2015/7/31

薩摩・日向の旅!23.宮崎県護国神社!  文化財研修記

御祭神は、正殿に明治維新以降国家公共に尽くした人の神霊41,818柱、愛殿に公務殉職者の御霊53柱を奉斎しています。(2007年4月10日現在)全国の護国神社は殆ど明治維新の当時に招魂社として創立され戦前より慰霊の祭儀が行われていた。しかし、宮崎県は明治維新当時小藩分立状態であったこともあり、、県内全域の御霊を祀る招魂社は創立されていなかった。移設ができる小さな社殿を造り毎年祭場を設営して招魂祭を行ってきた。唱和18年(1941)大東亜戦争が勃発しさらに戦死者が増加したため、当時の県知事や各界の代表者が設立者となって工事が始まったが、昭和20年(1945)終戦を迎え日本が連合国の占領下におかれると当時の宮崎軍民政治部長のマスマン少佐の命で建設中止となった。その後講和条約締結され、あらためて建設の要望が県民から起こり、昭和28年(1953)再建奉賛会が組織され、昭和30年(1955)竣工祭と遷座式が催行された。(インターネットHPより抜粋)

1.宮崎県護国神社標柱
クリックすると元のサイズで表示します

2.大鳥居
クリックすると元のサイズで表示します

3.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

4.手水舎
クリックすると元のサイズで表示します

5.両側には碑文がある!
クリックすると元のサイズで表示します

6.同上
クリックすると元のサイズで表示します

7.同上
クリックすると元のサイズで表示します

8.同上
クリックすると元のサイズで表示します

9.神殿
クリックすると元のサイズで表示します

10.神殿をアップで見る!
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2015/7/29

薩摩・日向の旅!22.祭神・神日本磐余彦命(初代神武天皇)を祀る宮崎神宮!  文化財研修記

鹿児島県の霧島神宮では天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を祀る霧島神宮を参拝して来た。次には御祭神は日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと、すなわち神武天皇の父)を主神して、大日孁貴(おおひるめのむち)(天照大御神)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)(神武天皇)を祀っている鵜戸神宮を参拝して来た。この後神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと、神武天皇)は東征に出るのだが日向一之宮・都農神社(つのじんじゃ)でも牧を造り良馬を造った。(都農神社は後日掲載します。)
神武天皇は初代天皇にご即位するまでは、神日本磐余彦天皇、ご幼名を狭野命と申し上げました。天照大御神から5代目の御孫にあたります。鵜草葺不合尊(鵜戸神宮ご祭神)の第4皇子で、母は玉依姫命(たまよりひめ)です。お生まれは宮崎県西諸県郡高原町にしもろかたぐんたかはるちょう)大字狭野(と言われ、この地には狭野神社(旧宮崎神宮別宮)が鎮座しています。天皇は生まれつきご聡明で武に富みご性格も確りした方でしたので、御年15歳の時皇太子に即(つ)かれ、宮崎で政治(まつりごと)をお取りになりました。しかし、当時は未だ全国統一がなされた時代ではなく、皇威(こうい)が全国に輝くというわけではありませんでした。そこで天皇は皇威を広めようと仰(おっしゃ)って、45歳の時に、都を中央に遷(うつ)すべく、宮崎をご出発になりました。先ず宮崎から陸路北へ進まれ湯の宮でお泊り御湯を召され、次に甘漬(あまつけ)や都農(つのう)では武運長久(ぶうんちょうきゅう)のお祀(まつ)りをされ、更に北に向かい美々津の港から船出されたと伝えられています。

1.宮崎神宮大鳥居
クリックすると元のサイズで表示します

2.大鳥居前の保存樹の駒札
クリックすると元のサイズで表示します

3.珍しいラクウショウの巨木
クリックすると元のサイズで表示します

4.鬱蒼とした参道
クリックすると元のサイズで表示します

5.神池
クリックすると元のサイズで表示します

6.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

7.手水舎
クリックすると元のサイズで表示します

8.神門と拝殿を見る!
クリックすると元のサイズで表示します

9.東伏見宮参拝記念樹
クリックすると元のサイズで表示します

10.神門
クリックすると元のサイズで表示します

11.神門をアップで見る!
クリックすると元のサイズで表示します

12.拝殿を見る!
クリックすると元のサイズで表示します

13.拝殿後部と本殿を見る
クリックすると元のサイズで表示します

14.幣殿・本殿を見る!
クリックすると元のサイズで表示します

15.神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと、神武天皇)東征コース
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2015/7/28

薩摩・日向の旅21.飫肥城址と飫肥伝統的建物群保存地区とおび天!  文化財研修記

宮崎県日南市飫肥(おび)には城下町がある。飫肥藩主伊東氏は藤原氏南家の家系で、鎌倉時代に曽我物語に登場する工藤祐経という武将がいました。祐経は、源頼朝より日向国をはじめとして全国各地に所領を与えられ、伊豆国伊東の地に居住しました。その子である祐時は姓を伊東と改姓し、6代伊東祐持のとき、足利尊氏より日向国都於郡(ひゅうがのくに、とのこおり)に所領を与えられ、移り住みました。代々都於郡城を居城にその勢力を拡大し、16代伊東三位入道義祐のとき、それまで島津氏の支配下にあった飫肥城を攻め取り48城を各地に配し、日向国内に覇権を樹立しました。しかし、天正5年(1577)島津氏に敗れて国を失い豊後国に落ちました。その後伊東氏が大名として復活するのは、豊臣秀吉に仕えた義祐の子・祐兵が、天正15年(1587)の九州平定で功績をあげ、飫肥城を与えられてからです。以降280年余、飫肥藩(5万1千石)を伊東氏14代まで治めました。内陸部だけあった長持ちする「おび天」が起こった!又、飫肥城下町として武家屋敷跡、商人館などがある。

1.日南市飫肥伝統建築群保存区域の駒札
クリックすると元のサイズで表示します

2.飫肥城大手門に向かう!
クリックすると元のサイズで表示します

3.おび天茶屋(最後に昼食に立ち寄ります。)
クリックすると元のサイズで表示します

4.大手門
クリックすると元のサイズで表示します

5.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

6.飫肥城石垣
クリックすると元のサイズで表示します

7.大手門を振り返る!
クリックすると元のサイズで表示します

8.更に本丸へ向かう!「幸せの杉」4本が見える!
クリックすると元のサイズで表示します

9.同上 駒札
クリックすると元のサイズで表示します

10.松尾の丸駒札
クリックすると元のサイズで表示します

11.松尾の丸
クリックすると元のサイズで表示します

12.本丸跡駒札
クリックすると元のサイズで表示します

13.本丸跡
クリックすると元のサイズで表示します

14.帰路おび天の店「蔵」へ昼食に立ち寄る!
クリックすると元のサイズで表示します

15.おび天定食1,200円(お膳の右上の茶色いのがおび天!結構美味だった!)
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2015/7/26

薩摩・日向の旅!20.飫肥(おび)城下町と小村寿太郎生誕地!  文化財研修記

宮崎県日南市飫肥(おび)には城下町がある。飫肥藩主伊東氏は藤原氏南家の家系で、鎌倉時代に曽我物語に登場する工藤祐経という武将がいました。祐経は、源頼朝より日向国をはじめとして全国各地に所領を与えられ、伊豆国伊東の地に居住しました。その子である祐時は姓を伊東と改姓し、6代伊東祐持のとき、足利尊氏より日向国都於郡(ひゅうがのくに、とのこおり)に所領を与えられ、移り住みました。代々都於郡城を居城にその勢力を拡大し、16代伊東三位入道義祐のとき、それまで島津氏の支配下にあった飫肥城を攻め取り48城を各地に配し、日向国内に覇権を樹立しました。しかし、天正5年(1577)島津氏に敗れて国を失い豊後国に落ちました。その後伊東氏が大名として復活するのは、豊臣秀吉に仕えた義祐の子・祐兵が、天正15年(1587)の九州平定で功績をあげ、飫肥城を与えられてからです。以降280年余、飫肥藩(5万1千石)を伊東氏14代まで治めました。小村寿太郎はこの飫肥藩の下級武士の出身で、明治時代の政治家・外交官。不平等条約の改正をなしとげた。1901年、桂内閣の外務大臣となり、翌年、日英同盟を結んだ。1905年、日露戦争後の講和会議に日本の全権代表として出席し、ポーツマス条約を結んだ。帰国した翌年、外務大臣をやめたが、その後再び桂内閣の外務大臣になった。1911年、日米通商航海条約を調印し、関税自主権 (輸入品に自由に税をかける権利) の回復に成功した。

1.鵜戸神宮前バス停午前11時08分発定期バスで宮崎交通飫肥バス停11時50分到着
(飫肥城下町地図)
クリックすると元のサイズで表示します

2.本町商人通(国道22号線)
クリックすると元のサイズで表示します

3.同上碑
クリックすると元のサイズで表示します

4.ここを大手門通へ左折すると、すぐ右手に小村寿太郎生誕地碑がある!
クリックすると元のサイズで表示します

5.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

6.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

7.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2015/7/24

恒例の「あやべ水無月(みなつき)祭り!  綾部の文化財

綾部市市制施行65周年記念「あやべ水無月(みまんつきまつり)が7月25日(土)盛大に開催されます!
その内容の一部を紹介します!
1。プログラム表紙
クリックすると元のサイズで表示します

2.花火大会
クリックすると元のサイズで表示します

3.花火大会プログラム
クリックすると元のサイズで表示します

4.恒例の「あやべ良さ来い」プログラム
クリックすると元のサイズで表示します

5.綾部商工会議所青年部屋台
クリックすると元のサイズで表示します

6.綾部ITビル内「水無月ギャラリー」
クリックすると元のサイズで表示します

7.あやべ町屋倶楽部スタンプラリー
クリックすると元のサイズで表示します

8.当日の交通規制
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2015/7/24

薩摩・日向の旅!19.日向・薩摩・大隅及び皇室の崇敬を受ける鵜戸神宮2−2!  文化財研修記

社殿は、本殿・幣殿・拝殿が1体となった権現造(八棟造)こけら葺で、極彩色を施す。拝殿には千鳥破風と唐破風を飾る。正徳元年に飫肥藩主伊東祐実が改築したものを、明治22年(1889)に大改修し、その後、昭和43年(1968)、平成8年(1996)にも改修が行われた。幾度の改修を経たとはいえ、その様式は往時のままであり、文化的価値が高いことから、平成7年(1995)に県の有形文化財に指定された。その他、玉橋・千鳥橋・楼門・神門などがある。ミスシャンシャン馬(宮崎神宮大祭、2008年)シャンシャン馬道中(3月末の日曜日)- 当地の古俗として、新婚夫婦は神に報告するためにシャンシャン馬という鈴を付け鞍に赤い毛布を敷いた馬に花嫁を乗せて参詣する習わしがあり、花婿は手綱を取って青島から七浦七峠という難所含みの日南海岸道中を往復した。元禄年間(1688〜1704)に始められたものというが、「シャンシャン馬道中唄」という民謡の題材ともなっている。しかし、明治の中頃から廃れ、現在はこの行事と宮崎神宮の宮崎神宮大祭に催し物として行われるもののみが、その名残りとなっている。本殿周りに以下の3社がある。皇子神社 - 本殿左側に鎮座し、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を祀る。もと吹毛井(ふけい)の船形山(ふながたやま)に鎮座し、明治維新後現在地に遷座したという。なお、1977年(昭和52年)に旧社地にも分霊、復祀している
住吉神社・火産霊神社・福智神社 - 3社が1宇に鎮座。祭神は底筒男神・中筒男神・上筒男神(住吉社)、火産霊神(火産霊社)、仁徳天皇(福智社)九柱神社 - 神直毘神・大直毘神・伊豆能売神・底筒男神・中筒男神・上筒男神・底津綿積神・中津綿積神・上津綿積神を祀る。そのほか洞窟外に、門守社(楼門左右。左に櫛磐窓神、右に豊磐窓神を祀る)、鵜戸稲荷神社、波切神社(波切不動)が鎮座している。天然記念物(国指定)鵜戸ヘゴ自生北限地帯 - 当宮の社叢は亜熱帯性の樹種が豊富な自然林であるが、中でも本殿裏の窪地にあるヘゴの群落は、2メートルもある葉が八方に広がり、中には高さ4メートルに達するものもある。天然記念物「ヘゴ自生北限地帯」は八丈島(東京都)、長崎県、熊本県、宮崎県の1都3県にわたって指定されているが、当宮の社叢は昭和43年に天然記念物に追加指定されたものである。昭和51年(1976年)に寒波の打撃を受け、現在は1m未満の小型のものが30本ほど自生しているにすぎない。鵜戸千畳敷奇岩 - 鵜戸崎の南面にあり、約1000万年から100万年前にかけて砂岩と泥岩が交互に堆積した地層(新第三系宮崎層群)が10度から20度の傾斜角で海面に露出する隆起海床で、長い年月にわたって激しい波浪や風雨に浸食された奇形波蝕痕であることから、「鬼の洗濯岩(板)」と通称される。その広さから昭和8年に県の天然記念物に指定された。開発灯籠1対 は 楼門の前に立つ。市の有形文化財(建造物)。楮栽培及び和紙の開発を計画した飫肥藩が、大坂の両替商油屋善兵衛に資金を提供させたため、その事業の成功を祈念して天保3年(1832年)に善兵衛が奉納したもの。鵜戸山八丁坂は 市の有形文化財(建造物)。吹毛井の港から神門まで約872メートルの長さにわたる石段参道で、登り438段、下り377段ある。延暦年中(782〜806)に1人の尼僧が近くの海岸の磯石を頭に担いで築いたと伝え、約200年前に再造成された。鵜戸山の磨崖仏 - 閻魔王や四天王像を表した磨崖仏で、昭和45年に市の有形文化財(彫刻)に指定された。仁王護国寺第47世別当隆岳が明和元年(1764)から翌2年にかけて仏師延寿院に彫刻させたもので、当時は仁王護国寺の守護仏として極彩色が施され、近くに護摩堂も建立されていたという。運玉亀石 は本殿前にある霊石で、豊玉姫が海神宮(わたつみのみや)から来訪する際に乗った亀が石と化したものと伝える。石頂に枡形の穴が開くことから「枡形岩」とも呼ばれ、その穴に男性は左手、女性は右手で願いを込めた「運玉」を投げ入れることで願いがかなうといわれている。玉橋は「神橋」とも呼ばれ、釘を一切用いない橋板36枚からなる反橋で、金剛界37尊を現す(36枚の橋板が36尊を、橋を渡る本人が1尊を現す)と伝える。宝暦10年(1760年)に別当隆岳が撰述した『鵜戸玄深記』に、往古よりこの橋を境に不浄の履き物を禁じているとの記述があり、ここから先は裸足で参詣する習いであったが、戦後にその風習は廃止された。吾平山陵は 境内速日峯(はやひのみね)山上にある前方後円墳で、主祭神の陵墓と伝え、明治29年に鵜戸陵墓参考地とされ、現在は宮内庁が所管している。なお、当宮北西2.5kmに鎮座する宮浦神社(大字宮浦688)には、主祭神の妃神である玉依姫の陵墓と伝える円墳(鵜戸古墳)がある。お乳岩は本殿裏にある乳房に似た2つの突起で、豊玉姫が綿津見国へ去る時、御子の育児のために左の乳房をくっつけたものと伝え、主祭神はそこから滴り落ちる「お乳水」で作った飴を母乳代わりにしたという。現在も安産や育児を願う人々から信仰されている
潮干瓊(しおひるたま)・潮満瓊(しおみつたま)は日本神話の山幸海幸神話に登場する宝玉で、神宝として伝わっている。念流・陰流発祥の地 - 南北朝時代に念阿弥慈恩が、室町時代に日向守愛洲移香が、それぞれ鵜戸の洞窟に籠もり剣術修行に励んだと伝える。特に後者は、満願日の早朝、目の前を横切る影を相手に新剣法を会得したためにこれを「陰流」と名付けたといい、その影は秘奥を悟らせるために神が憑依した猿のもので、こうして生まれた陰流が、新陰流などの流派の祖となったとされる。筑前琵琶・薩摩琵琶は当地に発祥すると伝え、『薩摩琵琶淵源録』に、欽明天皇の時代、11歳で鵜戸の岩窟に流さた祐教礼師が、琵琶及び読弾と地神陀羅尼経を習い、これを九州各地の盲僧に伝えたと記している。

1.儀式殿
クリックすると元のサイズで表示します

2.天保3年の銘のある一対の石燈籠
クリックすると元のサイズで表示します

3.同上 駒札
クリックすると元のサイズで表示します

4.稲荷神社への門
クリックすると元のサイズで表示します

5.吾平山上陵(われひらやまのうえのみささぎ)への案内板
クリックすると元のサイズで表示します

6.神武天皇御降誕伝地碑
クリックすると元のサイズで表示します

7.鵜戸稲荷神社
クリックすると元のサイズで表示します

8.鵜戸神宮駒札
クリックすると元のサイズで表示します

9.兎の像と言われ!
クリックすると元のサイズで表示します

10.千鳥橋
クリックすると元のサイズで表示します

11.玉橋を渡る!
クリックすると元のサイズで表示します

12.下記をクリックして、「音声付動画」で夫婦岩、雀岩、扇岩などを見て下さい!
https://youtu.be/c0zg-vatdu0

13.拝殿前の鳥居を見下ろす!
クリックすると元のサイズで表示します

14.鳥居を潜る!
クリックすると元のサイズで表示します

15.見事な拝殿
クリックすると元のサイズで表示します

16.本殿前に巫女さんが配座中
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2015/7/20

薩摩・日向の旅!18.日向・薩摩・大隅及び皇室の崇敬を受ける鵜戸神宮2−1!  文化財研修記

鵜戸神宮(うどじんぐう)は、宮崎県日南市にある神社である。旧社格は官幣大社で、現在神社本庁の別表神社に指定されている。日向灘に面した断崖の中腹、東西38メートル、南北29メートル、高さ8.5メートルの岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座し、参拝するには崖にそって作られた石段を降りる必要があり、神社としては珍しい「下り宮」のかたちとなっている。うどは空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、祭神名の「鸕鷀(う)」が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充てている。古くは「鵜戸権現」とも称されたが、明治元年(1868)の神仏判然令によって権現号を廃し、翌2年「鵜戸神社」と改称、同7年に神宮号が宣下されて現社名となった。御祭神は日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと、すなわち神武天皇の父)を主神して、大日孁貴(おおひるめのむち)(天照大御神)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)(神武天皇)を祀っています。主祭神降誕の地とされ、縁結び・夫婦和合・子授け・安産などの信仰を集めている。また境内には主祭神の陵墓とされる古墳もある。
創祀の年代は不詳であるが、古代以来の海洋信仰の聖地で、社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主祭神を産むための産屋を建てた場所で、その縁により崇神天皇の御代に上記6柱の神を「六所権現」と称して創祀され、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝える。また、延暦元年(782)、光喜坊快久という天台僧が桓武天皇の勅命を蒙って別当となり、神殿を再建するとともに、別当寺院を建立し、天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺(うどさんだいごんげんあびらさんにんのうごこくじ)」の勅号を賜わったとも伝える。
平安時代以来、海中に聳える奇岩怪礁とも相俟って、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えた。中世以後、伊東氏や島津氏などの在地領主の崇敬を受け、永禄3年(1560)に伊東義祐によって社殿が再興され、寛永8年(1631年)には飫肥藩主伊東祐実による造替、同18年(1641)にも同藩主伊東祐久による修復が行われ、その後も正徳元年(1711)に造替が、明和7年(1770)に修復が行われた。明治元年(1868)の神仏判然令によって別当寺院の仁王護国寺を廃し、明治7年(1874)に「神宮号」が宣下されるとともに官幣小社に列し、明治22年(1889)に社殿を改修、明治28年(1895)に官幣大社に昇格し、戦後は神社本庁の別表神社となっている。文政年間(1818〜30年)に建てられた茅葺書院造の社務所を原因不明の火災により焼失し、それとともに古文書類の大半を失った。平成9年に屋根の葺き替えと漆の塗り替えを施したのが現在の社殿である。本殿・幣殿・拝殿が1体となった権現造(八棟造)こけら葺で、極彩色を施す。拝殿には千鳥破風と唐破風を飾る。正徳元年に飫肥藩主伊東祐実が改築したものを、明治22年(1889)に大改修し、その後、昭和43年(1968)、平成8年にも改修が行われた。幾度の改修を経たとはいえ、その様式は往時のままであり、文化的価値が高いことから、平成7年(1995)に県の有形文化財に指定された。その他、玉橋・千鳥橋・楼門・神門などがある。

1.宮崎交通県内一日乗り放題券1,800円を購入!JR宮崎駅から鵜戸神宮前まで片道1,800円もかかる!この乗り放題券で飫肥城下町までいきます!
クリックすると元のサイズで表示します

2.大淀川橋(大阪の淀川と同じ字)を渡ります!非常に広い川です!
クリックすると元のサイズで表示します

3.宮崎空港経由です!
クリックすると元のサイズで表示します

4.JR宮崎駅発午前8時19分で鵜戸神宮前バス停到着午前9時47分!35年振り二度目の鵜戸神宮参拝です!境内図の左上の赤のバス停です!そこから随分歩きます!
クリックすると元のサイズで表示します

5.八丁坂にある鵜戸神宮標柱!
クリックすると元のサイズで表示します

6.鵜戸山八丁坂碑
クリックすると元のサイズで表示します

7.八丁坂を登りトンネルを通ります!
クリックすると元のサイズで表示します

8.下りの八丁坂!
クリックすると元のサイズで表示します

9.下りの八丁坂碑
クリックすると元のサイズで表示します

10.漸く神門が見えて来た!
クリックすると元のサイズで表示します

11.見事な神門です!
クリックすると元のサイズで表示します

12.この神門の随身はガラスで覆われ阿形は左大臣で、撮影上手くできず、吽形右大臣像です!
クリックすると元のサイズで表示します

13.神門の片扉
クリックすると元のサイズで表示します

14.社務所です!大勢の人々が御朱印帳を持って待っています!
クリックすると元のサイズで表示します

15.見事な楼門です!(次回に続く!)
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2015/7/19

薩摩・日向の旅!17.薩摩島津家発祥の地・都城市にある神柱宮!  文化財研修記

宮崎県都城市前田町には神柱宮(かんばしらぐう)がある。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。神柱神社(かんばしらじんじゃ)ともいう。通称お神柱。境内末社として、神門神社(みかどじんじゃ)と基柱神社(もとばしらじんじゃ)の2社がある。天照皇大神と豊受姫大神を主祭神とし、左座(向かって右側)の天津彦火瓊々杵命と天手力雄命、右座(同左側)の天津児屋根命(あまつこやねのみこと)、万旗秋津姫命(よろづはたあきつひめのみこと)、天太玉命と、5柱の神を相殿に祀る。また、境内末社の神門神社は櫛磐窓神と豊磐窓神を、基柱神社は菅原道真と平季基を祀っている。島津荘の開拓のために大宰府より移住した平季基が、万寿3年(1026)、天照皇大神の神託を受けて伊勢神宮より勧請したのに始まると伝えられる。以来、「島津荘総鎮守」として崇敬された。明治6年(1873)5月に県社に列し、同年10月28日現在地に遷座した。周辺は神柱公園として整備された。旧鎮座地は市内梅北町で、その跡には黒尾神社が遷座している。戦後は神社本庁に参加し、昭和51年(1976)7月1日にはその別表神社とされた。

1.JR霧島神宮駅発12時08分普通電車で宮崎県JR都城駅に12時50分到着!徒歩で神柱宮へ向かう!
クリックすると元のサイズで表示します

2.建設当時日本最大の鳥居(高さ25メートル)
クリックすると元のサイズで表示します

3.おかげ橋(太鼓橋)
クリックすると元のサイズで表示します

4.神柱公園を通る!
クリックすると元のサイズで表示します

5.神柱宮標柱と第二の鳥居
クリックすると元のサイズで表示します

6.第二の鳥居と神柱宮
クリックすると元のサイズで表示します

7.手水舎など
クリックすると元のサイズで表示します

8.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

9.昭和天皇の皇太子殿下時代のの駒札
クリックすると元のサイズで表示します

10.巨大になったお手植えの公孫樹(いちょうのき)
クリックすると元のサイズで表示します

11.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

12.拝殿
クリックすると元のサイズで表示します

13.拝殿を斜めから見る!
クリックすると元のサイズで表示します

14.拝殿の向拝
クリックすると元のサイズで表示します

15.基柱神社
クリックすると元のサイズで表示します

16.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

17.都城の茶祖と云われる藩医の池田貞記の顕彰碑
クリックすると元のサイズで表示します

18.高山彦九郎(京阪京都三条駅前で有名)が都城薩摩藩で種田氏の接待を受けて詠んだ歌碑!
クリックすると元のサイズで表示します

19.九州で初めて見た阿形の狛犬
クリックすると元のサイズで表示します

20.吽形の狛犬(建立年代は不明ですが、典型的な岡崎現代型の狛犬です.)
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2015/7/17

薩摩・日向の旅!16.天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を祀る霧島神宮!  文化財研修記

霧島神宮は創建が6世紀(欽明天皇の頃)という古い歴史を誇る神社です。元宮は高千穂峰山頂近くにありましたが、霧島山の噴火によりたびたび火災にあい、次にその西の中腹、そして高千穂河原へ移り、1484年に今の場所へ移って来た。現在の社殿は江戸中期の正徳5年(1715)、第21代藩主島津吉貴公により造営寄進されたものです。霧島神宮の主祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)で、配祀は 木花咲耶姫尊(コノハナサクヤヒメ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、 豊玉姫尊(トヨタマヒメ)、鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)、 玉依姫尊(タマヨリヒメ)、神日本磐余彦尊(カムヤマトイハレヒコノミコト、神武天皇)です。 平成元年 国重要文化財指定 本殿・幣殿・拝殿(合1棟) 登廊下 勅使殿 が重要文化財に指定されています。霧島神宮の境内には樹齢700の老杉が生い茂り、神代の気高さを今に伝えています。朱塗りのあでやかな社殿、美しい神社は西の日光とも称せられている。 紅葉の時期(11月下旬)は参道下の街路樹が見事に色づく。霧島神宮は霧島六社権現 (西御在所霧島権現社 別当・華林寺) でもある。当神宮は天祖天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神勅を畏み戴きて三種の神器(皇位の御璽(みしるし))を奉持し高千穂峰に天降りまして皇基を建て給うた肇国の祖神<天孫瓊瓊杵尊>をお祀りしているお社です。
旧記によると欽明天皇の御宇(西暦540年)、はじめ高千穂峰のほど近く脊門丘(せとお)に社殿が建立されたが、その後たびたび噴火炎上し幾星霜(いくせいそう)を経て今から500年前 現在の社地へ御鎮座になりました。いまの御社殿は第21代藩主島津吉貴公が正徳5年(1715) に造営寄進されたもので、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、勅使殿等その配置はまさに輪奐(りんかん)の美をなし、西の日光とも称せられる。特に殿内は漆塗りで二十四孝の絵画、龍柱、床には鴬帳りが施されている。明治7年2月「霧島神宮」と社号改定、官幣大社に列格仰せ出されました。畏くも昭和天皇陛下には2度にわたる御親拝を賜っております。平成元年5月 国の重要文化財の指定を受け、海抜500メートルの此の地からは遥か錦江湾、桜島、開聞岳の眺望が実に雄大であります。高千穂峰(標高1574メートル)頂上には神代の旧物“天の逆鉾”があり、中岳、新燃岳、韓国岳一帯はつつじ「みやま霧島」で有名です。

1.JR隼人駅午前10時29分発特急きりしまでJR霧島神宮駅に午前10時49分到着です!
クリックすると元のサイズで表示します

2.JR霧島神宮駅(ここから霧島神宮までは7キロメートル少しです。)バスがありますが、この日は日向の都城の神柱宮も見たかったので往復タクシー1,800円X2で参拝しました。)
クリックすると元のサイズで表示します

3.霧島神宮の標柱前で下車
クリックすると元のサイズで表示します

4.橋を渡り霧島神宮へ向かう!
クリックすると元のサイズで表示します

5.石段参道を登る!
クリックすると元のサイズで表示します

6.二の鳥居と境内
クリックすると元のサイズで表示します

7.坂本竜馬とおりようさんの案内看板
クリックすると元のサイズで表示します

8.坂本竜馬が「抜いたともいわれる天の逆鉾」(もうこの時レプリカであったと云われています。標高1574メ―トルの高千穂の峰嶺にある。)
クリックすると元のサイズで表示します

9.行幸記念祭の駒札
クリックすると元のサイズで表示します

10.同上 御在所
クリックすると元のサイズで表示します

11.更に朱の鳥居を潜ります!
クリックすると元のサイズで表示します

12.鬱蒼たる杉林の中に霧島神宮が見えて来ました!
クリックすると元のサイズで表示します

13.国重文の拝殿、登り廊下、権殿、本殿も見えます!
クリックすると元のサイズで表示します

14.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

15.見事な権殿と渡廊下が見えます!
クリックすると元のサイズで表示します

16.拝殿内陣を見ます!
クリックすると元のサイズで表示します

17.拝殿の彫刻
クリックすると元のサイズで表示します

18.同上
クリックすると元のサイズで表示します

19.御神木の駒札
クリックすると元のサイズで表示します

20.御神木
クリックすると元のサイズで表示します

21.下記をクリックして、「音声付動画」で霧島神宮を見て下さい!
https://youtu.be/MkozERE8ZEE

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 

2015/7/14

薩摩・日向の旅!15.卑弥呼女王を祀る卑弥呼神社!  文化財研修記

鹿児島県霧島市隼人町の鹿児島神宮から300メートル行くと、卑弥呼神社に至る。この神社は鹿児島神宮末社です。鹿児島神宮社頭から川沿いに右に行き、市立隼人歴史民俗資料館前を通り、尚も150メートルほど進むと、左手に鎮座しています。この付近はかつて日向三代の宮居である高千穂宮が築かれていた地と伝えられています。御祭神は卑弥呼女王で、由緒は魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の女王・卑弥呼が国分・隼人地区に居城を持っていたという由来に基づき建立された神社です。卑弥呼は日本最初の国王であり日本の統治者であった。当時 神武天皇及び天皇の率いる軍隊が中国の魏の国を助けてたくさんの褒美をもらっていた。近年、吉野ヶ里遺跡が分かってから邪馬台国はいよいよ九州説に決定した。国は九州の薩摩から博多まで及び、博多の南の反抗する国が吉野ヶ里である説です。

1.神代聖蹟高千穂宮址碑
クリックすると元のサイズで表示します

2.卑弥呼神社標柱
クリックすると元のサイズで表示します

3.駒札
クリックすると元のサイズで表示します

4.卑弥呼女王像
クリックすると元のサイズで表示します

5.卑弥呼神社への参道
クリックすると元のサイズで表示します

6.拝殿
クリックすると元のサイズで表示します

7.拝殿と本殿を斜めから見る!
クリックすると元のサイズで表示します

8.拝殿と本殿(本殿には両側に絵が描かれています。)
クリックすると元のサイズで表示します

9.片方をアップで見ます!
クリックすると元のサイズで表示します

綾部の文化財を応援して下さる方は、記事の下にある「FC2ブログ・ランキング」をクリック願います!
fc2歴史ランキング 



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ