2015/10/5

富岡製糸場と絹産業遺産群(田島弥平旧宅・高山社跡・荒船風穴)の 世界遺産登録『一』  綾部の文化財

富岡製糸場と絹産業遺産群(田島弥平旧宅・高山社跡・荒船風穴)の
世界遺産登録『一』
         会長 村上高一
  右記のことが平成二六年(二0一四)六月二十一日に決まりました。これはわが国の近代産業発展にとって、非常に名誉なことであり、わが国が海外に誇る生き証人たるといえます。そこでこの機会に両者のことについて少し記してみます。

(一) 富岡製糸場について
 明治新政府は早い段階で、富国のための「殖産興業」をその軸となる官営工場の着想を出発させていました。それには海外との貿易を盛んにする必要があり、輸入と共に輸出に力を入れなければならないと考えて注目したのが「生糸(きいと)」でありました。江戸時代には幾つかの藩が、製糸製造に力を入れて、特に関東、東北地方の養蚕農家は上質な生糸を生産してきました。その販売先として代表的な場が、西陣織で知られる京都西陣でした。
 幕末から明治維新に到る時期、ヨーロッパのフランスやイタリアなど生糸を生産する中では「微粒子病(びりゅうしびょう)」という蚕の病気が流行して、製糸業に甚大な被害を及ぼしたことで生糸が不足するとい本の生糸に注目して来ました。それで一時は生糸が日本の輸出額の八割を占める程になりました。同時に日本産の生糸も品質が落ちるのではないかという心配も出てきました。そこで政府は生糸の品質改善と生産性向上を長く維持するための技術指導者の育成が必要だとの結論に到りました。そしてそれらを満たす官営の模範工場が必要とされるようになりました。
 明治三年(一八七0)、横浜にあるフランス商館に勤務していたポール・ブリュナ技師が政府の依頼をうけて尾高(おだか)惇(じゅん)忠(ちゅう)(渋沢栄一の義兄で初代の製糸場長)と共に、製糸場建設候補地を実地調査しました。調査したのは武蔵(埼玉)、上野(こうずけ)(群馬)、信濃(長野)の三地域で(一)繭(まゆ)の集荷がしやすい養蚕地域、(二)住民が工場に協力的、(三)繭の貯蔵上、高台の乾燥地、(四)水利、交通の便の良い事、(五)石炭などの燃料のあること、などが調査され、その結果群馬県(上州)の富岡が決定しました。この地は建設予定地にふさわしい要素をすべて備えていました。
 富岡に工場建設地を定めたフランス人のブリュナは富岡製糸場の技術指導者なり、建設物の建設は、同じフランス人のオーギュスト・バスチャンが担当しました。彼は幕末の慶応元年(一八六五)、江戸幕府により建設が開始された横須賀製鉄所の技師で、富岡製糸工場の設計図を五十日で完成させました。それ程早く完成させたのは、横須賀製鉄所にモデルとなる製鋼所(ロープ工場)があったからだといわれています。なお横須賀製鉄所は、江戸幕府が建設費二四0万ドルで建設を開始し、五年後の明治二年(一八六九)にほゞ全施設がフル操業に入りました。この製鉄所は明治四年(一八七一)四月より、造船所と改称しました。その後横須賀海軍々港となります。さらに先ほど紹介したオーギュスト・バスチャンは富岡製糸場へ来て、主要建物の建築法として、「木骨(もっこつ)煉瓦造(れんがぞう)」という建築法を発明します。この建築法は、主要部分の柱・梁(はり)を木材で組み、壁面を煉瓦積(れんがつみ)にした建築構造です。煉瓦は和製煉瓦で煉瓦と煉瓦の接合部分の目地(めじ)には,当時セメントが無かったので漆喰(しっくい)を使いました。このようにして、富岡製糸工場の建設には、これらフランス人の技師の指導を受けて、多くの日本人が建設に関わっています。

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世界文化遺産に登録された富岡製糸工場

当、富岡製糸工場は明治四年(一八七一)一月に資材調達などの準備が始まり、翌年七月に主要な建物が完成、その三ケ月後に操業を開始していますから、当時としては、突貫工事でありました。こうして完成した富岡製糸工場の規模は、当時世界最大規模の工場で、三百人の工員が操業できました。また、二階建ての東西の繭倉庫は百四、四メートルの長さがありました。まだ養蚕は春(はる)蚕(こ)の一回の時代であったので蚕種の保蔵が出来ず、春に取れた繭が保管されたのです。
 いよ々々女子工員の募集が始まりました。色々な噂があったので県庁からお達しがありましたが、中々応募が進まない中で、工場長尾高惇忠の娘・ゆう・十四歳が自ら工女に応募して、伝習工女の第一号になり、以後応募が進み、各県の十三歳から二十五歳までの女子が、士族の娘を中心に二00人余り集まりました。その中の一人、信州(長野県)松代からやって来た横田英(ひで)(後、和田英(ひで))十七歳は、五十七歳の時に、富岡で過ごした生活を回想した「富岡日記」を残しています。彼女は中級武士の家庭に育ち、松代の工女募集は、彼女を含めて十六名ありました。英が入場した頃、工女は糸取の実力により四段階に分かれていました。英は努力の結果、明治六年(一八七三)十二月一等工女となりました。松代の一行十五人(一名病気で帰国)の内十三人が一等工女になりました。工女達の労働時間は朝七時三十分頃から八時間以内でした。明るい内(窓から入る太陽の光が頼り)の労働で、日曜日は休みでした。英が入場したのは明治六年三月、退場は翌七年七月の一年四ケ月程の工女生活で,同年八月長野県に完成した日本初の民営機械製糸場の技師となり、更に四年後県営長野県製糸場の教授となりました。
(以下次号に掲載を予定しています。)

参考文献:「世界文化遺産 富岡製糸工場」東京出版編集部

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2015/10/5

家康公400年祭!20.県民俗文化財の三社祭礼囃子で有名な三熊野神社!  文化財研修記

三熊野神社(みくまのじんじゃ)は、静岡県掛川市に鎮座する神社で「神紋=右三つ丁子巴」である。近隣には横須賀城がある。文武天皇の命により大宝年間(8世紀初頭)に創建されたとされている。祭神は伊邪那美命、速玉男命、事解男命の3柱であり、熊野三山から勧請されたとされている。文武天皇により同時に創建された御前崎市の高松神社、掛川市の小笠神社とともに「遠州の熊野三山」とも称される。4月の第一金曜日から3日間にわたり、三熊野神社では例祭が行われる。この例祭は「遠州横須賀三熊野神社大祭」と呼ばれており、神輿の行列や二輪屋台の引き廻しが行われる。1690年前後には既に祭礼が存在していたとされるが、当時は氏子らによる舞踊が主であった。その後、横須賀藩藩主の西尾忠尚が江戸幕府老中に就任し、江戸での公務の際に見聞した神田祭や山王祭を地元に伝えたことから、1720年前後、屋台の引き廻し等が祭礼に導入された。また、西尾の家臣らは江戸で祭囃子を習得し、それが横須賀に齎され三社祭礼囃子として今に伝わったとされる。文化財としては、静岡県指定有形文化財(建造物)本殿、静岡県指定有形文化財(絵画)絵馬44点、掛川市指定有形文化財(彫刻)天狗面、狛犬又、三熊野神社に関連する民俗文化財として、「三熊野神社の地固め舞と田遊び」および「三社祭礼囃子」が静岡県指定重要無形民俗文化財に指定されている。

1.三熊野神社標柱
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2.石造大灯籠と拝殿
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3.掛川市指定文化財の狛犬一対と拝殿
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4.見事な拝殿とその彫刻
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5.拝殿のお宮参りの様子と拝殿に飾られた県指定文化財の絵馬
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6.本殿横の境内社と元の拝殿の鬼瓦
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7.県指定文化財の本殿を横から見る!
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8.三社祭礼囃子の山車の倉庫群
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9.下記をクリックして、「音声付動画」で三社祭礼囃子の様子を見て下さい!
https://youtu.be/0Owr_x0xLvA

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2015/10/3

家康公400年祭!19.安倍清明が勧請したという水神宮!  文化財研修記

水神宮(すいじんぐう)は寛和元年(985)安倍晴明が勧請したといういい伝えもあり、大渕地区浜部落にある晴明塚 (掛川市)、硯水の井戸と関係があるという。 天正6年(11578)横須賀城が築城されてから、初代大須賀康高より代々の城主が本殿などを修理維持してきた。 明治維新を迎えた明治6年(1873)には、西五町が氏子として維持管理して現在に至る。 毎年4月の三熊野神社の大祭には、神輿が水神宮にお渡りになって休憩する。これは氏子の民情視察のためといわれている。境内社の月夜見神社 この神社は初め松尾町神尾茂次の祖先が江戸城から分祀して邸内に祀っていたものを、大正8年(1919)ここに合祀した。

1.水神宮の石灯籠一対と一ノ鳥居
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2.一ノ鳥居と二ノ鳥居
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3.二ノ鳥居と石段参道と右側に巨大なムクノ木があります。
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4.珍しい巨大なムクノ木
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5.珍しい阿形の狛犬
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6.石段参道を更に登る!
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7.水神宮拝殿
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8.本殿
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9.境内社の月夜見神社
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2015/10/1

家康公400年祭!18.遠州制覇に夢をかけた家康公と信玄・勝頼と横須賀城!  文化財研修記

戦国時代末期、この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続きました。天正6年(1578)徳川家康は家臣の大須賀康高(初代城主)に命じて高天神城攻略の拠点として横須賀城を築かせました。天正9年(1581)高天神城は落城と共に廃城となり、横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられました。以後、明治維新で廃城となるまでの288年間20代の城主を数えます。明治元年(1868)20代城主西尾忠篤は明治維新の動乱のなか、安房国花房(現千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩は静岡藩に含まれることとなりました。横須賀城は明治2年8月に廃城。さらに明治6年には城内の土地、建物、石垣、樹木まで民間に払い下げられましたが、城跡消滅の危機に住民から保存の声が上がり、昭和56年5月8日付けで国の史跡に指定されました。横須賀城(別称松尾城)は、平山城として、山城から平城に移る中間期の特徴を備え、中世城郭と近世城郭のふたつを併せ持っています。又、普通ひとつしかない大手門が、この横須賀城には東西にあり「両頭の城」といわれたほか、「玉石積み」とよばれる丸い河原石を用いた石垣も、特徴としてあげられます。初期段階の横須賀城の主郭部分と考えられる松尾山と本丸は、小笠山丘陵の先端部に山城として築かれ、近世中期までに二の丸等の平城部分が拡張付加されて、現在の横須賀城が完成したと考えられています。近世中期までは城の手前まで海が深く入り込み、三方が入江と沼や深田に囲まれた天然の要害の地でした。また、この入り江には横須賀湊(みなと)があり、物流の拠点にもなっていました。築城当時、この入り江は同じ市内にある掛川城の外堀となっている逆川の河口だったと考えられており、当時、横須賀城と掛川城は船で直接行き来することができたと考えられています。掛川城が陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は小笠山の南を通る浜筋道の押えであると同時に海上交通の押えであったと考えられます。大須賀氏2代の後、豊臣系の大名渡瀬氏、有馬氏が2代入り、その後、2万5千石から5万5千石の譜代大名の居城となりました。中には江戸幕府の老中を勤めた城主もいました。

1.国史跡の珍しい平山城の横須賀城図
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2.同上
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3.珍しい「玉石積み」の石垣
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4.本丸跡の土杭群碑
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5.天守台跡
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6.横須賀城図
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7.南側の石垣
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8.三の丸跡図
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