2015/2/6

九州の文化財・史址を見る!13.住吉三神を祀る唐津神社!  文化財研修記

佐賀県唐津市南城内3−13には一ノ宮には住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)、二ノ宮には神田宗次公(こうだむねつぐこう)、相殿には水波能女神を祀る唐津神社(からつじんじゃ)がある。社伝によれば、三韓征伐に際して航海の安全を住吉三神に祈願した神功皇后が、帰朝の後に報謝のため松浦の海浜に宝鏡を縣けて三神を祀ったのに起源を持ち、天平勝宝7年(755)に、時の領主であった神田宗次が神夢により海浜に赴くと、漂着してきた宝鏡入りの筺を得たので、神功皇后の捧げた鏡であろうと帝に奏聞したところ、9月29日に「唐津大明神」の称号を賜ったという。文治2年(1186)、宗次の後裔を称する神田広(実は源久の5男)が社殿を造立して神田を寄進し、神田宗次の霊を合祀したという。慶長年中に寺沢氏が唐津城を築いて入部すると、同7年(1602)に当神社を再建、以後唐津藩主の祈願所と定められ、崇敬を受けた。

1.唐津神社の大鳥居
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2.二の鳥居と石灯籠
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3.神社駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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4.二の鳥居と三の鳥居
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5.見事な手水舎です。
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6.境内には多くの摂社・末社があります。之は鳥居天満宮
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7.同上 駒札
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8.白飛稲荷大明神
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9.唐津神社駒札(ふりがな付)
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10.三の鳥居と拝殿
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11.拝殿正面
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12.拝殿を横から見る!
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13.奥の見事な本殿
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2015/2/4

九州の文化財・史址を見る!12.名護屋城の資材で築城された唐津城2−2!  文化財研修記

 寺沢広高(てらざわひろたか)は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。慶長7年(1602)より、本格的な築城を行い、慶長13年(1608)にこの唐津城を完成した。築城に際し東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。
 二の丸に藩庁御殿が建築され、三の丸は侍屋敷となっていた。天守は天守台までしか建築されなかった。築城当初は天守が存在していたといわれることもあるが、寛永4年(1627)の幕府の記録には天守の存在は記されていないほか、天守の存在を示す資料は確認されていない。天守を描いた絵図や設計図もなく、現在の天守は慶長期の様式で建築されていたと想定して昭和41年(1966)に造られたものである。
 広高は松浦川の流路変更に見られるように土木事業に長けており、防風林として松原の保護育成を行った。これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている。
 広高の子の堅高は、天草領に構えていた富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。堅高は、正保4年(1647)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となった。以後、譜代大名5家が入れ替わった。寺沢氏が改易となると一時天領となったが、慶安2年(1649年)播磨国明石城主大久保忠職が城主となった。延宝6年(1678)大久保氏が下総国佐倉城に転出し、代わって同地より大給松平乗久が入城。元禄4年(1691)大給松平氏が志摩国鳥羽城に転出し、同地より土井利益が入城。宝暦12年(1762)土井氏が下総国古河城に転出し、三河国岡崎城より水野忠任が入城。文化14年(1817)に、後に天保の改革を行った水野忠邦が出世目的に遠江国浜松城に転出を希望し、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城、以後明治維新まで小笠原氏の居城となった。(一部ウイキペヂアより抜粋)

1.舞鶴公園案内図(唐津城は舞鶴城とも呼ばれていました。画像をクリックすると大画面になります。)
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2.唐津城駒札(同上)
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3.天守閣方面へ登って行きます!
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4.船入門からの登り坂です!
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5.もの凄い城壁
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6.天守閣が見えます!
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7.御門
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8.天守閣
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9.唐津城本丸跡碑
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10.下記をクリックして、「音声付動画」で唐津城本丸跡から玄界灘などを見て下さい!
http://youtu.be/06YIWB_ZFZc

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2015/2/2

九州の文化財・史址を見る!11.名護屋城の資材で建てられた唐津城2−1!  文化財研修記

 寺沢広高(てらざわひろたか)は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。慶長7年(1602)より、本格的な築城を行い、慶長13年(1608)にこの唐津城を完成した。築城に際し東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。
 二の丸に藩庁御殿が建築され、三の丸は侍屋敷となっていた。天守は天守台までしか建築されなかった。築城当初は天守が存在していたといわれることもあるが、寛永4年(1627)の幕府の記録には天守の存在は記されていないほか、天守の存在を示す資料は確認されていない。天守を描いた絵図や設計図もなく、現在の天守は慶長期の様式で建築されていたと想定して昭和41年(1966)に造られたものである。
 広高は松浦川の流路変更に見られるように土木事業に長けており、防風林として松原の保護育成を行った。これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている。
 広高の子の堅高は、天草領に構えていた富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。堅高は、正保4年(1647)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となった。以後、譜代大名5家が入れ替わった。寺沢氏が改易となると一時天領となったが、慶安2年(1649年)播磨国明石城主大久保忠職が城主となった。延宝6年(1678)大久保氏が下総国佐倉城に転出し、代わって同地より大給松平乗久が入城。元禄4年(1691)大給松平氏が志摩国鳥羽城に転出し、同地より土井利益が入城。宝暦12年(1762)土井氏が下総国古河城に転出し、三河国岡崎城より水野忠任が入城。文化14年(1817)に、後に天保の改革を行った水野忠邦が出世目的に遠江国浜松城に転出を希望し(唐津藩は長崎警護藩の一つ)、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城、以後明治維新まで小笠原氏の居城となった。(一部ウイキペヂアより抜粋)

1.JR唐津駅前
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2.唐津駅前の曳山像
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3.この駅前の通りを西に向かうと「肥後堀」に至る。
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4.同上 駒札(画像をクリックすると拡大して読めます。)
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5.唐津城近辺地図(クリックすると拡大します。)
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6.肥後堀から右折して松浦川へ向かうと「三之丸辰巳櫓」がある。
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7.辰巳櫓から二の門方面へ向かうと北城内児童公園に往時の「時の太鼓」が残っている。
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8.更に、虹の松原方面へ向かうと遠方に歩道橋(場内橋)と唐津城が見えて来る。)
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以下次回で掲載です。

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