2015/8/29

家康公400年祭!2.国重文の楼門・本殿・幣殿・拝殿をもつ六所神社!  文化財研修記

岡崎市明大寺町耳取44には 塩土老翁命(安産の神様)、猿田彦命、衝立船戸命、太田命、興玉命、事勝国勝長狭命など15柱を祀る六所神社(ろくしょじんじゃ)がある。37代斎明天皇(655〜661)の勅願により、奥州塩竃六所大明神(おうしゅうしおがまろくしょだいみょうじん)を勧請され、神領をご寄進のうえ創立されたと伝えられている。その後、50代桓武天皇(781〜806)の御世「田村麿将軍」が東夷征伐のためご下向なさる折にご祈願、天皇に奏聞、勅許のうえ再建され「六所大明神」の勅額を下賜された。時代は降り松平氏が三河入国以来、代々崇敬厚く天文11年(1542)12月26日岡崎城にて竹千代君(徳川家康公)ご誕生の折には産土神としてご拝礼になった。慶長7年(1602)には家康公よりご朱印状を下され、石高62石7斗を贈られ、同9年(1260)社殿ご造営のうえご神器の品々をくだされた。後に3代徳川家光公も寛永11年(1634)ご上洛の折に岡崎城にて遥拝され、御名代松平伊豆守を社参され100石を加増された。その朱印状には「六所大明神は東照大権現降誕の地にある霊神なり、是を以て崇敬他と異なり。」とある。更に家光公は同11年から13年(1634〜36)にかけて、御普請奉行本多伊勢守と神主大竹大膳久次により社殿および神供所をご造営された。この時に本殿、幣殿、拝殿を連結し華麗な彩色を施した権現造の社殿が完成。やや遅れて貞享5年(1688)に楼門が建てられ、現在ではこれらの社殿と御神体を納める御厨子6基、社殿の棟札6枚と共に国の重要文化財に指定をされている。

1.六所神社標柱
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2.六所神社参道
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3.駒札
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4.見事な一対の燈籠と鳥居
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5.見事な手水舎
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6.見事な参道
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7.駒札
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8.葵の紋付神馬像
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9.国重文の楼門!
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10.楼門をアップで見ます!
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11.楼門の見事な彫刻の一部
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12.見事な国重文の拝殿です!(一部修復工事で撮影不可能でした!)
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13.国重文の幣殿から本殿を見ます!
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14.三晃大黒神社
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15.三晃大黒様
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2015/8/28

家康公400年祭!1.岡崎市最古の菅生神社と花火大会!  文化財研修記

愛知県岡崎市康生町には岡崎市最古といわれる菅生神社(すごうじんじゃ)がある。毎年夏に行われる菅生祭(後述)は、能見神明宮大祭(5月)、岡崎天満宮の例祭(9月)とともに岡崎三大祭の一つに数えられている。社伝によれば、起源は第12代景行天皇の時代にさかのぼる。110年10月、景行天皇の子の日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定のために菅生の地を通過した際、高石(たかいわ)に伊勢大神を勧請し、神社を建て「吹矢大明神」と称した。菅生神社が岡崎市最古の神社と言われるのはこの言い伝えをもとにする。神亀2年(725)に 御神託により京都伏見から「稲荷大明神」をお迎えし「吹矢大明神」の同殿に合祀する。永正14年(1517)に額田郡宮崎町に勧請された牛頭大王が洪水で岡崎高石の地に流れ着く。永正15年(1518)にここに本社を造営し「菅生天王」と称した。大永3年(1523)に岡崎城主松平信貞が境内に12末社を勧請。永禄9年(1566)に 徳川家康が社殿を再建する。
寛永15年(1638)に城主本多忠利が本殿を修復。その際に寄進した石鳥居は神社の北入口に現存する。この石鳥居は平成2年(1990)3月22日に岡崎市の文化財に指定されている。正保2年(1646)12月17日には城主水野忠善が徳川家康を祀る。明治元年(1868) 菅生神社と改称。明治34年(1901)現在地に移転した。 菅生祭(すごうまつり)は厄災の除去を祈願したお祭りで、7月19日の「宵宮祭」と20日の「例大祭」と8月第1土曜日の「鉾船神事・奉納花火」の3つの祭事が執り行われている。江戸時代文化・文政の頃から、乙川(菅生川)に提灯を付けた鉾船を浮かべ金魚花火や手筒花火等を打ち上げ奉納している。文政元年(1818)には岡崎藩主上覧花火が催され、城下各町や近在の村々が技を競ったという。

1.駒札
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2.菅生神社標柱
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3.石造大鳥居(岡崎市指定文化財)と拝殿
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4.開運稲荷大明神
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5.同上
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6.手水舎
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7.拝殿
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8.パワーの大楠の駒札
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9.パワーの大楠
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10.拝殿横の慰霊社
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11.拝殿後部と本殿を見る!
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12.下記をクリックして、「音声付動画」で花火大会のの様子を見て下さい!U−tubeから映像をお借りして来ました!
https://youtu.be/KmZANddpsfM


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2015/8/26

小さな越前の旅!7.(最終回)小京都・越前大野城下町!  文化財研修記

 城下町とは戦国時代から始まった都市の形態のひとつで、城の防衛施設であるとともに、行政・商業都市として機能してきました。 天正4年(1576)に安土城を築いた織田信長は、兵農分離により武士を城下に住まわせ、楽市楽座によって商工業の発達を活発にしました。これが、近世城下町の発展に大きく貢献したといわれています。大野の城下町は、この信長の初期親衛隊「小姓衆・赤母衣(あかほろ)衆」であった金森長近によってつくられました。大野の地が長近に与えられた理由は、この当時、信長は度重なる「信長包囲網」によって全国の戦国大名を相手に苦戦を強いられており、東海から北陸へのルートを「岐阜城」「郡上八幡城」「越前大野城」によって統治下に置いて、この包囲網を分断することが目的だったと考えられます。天正3年(1575)、大野郡の3万石の領主となった長近は、亀山山頂と東の麓に城(天守閣、二の丸、三の丸)を築き、さらにその東側に城下町を展開しました。このように半矩形で整備された城下町を「梯郭(ていかく)式」といいます。また、町人屋敷は東西・南北それぞれ6筋の通りによって短冊形に区切られ、「北陸の小京都」と呼ばれています。 長近が築いた天守閣は小高い山上に築かれている「平山城」であることから、敵の攻勢を防ぐ「防衛施設」として建てられたことがわかります。

1.滾々と湧き出る「御清水(殿様清水)」
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2.同上
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3.厄除名水地蔵尊
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4.同上
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5.朝倉義景公墓の駒札
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6.同上 お墓
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7.同上
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8.義景清水駒札
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9.義景清水
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10.天空の城・越前大野城天守閣が見える!
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11.武家屋敷駒札
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12.外から外見を見る!
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13.同上  庭園の一部
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14.元「百間堀跡」
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15.藩主隠居所駒札
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16.藩主隠居所の外見を見る!
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17.庭園の一部
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2015/8/23

小さな越前の旅!6.名君の城・越前大野城!  文化財研修記

 天正3年(1575)、織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近がその翌年、最初に居城とした戌山城の近くの亀山(大野盆地の小孤峰)に城郭を築いたのが越前大野城の始まりである。築城に4年間を要した。その後、越前松平家が3代続いた後天領となり、譜代の土井利房氏が4万石で定着するまで目まぐるしく城主が替わった。大野城は年安永4年(1775)に焼失し、江戸時代の寛政7年(1795)には名君と言われた7代目土井利忠が天守を除いて再建したが、明治維新後に破却されているが、現在の大野城は昭和43年再建のもので2階3層建ての天守、2層2階の小天守、二の丸、三の丸があり、外堀・内堀をめぐらし城を守ってきました。その石垣は石を立てず、横に寝かせ、大きい石を奥に押し込んで積む、野面積(のずらずみ)という工法で、貴重な史跡と言われています。

1.西口駐車場の亀山公園(越前大野城)案内板
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2.急な石段を登ります
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3.幕末の大野土井家7代目の土井利忠の案内板
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4.同上 銅像
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5.二の丸、三の丸への道
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6.越前大野市市街
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7.下記をクリックして、音声付動画で越前大野市市街を見て下さい!
http://youtu.be/BA6qDQtjDtw

8.越前大野城碑
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9.見事な野面積の二の丸、三の丸
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10.越前大野城
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11.大野城築城の金森長近の案内板
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12.同上 銅像
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13.東の城門
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14.小天守
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15.見事な野面積の石垣
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16.大天守、小天守
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2015/8/22

小さな越前の旅!5.国特別史跡・名勝よみがえる戦国城下町・一乗谷朝倉氏遺跡2−2!  文化財研修記

前々回福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館で詳しく朝倉氏の経過を説明したので、今回は現地で実際に発掘再現された遺跡を見てみよう!一乗谷とは、福井市内から東南へ10キロほど行った付近で足羽川に流れ込む一乗谷川沿いの細長い谷筋でをいう。戦国時代に越前の国を支配した朝倉氏は、この地に山城の一乗谷城と山麓の館および城下町を築いて、往時は1万人余りの人口を抱え100年の繁栄を誇った。しかし、天正元年(1573)8月、織田信長の軍が一乗谷に攻め込み、柴田勝家は方々に放火を命じた。火は三日三晩燃え続け、一乗谷の城下町はすっかり灰燼に帰した。その後、一向一揆を壊滅させた柴田勝家は北の庄に築城を始めると、焼け野原となった一乗谷は見捨てられ、朝倉氏五代の城下町の跡は田畑・原野となってそっくり埋もれてしまった。小生は約30年前に現地を訪れ、同行の子供に「野原を見に来たのか?」など尋ねられ説明に窮したものだが、今回訪れると見事に発掘再現されていた。一乗谷朝倉氏遺跡の発掘調査が開始されたのは、それからおよそ400年後の昭和43年(1968)からである。調査は今も続行している。40年以上におよぶ発掘でさまざまな発見があった。姿を現したのは、一乗谷川に沿った狭い平地部に築かれた朝倉氏5代の居城と、その周辺に計画的に配置された武家屋敷、寺院、そして職人たちの町屋の遺構だった。戦国時代の”村”ではなくて、”城下町”の跡がそのまま発見されるのは、極めてめずらしいことである。

1.一乗谷川対岸の「唐門」を見る!
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2.駒札
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3.見事な巨木の桜
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4.朝倉館駒札
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5.朝倉氏邸宅跡
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6.第5代朝倉義景公墓所
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7.下記をクリックして、「音声付動画」で近辺を見て下さい!
https://youtu.be/9eVwtlNQst8

8.国名勝豪壮華麗な庭園
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9.庭園駒札
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10.同上
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11.庭園駒札
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12.同上庭園
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2015/8/20

小さな越前の旅!4.特別史跡・特別名勝庭園・よみがえる戦国城下町・一乗谷朝倉氏遺跡2−1!  文化財研修記

前回の福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館で詳しく朝倉氏の経過を説明したので、今回は現地で実際に発掘再現された遺跡を見てみよう!一乗谷とは、福井市内から東南へ10キロほど行った付近で足羽川に流れ込む一乗谷川沿いの細長い谷筋でをいう。戦国時代に越前の国を支配した朝倉氏は、この地に山城の一乗谷城と山麓の館および城下町を築いて、往時は1万人余りの人口を抱え100年の繁栄を誇った。しかし、天正元年(1573)8月、織田信長の軍が一乗谷に攻め込み、柴田勝家は方々に放火を命じた。火は三日三晩燃え続け、一乗谷の城下町はすっかり灰燼に帰した。その後、一向一揆を壊滅させた柴田勝家は北の庄に築城を始めると、焼け野原となった一乗谷は見捨てられ、朝倉氏五代の城下町の跡は田畑・原野となってそっくり埋もれてしまった。小生は約30年前に現地を訪れ、同行の子供に「野原を見に来たのか?」など尋ねられ説明に窮したものだが、今回訪れると見事に発掘再現されていた。一乗谷朝倉氏遺跡の発掘調査が開始されたのは、それからおよそ400年後の昭和43年(1968)からである。調査は今も続行している。40年以上におよぶ発掘でさまざまな発見があった。姿を現したのは、一乗谷川に沿った狭い平地部に築かれた朝倉氏5代の居城と、その周辺に計画的に配置された武家屋敷、寺院、そして職人たちの町屋の遺構だった。戦国時代の”村”ではなくて、”城下町”の跡がそのまま発見されるのは、極めてめずらしいことである。

1.発掘復元された町並み
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2.武家屋敷門
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3.戦国時代の服装の娘さん!
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4.駒札
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5.同上  武家屋敷跡
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6.同上
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7.同上
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7.武家屋敷内
>クリックすると元のサイズで表示します

8.商人の店内(米屋)
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2015/8/18

小さな越前の旅!3.福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館!  文化財研修記

今からざっと30年前の夏休みに男の子3名と家内と5名で一乗谷朝倉氏史跡とその特別名勝庭園を訪れた。何もない野原と一乗谷川のみであった。これが30年後福井県民の総意で見事に発掘され、復元されていた。一乗谷朝倉氏遺跡の手前に福井県立一乗谷朝倉遺跡資料館があるので訪れた。朝倉氏はもと但馬(たじま)国(兵庫県)の出身で南北朝の争乱の時、広景は北朝方の斯波高経にしたがって新田義貞などの南朝方を討ち破った功により越前に所領を得、以後代々越前守護斯波氏に仕えました。広景から7代目の孝景の時応仁の乱が起こり、朝倉氏はこの混乱の中で主家斯波(しば)氏を追放し越前の支配者に台頭しました。居城を一乗谷に構えたのもこの頃であったといわれています。孝景が没した後は子の氏景が跡を継ぎ、甲斐氏との抗争に打ち勝って実質的な越前国の支配権を確立しました。氏景没後3代城主となった貞景は敦賀の同族景豊(かげとよ)の反乱、加賀一向一揆の侵入と朝倉氏最大の危機に遭遇しますが無事に乗りきり、次の4代孝景にいたって朝倉氏の最盛期を迎えるところとなります。孝景は若狭、近江、加賀などの隣国へ出兵しましたが、これは朝倉氏の越前支配が安定していたことを示します。孝景が没し朝倉氏最後の城主となる義景が跡を継ぎますが、義景の生涯の大半は加賀一向一揆との抗争に明け暮れ、一揆との和睦から死にいたる数年間は織田信長との対決でした。信長と数回鉾を交えますが、浅井長政救援のため近江に出陣した朝倉方は壊滅的な打撃をうけました。義景は一乗谷城を捨て大野六坊賢松寺にのがれますが、一族景鏡(かげあきら)に包囲されて自刃し、ここに朝倉氏は滅亡したのです。朝倉氏100年の歴史は戦いに明けくれた日々だったといっても過言ではありません。朝倉氏の合戦はその内容によって1.興隆期における斯波・甲斐氏との戦い、2.一向一揆との絶えまない戦い、3.安定期をむかえて国内における朝倉景豊・堀江氏の謀叛(むほん)の鎮圧、4.国外への出兵、5.朝倉義景の代における織田信長との戦いなどに大きく分けることができます。永正3年(1506)の一向一揆との合戦は、初期の一向衆との大規模な合戦で、朝倉氏はこれを打破したことによって越前領国支配を確立したといえます。織田信長軍との手筒・金ケ崎(てづつ・かながさき)合戦では、朝倉軍の総力が3万人であったことなどがわかっています。

1.福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(この資料館と現地見学で2時間強!230円と安い!)
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2.現在地
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3.特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡と特別名勝一乗谷朝倉氏庭園図
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4.見学スタート地点
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5.駐車場(南入口より見学開始
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6.下記をクリックして、「音声付動画」復元街の様子をボランテアガイドさんに聞いて下さい!
https://youtu.be/U1R1UlYDBsA

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2015/8/15

小さな越前の旅!2.現存する日本最古の天守閣を持つ丸岡城2−2!  文化財研修記

 北陸地方では丸岡城の天守のみが現存している。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれている。現在、見られる天守は、昭和23年(1948)の福井地震によって倒壊した後、昭和30年(1955)に部材を組みなおして修復再建されたのである。その際、最上階の窓の造りが引き戸から突き上げ窓に改変されている。
独立式望楼型2重3階で、1階平面を天守台に余分を持たせて造られているため天守台を被せるような腰屋根が掛けられている。屋根瓦には笏谷石製の石瓦が寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる。天守内の階段は急なため観光用の補助縄が取り付けられている。天守は、前述の通りに古式の形状を踏襲したフォルムと、掘立柱を用いていることにより現存最古の天守とされることがあるが、それについて犬山城天守との論争がある。柴田勝豊の建造である場合、天正4年(1576)となるが、建築史の観点では、慶長期の特徴を多く見ることができるとして、慶長元年(1596)以降の築造もしくは、改修による姿ではないかという説もある。

1.本多作左衛門重次の「一筆啓上書簡碑」がある。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」これはのち6代目城主となる幼名・仙千代である本多成重のことである。
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2.天守閣前の天守閣祈念碑ともの凄い野面(のずら)積の石垣
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3.駒札
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4.雲の井龍神を祀る御堂
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5.駒札
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6.石製のシャチ
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7.丸岡城天守閣へ入る!
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8.もの凄い急な階段を登る!
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9.天守閣からの眺め!
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10.同上
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11.同上(東方の豊原寺城址が真ん中に見える!)
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12.天守閣を見上げる!
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13.天守閣下の霞ケ城公園の一部
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14.同上
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2015/8/14

小さな越前の旅!1.現存する日本最古の天守閣を持つ丸岡城2−1!  綾部の文化財

織田信長の越前一向宗平定の為、大軍を送り、攻め滅ぼした。そののち、柴田勝家が北庄(きたのしょう)に入り甥で養子の柴田伊賀守勝豊に命じ天正4年(1576)はそれまでの豊原寺城から便利な当城を築き4万5千石で移った。天正10年(1582) 本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移された。代わって勝家は安井家清を城代として置いた。天正11年(1583) 柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝(修理亮)を置いた。慶長5年(1600) 丹羽長秀死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子・忠元は、関ヶ原の戦いで敗者である西軍方につき改易された。越前国には勝者の徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城した。慶長17年(1612) 今村盛次は越前騒動に連座し失脚した。幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重が4万3千石で新たな城主となった。寛永元年(1624) 福井藩2代目の松平忠直が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。同時に本多成重は福井藩より独立。大名に列し丸岡藩が成立した。元禄8年(1695) 4代重益の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。福井大地震後、平成2年(1990) 倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復された。又平成2年に「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定された。平成18年(2006)には日本100名城の36番に選定された。

1.舞鶴若狭道は敦賀ICと接続した。ここは三方五湖PAです!
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2.北陸道から敦賀湾を見る!
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3.丸岡ICで降りて丸岡城の駐車場の駒札
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4.天守閣への登り道
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5.同上
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6.天守閣前広場の見事な櫻の木
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7.丸岡城八幡神社由緒
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8.同上  標柱
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9.丸岡城八幡神社
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10.丸岡城天守閣が見える!
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11.お静の涙雨の駒札
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12.お静の涙雨碑
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2015/8/12

薩摩・日向の旅!29.(最終回)日向国一之宮・都農神社!  文化財研修記

宮崎県児湯郡都農町にあ都農神社(つのじんじゃ)は式内社で日向国一之宮である。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。明治以前は「宮崎社」「宮崎宮」とも称されていた。地元では「一の宮神社」とも呼ばれる。御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと) 大国主命(おおくにぬしのみこと)のことである。古くからの都農町一帯の守り神であることから、土地の神として大己貴命を充てたものであるとされている。社伝によれば、神武天皇即位の6年前、天皇が東征に向かう際に鎮祭したことに始まるという。また神功皇后が三韓征伐に際して舟の守護神として「吐乃大明神」を勧請したとの『塵添壒囊抄』の記事を引用して、皇后が凱旋後に社殿を造営したのが初めであると伝えている。都農町一帯には縄文時代以来の遺跡が分布するほか、円墳や前方後円墳など20基以上の古墳(都農古墳群)もあり、当社鎮座地付近からも土器・石器類が出土している。このように早くから人が居住していたことが知られ、守護神としての当社の歴史も太古の昔に遡るものとされる。承和4年(837)に官社に列し、承和10年(843)従5位下が授けられ、天安2年(858)従4位上に昇叙された(『日本三代実録』)。『延喜式』神名帳では日向国児湯郡に「都農神社」と記載され、式内社に列している。当時は壮大な社殿と広大な境内を有する日向国第一の大社であったと伝えられている。その地位から都萬神社との政治的・宗教的対立を生じたともいうが、後述するように古文書類を焼失しているために詳細は明らかではない。当社が「日向国一宮」として庶民はもちろん在地領主からも崇められたことは確かであり、天文18年(1549)には伊東義祐によって社殿が造替されている。その後天正6年(11578)、大友宗麟による日向侵入の兵火に罹って社殿を始め、社宝、古文書類を悉く焼失してからは次第に衰退した。延宝3年(1675)には「其後取立る人もなしとて、僅の小社となり御名さへ知らず、只明神とのみいへり」といった状態であった。その後元禄5年(1692)に高鍋藩主・秋月種政によって再興されるとともに、元禄14年(1701)に社領20石が寄進されて以来、江戸時代を通じて歴代の高鍋藩主から崇敬された。享保12年(1727)の同種弘による鳥居奉献、同種美による元文元年(1736)の社殿造営と延享2年(1745年)の鳥居造営、安政6年(1859)の同種殷による社殿造営が行われたほか、藩主による参拝や代参、奉幣もしばしば行われた。明治4年(1871)近代社格制度において国幣小社に列し、昭和9年(1934)に「神武天皇御東遷2600年記念事業」として社域の拡大整備を行った。戦後は神社本庁に属すとともに、昭和23年(1948)にその別表神社となり、平成19年(2007)に本殿を再建した。本殿は一間社流造銅板葺で、千木・鰹木を置く。平成19年に再建されたもので、ほぼ旧本殿の造形を踏襲したものである。旧本殿は安政6年(1859)に河野喜之助の寄進により再建されたもので、現在は移築されて末社熊野神社の本殿となっている。

1.日豊本線のど田舎JR都農駅(つのえき)
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2.JR駅前の宮崎にご縁のある若山牧水の記念碑
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3.同上 碑文
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4.日向国一之宮・都農神社標柱と北口の大鳥居
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5.一の宮公園の一部
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6.太鼓橋から神門を見る!
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7.同上
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8.手水舎
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9.奉納の大絵馬
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10.駒札
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11.見事な神門
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12.神象(夫婦楠から生まれたものです。縁結び、子宝に縁があります!ハート型のマークに注意)
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13.正面から拝殿を見る!右は熊野神社!
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14.拝殿正面の彫刻を見る!
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15.本殿を横から見る!
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16.本殿の反対側の横側には「鼠の彫刻」がある!
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17.神楽殿・神輿殿(旧拝殿)
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18.下記をクリックして、「音声付動画」で神象、拝殿、神楽殿、神門など境内を見て下さい!
https://youtu.be/qeNtSLd8n2M

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