2015/9/29

家康公400年祭!17.高天神城奪回のための撰要寺!  文化財研修記

JR浜松から新幹線のこだまで15分でJR掛川に至る。ホテルに荷物を置いて観光案内所で高天神城へ行く方法を聞いたがとても無理なので、見たかった掛川城と横須賀城に変更した。JR200円で袋井駅へ戻り、そこからバスで30分460円で撰要寺で下車した。後は徒歩のみで撰要寺(せんりょうじ)、横須賀城、三熊神社、清水庭園を見て歩いた。徳川家康公の命により天正9年(1581)大須賀康高は、武田勢攻略(高天神城攻め)のため、現、撰要寺の地に布陣して高天神城を攻めたという。天正9年(1581)に康高は中内田村(現菊川町)応声教院廿七世岌屋春阿上人を請じて撰要寺を創建した。遠州の高野山とも称されるこの寺は、西に入り江に面し風光絶景な地であったので山号を景江山として、寺名は浄土宗の撰釈本願集と往生要集よりとって撰要寺と名付けられました。昔は西側の田は横須賀港で「うばがふところ」と云われ、遠州灘の中で唯一の避難港であったが、宝永、安政の大地震などによって隆起して浅瀬となった。 現在、寺の西側の田や畑が海であったとすると、建立当時は風光明媚なところであったことが想像できます。

1.JR掛川駅構内から見える掛川城天守閣
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2.JR掛川駅前のホテル掛川グランド
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3.JR袋井駅
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4.ただ淡々と撰要寺へ向かう!
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5.撰要寺の登り参道
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6.撰要寺山門( 山門は、横須賀城不開門(あかずの門)を明治初め廃城寺にここに移築したもので、 総松材造りで、「丸に立葵」の紋章をつけられていることから12代城主本多利長の在城時代の正保2年(1645)〜天和2年(1682))の建造で町指定の文化財である。
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7.同上 アップで見る!
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8.駒札
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9.見事な鐘楼
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10.本堂
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11.本堂の扁額
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12.県指定文化財の大須賀氏墓(法篋印塔2基、右)初代城主 ・ 大須賀康高 
(左)2代、5代城主 ・ 大須賀(松平)出羽守忠政 )
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13.県指定文化財の本多氏墓(第12代城主・本多越前守利長の一族(石玉垣内は岡崎城主の父・祖父・曽祖父)の巨大な墓塔群が立ち並んでいます。これは、利長在城中に前任地の三河岡崎より海路運ばれたものです。
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2015/9/27

家康公400年祭!15.家康公が弓に励んだとい宗源院!  文化財研修記

曹洞宗普済寺十三派の在天派に属し、宝蔵山「宗源禅院(宗源院)は華蔵義曇(けぞうぎどん)の法弟在天弘雲和尚が応永23年(1416年)に開創しました。本尊は虚空蔵菩薩・釈迦牟尼佛・普賢菩薩です。室町時代後期には、今川氏の庇護をうけ、義元自身が開基としての役割を果たし、堂塔伽藍の再建を行っています。
そうした関係を裏付ける史料として、この寺には今川義元と氏真の判物残されており、この古文書は、浜松市の文化財に指定されています。
 閑静な山内には、三方原合戦の際、家康の身代わりとして戦死した成瀬藤蔵正義、旗手として討死した外山小作正重、遠藤右近の墓があり、また、浜松城主松平伊豆守信祝(のぶとき)が娘多世姫(享年18歳)のために建てたという墓があります。他にも、源太夫堀を構築した小笠原源太夫の千代子夫人の墓もあります。
また、徳川家康が在城した当時寺の東南一帯に的場があり、家康がここで弓の稽古に励んだといわれています。

1.宗源院の見事な鐘楼
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2.正面から見る本堂
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3.見事な本堂内の扁額
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4.見事な本堂内の須弥壇(仏壇)
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5.見事な天井画
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6.墓所への案内板
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7.浜松城主松平伊豆守信祝の娘・多世姫御墓所
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8.三方原合戦の際、家康の身代わりとして戦死した成瀬藤蔵正義御墓所
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2015/9/26

家康公400年祭!16三方原古戦場犀ヶ崖とその資料館!  文化財を守る会だより

犀ヶ崖古戦場は、元亀3年(1572)12月22日、徳川家康と武田信玄が三方ヶ原で戦った。徳川家康はこの戦いに負け、浜松城に逃げ帰った。その夜、徳川方が犀ヶ崖付近夜営していた武田方を急襲し、地理に暗い武田方をこの崖に追い落とした。武田方はここで多くの人馬を失ったと伝えられている。当時の犀ヶ崖は、東西約2q、幅約50m、両崖は絶壁で、その深さは約40mに及んでいたと伝えられている。県指定史跡の現況は、長さ約116m、幅約29m〜34m、深さ約13mである。
犀ヶ崖資料館は、三方原の戦いによる死者の霊をまつった宗円堂というお堂でした。また、昭和5年(1930)に結成された「遠州大念仏団」の本部としても、永く利用されてきました。
 浜松市は、昭和47年(1972年)3月に遠州大念仏を無形民俗文化財に指定するとともに、昭和57年(1982)には、この建物を資料館として改修し、遠州大念仏及び三方原の戦いに関する資料を展示することにしました。
 この資料館は、遠州大念仏及び三方原の戦いについての理解を深め、郷土に伝わる文化遺産を後世に残していくことを目的としています。
 また、犀ヶ崖は浜松城の北側約1キロメートルにある渓谷で、三方原古戦場として昭和14年(1939)に、静岡県の史跡に指定されました。(犀ヶ崖資料館資料より)

1.三方原古戦場犀ヶ崖(みかたがはらこぜんじょう、さいががけ)の碑
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2.同上 案内板
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3.大島蓼太の句碑「岩角に兜(かぶと)くだけて椿かな」与謝野蕪村等5銘は天明(1781〜1789)の五俳人と呼ばれています。
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4.夏目吉信顕彰碑(三方原合戦で留守居役を勤めていたが、味方原合戦の旗色が悪いので戦場に駆けつけ、家康の身代わりで討ち死にした。子孫に夏目漱石が輩出されている。
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5.史跡犀ヶ崖説明板
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6.同上 犀ヶ崖を覗き込むと深さ13メートルの深い崖が理解できる。
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7.本多忠真顕彰碑「徳川四天王の一人本多平八郎忠勝の叔父で三方ヶ原合戦時、敗走する徳川軍しんがりを勤め討ち死にした」
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8.昭和6年4月13日宗円堂内にて「三方原合戦360年祭」を施行。徳川16代将軍家達(いえさと)公ご夫妻がご招待され植えられた「記念樹家達公お手植えの楠」駒札
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9.同上 楠木
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10.犀ヶ崖資料館(三方原古戦場犀ヶ崖と遠州大念仏)
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11.三方原合戦及び遠州大念仏の様子がビデオで見れます。
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12.遠州大念仏の仏具
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13.同上 
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14.徳川代16代将軍家達公直筆の軸
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2015/9/23

家康公400年祭!14.家康公唯一の正妻・築山御前の眠る西来院!  文化財研修記

高松山(こうしょうざん)西来院(せいらいいんと)と呼ぶ曹洞宗の寺院です。正長元年(1428)、寒厳(かんがん)十三派のうちの月窓派(げっそうは)の拠点として、月窓義運禅師(げっそうぎうんぜんじ)によってに開創されました。本尊は釈迦牟尼。
 徳川家康の唯一の築山御前は、今川義元の身内関口親永(ちかなが)の娘で、母は義元の妹であるといわれる。家康は8歳から今川の人質として駿府におり、15歳で元服、このとき姉女房の築山御前を妻に迎えた。3年後に信康が誕生している。夫婦仲はよくなかったらしい。家康は、従順なつくすタイプが好みだったし、築山御前はもともと気が強かった。加えて、義元の姪という立場で、吹けば飛ぶような三河の若殿に嫁がされたのである。
 ところが永禄3年(1560)5月、桶狭間の合戦で、義元は惨死。以後、今川氏は衰退する。このとき、家康は今川方だったが、11年ぶりに岡崎城へ帰る。
  家康は、今川と手を切り、織田信長と同盟。永禄12年(1569)今川氏が滅亡し、三河に加えて遠江を手中に収めた家康は、翌年居城を浜松へと移す。だが、築山殿は移らなかった。今川氏が滅亡することで彼女の存在意義もなくなっていた。
 この頃の行状として、家康の側室お万の方が懐妊したとき、築山殿はお万の方を裸にして縛り、岡崎城の一角に捨てさせたという。たまたま本多重次が、お万の方を発見して助けたので、彼女は無事男子(後の結城秀康)を出産した。わざわざこんなことするなんて、築山御前は、姉女房で案外家康が好きだったので、彼女の生き甲斐は信康だけとなったと云われている。
 永禄10年(1567)、信康は織田信長の娘、徳姫を妻に迎える。信康、徳姫ともに9歳。当初、夫婦仲はよかった。
 だが、築山殿は、最愛の息子を宿敵の娘にとられる形になってしまい、築山殿は信康に、女を世話する。女は武田家臣日向昌時の妾腹の娘である。信康はこの娘に夢中になった。又、築山御前は、甲斐出身の医者減敬と通じ、減敬を介して武田勝頼に好を結びたい旨を伝えた。信康を説得して、謀反を起こさせ、信長・家康を倒すというものである。勝頼は失敗しても損はしないし、成功したらこの上ないと考え、築山殿に起請文を与えた。このことが徳姫の耳に入ってしまう。加えて、徳姫に仕える小侍従という女を、信康が徳姫の面前で殺し、その口を手で引き裂くという事件が起こった。理由は、信康が日向昌時の娘に入れ込んでいるのを、小侍従が徳姫に話したからだという。
 信康は、家康に愛され、武将としてたくましく成長していたが、冷酷な面もあった。踊りが悪いといって弓で射殺したり、鷹狩が不猟であったのを途中で会った僧のせいにして殺したりしたらしい。諸々のことが重なった徳姫は、ついに筆をとる。告発文を受け取った父信長は、家康の使者酒井忠次に会い、問いただした。徳姫の告発は12箇条あったという。忠次は、次々と示される事柄をすべて認めた。何も弁明しなかったのは、忠次をはじめとする老臣たちも、信康の乱行をよく思っていなかったからだといわれる。信長は、信康の切腹を決定する。
 後年、忠次が、我が子のことで家康に頼みにきたとき、家康は「お前も子供のかわいいことは知っているか」と言ったという。信康の弁明をしなかったことを、ずっと根に持っていたようである。
 信康は天正7年(1759)9月15日、謀反だけは無実だといって二俣城で切腹。
 築山御前は、少し前の8月29日、遠江昌塚で、野中重政によって殺された。38歳。これには浜松城で自刃とか、入水とか、小藪村で殺されたとかいろいろあるが現在の西来院に墓所がある。

1.西来院(せいらいいん)への参道
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2.浜松の空襲で焼失後、出来たモダンな本堂
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3.有名な藤棚
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4.藤の歌碑の一つ
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5.夢見馬頭観音石像
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6.西来院の駒札
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7.築山御前案内板
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8.墓所への入口
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9.中々広大な墓所
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10.築山御前月窟廟碑
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11.築山御前月窟廟(墓所)
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12.徳川家康公異父弟・松平源三郎の墓
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2015/9/21

家康公400年祭!13.家康公所縁の普済寺!  文化財研修記

寒巌義尹(1217年〜1300年)の開山により創建された曹洞宗の由緒ある寺院と伝えられるが、実際にこの寺が創建されたのは吉良氏の開基により華蔵義曇(1375年〜1455年)が現在の浜松市寺島の地に建立した随縁寺に始まり、永享4年(1432)現在の場所に移され普済寺と号した。元亀3年(1573)三方ヶ原での武田信玄との合戦の時には戦略上徳川家康によって焼かれたが、その後家康によって復興された。江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられた。昭和20年に戦災で焼失し、現在の堂宇の多くはその後に再建されたものである。境内には北山稲荷がある。日本三大稲荷の一つである豊川稲荷は普済寺の末寺である。

1.広沢山・普済寺の山門
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2.普済院の朱塗りの見事な山門
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3.本堂への石橋
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4.本堂
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5.普済寺と徳川家康の関係を示す碑
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6.豊川稲荷の元と云われる北山稲荷への鳥居
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7.北山稲荷
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8.北山稲荷の扁額
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2015/9/18

家康公400年祭!12.浜松には徳川二代将軍秀忠公の生土神・五社神社と諏訪神社!  文化財研修記

静岡県浜松市には徳川家康公の苦渋と発展の浜松城があります。五社神社と諏訪神社はもともと別の神社であったが、昭和35年(1960)に合祀され、現在は一つの宗教法人になっている。社伝によれば、五社神社は久野越中守が曳馬城〔ひきうまじょう〕(浜松城)内に奉斎したことに始まる。社号は五柱の祭神を祀ることによる。太玉命を祀っていた社に春日四神を合祀したものであろうという。
元亀元年(1570)徳川家康が曳馬城に入り、浜松城と改名した。天正7年(1579)後の二代将軍・徳川秀忠が城内で誕生し、産土神〔うぶすながみ〕として崇敬を受ける。翌8年(1580)常寒山の現社地に社殿を造営して遷座、社領15石を寄進された。慶長15年(1610)には徳川秀忠より100石を寄せられている。寛永11年(1634)徳川家光は上洛の折に参拝し、東照宮(徳川家康)を相殿に祀るとともに、朱印地200石を加えて300石とした。同18年(1641)家光により再建された社殿は豪壮華麗なもので旧国宝に指定されていたが、昭和20年(1945)戦災のために焼失した。
諏訪神社は古くより敷智郡〔ふちぐん〕上中島村に鎮座していた。延暦10年(791)坂上田村麻呂が東征の際に奉斎したものと伝えられる。弘治2年神託により浜松に遷座したという。徳川家康の崇敬を受け、天正7年(1579)社殿を造営された。元和元年(1615)徳川秀忠により杉山に遷される。寛永11年(1634)徳川家光上洛の際、五社神社と同様に東照宮(徳川家康)を勧請し、朱印地300を寄進される。さらに同18年(16411)家光により現社地に遷座、五社神社と並んで社殿が造営された。この社殿も旧国宝に指定されたが、昭和20年(1945)戦災により焼失してしまった。
五社神社は明治6年(1873)、諏訪神社は昭和17年(1942)に県社昇格。戦後、昭和35年(1960)両社を合祀。同47(1972)別表神社に加列。同57年(1982)に竣工した社殿は、本殿(三間社流造)も一つになっている。

1.五社神社・諏訪神社の駒札
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2.同上 朱塗りの鳥居
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3.江戸時代の漢学者・加茂真淵の「光海霊神(うなりのみたま)の碑)
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4.徳川三代将軍家光寄進の見事な手水舎
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5.同上
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6.見事な拝殿
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7.拝殿の扁額
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8.見事な本殿
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2015/9/16

家康公400年祭!11.徳川家康公の苦渋と発展の浜松城2−2!  文化財研修記

静岡県浜松市に徳川家康公の苦渋と発展の地・浜松城があります。家康が天下統一を果たし、駿府に入城した後、浜松城は主に家康ゆかりの譜代大名が城主となりました。概ね5万石前後で、浜松藩政300年の間に再任を含めて25代の城主が誕生し、老中5名、大阪城代2名、京都所司代2名、寺社奉行4名が登用され、「はま松は出世城なり、初松魚」の句も残されています。特に有名な城主は天保の改革で知られる、水野忠邦。唐津藩主時代に実収入15万石と云われる唐津藩(唐津藩は長崎警護任務があり江戸幕府役職の登用は不可能であった。)から出世を目指し国替えを願いでて、浜松藩主となり、頭角をあらわし後、老中となった。

1.浜松城(見事な野積の石垣)
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2.浜松城石垣(野積のずみ)の説明
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3.浜松城2.野積の石垣
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4.同上 3.
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5.同上 4.
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6.家康公手植えのみかん
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7.天主曲輪(てんしゅくるわ)址
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8.城内の井戸
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9.家康公軍扇
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10.家康公の鎧兜
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11.天主閣3階展望室から見るホテルコンコード浜松
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12.天主台地下の井戸
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13.浜松城の水利
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14.見事な日本庭園1.
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15.同上 2.
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16.下記をクリックして、見事な日本庭園を動画で見て下さい。U−tubeの画面が出たら、右下の拡大画面をクリックして、大画面で見て下さい。
http://youtu.be/kmyH5tZL63E

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2015/9/15

家康公400年祭!10.神君家康公発展と苦渋の地・浜松城2-1!  文化財研修記

静岡県浜松市には徳川家康公の発展と苦渋の浜松城があります。三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄軍2万7,000人と徳川家康軍1万1.000人(うち織田信長からの援軍3,000人)との間で行われた戦い。信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、若き徳川家康にとっては自分の名声上、籠城し座して、信玄の通過を見ることがが出来なかった。野戦の得意な信玄の武田騎馬隊は全国一として有名でもあった。徳川家康は敗戦をも覚悟して、追いかけるようにして三方ヶ原台地へ向った。武田信玄は待っていたどばかり、「魚鱗(ぎょりのの陣」を敷き台地下か戻ってくる、向かうと家康は翼を広げた「鶴翼(かくよく)の陣」で向かって行き大敗したことで有名な戦である。浜松城へは多くの家臣の奮闘・討ち死ににより名とか帰城した。浜松城の城門は開けておき、松明を猛烈に燃やし、夜陰には鉄砲隊を組織し地理が不案内な近ずく武田部隊を銃撃して「犀ヶ崖」へ追い落とし多くの武者を死亡させたと!

1.ここからは見事な浜松城が見えます。
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2.二の丸跡の駒札
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3.同上 二の丸址
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4.三方ヶ原の戦いで大敗北多くの犠牲と討ち死にで家康はようやく帰城。鎧を脱いで掛けた松。
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5.現在の松は現在の松は、昭和56年に植樹された三代目の諭旨です
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6.本丸へ向う!
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7.見事なサザンカが咲いている
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8.本丸跡
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9.若き日の徳川家康銅像
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2015/9/13

家康公400年祭!9.神君出生の地・岡崎城2−2!  文化財研修記

江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となりました。石高こそ5万石前後と少なかったですが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられます。西郷氏が築いた当初の岡崎城は、砦のようなもので、城域も本丸程度であっただろうと考えられますが、家康の頃までには近世の城郭としての原型ができあがりました。田中吉政は、大規模な城郭の整備拡張を行い、文禄元年(1592)に、城の東・北・西に総延長4.7キロに及ぶ総堀をつくりました。また、元和3年(1617)本多康紀のときは、三層三階地下一階で、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ複合天守閣が建てられました。城郭の整備にともない東海道が城下に引き入れられ、慶長14年(1609)には伝馬町ができて、岡崎は東海道有数の宿場町として繁栄するに至りました。 明治維新を迎えると情勢は変わり、新しい時代には不用とされた城郭の大部分は明治6年から7年にかけて取り壊されてしまいました。 このあとは、堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えるばかりでありましたが、岡崎の象徴である天守閣がないままではしのびないとする市民の思いは強く、昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守閣が復元されました。
龍城神社伝によると、三河国守護代・西郷稠頼が岡崎城を築城した際に龍神が現れ、城の井戸から水を噴出させて天に去っていたという。以降、天守に龍神を祀り、城の名を龍ヶ城、井戸の名を龍の井と称したという。1543年:岡崎城で徳川家康が誕生した際にも金色の龍が現れたという。

1.龍城堀と神橋
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2.アラモの碑文創建文
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3.アラモの碑文
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4.龍城神社
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5.龍城神社の可愛い阿形の狛犬
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6.神君家康公遺言碑
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7.同上に関係しての駒札
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8.岡崎城天守閣とその周辺
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9.岡崎城天守閣
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10.天守閣からの眺望
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11.同上
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2015/9/11

家康公400年祭!8.神君出生の地・岡崎城2−1!  文化財研修記

岡崎城は別名は竜ヶ城(たつがじょう)とも呼ばれた平山城でした。岡崎城の起源は15世紀前半まで遡ります。明大寺の地に西郷頼嗣(稠頼)によって築城されたのがそのはじまりです。その後、享禄4年(1531)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになりました。 天文11年(1542)12月26日、徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生しました。家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしましたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立しました。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めました。 元亀元年(1570)、家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男信康を岡崎城主としました。天正7年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となりますが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせました。(以下次号に掲載)

1.旭川花火大会場から見た岡崎城天守閣
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2.岡崎公園地図
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3.大手門
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4.徳川家康公の横顔の銅像と駒札
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5.家康公銅像正面
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6.からくり時計と天守閣
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7.本多平八郎忠勝公銅像
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8.三方ケ原の合戦で武田信玄に敗れて、浜松城に逃げ帰った時の教訓の肖像画から造った像!
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9.家康公えな塚
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10.家康公産湯の井戸
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