2015/10/31

家康公400年祭!34.天下普請の駿府城2−2!  文化財研修記

寛永10年(1633)、江戸幕府は徳川忠長が改易されて直轄領となった駿府に駿府城代を置き、東海道の要衝である当地の押えとした。駿府城代は老中支配で、駿府に駐在して当城警護の総監・大手門の守衛・久能山代拝などを管掌した。譜代大名の職である大坂城代とは異なり大身旗本の職であるが、老中支配の中では最高位の格式を持ち、御役知2,000石、伺候席は雁間詰めであった。又、慶安2年(1649)に設置された駿府定番は、駿府城代を輔ける副城代に相当し、当城の四足門の守衛を担当した。駿府城代と同様に老中支配で、御役高1,000石・御役料1,500俵、芙蓉間詰めであった。駿府城には、定置の駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として駿府在番が置かれた。江戸時代初期には、幕府の直属兵力である大番が駿府城に派遣されていたが、寛永16(1639)には大番に代わって将軍直属の書院番がこれに任じられるようになった。その後約150年間、駿府在番は駿府における主要な軍事力として重きをなすとともに、合力米の市中換金などを通じて駿府城下の経済にも大きな影響を与えたとされる。しかし寛政2年(1790)に書院番による駿府在番が廃止され、以降は常駐の駿府勤番組頭・駿府勤番が置かれて幕末まで続いた。この駿府勤番組頭・駿府勤番は駿府城代支配の役で、それぞれ御役高500石・御役料300俵と御役高300俵であった。駿府城代支配の諸役としては、既述の駿府勤番組頭・駿府勤番の他に、駿府城内の武器・弾薬を管理する駿府御武具奉行や交代寄合の榊原氏が世襲で務めた久能山総門番などがある。駿府城代は、こうした支配の諸役と駿府加番などで構成される駿府における番方(軍事・警備)の要として、駿府の庶政を掌る役方の駿府町奉行とともに直轄地・駿府を幕末まで治めた。なお、天守台は明治時代に陸軍歩兵第34連隊を誘致する際に破壊されたが、同時に埋められた内堀(本丸堀)は部分的に発掘され保存されている。また、平成26年(2014)3月末には二ノ丸南西角に坤櫓(ひつじさるやぐら)も復元された。慶長15年(1610)再建時の大工棟梁(大棟梁)は中井大和守正清であった。また、地元の大棟梁華村長左衛門尉正重とその子孫10代が、幕末まで同城の修復を手掛けている。

1.東御門橋を渡ると其処には巨大な東御門がある!
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2.東御門の駒札
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3.現在地
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4.内堀
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5.駒札
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6.双葉葵の小径
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7.駿府城本丸跡碑と高を左手の徳川家康公銅像
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8.駒札
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9.西門橋を渡り城址から出る!
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10.坤(ひつじ)櫓
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2015/10/29

家康公400年祭!33.天下普請の駿府城2−1!  文化財研修記

14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。今川氏は隣接する甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び領国支配を行ったが、16世紀には甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消され、武田氏の駿河侵攻により今川氏は駆逐され、城館は失われた。今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は天正10年(1582)に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。徳川氏時代に駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されたという。その後、天正18年(1590)には、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城する(甲斐の甲府城にも、同様に豊臣系大名が配置されている)。江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居した。ただし名目上は家康の子の頼宣による駿府藩50万石、ということになっている。このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が成立した。天守閣は、石垣天端で約55m×48mという城郭史上最大のものであった。しかし慶長12年(1607)に、完成直後の天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失した。その後直ちに再建されたが、慶長15年(1610)再建時の天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。元和2年(1616)に駿府城で家康が没するまでの大御所政治時代、駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心地として大いに繁栄した。現在では、天守・櫓・門などの建造物や三重の堀のうち外堀の三分の一と内堀(本丸堀)は埋め立てられて現存していないが、残された中堀・外堀の石垣が往時の姿を留めている。また、外堀と中堀の間にある旧三ノ丸には官庁や学校などの公共施設が立地し、中堀の内側にある旧二ノ丸・本丸は「駿府城公園」として整備されている。二ノ丸南東の巽櫓(たつみやぐら)が、1996年には東御門(櫓門)と続多聞櫓が日本古来の伝統的在来工法によって復元された。内部は資料館となっており見学することができる。なお、天守台は明治時代に陸軍歩兵第34連隊を誘致する際に破壊されたが、同時に埋められた内堀(本丸堀)は部分的に発掘され保存されている。また、平成26年(2014)3月末には二ノ丸南西角に坤櫓(ひつじさるやぐら)も復元された。慶長15年(1610)再建時の大工棟梁(大棟梁)は中井大和守正清であった。また、地元の大棟梁華村長左衛門尉正重とその子孫10代が、幕末まで同城の修復を手掛けている。

1.駿府城手前から県庁方面を見る!
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2.城代橋
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3.巽櫓方面を見る!
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4.堀の手前には弥次喜多銅像がある。
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5.東御門橋
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6.東御門橋を渡る!
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2015/10/27

家康公400年祭!32.江戸幕府最後の15代徳川慶喜公屋敷跡!  文化財研修記

謹慎をとかれた徳川慶喜は、明治2年(1869)年10月5日に、宝台院から駿府紺屋町の元代官屋敷に移り、ここで生活を始めた。女中部屋を含めて12〜13室の住居だったという。屋敷南側には慶喜が作庭師小川治兵衛に命じて造らせた回遊式の池が広がるが、これが現在の浮月楼の庭園である。慶喜は近くに東海道鉄道が開通するのに先だって、1888年3月6日に西草深に転居した。慶喜転居後、紺屋町屋敷は1889年にいったん静岡市が7,000円で払い下げを受けたが、翌年、市内の資産家の野崎彦左衛門、尾崎伊兵衛、森作太郎3人が購入し、のちに料亭として開業した。なお、慶喜の住んだ屋敷は1892年の火災で焼失した写真家・徳田幸吉(とくだ こうきち)氏に写真撮影の技術を学び、連日のように写真撮影へ出かけていたとのこと。浮月楼では慶喜関係の資料を見学することができます。

1.浮月楼(徳川慶喜公屋敷跡)の碑
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2.浮月楼正面
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3.邸内の庭園にある駒札
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4.邸内 その1.
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5.邸内の見事な庭
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6.同上
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2015/10/26

家康公400年祭!31.家康公が幼少の時人質としてこの近くに居住し参拝した小梳神社!  文化財研修記

JR静岡駅から北へ200メートルほどの紺屋町には延喜式神名帳に「駿河国安倍郡小梳神社(おぐしじんじゃ)」とある。諸郡神階帳に「正五位下安倍郡小楠神社。」と、又惣国風土記に「小梳公穀260束、仮粟112丸、小梳神社所祭素盞(嗚)尊、奇稲田姫也、小梳後号東川辺、延喜式安倍郡小梳神社とあるは此社なり。」と記載されている。大宝令の定めにより横田駅が設けられて以来、その守護神として信仰され、貞観の頃から祇園信仰が全国に拡まるに連れて、当神社は少将井神社とも云われるようになった。この東川辺の地に駿府城が築かれて以来は、府城の守護神としての信仰も加わった。 特に徳川家康が幼時今川家の人質として当神社の傍に住居し、日夜武運長久を祈願し、やがて元和元年大阪夏の陣が終り天下を平定してこの駿府城に止まるにあたり、代々徳川家の守り神伝わる大巳貴命、天照大神二神を小梳神社に合祀し少将井五所大神宮と称した。元和元年(1615)9月3日林道春に命じてこの由を社講に識さしめ奉献したものが現存している。これよりさき、慶長14年(1609)駿府城の城域拡張により、当神社はその郭内に入ったので駿河大納言は不敬を冐すをおそれ、且庶民参拝の便をはかって、寛永八年新谷町に仮宮を造って奉遷し、延宝3(1675)年現在の地に社殿を造営して遷宮した。この造営の事にあたったのは城代松平右近太夫を始め町奉行大久保甚兵衛外、城番、番頭、1、2、3加番、目付其の他である。翌延宝4年から隔年に神幸祭が行われた。この神幸祭はぎおん祭といわれ、町奉行、与力、同心が警護にあたり、加番衆出し馬あり、駿府の町々は1番より4番まで組合を定め各町より屋台、台の物なと踟物を出し、「供奉の行列装束を粧い、引連なる踟物の結構は都山王神社の祭礼に彷彿たり。」と駿国雑誌に記載されている。

1.JR静岡駅北口にある竹千代君像
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2.同じく北口にある徳川家康公像
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3.JR静岡駅から北へ200メートルほどの紺屋町にある小梳神社(おぐしじんじゃ)の鳥居と標柱
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4.珍しい青銅の阿形の狛犬
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5.同上 吽形の狛犬
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6.手水舎
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7.神社の駒札
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8.拝殿・本殿
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9.拝殿内陣
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10.拝殿の額
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11.下記をクリックして、「音声付動画」で小梳神社(おぐしじんじゃ)の秋祭り「神輿渡御」を見て下さい!
https://youtu.be/4cEa_9J3taI

12.末社の宗像神社
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13.末社の稲荷神社
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14.新庭道雄の碑
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2015/10/24

家康公400年祭!30.国宝・重文の山「久能山東照宮」2−2!!  文化財研修記

久能山東照宮の国宝は本殿、石の間、拝殿(1棟)(附:安鎮法供養具11組、本殿釣燈籠4箇、拝殿釣燈籠2箇)江戸時代初期の代表的権現造で元和3年(1617)落成。寛永年間に檜皮葺から銅瓦葺きとなった。重要文化財(国指定)「久能山東照宮」13棟 唐門、東門、廟門、玉垣、渡廊、本殿の裏手にある廟所宝塔(神廟)家康が埋葬された場所に立つ廟。末社日枝神社本殿(旧本地堂附:釣燈籠2箇、神庫、神楽殿、神饌所、鼓楼、神厩、楼門、(附:廟所参道(廟門以内、石鳥居及び石柵付)、銅燈籠2基、手水鉢石1口、棟札10枚)美術工芸品としては国宝太刀 銘真恒、重要文化財(国指定)伊予札黒糸威胴丸具足(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく)(徳川家康所用)、金溜塗具足(徳川家康所用)、白檀塗具足(徳川家康所用)、革柄蝋色鞘刀(かわづかろいろさや かたな) 無銘(伝三池光世作)、太刀 銘国行(長73.0cm)、太刀 銘国行(長69.7cm)、太刀 銘安則、脇指 無銘(伝相州行光作)、脇指 無銘(伝貞宗)、太刀 銘正恒、太刀 銘雲次、太刀 銘守家、太刀 銘末守、太刀 銘国宗(備前国宗)、太刀 銘国宗(伯耆国宗)、太刀 銘高(以下不明)、徳川家康関係資料 一括(明細は後出) 一、位記、宣旨、口宣案類、二、神服、調度類、三、書画、典籍類、四、道具類、「徳川家康関係資料」は、家康旧蔵の調度品、茶道具などの奉納品を一括指定したもの。指定品中には、1581年の銘があるスペイン製の置時計(日本に現存する最古のゼンマイ式南蛮時計)、日本最古の鉛筆などが含まれる。南蛮時計はフェリペ2世のお抱え時計師ハンス・デ・エバロの製作で、1611年にセバスティアン・ビスカイノが献上したもの。ハンス・デ・エバロの製作で久能山東照宮の他に現存している時計は、スペインのエル・エスコリアル宮殿にある1583年製のもの他1個のみといわれている。

1.久能山東照宮案内図
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2.楼門前から見下ろす!
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3.国重文の楼門を内側から見る!
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4.国重文の唐門を見上げる!
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5.見事な国重文の鼓楼
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6.唐灯籠と石の燈籠
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7.日枝神社駒札
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8.国重文の日枝神社
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9.国重文の神楽殿
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10.国重文の唐門から下を見る!
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11.国宝の見事な拝殿を斜めから見る!
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12.見事な国宝の本殿を横から見る!
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13.国重文の廟門
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14.神廟への参道
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15.青銅の燈籠と神廟(家康公の墓所)
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16.神廟
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2015/10/23

家康公400年祭!29.国宝・重文の山「久能山東照宮」2−1!  文化財研修記

久能山(標高216メートル)は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。 推古天皇(592−628年)の頃、久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。永禄11年(1568)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。しかし、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。御祭神である徳川家康公はご幼少のころよりあらゆる艱難辛苦を跳ね除け征夷大将軍に就かれました。晩年を駿府(現在の静岡市)で過ごされた家康公は、元和2年(1616)4月17日に75年の生涯を大成されました。亡くなる直前、家康公は家臣たちに「遺骸は久能山に埋葬すること」を遺命として託されました。二代将軍徳川秀忠公は直ちにそれを実行し、また久能山に家康公を祀る神社を造営することを発令しました。これが久能山東照宮の始まりです。大工棟梁には中井正清が選ばれ同年5月に着工、1年7ヶ月の期間で社殿が建てられました。当時最高の建築技術・芸術が結集された「権現造」の様式は、日光東照宮を始めとする全国の東照宮建築のひな形とされました。又、棟梁中井正清はその生涯で名古屋城(国指定特別史跡)・仁和寺(重要文化財)・二条城(国宝、世界文化遺産)など現在にも残る重要な建造物を手がけましたが、久能山東照宮は晩年の傑作であるという評価から、平成22年に国宝に指定されております。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(現存せず)、楼門が増築された。なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家であった。造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離によって解体を余儀なくされた。

1.表参道にある久能山東照宮標柱
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2.久能山東照宮周辺図
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3.一ノ大鳥居
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4.石段参道を登り始めると右側に久能山徳音寺がある。(徳音院は徳川家康をはじめ3代将軍に仕えた南光坊天海(慈限大師)により開かれたお寺です。御本尊は家康ゆかり の薬師如来で、そのほか不動明王、財福聖天、厄除開運の両大師をおまつりする駿河の霊場です。徳川家康は元和2年4月17日に亡くなり遺命により久能山へ納められました。 家康を神様としてお祀りするにあたり、将軍秀忠は天海の主唱する山王一実神道で東照大権現の神号をいただき,元和3年4月に天海大僧正により、日光山に改葬されました。 家光の代には久能山にも社殿及び寺院ができ、徳音院はその学頭として江戸時代は栄えておりました。ところが、 明治になって神仏分離令により山上の寺院は取り壊されて、麓の徳音院だけが元三、慈眼両大師堂として残されました。)
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5.社殿まで1159段の石段を登ります!
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6.途中、左賀に駿河稲荷神社があります!
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7.やっと駿河湾の見える所まで登ってきました!
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8.表参道の一ノ門
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9.門衛所
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10.勘介井戸(武田信玄の家来の山本勘介が掘った井戸と伝えられています。)
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11.急な石段参道の上には国重文の楼門があります!
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12.楼門の右の阿形随神
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13.吽形随神
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14.御神馬
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15.二ノ銅の鳥居から唐門、拝殿などを見る!
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2015/10/19

家康公400年祭28.静岡市清水区にある臨済宗の古刹・萬象寺!  文化財研修記

静岡市清水区越西2丁目には臨済宗妙心寺派の古刹で冨春山・萬象寺(まんしょうじ)がある。この寺の前の道は久能街道であり、この辺りから別名、久能いちご通りと呼ばれます。それはこのあたりからいちご畑が多くな るからです。(それとは別に石田街道ともいわれます。これは久能から駿河区石田を通って静岡駅に行く道という呼び名です。)徳川家康公が朝鮮通信使と初めて駿府(静岡市)で会われたのですが、この寺にも朝鮮通信使が宿泊し、その名は李三錫で雪月堂に扁額「萬象寺」を残し、静岡市には多くの朝鮮通信使揮毫扁額(ちょうせんつうしんしきごうへんがく)があり、これらは平成6年には国史跡に指定されています。又、この寺の墓地には窪田泉太郎と父窪田治部右衛門の墓所、泉太郎は幕府軍の一軍隊の隊長であり鳥羽伏見の戦いで戦死、鳥羽伏見の戦いの資料にはよく登場する。治部右衛門は幕府浪士組の取締役を勤め、新撰組の篠原泰之進と交流もあった、最後の西国代官(日田代官)でもある。

1.久能街道前にある萬象寺標柱
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2.参道の山側には多くの石塔がある!
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3.山門
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4.巨大な石塔
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5.始覚殿(本堂)
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6.本堂内
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7.見事な須弥檀(仏壇)
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8.本堂前の石庭の石の十三重塔と富士山は見事です!
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2015/10/17

家康公400年祭!27.家康公の側室で水戸光圀公の祖母お萬の方の多大な援助で創建された龍華寺!  文化財研修記

静岡市清水区にある観富山(かんぷさん)龍華寺(りゅうげじ)は日蓮宗の名刹で、寛文10年(1670)身延山第21世の日遠上人の弟子である日近(にちごん)上人が開きました。寺の名は、日近上人を非常に祟敬していた東山天皇が命名され、皇室の勅願所としたそうです。甲州身延の大野山本遠寺第4世だった日近上人は、霊峰富士の信奉者でした。「この地から観る富士の姿が最も荘厳である」と隠居地として龍華寺を建立したのです。そして最初は「大野別院」と称されました。創立の際には、徳川家康の側室で水戸光圀の祖母である養珠院お萬の方の援助を受けたそうです。龍華寺にはお萬の方の肖像画が残されています。お萬の方は10男徳川頼宣(紀伊徳川家)、11男徳川頼房(水戸徳川家) の母にあたります。 須弥山(しゅみせん)式といわれる日本最古の造園法で造られた庭園「観富園」は、池を駿河湾に、本堂の屋根を富士山に見立てて造られました。駿河湾越しに望む富士の絶景を縮図としたものです。株まわり5.3m、高さ3.7mの日本最古の大ソテツは、日本一の大きさで国の天然記念物に指定されています。大阪府堺市の妙国寺、静岡市吉田町の能満寺のソテツとともに「日本三大ソテツ」に数えられています。又、 境内には江戸時代初期にブームだったという大サボテンもあります。根元は既に木化しています。推定300年で国の天然記念物に指定されています。龍華寺のサボテンは大きな刃の様子をしている事から大宝剣と呼ばれています。晩年日蓮宗に帰依し、この眺望を愛した明治の文豪、高山樗牛(ちょぎゅう)の墓があります。樗牛は明治4年(1871)山形県鶴岡に生まれ、仙台二高を経て、帝国大学哲学科を卒業しました。仙台二高教授、帝大講師、雑誌「太陽」の主筆等を歴任。帝大在学中歴史小説「滝口入道」を書いて名声を得ました。日本主義、ニーチェ主義、日蓮主義と短い生涯の中で思想を変えています。日本近代化の思想の悲劇を象徴した文学でした。日本美術史で文学博士号を得ました。ヨーロッパ留学を目前に結核のため病没しました。世のかゞみ てらす心の 友垣や 富士の高山 月の姉崎」高山樗牛と姉崎嘲風の心友歌碑です。世界の文壇に知られた2人の友情美談を明治日蓮教学の大斗田中智学が教育勅語の「朋友相信シ」の鑑であるとして咏ぜられた歌です。

1.龍華寺駒札
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2.山門
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3.左側の厄除門から入山する!
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4.見事な下部の庭園の一部
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5.駒札
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6.不動明王堂
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7.駒札と行啓門
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8.高山樗牛(ちょぎゅう)の胸像!クリックすると元のサイズで表示します

9.見事な下部の庭園の一部(霞んで富士山が見えない!)
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10.祖師堂、本堂への登り参道
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11.祖師堂!
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12.見事な祖師堂の内部と須弥壇!
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13.国天然記念物の大サボテンの駒札
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14.同上 大サボテン
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15.見事な国天然記念物の大蘇鉄
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16.高山樗牛(ちょぎゅう)の駒札と碑文
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17.日本で最も古い須弥山式(しゅみせんしき)庭園「観富園」の一部
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18.下記をクリックして、「音声付動画」でこの名園を見て下さい!
https://youtu.be/PRAUh_83yuQ

19.見事な茅葺の本堂
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20.樗牛館内部の一部
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21.同上
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2015/10/16

家康公400年祭!26.臨済宗妙心寺派の古刹・補陀洛山・鉄舟禅寺!  文化財研修記

鉄舟寺(てっしゅうじ)は、静岡県静岡市清水区にある臨済宗妙心寺派の寺院で山号は補陀落山で本尊は千手観音菩薩様です。飛鳥時代藤原氏の出身である久能忠仁が久能山東照宮付近に建立した堂に始まり、その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したという(『久能寺縁起』)。平安時代に入って天台宗に改められ、建穂寺と駿河を二分する勢いで栄えた。永禄13年(1570)武田信玄が久能山に城を作る(久能城)ため現在地に移され、宗旨も変わり新義真言宗(真言宗根来派)に属することになる。江戸時代には朱印寺領として200石余りを与えられ、多くの支坊を有したが、江戸時代後期あたりから衰退し、明治に入ると無住(住職がいないこと)になって寺は荒廃してしまった。その後、旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も務めたこともある山岡鉄舟が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改められた。そのため鉄舟の書跡の遺品も多い。久能寺経(19巻のうち薬王品)法華経(久能寺経)19巻現存最古の一品経(法華経二十八品を一巻毎に書写したもの)。現在は東京国立博物館に寄託。永治2年(1142)待賢門院の出家に際して、鳥羽法皇や美福門院をはじめ、近臣や女房らが加わった、逆修供養のために結縁書写された。元は法華経28品に開教と結経を加えた30巻か、或いは更に『阿弥陀経』『般若心経』を加えた32巻本だったと想定される。鉄舟寺にはそのうち17巻分伝わっており、他に五島美術館に2巻(重文)、東京国立博物館に3巻(重文)、個人に4巻(重文)の計26巻が現存している。鉄舟寺所蔵品の員数は19巻だが、そのうち陀羅尼品第26と普賢菩薩勧発品第28の2巻は補配本と見なされる。なぜこのように立派な経典が都から遠く離れた地に納められたのか、は不明である。諸説として、京の戦乱を避けるため東国武士によって移された、鳥羽法皇の離宮であった安楽寿院や上皇がしばしば詣でた熊野三山と久能寺との関係性、などが挙げられている。「譬喩品」は待賢門院自らの結縁によるもので、その写経の筆者は近侍の女房中納言の弟で、当代屈指の能書で知られた藤原定信。また、書写名は不明だが「安楽行品」の書は穏やかで優美な行書気味の書風で、当時の能書の中でも特に優れた人物の手になる。重要文化財(国指定)#錫杖 康治元年銘(1142)県指定文化財は木造千手観音像(観音堂)、木造蘭陵王仮面 伝赤鶴(しゃくつる)作、市指定文化財としては薄墨の笛(源新羅三郎義光伝来の薄墨の笛)。平安時代末期に義光により鉄舟寺の前進である久能寺に寄進された。昭和52年に静岡市指定文化財に登録されている。通常笛は公開されていないが、清水市や笛の音色に魅せられた人々による基金によって1998年に「平成の補修」と呼ばれる補修がなされた後、義光の供養、楽器としての笛の保全などを目的として、鉄舟寺他、各地で演奏会が開催されている。毎回演奏は日本を代表する笛奏者・赤尾三千子に託されている。

1.鉄舟禅寺仁王門
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2.駒札
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3.仁王門を斜めから見る!
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4.阿形仁王像
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5.吽形仁王像
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6.文殊地蔵菩薩
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7.碑文
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8.山門
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9.見事な鐘楼
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10.山門、鐘楼、左側に本堂
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11.山岡鉄舟の銅像
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12.山岡鉄舟のお墓
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13.本堂など
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2015/10/14

家康公400年祭!25.清水次郎長とその生家!  文化財研修記

静岡市清水区の次郎長通りと呼ばれる商店街に今でも清水次郎長の生家があります。幕末、明治維新にわたり、全国にその名を轟かせた世紀の大親分、清水の次郎長の武勇伝は、数々の時代劇や映画などで語り継がれています。義理人情の代名詞である次郎長、その人生は波乱にみちたものでした。彼の人生の前半生を「義理の人」と言えば、後半生は「人情の人」と言われ、人を愛し、人に尽くした後半生。それがあるからこそ、今現在も多くの人々愛され続けているのです。
喧嘩にあけくれた前半生でしたが、警察署長に任命されたことにより次郎長の後半生は一転。地元清水の振興に尽力を捧げました。清水港の改修工事、富士山麓開墾や静岡茶を横浜に運ぶ蒸気船会社の設立等々。次郎長の生家は、次郎長にちなんで名付けられた「次郎長通り」と呼ばれている商店街の中にあります。家の中には次郎長の写真や使用した道具類、資料などが展示されています。当時の居間もそのままの状態で保存されています。夏の盆踊りシーズンには「次郎長踊り」のメロディーがあちらこちらから聞こえてきます。今でも地元清水の人々に愛され続けている次郎長です。
〜義理と人情 次郎長物語・・・「咸臨丸事件」〜
時は明治元年。徳川幕府の軍艦「咸臨丸」は清水港で新政府軍によって攻撃を受け沈没しました。次郎長は傷つく徳川方の軍人を新政府軍の目の届かぬよう密かに逃しました。また湾内に浮遊する屍を拾い集め、手厚く葬ったそうです。人情にもろく、義理堅い、世のため人のために尽くしてきた次郎長でした。

1.今でもあり、お土産販売などの店が清水次郎長の生家です
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2.店内の展示物
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3.同上
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4.同上
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5.左、大政、真ん中が次郎長、右、小政、右上は三代目お蝶さんです!
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