2015/3/31

湖北の文化財・史址を見る!5.羽柴藤吉郎出世の城・長浜城!  文化財研修記

滋賀県長浜市のホテルは大概無料の電動自転車を貸してもらえるので、長浜港から歩いてホテルに行く。チェックイン時間は午後3時なので荷物を預けて無料の電動自転車を借りた。
 長浜城は天正元年(1573)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。天正3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。天正10年(1582)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家であった。勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城するが、同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏した。天正111年(1583)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が入り、6年間在城した。天正13年(1586)11月29日には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡した。慶長11年(1606)に内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の元和元年(1615)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されている。(ウイキぺデイアを抜粋)


1.豊公園の地図(全ての画像はクリックすると拡大して読めます!)
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2.今夜泊まるホテルで無料の電動自転車を鍵かけて、長浜城(歴史博物館)を見る!
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3.長浜城の駒札
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4.長浜城址碑(後ろの樹木の桃色のわっぱは虫避けです。)
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5.凄い見事な長浜城(歴史博物館)
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6.天守閣を見る!
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7.天守閣内の展示物
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8.豊臣秀吉が使った兜と同型のものです!
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9.同上
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10.2014年大河ドラマの主人公の黒田官兵衛が使った兜と同型のものです!
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11.豊太閤の絵姿
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12.長篠合戦の説明
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13.長篠合戦屏風図
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14.当時の各種の軍船図
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15.天守閣から金ケ崎方面を見る!
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16.小谷城方面を見る!
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17.琵琶湖方面を見る!
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18.長浜城址方面を見る!
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2015/3/31

湖北の文化財・史址を見る!4.竹生島の国宝の本殿を持つ都久夫須麻神社!その3.!  文化財研修記

竹生島には主神の市杵島比売命( 弁才天)、宇賀福神 (うがふくじん。龍神]でもある)、浅井比売命 (あざいひめのみこと。 産土神でもある)を祀る国宝の本堂を持つ式内社の都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ、別名は竹生島神社)がある。行基は弁才天の像を彫刻して本尊としたと伝わる。『帝王編年記』天平神護元年(765)の記事によれば、藤原仲麻呂の乱平定に神助があったとして従五位上を授けられたという。『日本三代実録』元慶3年(879)2月29日条には「筑夫嶋神社」の記載があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』では「近江国浅井郡 都久夫須麻神社」と記載され、式内小社に列した。平安時代末からは弁才天が祀られ、弁才天を本地仏として「竹生島権現」「竹生島弁才天社」と称されるようになった。現在も「日本三大弁才天」の1つに数えられており、中でも当社は「日本最古の弁才天」「弁才天の発祥地」ともいわれる。宝厳寺との習合状態は江戸時代まで続いた。慶長7年(1602)、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として豊国廟の一部を移築したといい、現在の本殿や宝厳寺の唐門が残っている。明治7年(1874)に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決められ、明治16年(1883)に両者の財産が区別された。以降、都久夫須麻神社と宝厳寺は別の法人となっているが、今日でも都久夫須麻神社の本殿と宝厳寺の観音堂は舟廊下で直接連絡しており、両者は不可分のものとなっている。国宝の本殿正面庇、長押上の彫刻(向かって左端)本殿(国宝) 伏見城または豊国廟から移築したという伝承のある、装飾性の豊かな桃山建築であるが、建物中心部の身舎(もや)と周辺部の庇とは本来別個の建物であり、建立年代の異なる2つの建物を合体して1棟としたものである。本殿は永禄元年(1558)に火災で焼失し、永禄10年(1567)に再建されているが、これが現存する庇と向拝の部分にあたる。身舎部分は慶長7年(1602)、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として改造したもので、他から移築されたものである。本殿は、全体としては、桁行5間、梁間4間で、屋根は入母屋造、檜皮葺とする。側面と背面は「霧除け」と称する板壁で外面を囲う。身舎部分は方3間(桁行3間、梁間3間)であるが、外側の庇部分とは柱筋が合っていない。正面側では身舎柱と庇柱間を4本の海老虹梁で繋ぐが、これらの虹梁が斜めに取りついており納まりが悪い。その他、身舎柱が角柱であるのに対し、庇の柱が円柱であること、身舎の柱や扉が黒漆塗であるのに対し、庇が素木仕上げであること、庇の屋根が身舎の柱に取り付いていないことなどからも、身舎と庇が同時の建築でないことがうかがえる。身舎部は柱、長押などの軸部材を黒漆塗とし、飾金具を使用し、平蒔絵で草花を描く。身舎の正面中央間は黒漆塗の桟唐戸を立て、菊文様の装飾彫刻で飾る。両脇間は向かって左が菊、右が芙蓉に瑞鳥の彫刻を嵌める。背面中央間の桟唐戸は後補である。両側面の中央間は外面を舞良戸、内側は戸襖とする。背面と側面も両脇間には装飾彫刻がある。身舎内部は畳敷、天井は折上格天井とする。天井の格間や戸襖には金地着色で菊、松、梅、桐などの植物を描く。庇は正面側を5間とも吹き放しとするが、内法長押より上方には各間とも装飾彫刻を入れる。庇の両側面は内法上は4間とも装飾彫刻を入れ、内法下は前寄り3間に牡丹唐草の彫刻を入れる。龍神拝所 琵琶湖を望む断崖上にある。ここから土器を湖に投げると願いが竜神により成就されるとする「かわらけ投げ」という風習が残る。境内社数社 天忍穂耳神社、厳島江島神社、大己貴神社等がある。(ウイきぺデアから抜粋)

1.都久夫須麻神社の石造りの大鳥居
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2.境内案内図
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3.左上が修理中の宝厳寺の観音堂で右側は舟廊下(それぞれ国重文)を見上げる!
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4.左側は摂社の白己神社で白蛇(神の使)が見える!
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5.白蛇(神使)
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6.国宝の本殿を正面から見る!
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7.本殿の長押(なげし)上の見事な彫刻
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8.本殿内部には見事な極彩色の絵が描かれています。(撮影禁止なので他からお借りした1枚です。)
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9.本殿に向かって左側の摂社は大巳神社、天忍穂耳神社です!
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10.本殿に向かって右側には摂社の厳島神社、江島神社があります。
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11.龍神遥拝所(かわらけ投げ)
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12.かわらけ投げはとても難しい!
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13.弘法大師庵跡
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14.同上
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15.黒龍堂の駒札(クリックすると拡大して読めます)
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16.黒龍堂
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17.15.竹生島発13時20分発で竹生島を見上げて出航で長浜港13時50分着です!
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2015/3/30

湖北の文化財・史址を見る!3.竹生島の国宝の唐門を持つ宝厳寺など、その2.!  文化財研修記

竹生島の古刹真言宗の宝厳寺(ほうごんじ)は、神亀元年(724)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。 行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻し、ご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立し、千手観音像を安置しました。それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長7年(1602)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂(国重文)や唐門(国宝)などを移築させています。明治時代、この島は大きく変化し、当山より都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ、竹生島神社)が分かれました。古来、現在の神社本殿を当山は本堂とし、本尊大弁才天を安置しておりましたが、明治元年(1868)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、当山を廃寺とし神社に改めよという命令が下りました。しかしながら、全国数多くのご信者皆様の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなりました。本堂のないままに仮安置の大弁才天でしたが、昭和17年、現在の本堂が再建されました。本尊大弁才天は、日本三弁才天の一つとして、又、他の二つは安芸の宮島と鎌倉の江の島です。この観世音菩薩は西国33ヶ所観音霊場の第30番札所として参拝の方々の姿が絶えず、その詠歌の声が響いています。(当山のHPを抜粋及び加筆)

1.明治維新の神仏分離令前の石の大鳥居(現在は都久夫須麻神社の鳥居となっています。)
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2.宝厳寺の残り鳥居
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3.見事な手水舎
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4.本坊
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5.手水舎
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6.165段の石段を参道です!!
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7.途中、左手には護摩堂があります!
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8.護摩堂内
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9.見事な鐘楼です!
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10.又、見事な手水舎があります!!
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11.本堂(弁財天堂)
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12.須弥壇には秘仏の弁財天が祀られています!
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13.左側には中々見事な弁財天像があります!
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14.須弥壇の真ん前には願を書いて備えると御利益があるというダルマ様が一杯です!
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15.須弥壇に向かって右側にはこれまた、見事な弁財天像が祀られています!
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16.樹齢400年以上で片桐且元お手植えのモチノキです。
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17.三重塔(火災で2000年に350年振りに再建されたものです!)
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18.国宝の唐門(秀吉公が建てた唯一の大阪城の遺構で、極楽橋の一部と云われています。)
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19.国宝の唐門(唐破風は桃山時代を象徴する造りです。)を正面から見る!
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20.唐門の見事な彫刻
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21.唐門をくぐり国重文の観音堂へ向かいます。
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22.観音堂内
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23.観音堂内の彫刻
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24.国重文の舟廊下(秀吉の御座船「日本丸」の船櫓を利用したものです。)
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25.聖武天皇時代の僧・行基(行基菩薩と後呼ばれた。)を知りたい方は下記をクリックして見て下さい!
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/2006.html

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2015/3/28

湖北の文化財・史址を見る!2.神の島「竹生島」その1.!  綾部の文化財

滋賀県長浜市に早崎町に属するこの竹生島(ちくぶしま)は、琵琶湖の北部に浮かぶ島で長浜市大浜から西望できる。又、。琵琶湖国定公園特別保護地区、国の名勝および史跡に指定されている。全島が針葉樹で覆われており、琵琶湖八景(深緑)のひとつにも数えられる。島の周辺は深く、西側付近は琵琶湖最深部 は104.1メートルもある。竹生島には定期船が発着する港が島の南側に一箇所あり、数店の土産物店と寺社はそこからすぐの所にある。寺社関係者ならびに店舗従業員はいずれも島外から通っているため、無人島となっている。北の葛籠尾崎との間には湖底遺跡があり、水深70メートルほどの湖底から多数の土器が引き揚げられている。この土器は非常に古く、且つ時代の幅も大きいもので、縄文時代早期から弥生時代、果ては中世にまで及ぶと考えられている。このような遺跡は世界でも類がなく、沈積原因は今なお大きな謎に包まれている。古来、信仰の対象となった島で、神の棲む島とも言われる。南部には都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ、竹生島神社)、宝厳寺(ほうごんじ、西国33ケ所31番)がある。竹生島神社は、明治の神仏分離令に際して弁才天社から改称した。竹生島は神仏一体の聖地であったことから、分離の際には少なからず混乱があったようである。ちなみに、竹生島弁才天は相模の江島神社、安芸の厳島神社と並んで日本三大弁天のひとつに数えられる。戦国期には、近江国小谷城主であった浅井久政(浅井長政の父)が、長政への家督委譲を目論む家臣団によって一時的にこの島に幽閉され、隠居生活を強要された。多多美比古命(伊吹山の神)が、姪で浅井岳(現在の金糞岳)の神である浅井姫命と高さを競い、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を切り落とした。その首が琵琶湖に落ちて竹生島が生まれたという。金糞岳(標高1317メートル)は滋賀県2位の高峰で、最高峰の伊吹山(標高1377メートル)は、竹生島の高さを差し引くと本当は2番目だったというわけである。竹生島神社には浅井姫命も祀られている。竹生島は古くから信仰の対象とされた事から、能の演目や平曲や近世邦楽の楽曲でも取り上げられている。『竹生島』(脇能物の荒神物)平家琵琶(平曲)、『竹生島詣』地歌・箏曲、1.『竹生島』(菊岡検校作曲、八重崎検校箏手付)2.『竹生島』(山田流箏曲・千代田検校作曲)、一中節『竹生島』(二世宇治倭文作曲)長唄『竹生島』(11代杵屋六左衛門作曲)常磐津節『竹生島』(五世岸沢古式部作曲)などがある。

1.今津港の琵琶湖汽船乗船場
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2.乗船場横には「琵琶湖周航の歌碑」がある!
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3.乗船する船
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4.出航する!午前10時50分で竹生島港到着予定は11時15分
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5.船の名前はスイスのインターラーケンとの関係から「いんたあらーけん号」である。
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6.竹生島です!周囲約2キロ、面積約0.15平方キロ、標高は約197メートルです!
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7.竹生島港は長浜市方面にあるのでぐるりと回って行きます!
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8.竹生島港へ接岸中!赤い宝厳寺の三重塔が見えます!
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9.接岸下船すると面前に「琵琶湖周航の歌碑」があり竹生島を歌った歌詞が彫りこんであります!
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10.又「琵琶湖八景深緑竹生島沈影」の碑もあります!次回に国宝の本堂(弁財天堂)などを見ます!
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2015/3/26

湖北の文化財・史址を見る!1.湖西の今津町にある「琵琶湖周航の資料館」とお隣の真宗大谷派の西福寺!  文化財研修記

数10年振りに「神の島」竹生島や湖北の拡大した長浜市を訪れることにした。同じ所を往復するのは能がが無いので、往路はJR綾部駅06:37発普通列車JU京都駅で湖西線に乗り換えJR近江今津駅の09:32到着。竹生島への琵琶湖汽船は10時50分で1時間強の待ち時間を利用して無料の「琵琶湖周航の歌記念館」月曜日は休みで9時から午後5時まで開館しています。今日は今津か、長浜か」と歌われる「琵琶湖周航の歌」。琵琶湖の美しい自然と、周航のロマンを情緒豊かに歌い上げたこの歌は、大正6年に高島市今津町で生まれました。時代を越えて歌い継がれるこの名曲は、市の宝物です。
琵琶湖周航の歌:湖周航の歌
作詞 小口 太郎      原曲 吉田 千秋

1 われは湖の子 さすらいの  旅にしあれば しみじみと   のぼる狭霧や さざ  なみの  志賀の都よ いざさらば

2 松は緑に 砂白き 雄松が里の 乙女子は 赤い椿の 森蔭に  はかない恋に 泣くとかや

3 浪のまにまに 漂えば 赤い泊火 なつかしみ 方定めぬ 浪枕 今日は今津か 長浜か

4 瑠璃の花園 珊瑚の宮古い伝えの 竹生島 仏の御手に いだかれて ねむれ乙女子 やすらけく

5 矢の根は 深く埋もれて 夏草しげき 堀のあと古城にひとり 佇めば 比良も伊吹も 夢のごと

6 西国十番 長命寺 汚れ(けがれ)の現世(うつしよ)遠く去りて黄金の波に いざ漕がん

  語れ我が友 熱き心

今津港はは琵琶湖遊覧の基地、今津港。周航の歌が刻まれた碑が建てられ、桟橋の突端には「赤い泊火」がある。太古からのこの美しい琵琶湖の風景が、周航の歌を生んだ。歌の誕生は大正6年6月、第三高等学校(現京都大学)二部クルーは学年末(当時7月卒業)の慣例によって琵琶湖周航に出ていました。小口太郎ら一行は大津の三保ケ崎を漕ぎ出て、1日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、2日目の6月28日は、今津の湖岸の宿で、疲れをとっていました。 その夜、クルーのひとりが「小口がこんな歌をつくった」と同行の漕友に披露し、彼らはその詞を、当時彼らの間で流行していた歌の節に乗せるとよく合ったので、喜んで合唱したということです。「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間でした。琵琶湖周航については 三高では明治26年に初めて琵琶湖周航が行われ、以後学生たちによる恒例行事になっていました。昭和15年ころまで行われていました。三保ケ崎から西岸を北上する時計回りのコースで、4泊5日、もしくは3泊4日の日程。使われたボートは、フィックス艇といい、固定座席で、漕手6人舵手1人、他1〜2人でチームを組みました。歌詞はその後、補完され、翌大正7年に6番までの全歌詞が完成しました。そして三高の寮歌として、学生たちの愛唱歌として広まっていきました。また幾多の歌手がレコードに吹き込み、昭和46年夏、加藤登紀子の大ヒットへとつながっていきました。
 このころの歌集には、作詞作曲小口太郎、または三高ボート部となっていましたが、小口太郎の人物像すら不詳で、熱心な研究者の手で究明が始まります。そして冒頭のような事実が判明していきました。曲は「ひつじぐさ」のメロディを借りたものとわかり、昭和54年には「作曲者は吉田千秋」と名前まで特定できましたが、身元は不明のまま。平成5年6月に、今津文化会館で開催された「琵琶湖周航の歌開示75周年記念イベント」の準備のさなか、実行委員会は「吉田千秋は大正4年に東京から新潟県に転居している」との手がかりで、新潟県の地元新聞に消息探しを依頼したところ、偶然にも関係者の目に止まり、ついに作曲者の詳細な人物像が判明したのです。大海から針を探すにも等しい吉田千秋探しは、急転直下の展開をみせたのでした。

1.京都からJR湖西線を琵琶湖に沿って近江今津へ向かう!各画像をクリックすると拡大して読めます。)
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2.近江今津駅から数分で今津至る!モニュメントが何か解りません!教えて下さい!
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3.これが「琵琶湖周航の歌資料館」です!入場無料!
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4.小口太郎の懐かしいメローデーと歌が聞けます!
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5.館内 2.
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6.館内 3.
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7.館内 4.
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8.まだ少し、時間があったのでお隣の真宗大谷派の安養山「西福寺(さいふくじ」があったので覗いて見ました。開基は大永2年(1522)円西で寛永12年(1635)再建の寺だそうです。
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9.考えさせられます!
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10.見事な鐘楼です!
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11.親鸞聖人像
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12.見事な本堂です!
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13.見事な本堂前の扁額です!
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14.阿弥陀如来さまを祀る見事な須弥檀です!
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2015/3/24

九州の文化財・史址を見る!36.(最終回)国指定史跡・熊本藩主家細川家の墓所・妙解寺跡!  文化財研修記

熊本市北岡自然公園には国史跡の細川藩主家の墓所であった「妙解寺跡(みょうげじ)」がある。北岡自然公園は、細川藩4代藩主光尚が、父・忠利の菩提を弔うために寛永19年(1642)、東海寺の住職・沢庵和尚の開基として創建されたもので、忠利の戒名・妙解院殿をもとづき護国山妙解寺と名づけられた。明治の神仏分離以降廃寺となった後は細川家の北岡別邸として使用されたが、昭和20年7月3日の空襲により本邸を焼失した。昭和30年11月、熊本市が譲り受け、それ以降、自然公園として一般公開した。
目の前に三霊廟に続く階段、両側には石灯籠。石灯籠は当時のものだ。『寛永十九年』『二十年』と彫られている。入場料200円入ります。

1.国史跡の細川藩主家旧墓所の妙解寺(みょうげじ)跡と北岡自然公園地図
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2.参道
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3.石段参道 1.
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4.石段参道2.この上に細川家菩提所がある!
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5.唐破風の屋根の山門
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6.唐破風の屋根の山門(これも当時のもの。ここには忠利が亡くなった時代がそのまま残っている。正面に忠利の廟が見える。)
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7.細川忠利(ほそかわただとし)は細川忠興の三男で、母は明智光秀の娘・ガラシャ(玉)。寛永9年(1632)、肥後の加藤忠広が改易されたため、その後を受けて豊前小倉藩から肥後熊本藩54万石に加増移封され、忠利は肥後熊本藩の初代藩主となりました。徳川家光の乳母・春日局は、明智氏の縁者であり、ガラシャの実子である忠利に対しては好意的であった。また外様大名でありながら幕府側の代理者として行動することが多かったため、他の大名には煙たがられたという話も伝わえられる。細川忠利逝く。 あまりにも突然の死だった。死因は脳卒中。4日間の人事不省の後、意識が戻らないまま亡くなった。 寛永18年(1641)年3月17日、忠利56歳であった。
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8.唐破風の向拝が付く正面を見る!右の赤い建物が正室の小笠原兵部大輔の娘で名は千。徳川秀忠の養女となり正妻となった。
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9.横から見る!
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10.細川4代藩主・光尚(みつなお)の墓で 元和5年(1619)、細川忠利の長子として豊前中津で生まれました。た。寛永12(1635)年、将軍家光より一字を与えられ肥後守光利と称しました。天草・島原の乱には、父・忠利とともに出陣し、その後、忠利の遺領を継ぎ、光貞と改名、翌年光尚と改めました。慶安2年(16499)年、311歳の若さで亡くなりました。
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11.阿部弥市右衛門の墓( 阿部弥市右衛門は藩主・細川忠利の直臣で、忠利が亡くなる前に殉死を願ったが許されなかった。しかし、周囲の冷たい目に耐えきれず、あとを追って切腹した。藩では殉死とは認めたものの、阿部家の知行を分割して相続させた為、嫡子・権兵衛が忠利の法事のときに髷を切って供えるという事件に発展し、遂に阿部一族は追討されてしまった。森鴎外の武家社会の非情のドラマとして「阿部一族」の名作があります!
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12.第5代から7代までの墓もありますが、ここでは細川8代藩主・重賢(しげかた)の墓
享保5年(1720)生まれ。第6代・宣紀(のぶのり)の5男。兄・宗孝が不慮の死をとげたため、延享4年(1747)、肥後藩主となった。当時、藩の財政は極度に窮迫していた。『鍋釜の金気を落とすに水はいらぬ。細川と書いた紙を貼ればよい』と揶揄されるほどであった。
重賢は藩政全般の立直しを考え、質素倹約を旨とし藩政を新設して文武両道を奨励した。財政面でも産業のすすめ支出を抑えて300数年ようやく改革をなしとげた名君である。
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13.最後にもう一度天下の名城の天守閣を見る!
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14.下記をクリックして、「音声付動画」で熊本城を見て下さい。(これで最終回です。)
http://youtu.be/bzbRNrkmkEg

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2015/3/21

綾部市最古の天満宮奉納俳句額を持つと天満宮の棟札と奉納の鉾の穂先を発見!  綾部の文化財

京都府綾部市多田町前路(まえじ)81番地には菅原神を祭る天満宮社がある。由緒は不詳。境内社として三宮(さんのみや)神社(祭神不詳)と稲荷神社がある。多田町の天満宮の覆屋(おおいや)の中の本殿の裏に「古文書」が書かれている板が角釘で打ち込まれているのをの40年前からを知っていたが、当時は現役で英語、スペイン語を主力で勉強していた。日本語の古文書を本格的に勉強を始めたのは10年前近澤豊明綾部資料館長から山崎巖綾部史談会長(元綾部高校の恩師)に紹介され綾部史談会に入会してからであった。広小路町の羽室さん(故人)から綾部市に多くの文化財(書画、骨董品)が寄贈された。昨年平成24年4月より漸く松尾芭蕉・三重県伊賀市出身)寛永21年(1644)−元禄1694)が江戸で俳諧を始めて「蕉風」を確立した俳句と松尾芭蕉死後100年を得て多くの俳諧師(小林一茶など)も表れ京都では芭蕉堂という俳諧の組織と印刷所が開かれこの何鹿郡・綾部の広小路羽室家との交流も盛んになった書面・文章の翻訳に係り始めた。
 天満宮の責任者である松本武多田自治会長から今まで発見されていなかった棟札と槍の穂先の奉納が見つかったとの連絡を受け、綾部市資料館で最終撮影・調査中であるが判明したことを下記に掲載します。綾部市資料館の調査では享保元年(1801)奉納の槍は当時、鉾を新調しなおした際に古い鉾の穂先を奉納したものであると判明した。


1.調査中の綾部史談会(各画像をクリックすると拡大して読めます!)
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2.棟札は2枚あり両方とも江戸時代元禄5年(1692)多田町の圓照寺(臨済宗妙心寺派の円照寺(えんしょうじ)の当時の住職、周連 首座が書かれた棟札です。天満宮の大工は福知山の「大工藤原朝臣(ふじわらあそみ)大本仁兵衛尉(おおもとにへいのじょう、尉=官位)家次」と記されています。
1−1(2枚に分割して撮影)
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1−2
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1−3 裏面
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2枚目の棟札の1
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2枚目の棟札の2
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2枚目の棟札裏側
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鉾(ほこ)の穂先が奉納されている!大変珍しい江戸時代享和元年(1801)が記されています!分割撮影の箱1−1(享和元年
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同上   1−2
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同上  奉納の鉾の穂先(かなり長い55センチメートルで、目抜きの穴は2つある。)
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綾部市最古の奉納俳句額の記事は下記をクリックして見て下さい!
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/1853.html


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2015/3/21

九州の文化財・史址を見る!35.素戔嗚尊を祀る肥後の古社・北岡神社!  文化財研修記

熊本市中央区祇園橋電停から200メートルほど行くと素戔嗚尊(すさのおのみこと)・稲田姫命(いなだひめのみこと)を祀る肥後の古社・北岡神社(きたおかじんじゃ)がある。当神社は承平4年(937)に、肥後国史であった藤原保昌が、凶徒の叛乱と疫病の流行を鎮めるために京都の祇園社(八坂神社)の御分霊を勧請し、飽託郡湯原(現二本木五丁目)に府中の鎮護として創建されたのが始まりです。当地は『祇園社』『祇園宮』と尊称されていました。まもなく承平7年(937)には、湯原から程近い車屋敷(現二本木二丁目)に遷座され、創建当初から『宝祚無窮、天下泰平、国家安全、悪魔降伏、西九守護』の勅願社として、代々天皇より篤く尊崇されておりました。久寿元年(1154)にも第76代近衛天皇より『顕神院』の勅額とともに、『日本第弐 西九壹社』の尊称と御紋章を下賜頂きました。それは『日本では(京都の御本社に次いで)第二の祇園社であり、西の九州では第一の祇園社である』との意味であり、現在もこの尊称を御朱印に用いております。 天元2年(979)には朝日山(現花岡山)に遷座され、長承元年(1132)に菊池氏が社殿を造営し、慶長10年(1605)加藤清正の肥後入国により古例が復興され、細川藩下に於いては尚一層尊崇され、寛永9年(1632)には社殿が新造されました。 正保4年(1647)、第二代藩主細川光尚により北岡の森の丘中腹に遷座され、古府中にあった社等も境内に移し摂末社として祀られました。(北岡神社パンフレットより抜粋)

1.北岡神社の大鳥居
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2.石段参道の左側には摂社の久末(ひさまつ)神社がある。
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3.間もなく楼門が見えて来た!
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4.見事な楼門ですが随身の撮影は不可能!
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5.朱の手水舎
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6.見事な拝殿です!
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7.見事な拝殿内陣
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8.拝殿後部から本殿を見る!
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9.見事な本殿を斜めから見る!
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10.摂社群の一部
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2015/3/20

九州の文化財・史址を見る!34.天下の名城・熊本城と細川刑部邸3−3!  文化財研修記

熊本市中央区には天下三名城の一つとして威容をみせる熊本城がある。(中略)寛永9年(1632)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入った。このとき忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所とした。加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊やお家騒動により、城の修理もままならない状況であった。細川家が肥後入部時には、熊本城は現在の本丸周辺のみ整備されていて二の丸の一部と三の丸の大半は未開発であった。 このため細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修繕を幕府に申し出ている。この修繕は建築物の修理に留まらず、本丸の増築(二様の石垣に跡が見られる)・二の丸の整備にもおよんで居る。更に上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として順次現三の丸や壺川地域(江戸中期まで三の丸扱いされていた)の開発が進められ、最後に西端の段山(現在の段山町周辺)の郭が完成したのは明治維新まで30年を切った天保年間である。この時点で城内の櫓は焼失した森本櫓を除き62を数えていと言う。
旧細川刑部邸(きゅうほそかわぎょうぶてい)は、熊本城三の丸跡にある武家屋敷である。なお、細川刑部家(子飼細川とも言う)は細川内膳家(砂取細川)と並ぶ細川藩の一門家臣家(いずれも江戸期は長岡姓)であった。この刑部屋敷は熊本藩主となった細川忠利の弟細川興孝が刑部家をおこしたのち、現在の熊本市東子飼町に立てられた屋敷で平成5年(1993)に現在地に移築され熊本県指定有形文化財となっている。


1.熊本城周辺地図(全画面をクリックしますと拡大して読めます。)
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2.天守閣の横にある「五郎の首掛石」
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3.同上 駒札
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4.天守閣を後にして西大手櫓から二の丸広場を通り細川刑部邸へ向かいます!
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5.同上
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6.地図上一番西端上に細川刑部邸があります!
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7.邸内への鬱蒼とした道筋
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8.長屋門に至る!
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9.同上 駒札
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10.玄関に至る!
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11.細川刑部邸門前の庭園や建物を、下記をクリックして「音声付動画」で見て下さい!
http://youtu.be/x4_h0Kv5Jsc

12.邸内1.
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13.邸内2.
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14.邸内3.
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15.邸内4.
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16.茶室
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2015/3/17

群馬県初代県令は「花燃ゆ」に出てくる文の再婚の相手です!  文化財研修記

群馬県高崎市に3月14日(土)から2泊して、15日(日)二男の10年振りの男の子のお宮参りに行ってきました。そこで貰ったパンフレットの記事の写真を掲載します!

1.まるわかり学ぶッく!
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4.
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