクリックすると4600ピクセルの大画面と成り読めます。)
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2.見事な庭園などの遺構が発見されている大友館跡
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3.同上
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2016/3/19

豊後・阿蘇を見る!29.大分市の大友氏所縁の大智寺!  文化財研修記

大分市金池町には嘉慶元年(1387)11代大友親著(ちかあき)が当初臨済宗の一寺を創建して、万寿寺に在住していた獨芳清曇師を開山として招じたといわれています。
明応2年(1493)、17代大友義右(よしすけ)が修理を加え、京都南禅寺の才伯禅師を招じて住持としました。 義右は、この寺を大智寺(だいちじ)と改名して、この大智寺に葬られたとされますがその墓は現存しません。
天正14年(1586)の島津軍の府内侵入の際にも戦火を免れました。
境内に御影石造の山弥長者の逆修塔という大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
山弥長者は実在の人物で、守田山弥之助氏定〔もりたさんやのすけうじさだ〕といい、豊後府内に住んで大富豪となりましたが、天保4年(16477)時の城主日根野吉明に背いた理由でとがめられ、、一族5人が一杭(同じ穴)に埋められたといわれています。本堂は戦災で無くなりその後、コンクリート造りで再建されています。

1.大智寺標柱
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2.参道と山門
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3.山門の見事な彫刻
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4.石仏群の一部
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5.同上
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6.同上
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7.山弥長者の墓(江戸時代の大富豪の逆修塔)
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8.大鐘楼(土台はコンクリートです。)
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9.見事な巨大な宝篋印塔(17代義右のお墓とも言われていますが、銘もなく確かではありません。)
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2016/3/17

豊後・阿蘇を見る!28.江戸時代から有名なJR竹田駅北側にある「落門の滝」!  文化財研修記

通称「下木の滝」。台地を流れる城原井路の終点が下木にあり、豊後竹田駅の北側の高さ40m余りの断崖から流れ落ちます。
井路に水が流れる季節には、豊後竹田駅を背景に布を垂らすような落水を見ることができます。この落水は、江戸時代の文人たちの間でも有名で広瀬淡窓は「落門の滝」または「布引きの滝」と呼び漢詩にうたいました。竹田橋から眺める楼閣もあったそうです。

1.JR竹田駅南口前の「名水の庭」
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2.JR竹田駅にある「落門の滝」駒札(画像をクリックして頂くと4600ピクセルの大画面と成り読むことができます。)
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3.落門の滝
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4.同上
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2016/3/15

豊後・阿蘇を見る!27.日露戦争の英雄・広瀬武夫中佐を祀る広瀬神社!  文化財研修記

大分県竹田市竹田には日露戦争で旅順港を閉鎖しようとして殉死した広瀬武夫中佐を主神として祀る広瀬神社(ひろせじんじゃ)がある。広瀬神社(ひろせじんじゃ)は、大分県竹田市にある神社である。旧社格は県社です。竹田市出身で軍神第1号の海軍中佐、広瀬武夫命を主祭神とし、竹田市を含む旧直入郡(現在はほぼ全域が竹田市内)内の戦歿者等の霊1400余柱を合祀している。明治37年(1904)3月27日に日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬中佐の人格と報国の精神を敬仰する人々により「広瀬神社創建奉賛会」が結成され、昭和10年(1935)5月に社殿が落成、同月25日に鎮座祭が行われ、県社に列した。昭和23年7月、大分県直入郡遺族連合会が、郡内の国家公共に尽くして亡くなった人々の霊の広瀬神社への合祀を議決し、翌年、第1回の合祀が行われた。境内には広瀬記念館があり、祭神に関する展示が行われている。館内にはかつて広瀬の乗艦であった戦艦朝日のカッターが寄進されており、旧海軍時代のものとしては貴重なものである(ただし1937年寄進のため、広瀬の勤務当時のものかどうかは不明。また寄進当時の朝日は特務艦)。また、同じく竹田市出身の陸軍大将阿南惟幾の顕彰碑がある。碑は岸信介の書によるものである。

1.広瀬神社参拝道の前にある広瀬中佐の胸像と鳥居
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2.竹田市出身の陸軍大将阿南惟幾の顕彰碑と像
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3.手水舎
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4.広瀬中佐の歌
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5.広瀬神社から見下ろす竹田の城下町
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6.神門
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7.阿形の狛犬
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8.駒札
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9・駒札
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10.拝殿
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11.本殿
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12.駒札
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13.殉職者塔
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14.駒札
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